1 / 42
第一話 貴族学院という幻想
しおりを挟む
第一話 貴族学院という幻想
王都にある王立貴族学院は、しばしば「未来を担う若者たちの学び舎」と称される。
だがそれは、外向けの言葉に過ぎなかった。
この学院が担っている役割は明確だ。
貴族社会という、厳格な序列と責任によって成り立つ世界を、次の世代へそのまま引き渡すための装置である。
公爵家の子は公爵家の子として扱われ、王族は王族として遇される。
それは特別扱いではなく、将来背負う義務と責任の重さを、幼いうちから体に染み込ませるための訓練だった。
その日も、学院の中庭には身分ごとに自然な輪ができていた。
中央に近い場所には、公爵家や侯爵家の令嬢たち。
やや離れた場所に伯爵家。
さらに外側に男爵家や準貴族。
誰かが命じたわけではない。
長年の慣習が、無言のうちにそうさせている。
アリエノール・ダキテーヌ公爵令嬢は、その中心に立つ存在だった。
華やかな容姿や、際立つ才覚が理由ではない。
彼女の背後にあるもの――王国全土の三分の一にも及ぶ公爵領と、その軍事力、財力。
それを誰もが理解しているからこそ、自然と視線が集まる。
アリエノール自身は、そのことを誇るでもなく、卑下するでもなかった。
それは自分の意思とは無関係に与えられた立場であり、逃げることも、投げ出すこともできないものだと理解していたからだ。
「おはようございます、アリエノール様」
挨拶の声が重なる。
彼女は一人一人に、過不足のない返礼を返した。
その様子を、少し離れた場所から見つめる少女がいた。
聖女マリア。
平民出身でありながら、教会の推薦によってこの学院に通うことを許された存在だ。
柔らかな物腰と、誰に対しても分け隔てなく接する態度は、多くの生徒たちから好意的に受け取られていた。
マリアは、アリエノールを見つめながら、胸の奥に小さな違和感を抱いていた。
なぜ、同じ学院で学んでいるのに、
なぜ、同じ教室で授業を受けているのに、
人々は自然と距離を分けるのだろう。
勇気を出して、マリアはその輪に近づいた。
「おはようございます、皆さん」
朗らかな声だった。
だが、その一言で、空気がわずかに変わる。
無視されたわけではない。
露骨な拒絶もない。
ただ、数瞬の間が生まれただけだ。
アリエノールは、その変化にすぐ気づいた。
「おはようございます、マリアさん」
彼女は穏やかに声をかける。
それだけで、周囲の緊張がわずかに和らいだ。
マリアはほっとしたように微笑む。
「皆さんとお話しできて嬉しいです。学院では、身分なんて関係ありませんよね?」
その言葉は、悪意の欠片もなかった。
むしろ、善意に満ちていた。
だが、アリエノールは即座に理解する。
――このままでは、いけない。
「マリアさん」
声は静かで、柔らかい。
だが、その場にいる者たちは、彼女の言葉を待つように耳を傾けた。
「ここは、平等ではありませんわ」
マリアが目を見開く。
「それは、差別という意味ではありませんの」
アリエノールは続ける。
「立場によって、許される振る舞いと、求められる責任が違うのです」
「それを知らずに前に出ることは、あなたを守ることにはなりません」
その言葉は忠告だった。
命令でも、叱責でもない。
だがマリアには、それが冷たく響いた。
「……でも、それはおかしいと思います」
マリアは小さく首を振る。
「同じ人間なのに、同じ学生なのに、どうして違うんですか?」
周囲の令嬢たちは、困惑した表情で視線を逸らす。
誰も、この問いに答えようとしなかった。
アリエノールは、マリアを見つめたまま、ゆっくりと口を開く。
「違うからです」
「この国は、その違いの上に成り立っています」
それ以上、彼女は何も言わなかった。
マリアは唇を噛みしめ、その場を離れる。
その背中を見送りながら、アリエノールは胸の奥で小さく息を吐いた。
――伝えるべきことは、伝えた。
だが、聞き入れられるかどうかは、相手次第だ。
そしてこの瞬間、
誰も気づかないまま、
小さなすれ違いが、やがて国家を揺るがす歯車となって回り始めていた。
貴族学院は、今日も穏やかな日常を装っている。
その下で、決して平等ではない現実が、静かに息づいていることを知らぬまま。
王都にある王立貴族学院は、しばしば「未来を担う若者たちの学び舎」と称される。
だがそれは、外向けの言葉に過ぎなかった。
この学院が担っている役割は明確だ。
貴族社会という、厳格な序列と責任によって成り立つ世界を、次の世代へそのまま引き渡すための装置である。
公爵家の子は公爵家の子として扱われ、王族は王族として遇される。
それは特別扱いではなく、将来背負う義務と責任の重さを、幼いうちから体に染み込ませるための訓練だった。
その日も、学院の中庭には身分ごとに自然な輪ができていた。
中央に近い場所には、公爵家や侯爵家の令嬢たち。
やや離れた場所に伯爵家。
さらに外側に男爵家や準貴族。
誰かが命じたわけではない。
長年の慣習が、無言のうちにそうさせている。
アリエノール・ダキテーヌ公爵令嬢は、その中心に立つ存在だった。
華やかな容姿や、際立つ才覚が理由ではない。
彼女の背後にあるもの――王国全土の三分の一にも及ぶ公爵領と、その軍事力、財力。
それを誰もが理解しているからこそ、自然と視線が集まる。
アリエノール自身は、そのことを誇るでもなく、卑下するでもなかった。
それは自分の意思とは無関係に与えられた立場であり、逃げることも、投げ出すこともできないものだと理解していたからだ。
「おはようございます、アリエノール様」
挨拶の声が重なる。
彼女は一人一人に、過不足のない返礼を返した。
その様子を、少し離れた場所から見つめる少女がいた。
聖女マリア。
平民出身でありながら、教会の推薦によってこの学院に通うことを許された存在だ。
柔らかな物腰と、誰に対しても分け隔てなく接する態度は、多くの生徒たちから好意的に受け取られていた。
マリアは、アリエノールを見つめながら、胸の奥に小さな違和感を抱いていた。
なぜ、同じ学院で学んでいるのに、
なぜ、同じ教室で授業を受けているのに、
人々は自然と距離を分けるのだろう。
勇気を出して、マリアはその輪に近づいた。
「おはようございます、皆さん」
朗らかな声だった。
だが、その一言で、空気がわずかに変わる。
無視されたわけではない。
露骨な拒絶もない。
ただ、数瞬の間が生まれただけだ。
アリエノールは、その変化にすぐ気づいた。
「おはようございます、マリアさん」
彼女は穏やかに声をかける。
それだけで、周囲の緊張がわずかに和らいだ。
マリアはほっとしたように微笑む。
「皆さんとお話しできて嬉しいです。学院では、身分なんて関係ありませんよね?」
その言葉は、悪意の欠片もなかった。
むしろ、善意に満ちていた。
だが、アリエノールは即座に理解する。
――このままでは、いけない。
「マリアさん」
声は静かで、柔らかい。
だが、その場にいる者たちは、彼女の言葉を待つように耳を傾けた。
「ここは、平等ではありませんわ」
マリアが目を見開く。
「それは、差別という意味ではありませんの」
アリエノールは続ける。
「立場によって、許される振る舞いと、求められる責任が違うのです」
「それを知らずに前に出ることは、あなたを守ることにはなりません」
その言葉は忠告だった。
命令でも、叱責でもない。
だがマリアには、それが冷たく響いた。
「……でも、それはおかしいと思います」
マリアは小さく首を振る。
「同じ人間なのに、同じ学生なのに、どうして違うんですか?」
周囲の令嬢たちは、困惑した表情で視線を逸らす。
誰も、この問いに答えようとしなかった。
アリエノールは、マリアを見つめたまま、ゆっくりと口を開く。
「違うからです」
「この国は、その違いの上に成り立っています」
それ以上、彼女は何も言わなかった。
マリアは唇を噛みしめ、その場を離れる。
その背中を見送りながら、アリエノールは胸の奥で小さく息を吐いた。
――伝えるべきことは、伝えた。
だが、聞き入れられるかどうかは、相手次第だ。
そしてこの瞬間、
誰も気づかないまま、
小さなすれ違いが、やがて国家を揺るがす歯車となって回り始めていた。
貴族学院は、今日も穏やかな日常を装っている。
その下で、決して平等ではない現実が、静かに息づいていることを知らぬまま。
38
あなたにおすすめの小説
『婚約破棄?結構ですわ。わたくしは何もしないで生きていきます』
鷹 綾
恋愛
内容紹介
王太子ユリウスの婚約者だった伯爵令嬢リュシエンヌは、公衆の面前で一方的に婚約を破棄される。
だが彼女は泣かず、怒らず、復讐も選ばなかった。
「働かないと、決めましたの」
婚約者として担ってきた政務補佐、調整、裏方の仕事をすべて手放し、彼女は“何もしない”生活を始める。
すると王宮は静かに軋み、これまで彼女が支えていた日常だけが浮き彫りになっていく。
新たな婚約者を得た王太子。
外から王宮を支える女性。
そして、何もせず距離を保つ元婚約者。
誰も声高に責めず、誰も派手なざまぁをしない。
それでも、関係は変わり、立場は入れ替わり、真実だけが残っていく。
これは、頑張らないことで人生を取り戻した令嬢の物語。
婚約破棄のその先で、“何もしない”という最強の選択をした女性が、静かに自由を手に入れるまでの40話。
満場一致で削除されましたが、世界は問題なく回っております』
鷹 綾
恋愛
王太子アルベルトは、ある日、貴族全会の満場一致によって廃嫡された。
断罪もなければ、処刑もない。
血も流れず、罪状も曖昧。
ただ「順序を飛ばした」という一点だけで、彼は王位継承の座から静かに削除される。
婚約者だった公爵令嬢エリシアは、婚約破棄の時点で王都の構造から距離を取り、隣国との長期協定を進めていく。
彼女の世界は合理で動き、感情に振り回されることはない。
一方、王太子が選んだ“新たな聖女”は、どこまでも従順で、どこまでも寄り添う存在だった。
「殿下に従わない者は、私が処理しておきます」
その甘い囁きの裏で、王都では“偶然”が重なり始める。
だが真実は語られない。
急病も、辞任も、転任も、すべては記録上の出来事。
証拠はない。
ただ王太子だけが、血に濡れた笑顔の悪夢を見る。
そして気づく。
自分のざまあは、罰ではない。
「中心ではなくなること」だと。
王都は安定し、新王は即位し、歴史は何事もなかったかのように進む。
旧王太子の名は、ただ一行の記録として残るのみ。
婚約破棄のその後に始まる、静かな因果応報。
激情ではなく“構造”が裁く、最強レベルの心理ざまあ。
これは――
満場一致で削除された男と、最初から無関係な位置に立っていた令嬢の物語。
婚約辞退いたします。だってこの国、沈みますもの
鍛高譚
恋愛
「婚約はお断りいたします――この国は近い将来、崩壊しますので」
そう言い放ったのは、社交界でも目立たない子爵令嬢、マリン・アクアリウム。
ある日、とある舞踏会に突如現れた王太子ガイア殿下。
誰もが驚く中、なんと彼はマリンに婚約を申し出る。
周囲は騒然。「子爵令嬢が王太子妃!?」「断る理由などないはず!」
――だが、彼女は断った。「この国は、もうすぐ滅びます」――と。
そんな不吉な言葉を口にしたことで、彼女は“狂言癖のある嘘つき令嬢”と噂され、
家族にさえ見放され、ついには国外追放の身に。
だが、彼女の予言は本物だった――
数年後、王国に未曾有の大災厄が迫る。
国土が崩れ、海に沈む都市。人々が絶望する中、思い出されるのは、
あの舞踏会でただひとり“滅び”を告げた少女の名。
「彼女なら、この国を救えるかもしれない……」
皮肉にも“追放令嬢”マリンは、再び王都に呼び戻され、
滅びゆく国で最後の希望として担ぎ上げられる。
信じてもらえなかった過去。
それでも人々の命を守ろうと奔走するマリン。
そして、王子ガイアが差し伸べた、あの日と変わらぬ手。
――たとえ国が滅んでも、あなたとともに歩んでいきたい。
引きこもり聖女は祈らない
鷹 綾
恋愛
内容紹介
聖女ポーラ・スターは、引きこもっていた。
人と話すことができず、部屋から出ることもできず、
彼女の意思表示は、扉に貼られる小さなメモだけだった。
「西の街道でがけ崩れが起きます」
「今日は、クラムチャウダーが食べたいです」
祈らず、姿も見せず、奇跡を誇示することもない聖女。
その存在は次第に「役立たず」と見なされ、
王太子リチャードから一方的に婚約を破棄され、聖女の地位も解かれる。
──だが、その日を境に、王国は壊れ始めた。
天候不順、嵐、洪水、冷害。
新たに任命された聖女は奇跡を演じるが、世界は救われない。
誰もが気づかぬまま、
「何もしない聖女」が、実はすべてを支えていた事実だけが残されていた。
扉の向こうで静かに生きる少女と、
毎日声をかけ続ける精神科医フォージャー。
失われていく王国と、取り戻されていく一人の人生。
これは、
祈らない聖女が選んだ、
誰にも支配されない静かな結末の物語。
『引きこもり聖女は祈らない』
ざまぁは声高でなく、
救いは奇跡ではなく、
その扉の向こうに、確かにあった。
ラノベでリアルに婚約破棄を描いてみたら、王家が傾いた
鷹 綾
恋愛
王太子から一方的に告げられた、婚約破棄。
理由は――「真実の愛を見つけたから」。
相手は、清楚で心優しいと評判の男爵令嬢。
誰もが、ありがちな恋愛沙汰だと思った。
だがその婚約は、恋ではなかった。
王家と公爵家、そして教会が関与する国家条約だったのだ。
公爵令嬢イザベル・ド・エノーは、泣き叫ぶことも、復讐を誓うこともしない。
ただ静かに問い返す。
――その婚約破棄が、何を意味するのか理解しているのですか?
一方的な破棄は、名誉の侵害であり、契約違反であり、
時に戦争すら正当化する行為となる。
王太子の愚かな選択は、王家、公爵家、教会を巻き込み、国を内戦寸前へと追い込んでいく。
裁かれるのは、恋に溺れた王太子か。
それとも、彼を誤導した「善良な令嬢」か。
そして、責任を負うべきは誰なのか。
これは、
「ざまぁ」のための物語ではない。
中世ヨーロッパをモデルに、婚約破棄を“現実の政治”として描いた物語である。
恋は自由だ。
だが、契約を壊す覚悟のない者が、国家の前でそれを口にしていいはずがない。
――ラノベで、リアルな婚約破棄を描いてみた結果。
ゴースト聖女は今日までです〜お父様お義母さま、そして偽聖女の妹様、さようなら。私は魔神の妻になります〜
嘉神かろ
恋愛
魔神を封じる一族の娘として幸せに暮していたアリシアの生活は、母が死に、継母が妹を産んだことで一変する。
妹は聖女と呼ばれ、もてはやされる一方で、アリシアは周囲に気付かれないよう、妹の影となって魔神の眷属を屠りつづける。
これから先も続くと思われたこの、妹に功績を譲る生活は、魔神の封印を補強する封魔の神儀をきっかけに思いもよらなかった方へ動き出す。
婚約破棄されて去ったら、私がいなくても世界は回り始めました
鷹 綾
恋愛
「君との婚約は破棄する。聖女フロンこそが、真に王国を導く存在だ」
王太子アントナン・ドームにそう告げられ、
公爵令嬢エミー・マイセンは、王都を去った。
彼女が担ってきたのは、判断、調整、責任――
国が回るために必要なすべて。
だが、それは「有能」ではなく、「依存」だった。
隣国へ渡ったエミーは、
一人で背負わない仕組みを選び、
名前が残らない判断の在り方を築いていく。
一方、彼女を失った王都は混乱し、
やがて気づく――
必要だったのは彼女ではなく、
彼女が手放そうとしていた“仕組み”だったのだと。
偽聖女フロンの化けの皮が剥がれ、
王太子アントナンは、
「決めた後に立ち続ける重さ」と向き合い始める。
だが、もうエミーは戻らない。
これは、
捨てられた令嬢が復讐する物語ではない。
溺愛で救われる物語でもない。
「いなくても回る世界」を完成させた女性と、
彼女を必要としなくなった国の、
静かで誇り高い別れの物語。
英雄が消えても、世界は続いていく――
アルファポリス女子読者向け
〈静かな婚約破棄ざまぁ〉×〈大人の再生譚〉。
婚約破棄? めんどくさいのでちょうどよかった ――聖女もやめて、温泉でごくらくしてます
ふわふわ
恋愛
婚約破棄を告げられた聖女リヴォルタ・レーレ。
理由は、「彼女より優秀な“真の聖女”が見つかったから」。
……正直、めんどくさい。
政略、責任、義務、期待。
それらすべてから解放された彼女は、
聖女を辞めて、ただ温泉地でのんびり暮らすことを選ぶ。
毎日、湯に浸かって、ご飯を食べて、散歩して。
何もしない、何も背負わない、静かな日常。
ところが――
彼女が去った王都では、なぜか事故や災害が相次ぎ、
一方で、彼女の滞在する温泉地とその周辺だけが
異様なほど平和になっていく。
祈らない。
詠唱しない。
癒やさない。
それでも世界が守られてしまうのは、なぜなのか。
「何もしない」ことを選んだ元聖女と、
彼女に“何もさせない”ことを選び始めた世界。
これは、
誰かを働かせなくても平和が成り立ってしまった、
いちばん静かで、いちばん皮肉な“ざまぁ”の物語。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる