『やりたくないからやらないだけ 〜自分のために働かない選択をした元貴族令嬢の静かな失踪〜』

鷹 綾

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36話 噂だけが勝手に歩く

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36話 噂だけが勝手に歩く

 その日も、朝は静かに始まった。

 鳥の声は少なく、風も控えめだった。ファーファは寝台から起き上がり、いつものように外套を羽織る。扉を開ければ、山は変わらず、何も語らず、何も求めてこない。

 箱も、置かれていた。

 位置は同じ。布の畳み方も、これまでと変わらない。中身を確認する必要すらなくなって久しいが、それでも一応蓋を開ける。保存食、乾燥野菜、油、布。過不足なし。過剰でもない。

「今日も、問題なし」

 それは確認であって、期待ではない。

 棚に必要分を移し、箱を片付ける。動きに無駄はないが、急ぎもしない。ここでは、効率は目的ではなく結果だ。

 湯を沸かし、紅茶を淹れる。今日は少し香りが強い気がした。気候のせいか、葉の状態か。深く考えず、そういう日もあると受け止める。

 椅子に腰掛け、窓の外を見る。

 ――世界は、相変わらず私を放っておいてくれている。

 それが、何よりありがたい。

 午前中、本を読んでいると、ふと、どうでもいい考えが頭をよぎった。

 ――私、今どういう扱いになってるのかしら。

 消息不明。
 失踪。
 あるいは、死亡説。

 王都にいた頃なら、そんな噂は即座に権力争いの道具にされていただろう。哀れみ、非難、教訓。勝手に意味を付けられ、勝手に消費される。

 だが、今は違う。

 ここには噂を運ぶ人間がいない。
 ファーファ自身も、真実を訂正する気がない。

 ――好きに語ればいい。

 事実は、私の生活とは無関係だ。

 昼、簡単な食事を取る。今日は少しだけ量を減らした。動いていない日は、それで足りる。必要以上に食べる理由がない。

 食後、椅子に座り、何もせずに過ごす。
 ただ、時間が流れるのを感じる。

 王都では、噂は速かった。
 人よりも速く、事実よりも速く。

 誰かが何かをした、という話より、
 「したらしい」という話の方が好まれた。

 ――今頃、私はどんな話になっているのかしら。

 怠惰な令嬢。
 責任を放棄した貴族。
 逃げた女。

 どれでもいい。
 どれでも、ここには届かない。

 午後、外に出る。
 山道を少し歩き、足元を確かめる。土は乾いている。昨日より少し硬い。天候の影響だろう。問題はない。

 帰り際、ふと思う。

 ――噂だけが、勝手に歩いているのね。

 自分は動いていない。
 だが、世界は勝手に物語を作る。

 それを止める責任はない。
 修正する義務もない。

 夕方、空が曇る。
 火を入れるか迷い、今日は入れた。少し冷える気がしたからだ。理由はそれだけ。

 炎を見つめながら、ファーファは小さく息を吐く。

 王都で生きていた頃、
 「何も言われない」ことは存在しなかった。

 沈黙は否定であり、
 無関心は罰だった。

 だが、今は違う。

 誰にも見られず、
 誰にも評価されず、
 それでも生きている。

 夜、灯りを落とし、寝台に横になる。

 噂は、きっと今日も増えただろう。
 だが、ここでは何一つ変わらない。

 ファーファ・ノクティスは、
 噂だけが勝手に歩く世界と、
 静かに距離を保ったまま眠りにつく。

 真実は、ここにある。
 だが、それを知る必要のある人間は、
 もう、どこにもいなかった。
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