『やりたくないからやらないだけ 〜自分のために働かない選択をした元貴族令嬢の静かな失踪〜』

鷹 綾

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38話 それでも、契約は生きている

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38話 それでも、契約は生きている

 朝、目を覚ました瞬間に、ファーファは違和感を覚えた。

 嫌な予感ではない。
 不安でもない。
 ただ、「いつもと少し違う」という感覚だ。

 寝台から起き上がり、外套を羽織る。扉を開けると、空気がいつもより澄んでいる。昨夜、風が山を洗ったのだろう。空は高く、音も少ない。

 箱は、置かれていた。

 だが、今日は一つ、いつもと異なる点があった。
 箱の横に、小さな木札が添えられている。

 文字はない。
 印もない。
 ただの、削り出した木片だ。

「……何かしら、これは」

 箱を中に運び、先に木札を手に取る。軽い。特別な加工はない。意味を持たせようとすれば、いくらでもできそうな代物だった。

 だが、ファーファはすぐに理解した。

 これは、目印だ。

 箱が増えたわけでも、内容が変わったわけでもない。だが、今日の搬送は「特別な手順」を踏んだのだろう。雪解けで道が変わったのか、別の人員が担当したのか。

 その結果として、
 「いつもと同じだが、同じではない」
 という印が、置かれただけだ。

 ――つまり。

「契約、ちゃんと生きてるのね」

 呟きは、誰にも届かない。
 届かなくていい。

 箱を開ける。
 保存食、乾燥野菜、油、布。

 構成は同じだが、布の種類が微妙に違う。耐久性が高く、厚手だ。季節を見越した判断だろう。ここが山中であることを、正確に把握している証拠でもある。

 物資は「気遣い」ではない。
 だが、「雑」でもない。

 必要な分を棚に移し、残りは箱に戻す。木札は、箱の底にそっと置いた。目立たせる理由がない。

 湯を沸かし、紅茶を淹れる。今日は、少しだけ気分が軽かった。理由は分かっている。

 ――誰かが、約束を忘れていない。

 辺境伯自身か、
 執務官か、
 単なる事務的な手続きか。

 それはどうでもいい。

 重要なのは、
 仕組みが、人の善意に依存していないということだ。

 王都では、約束は常に揺らいでいた。
 相手の機嫌、立場、都合次第で、簡単に反故にされた。

 だが、この契約は違う。

 感情を挟まず、
 評価を求めず、
 感謝も必要としない。

 ただ、履行される。

 午前中、本を開く。今日は集中できた。数十頁を進めても、疲労はない。心がどこにも引っ張られていない証拠だ。

 昼、簡単な食事を取る。今日は少しだけ量を増やした。身体がそれを求めていたからだ。判断は即座で、後悔もない。

 午後、外に出る。
 家の周囲を歩き、地面の状態を確認する。木札のことが気になり、箱が置かれていた場所を改めて見る。

 足跡は、ない。

 意図的に消されている。
 つまり、秘匿は継続されている。

「……完璧すぎて、笑えるわ」

 だが、それがいい。

 もし、ここに感情が混じれば、
 必ず歪みが生じる。

 この距離感。
 この無関心さ。
 この事務性。

 すべてが、ファーファの望んだ形だった。

 夕方、空がゆっくりと色を変える。
 火を入れるか迷い、今日は入れた。少しだけ、気温が下がっている。

 炎を見つめながら、思う。

 ――私は、守られているわけじゃない。

 ただ、
 契約が、
 仕組みが、
 静かに機能しているだけ。

 それで十分だ。

 夜、灯りを落とし、寝台に横になる。

 木札のことは、もう考えない。
 意味を膨らませる必要がない。

 ファーファ・ノクティスは、
 それでも、契約は生きているという事実を、
 安心として受け取り、目を閉じた。

 人に守られなくてもいい。
 好意に縛られなくてもいい。

 ただ、
 約束が守られる世界で、
 静かに生きていければ。

 それが、
 彼女にとっての、
 本当の自由だった。
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