『やりたくないからやらないだけ 〜自分のために働かない選択をした元貴族令嬢の静かな失踪〜』

鷹 綾

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29話 予定を持たない強さ

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29話 予定を持たない強さ

 朝、ファーファは目を覚ましてから、すぐに起き上がらなかった。

 眠気が残っているわけではない。体調が悪いわけでもない。ただ、今日という一日に「始める合図」が存在しなかっただけだ。王都では、朝は必ず合図とともに始まった。鐘、声、予定表、使者。合図がなければ、叱責が待っていた。

 ここでは、合図がないことが合図になる。

 しばらくしてから、寝台を降りる。床に足を下ろすと、ひんやりとした感触が伝わる。昨日と同じだ。変わらない感触は、判断を不要にする。

 外套を羽織り、扉を開ける。空は晴れ、山の輪郭ははっきりしている。風は弱く、音は少ない。箱は、置かれていた。位置も向きも、いつも通りだ。

 それを見て、ファーファは「今日は何をするか」を考えなかった。

 考える必要がない。

 箱を中へ運び、蓋を開ける。保存食、乾燥野菜、油、布。構成は一定だが、今日は包みの紐が少し違う結び方になっている。解きやすく、再利用しやすい結びだ。

「……細かいわね」

 誰に向けた言葉でもない。評価でもない。ただの事実確認だ。誰かが予定を立て、誰かが判断しているが、その結果が生活に溶け込む形で届いている。

 必要な分だけ取り出し、棚に置く。残りは箱に戻す。今日は、箱を置いていた場所の土を少し均す。昨日の風で、わずかに凹みができていたからだ。ほんの数分で終わる作業だが、放置すれば次の雨で水が溜まる。

 予定はない。
 だが、判断はある。

 湯を沸かし、紅茶を淹れる。今日は少し時間をかけて湯を冷ました。熱すぎると、飲むのが億劫になる。億劫さは、不要な摩擦だ。

 椅子に腰掛け、窓の外を見る。山は変わらず、雲がゆっくりと動いている。時計はない。時間を測らないから、遅れも早まりも存在しない。

 午前中、本を開く。今日は数頁読んでから、すぐに閉じた。内容に興味がなかったわけではない。ただ、今は読む必要がなかった。

 予定を持たないということは、
 「やらない」を選べるということだ。

 昼、簡単な食事を取る。食材は同じだが、今日は切り方を変えた。小さく刻む。噛む回数が増え、満腹感が早く来る。体調に合わせた、即席の調整だ。

 王都では、こうした変更は「計画性がない」と咎められた。
 ここでは、柔軟性と呼ばれる。

 食後、椅子に座り、何もせずに過ごす。外の光が少しずつ変わるのを眺める。何時かは分からないが、午後になったことは分かる。

 午後、外に出る。家の周囲を一回りし、風向きを確かめる。今日は風が山側から吹いている。夜は冷えるだろう。薪の配置を少し変え、取りやすくする。

 これも予定ではない。
 状況に応じた判断だ。

 王都では、予定は力だった。
 予定を握る者が、他人を動かした。

 ここでは、予定を持たないことが力になる。
 誰にも動かされないからだ。

 夕方、火を入れる。炎は安定している。音も小さい。ファーファはその前に座り、ぼんやりと考える。

 ――私は、未来の自分に指示を出していない。

 明日、何をするか決めていない。
 一週間後の計画もない。
 一年後の姿も描いていない。

 だが、不安はない。

 予定は、守れなかったときに人を縛る。
 持たなければ、縛られない。

 夜、灯りを落とし、寝台に横になる。

 今日も、予定はなかった。
 それでも、一日は問題なく終わった。

 ファーファ・ノクティスは、
 予定を持たない強さを、
 誇示することも、説明することもなく、
 ただ生活の中で実感している。

 世界は彼女に計画を求めず、
 彼女も世界に予告をしない。

 その関係性が、
 今日も静かに、
 確かに成立していた。
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