『胸の大きさで婚約破棄する王太子を捨てたら、国の方が先に詰みました』

鷹 綾

文字の大きさ
10 / 40

第10話 「その人は、いつも正しい」

しおりを挟む
第10話 「その人は、いつも正しい」

 違和感は、音もなく忍び寄る。

 だからこそ、最初は誰も、それを異常だとは思わなかった。

「殿下、本日の予定でございます」

 フローラ・エヴァンスは、いつもと同じ声でそう告げた。

 静かで、落ち着いていて、感情の起伏がない。
 聞いていて心地よい声だ。

 オスカー・フォン・ルーヴェンは、椅子に深く腰掛けたまま頷く。

「分かった」

 そのやり取りを、側近たちは黙って見ている。

 最近、殿下の周囲は――
 異様なほど静かだった。

 意見は出ない。
 質問もない。
 ただ、了承と実行だけがある。

「……完璧だな」

 若い文官が、ぽつりと呟いた。

 隣にいた同僚が、小さく首を振る。

「声が大きい」

 それ以上は、言わない。

 完璧。
 それは、本来なら褒め言葉のはずだった。

 だが、最近では、
 それがどこか――
 不気味に響く。

 フローラは、オスカーの横に立っている。

 距離は近すぎず、遠すぎず。
 視線を遮らない位置。

 彼女は、決して前に出ない。
 だが、決して後ろにも下がらない。

 常に、そこにいる。

「殿下」

 フローラが言う。

「こちらの件ですが、進めてよろしいでしょうか」

 オスカーは、書類に目も通さずに答えた。

「ああ。君の言う通りに」

 その一言で、決裁は終わる。

 側近の一人が、わずかに眉をひそめた。

(……いつからだ?)

 殿下が、
 “自分で考えたふり”をしなくなったのは。

 それに気づいても、
 誰も口に出せない。

 口に出した瞬間、
 “忠誠心が疑われる”からだ。

 昼下がり。

 城内の庭園で、数名の侍女が噂話をしていた。

「フローラ様って、優しいわよね」

「ええ。でも……」

 一人が、言葉を濁す。

「でも?」

「怒っているところ、見たことある?」

 しばし、沈黙。

「……ないわね」

 それが、違和感だった。

 悲しそうな顔も、
 苛立った表情も、
 焦りも、不安も。

 感情が、存在しない。

 それは、理想的とも言える。

 だが同時に、
 人間らしくない。

「殿下が怒鳴っている時も、
 あの人だけは、表情一つ変えないの」

 侍女の一人が、声を潜める。

「怖くない?」

「……怖い」

 その言葉は、風に紛れて消えた。

 執務室。

 オスカーは、最近の自分を“安定している”と感じていた。

 迷いがない。
 悩みがない。
 反対意見もない。

(これが、正しい状態なんだ)

 そう信じている。

「殿下」

 フローラが、静かに声をかける。

「お疲れではありませんか?」

「いや、大丈夫だ」

 オスカーは、即答する。

「君がいてくれるからな」

 その言葉に、フローラは微笑む。

 だが、その微笑みは、
 どこまでいっても“形”だった。

「……殿下は、強いお方です」

 フローラは、そう言った。

「迷わない強さを、お持ちです」

 その言葉を聞いて、
 オスカーの胸に、かすかな誇りが灯る。

 だが、同時に。

 部屋の隅に立っていた古参の側近は、
 背筋に冷たいものを感じていた。

(……違う)

 彼は、かつての殿下を知っている。

 迷い、悩み、
 だからこそ人の話を聞いていた頃の姿を。

(迷わないのは、
 強さじゃない)

 だが、その考えは、
 口に出すことなく、
 心の奥に沈められる。

 夜。

 フローラは、自室で静かに衣装を脱いでいた。

 鏡に映る姿は、
 昼間の“清楚な婚約者”とは違う。

(……順調)

 内心で、淡々と評価する。

(疑問は、出始めた)
(だが、誰も繋げられない)

 それでいい。

 違和感は、
 正体が分からないうちは、
 ただの“不安”でしかない。

(そして、不安は――
 力のある者に、すがらせる)

 オスカーは、
 すでに完全に、こちらを信じ切っている。

 あとは、
 壊れるのを待つだけ。

 一方。

 遠く離れた地で、
 マルティナ・ヴァインベルクは、
 ある報告書に目を留めていた。

「……フローラ・エヴァンス」

 その名前を、静かに口にする。

(経歴が、薄い)

 不自然なほどに。

(……完璧すぎる)

 それは、
 彼女がかつて感じた違和感と、
 よく似ていた。

 マルティナは、書類を閉じる。

「……面倒なことになりそうね」

 そう呟きながらも、
 彼女はまだ、城へ戻るつもりはなかった。

 今はまだ、
 違和感が、違和感のままだから。

 だが。

 それが“正体”へ変わる日は、
 確実に近づいていた。


しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

恋人に夢中な婚約者に一泡吹かせてやりたかっただけ

恋愛
伯爵令嬢ラフレーズ=ベリーシュは、王国の王太子ヒンメルの婚約者。 王家の忠臣と名高い父を持ち、更に隣国の姫を母に持つが故に結ばれた完全なる政略結婚。 長年の片思い相手であり、婚約者であるヒンメルの隣には常に恋人の公爵令嬢がいる。 婚約者には愛を示さず、恋人に夢中な彼にいつか捨てられるくらいなら、こちらも恋人を作って一泡吹かせてやろうと友達の羊の精霊メリー君の妙案を受けて実行することに。 ラフレーズが恋人役を頼んだのは、人外の魔術師・魔王公爵と名高い王国最強の男――クイーン=ホーエンハイム。 濡れた色香を放つクイーンからの、本気か嘘かも分からない行動に涙目になっていると恋人に夢中だった王太子が……。 ※小説家になろう・カクヨム様にも公開しています

【完結】英雄様、婚約破棄なさるなら我々もこれにて失礼いたします。

ファンタジー
「婚約者であるニーナと誓いの破棄を望みます。あの女は何もせずのうのうと暮らしていた役立たずだ」 実力主義者のホリックは魔王討伐戦を終結させた褒美として国王に直談判する。どうやら戦争中も優雅に暮らしていたニーナを嫌っており、しかも戦地で出会った聖女との結婚を望んでいた。英雄となった自分に酔いしれる彼の元に、それまで苦楽を共にした仲間たちが寄ってきて…… 「「「ならば我々も失礼させてもらいましょう」」」 信頼していた部下たちは唐突にホリックの元を去っていった。 微ざまぁあり。

婚約破棄されたので、前世の知識で無双しますね?

ほーみ
恋愛
「……よって、君との婚約は破棄させてもらう!」  華やかな舞踏会の最中、婚約者である王太子アルベルト様が高らかに宣言した。  目の前には、涙ぐみながら私を見つめる金髪碧眼の美しい令嬢。確か侯爵家の三女、リリア・フォン・クラウゼルだったかしら。  ──あら、デジャヴ? 「……なるほど」

旦那様は離縁をお望みでしょうか

村上かおり
恋愛
 ルーベンス子爵家の三女、バーバラはアルトワイス伯爵家の次男であるリカルドと22歳の時に結婚した。  けれど最初の顔合わせの時から、リカルドは不機嫌丸出しで、王都に来てもバーバラを家に一人残して帰ってくる事もなかった。  バーバラは行き遅れと言われていた自分との政略結婚が気に入らないだろうと思いつつも、いずれはリカルドともいい関係を築けるのではないかと待ち続けていたが。

【完結】え?今になって婚約破棄ですか?私は構いませんが大丈夫ですか?

ゆうぎり
恋愛
カリンは幼少期からの婚約者オリバーに学園で婚約破棄されました。 卒業3か月前の事です。 卒業後すぐの結婚予定で、既に招待状も出し終わり済みです。 もちろんその場で受け入れましたよ。一向に構いません。 カリンはずっと婚約解消を願っていましたから。 でも大丈夫ですか? 婚約破棄したのなら既に他人。迷惑だけはかけないで下さいね。 ※ゆるゆる設定です ※軽い感じで読み流して下さい

勝手にしろと言われたので、勝手にさせていただきます

結城芙由奈@コミカライズ3巻7/30発売
恋愛
子爵家の私は自分よりも身分の高い婚約者に、いつもいいように顎でこき使われていた。ある日、突然婚約者に呼び出されて一方的に婚約破棄を告げられてしまう。二人の婚約は家同士が決めたこと。当然受け入れられるはずもないので拒絶すると「婚約破棄は絶対する。後のことなどしるものか。お前の方で勝手にしろ」と言い切られてしまう。 いいでしょう……そこまで言うのなら、勝手にさせていただきます。 ただし、後のことはどうなっても知りませんよ? * 他サイトでも投稿 * ショートショートです。あっさり終わります

「では、ごきげんよう」と去った悪役令嬢は破滅すら置き去りにして

東雲れいな
恋愛
「悪役令嬢」と噂される伯爵令嬢・ローズ。王太子殿下の婚約者候補だというのに、ヒロインから王子を奪おうなんて野心はまるでありません。むしろ彼女は、“わたくしはわたくしらしく”と胸を張り、周囲の冷たい視線にも毅然と立ち向かいます。 破滅を甘受する覚悟すらあった彼女が、誇り高く戦い抜くとき、運命は大きく動きだす。

始まりはよくある婚約破棄のように

喜楽直人
恋愛
「ミリア・ファネス公爵令嬢! 婚約者として10年も長きに渡り傍にいたが、もう我慢ならない! 父上に何度も相談した。母上からも考え直せと言われた。しかし、僕はもう決めたんだ。ミリア、キミとの婚約は今日で終わりだ!」 学園の卒業パーティで、第二王子がその婚約者の名前を呼んで叫び、周囲は固唾を呑んでその成り行きを見守った。 ポンコツ王子から一方的な溺愛を受ける真面目令嬢が涙目になりながらも立ち向い、けれども少しずつ絆されていくお話。 第一章「婚約者編」 第二章「お見合い編(過去)」 第三章「結婚編」 第四章「出産・育児編」 第五章「ミリアの知らないオレファンの過去編」連載開始

処理中です...