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14話 静かな対面
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14話 静かな対面
王太子アレクシスの馬車がルヴァリエ公爵邸の正門をくぐったのは、午後の光がやわらぎ始めた頃だった。
豪奢ではあるが過度ではない館。
手入れの行き届いた庭。
変わらぬ静けさ。
婚約破棄以降、王宮は何度も公爵家の反応を探ってきたが、届くのは常に丁寧で冷静な書面のみだった。
今日、ようやく直接の対面となる。
応接間の扉が開く。
先に通されたアレクシスの前に、ほどなくしてエルフィーナが姿を現した。
淡い灰青のドレス。
装飾は控えめ。
王太子妃候補としての威光ではなく、一公爵令嬢としての品位。
「ごきげんよう、殿下」
深すぎない礼。
形式は守る。
「……久しいな」
「舞踏会以来ですわね」
声は穏やかで、棘はない。
それがかえって、アレクシスの胸をざわつかせた。
二人は向かい合って座る。
間に置かれたのは、紅茶と書類。
「本日はお越しくださり、ありがとうございます」
エルフィーナが先に言った。
「再契約の件でしょうか」
話題を逸らさない。
感情にも触れない。
「それもある」
アレクシスは彼女を見つめる。
「だがまず、確認したいことがある」
「何でしょう」
「君は……怒っていないのか」
一瞬、空気が静止する。
だがエルフィーナの表情は変わらない。
「怒る理由がございません」
「私は、公の場で君を切り捨てた」
「婚約は契約です。双方の意思で成立し、双方の意思で解消されます」
淡々とした返答。
「屈辱ではなかったのか」
「公の場での宣言は、手続きとして明確でしたわ」
彼女は紅茶を一口含む。
「曖昧に引き延ばされるより、誠実です」
誠実。
その言葉が胸を刺す。
アレクシスは、反発も涙も想定していた。
だが目の前の彼女は静かだ。
「ではなぜ、保証を止めた」
核心に触れる。
「止めてはおりません」
「更新しなかった」
「前提が消えました」
即答だった。
「婚約という政治的結びつきがなくなりました。特例を維持する理由がなくなっただけです」
「それで王宮が困っている」
「困らせる意図はございません」
エルフィーナの視線は揺らがない。
「通常条件で再契約を提示しております」
「条件が厳しい」
「市場価格です」
静かな応酬。
理屈がぶつかる。
「君は国を揺らしている」
思わず出た言葉。
エルフィーナは少しだけ目を細める。
「揺れているのは信用です」
「信用だと」
「保証が外れれば、商人は慎重になります。それは自然な反応です」
否定できない。
王太子は言葉を失う。
「私は働かないと決めております」
彼女は静かに続ける。
「ですが、契約は整えます」
「働かない」
「感情で奔走しないという意味ですわ」
微かな微笑。
「殿下が選択なさった結果、前提が変わりました。その整理をしているだけです」
整理。
復讐でも、圧力でもない。
ただ整理。
「聖女の活動も縮小している」
アレクシスは言う。
「支援は再審査中です」
「彼女は無関係だ」
「契約は関係します」
冷静な事実。
「善意だけでは継続できません」
沈黙が落ちる。
窓の外で風が揺れる。
「君は、私の決断をどう思っている」
個人的な問い。
王太子としてではなく、一人の男として。
エルフィーナは少し考える。
「殿下は理想を優先なさいました」
「間違いか」
「理想は尊いものです」
肯定でも否定でもない。
「ただ、理想にも土台が必要です」
その一言が、胸に重く響く。
土台。
保証。
信用。
流通。
「私は、国のために動いている」
「承知しております」
「君も国の一部だ」
「はい」
視線が交わる。
「だからこそ、対等に戻りましょう」
「対等」
「特別ではなく」
王太子は息を吐く。
怒鳴ることもできない。
彼女は正論しか言っていない。
「再契約を結べば、安定するのか」
「条件が整えば」
「王宮の支出透明化も」
「当然です」
逃げ道はない。
だがそれは屈辱ではない。
ただの再構築。
「君は、本当に怒っていないのか」
最後の確認のように問う。
エルフィーナは静かに答えた。
「怒りは消耗です」
そして少しだけ目を伏せる。
「私は、消耗したくありませんの」
その言葉には、わずかな本音が滲んでいた。
傷がないわけではない。
だがそれを武器にしない。
アレクシスは立ち上がる。
「再契約の案を持ち帰る」
「お待ちしております」
礼は形式通り。
感情の爆発も、和解の握手もない。
ただ理屈と理屈の交差。
王太子が去った後、応接間は再び静寂に包まれた。
「お嬢様、お疲れでは」
家宰が小声で問う。
「少しだけ」
エルフィーナは正直に言う。
「でも、大丈夫」
窓の外を見る。
夕暮れが館を染める。
「私は動かなかったでしょう」
「はい」
「それでいいの」
焦ったのは向こう。
選んだのも向こう。
彼女はただ、揺れた盤面を整えているだけ。
王太子は馬車の中で、沈黙していた。
怒りはない。
だが胸の奥に、奇妙な感情が残る。
失ったものの大きさか。
それとも、初めて対等に立たされた感覚か。
夕陽が王宮の塔を赤く染める。
理想と現実の間で、焦りはまだ消えていない。
王太子アレクシスの馬車がルヴァリエ公爵邸の正門をくぐったのは、午後の光がやわらぎ始めた頃だった。
豪奢ではあるが過度ではない館。
手入れの行き届いた庭。
変わらぬ静けさ。
婚約破棄以降、王宮は何度も公爵家の反応を探ってきたが、届くのは常に丁寧で冷静な書面のみだった。
今日、ようやく直接の対面となる。
応接間の扉が開く。
先に通されたアレクシスの前に、ほどなくしてエルフィーナが姿を現した。
淡い灰青のドレス。
装飾は控えめ。
王太子妃候補としての威光ではなく、一公爵令嬢としての品位。
「ごきげんよう、殿下」
深すぎない礼。
形式は守る。
「……久しいな」
「舞踏会以来ですわね」
声は穏やかで、棘はない。
それがかえって、アレクシスの胸をざわつかせた。
二人は向かい合って座る。
間に置かれたのは、紅茶と書類。
「本日はお越しくださり、ありがとうございます」
エルフィーナが先に言った。
「再契約の件でしょうか」
話題を逸らさない。
感情にも触れない。
「それもある」
アレクシスは彼女を見つめる。
「だがまず、確認したいことがある」
「何でしょう」
「君は……怒っていないのか」
一瞬、空気が静止する。
だがエルフィーナの表情は変わらない。
「怒る理由がございません」
「私は、公の場で君を切り捨てた」
「婚約は契約です。双方の意思で成立し、双方の意思で解消されます」
淡々とした返答。
「屈辱ではなかったのか」
「公の場での宣言は、手続きとして明確でしたわ」
彼女は紅茶を一口含む。
「曖昧に引き延ばされるより、誠実です」
誠実。
その言葉が胸を刺す。
アレクシスは、反発も涙も想定していた。
だが目の前の彼女は静かだ。
「ではなぜ、保証を止めた」
核心に触れる。
「止めてはおりません」
「更新しなかった」
「前提が消えました」
即答だった。
「婚約という政治的結びつきがなくなりました。特例を維持する理由がなくなっただけです」
「それで王宮が困っている」
「困らせる意図はございません」
エルフィーナの視線は揺らがない。
「通常条件で再契約を提示しております」
「条件が厳しい」
「市場価格です」
静かな応酬。
理屈がぶつかる。
「君は国を揺らしている」
思わず出た言葉。
エルフィーナは少しだけ目を細める。
「揺れているのは信用です」
「信用だと」
「保証が外れれば、商人は慎重になります。それは自然な反応です」
否定できない。
王太子は言葉を失う。
「私は働かないと決めております」
彼女は静かに続ける。
「ですが、契約は整えます」
「働かない」
「感情で奔走しないという意味ですわ」
微かな微笑。
「殿下が選択なさった結果、前提が変わりました。その整理をしているだけです」
整理。
復讐でも、圧力でもない。
ただ整理。
「聖女の活動も縮小している」
アレクシスは言う。
「支援は再審査中です」
「彼女は無関係だ」
「契約は関係します」
冷静な事実。
「善意だけでは継続できません」
沈黙が落ちる。
窓の外で風が揺れる。
「君は、私の決断をどう思っている」
個人的な問い。
王太子としてではなく、一人の男として。
エルフィーナは少し考える。
「殿下は理想を優先なさいました」
「間違いか」
「理想は尊いものです」
肯定でも否定でもない。
「ただ、理想にも土台が必要です」
その一言が、胸に重く響く。
土台。
保証。
信用。
流通。
「私は、国のために動いている」
「承知しております」
「君も国の一部だ」
「はい」
視線が交わる。
「だからこそ、対等に戻りましょう」
「対等」
「特別ではなく」
王太子は息を吐く。
怒鳴ることもできない。
彼女は正論しか言っていない。
「再契約を結べば、安定するのか」
「条件が整えば」
「王宮の支出透明化も」
「当然です」
逃げ道はない。
だがそれは屈辱ではない。
ただの再構築。
「君は、本当に怒っていないのか」
最後の確認のように問う。
エルフィーナは静かに答えた。
「怒りは消耗です」
そして少しだけ目を伏せる。
「私は、消耗したくありませんの」
その言葉には、わずかな本音が滲んでいた。
傷がないわけではない。
だがそれを武器にしない。
アレクシスは立ち上がる。
「再契約の案を持ち帰る」
「お待ちしております」
礼は形式通り。
感情の爆発も、和解の握手もない。
ただ理屈と理屈の交差。
王太子が去った後、応接間は再び静寂に包まれた。
「お嬢様、お疲れでは」
家宰が小声で問う。
「少しだけ」
エルフィーナは正直に言う。
「でも、大丈夫」
窓の外を見る。
夕暮れが館を染める。
「私は動かなかったでしょう」
「はい」
「それでいいの」
焦ったのは向こう。
選んだのも向こう。
彼女はただ、揺れた盤面を整えているだけ。
王太子は馬車の中で、沈黙していた。
怒りはない。
だが胸の奥に、奇妙な感情が残る。
失ったものの大きさか。
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