『胸の大きさで婚約破棄する王太子を捨てたら、国の方が先に詰みました』

鷹 綾

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第32話「打算のない距離」

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第32話「打算のない距離」

 その訪問は、事前の通告もなく、実に素朴な形でやってきた。

「……ヴァインベルク伯爵家の別邸で、間違いありませんか?」

 門番を通じて伝えられた声は、丁寧ではあるが、過剰なへりくだりがない。

 マルティナは、庭の手入れを一旦止め、ゆっくりと立ち上がった。

(この時間帯に?)

 王城関係者なら、事前連絡がないはずがない。
 貴族なら、名乗りと家名が先に出る。

 どちらでもない。

「お通しして」

 短く指示を出す。

 客間に現れたのは、三十代半ばほどの男性だった。
 服装は質素だが、手入れは行き届いている。
 武官でも文官でもない、しかし――無能には見えない。

「突然の訪問をお許しください」

 男は、名刺代わりの書簡を差し出した。

「私はレオンハルト・クレイ。
 商務都市ミュールの監査役を務めています」

 マルティナは、わずかに目を細めた。

(ミュール……王都から独立色の強い都市)

 つまり、王城の直接支配下ではない。

「ご用件は?」

 率直に問う。

 レオンハルトは、少しだけ苦笑した。

「単刀直入に申し上げます。
 助言をいただきたくて」

「私に?」

「はい」

 迷いのない返答。

「あなたが、王城から距離を取られた理由は存じています」

 その言葉に、空気が一瞬だけ張る。

 だが、彼は続けた。

「だからこそ、来ました」

 マルティナは、紅茶を勧める。

 彼は礼を言い、口をつけた。

「……美味しいですね」

「話を続けてください」

 マルティナは、相手の感想には反応しない。

「ミュールでは、王都の混乱を他山の石として見ています」

「判断を他人に委ねた結果、何が起きるのか」

 彼は、あくまで客観的だった。

「あなたは、巻き込まれなかった」

「正確には、巻き込まれない判断をした」

 マルティナは、否定も肯定もしない。

「私は、あなたに何も提供していません」

「ええ」

 レオンハルトは頷く。

「だからこそ、お願いしたい」

「“立場”ではなく、
 “考え方”を」

 その言葉に、マルティナは初めて相手を正面から見た。

(……欲しがっているのは、肩書きじゃない)

 それは、これまで彼女が向けられてきた視線とは、決定的に違った。

「報酬目的ではありません」

 彼は、先に釘を刺す。

「都市の判断材料として、
 一度、意見を伺えればそれでいい」

「採用されなくても構いません」

 マルティナは、少し考えた後、静かに言った。

「……珍しい方ですね」

「よく言われます」

 軽く笑う。

 嫌味がない。

「私は、もう王家とも政治とも関わりません」

「存じています」

「なら、何故?」

 レオンハルトは、一瞬だけ言葉を選んだ。

「あなたが、
 自分の人生を切り離せる人間だと知ったからです」

 その答えは、あまりにも率直だった。

「多くの人間は、立場を失うと、しがみつく」

「あなたは、降りた」

「それは、強さです」

 マルティナは、思わず息を吐いた。

(評価の仕方が、
 完全に違う)

 比べられていない。
 期待も、押し付けもない。

 ただ、観察した結果としての判断。

「……一度だけです」

 マルティナは、そう答えた。

「助言は、一度きり」

「それで十分です」

 レオンハルトは、即座に頷いた。

 欲張らない。

 その姿勢もまた、珍しい。

 数時間後。

 彼は礼を述べ、別邸を後にした。

 何も約束しない。
 何も縛らない。

 それで終わり。

 マルティナは、庭に戻り、空を見上げた。

(……世界は、
 王城だけじゃない)

 今さらだが、
 ようやく実感できた。

 誰かに選ばれるのでも、
 必要とされるのでもない。

 自分が、選ぶかどうか。

 その選択肢が、
 静かに、
 目の前に現れた。

 それだけで、
 十分だった。

 マルティナ・ヴァインベルクの人生は、
 王家の物語から完全に外れ、
 新しい軌道に入り始めていた。

 ざまぁの後に残るのは、
 空虚ではない。

 余白だ。

 そして――
 その余白を、
 どう使うかは、
 もう彼女次第だった。
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