働きませんわ。それでも王妃になります

鷹 綾

文字の大きさ
13 / 39

13話 焦る王太子

しおりを挟む
13話 焦る王太子

 王宮の執務室は、かつてないほど重たい空気に包まれていた。

 机の上には山積みの報告書。港湾事業の進捗停止、小麦価格の緩やかな上昇、神殿補助金の再計算、そして王宮支出の圧縮案。

 どれも単独で見れば致命的ではない。

 だが同時に起きている。

 アレクシスは椅子から立ち上がり、書類を乱暴に閉じた。

「これは偶然ではない」

 低く、押し殺した声。

「婚約破棄の直後に、保証停止。基金再審査。流通条件変更。すべてが同時だ」

 レオンは静かに立っている。

「偶然ではありません」

「やはり彼女か」

 アレクシスの目に怒りが宿る。

「静かに復讐しているのだ」

「違います」

 即答だった。

「復讐であれば、もっと直接的です。名誉を傷つけ、貴族会議で糾弾し、世論を動かすでしょう」

「では何だ」

「契約の再評価です」

 その言葉に、王太子は拳を握る。

「言い換えれば、圧力だ」

「圧力ではありません」

 レオンの声は変わらない。

「王宮が特別扱いされなくなっただけです」

 その一言が、胸に重く落ちる。

 特別扱い。

 これまで王家は、それを当然としてきた。

 保証も、支払い猶予も、優先供給も。

 だが今は、すべてが通常条件に戻っている。

「彼女は、何も言ってこないのか」

「はい。抗議も要求もございません」

「ならばなぜ」

 アレクシスは机を叩く。

「なぜ市場が動く」

「信用が揺らいだからです」

 レオンは一歩前に出る。

「婚約破棄は政治的な決断です。だがそれは同時に、公爵家との結びつきが解消されたという宣言でもあります」

「だからといって」

「だからこそです」

 王太子は黙る。

 自分は国のために決断した。

 だがその決断は、国の基盤の一部を同時に切り離していた。

「彼女は怒っているはずだ」

 アレクシスは低く言う。

「怒っているなら、正面から来ればいい」

「怒っていないのでしょう」

「そんなはずはない」

 だが事実、エルフィーナは何も言っていない。

 公爵家からの抗議文もない。

 貴族会議での非難もない。

 ただ、淡々と契約を整理している。

「殿下」

 レオンは慎重に続ける。

「エルフィーナ嬢は、感情で動く方ではありません」

「知っている」

「だからこそ、行動は常に理屈に基づいています」

 理屈。

 市場価格。

 保証条件。

 支払い期限。

 すべてが数字。

「彼女は、私を困らせたいのではないのか」

 その問いは、どこか個人的だった。

「困らせたいのなら、もっと直接的な方法を選ぶでしょう」

 レオンは答える。

「今起きているのは、殿下の選択が前提を変えた結果です」

 静かな真実。

 アレクシスは視線を落とす。

 婚約破棄は、自分の意思だ。

 公の場で宣言した。

 その結果、前提が消えた。

 保証も基金も、特例も。

「私は、国のために」

 言葉が続かない。

 国のために動く王妃を求めた。

 だが今、国は揺れている。

「聖女の活動も縮小している」

 アレクシスは呟く。

「支援が再審査中です」

「彼女は聖女まで巻き込むのか」

「巻き込んではいません」

 レオンはきっぱりと言う。

「神殿支援も契約の一部です。前提が消えれば、再審査は当然です」

 当然。

 その言葉が、王太子の胸に重く積もる。

「私は間違えたのか」

 小さな声。

 レオンは少し間を置いて答えた。

「間違いかどうかは、まだ判断できません」

「歯切れが悪いな」

「決断の影響が見え始めただけです」

 王太子は椅子に座り込み、額に手を当てる。

 自分は理想を選んだ。

 だが理想は、数字と契約の上に成り立っていた。

 エルフィーナは動いていない。

 それがかえって、焦りを煽る。

「彼女に会う」

 突然、アレクシスは言った。

 レオンの目がわずかに動く。

「直接話す」

「再契約の件で、ですか」

「それもある」

 王太子は立ち上がる。

「彼女が何を考えているのか、確かめる」

 だがその言葉の奥には、別の感情があった。

 怒りか。

 焦燥か。

 あるいは、理解できない相手への戸惑いか。

「公の場ではなく、私的に」

「承知いたしました」

 レオンは深く一礼する。

 王太子の背中には、かすかな焦りが滲んでいる。

 理想は揺らいでいない。

 だが現実が追いついてこない。

 一方、ルヴァリエ公爵邸では、エルフィーナが穏やかな午後を過ごしていた。

 庭のベンチに腰掛け、本を開いている。

「王太子殿下が、来訪を希望されております」

 家宰の報告に、彼女はページをめくる手を止めた。

「そう」

 驚きはない。

「ご用件は」

「再契約と、直接の対話を」

 エルフィーナはしばらく考え、ゆっくりと本を閉じる。

「応じましょう」

「よろしいのですか」

「契約の話なら、聞く価値があるわ」

 感情ではなく、交渉。

「私は働きません」

 小さく呟く。

「でも、話し合いは拒まない」

 夕日が庭を染める。

 王太子は焦りを抱え、彼女のもとへ向かおうとしている。

 彼女は椅子に座ったまま、その訪れを待つ。

 焦るのは常に、動いた側。

 動かなかった側は、ただ静かに盤面を見つめている。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

〈完結〉だってあなたは彼女が好きでしょう?

ごろごろみかん。
恋愛
「だってあなたは彼女が好きでしょう?」 その言葉に、私の婚約者は頷いて答えた。 「うん。僕は彼女を愛している。もちろん、きみのことも」

王妃様は死にました~今さら後悔しても遅いです~

由良
恋愛
クリスティーナは四歳の頃、王子だったラファエルと婚約を結んだ。 両親が事故に遭い亡くなったあとも、国王が大病を患い隠居したときも、ラファエルはクリスティーナだけが自分の妻になるのだと言って、彼女を守ってきた。 そんなラファエルをクリスティーナは愛し、生涯を共にすると誓った。 王妃となったあとも、ただラファエルのためだけに生きていた。 ――彼が愛する女性を連れてくるまでは。

不実なあなたに感謝を

黒木メイ
恋愛
王太子妃であるベアトリーチェと踊るのは最初のダンスのみ。落ち人のアンナとは望まれるまま何度も踊るのに。王太子であるマルコが誰に好意を寄せているかははたから見れば一目瞭然だ。けれど、マルコが心から愛しているのはベアトリーチェだけだった。そのことに気づいていながらも受け入れられないベアトリーチェ。そんな時、マルコとアンナがとうとう一線を越えたことを知る。――――不実なあなたを恨んだ回数は数知れず。けれど、今では感謝すらしている。愚かなあなたのおかげで『幸せ』を取り戻すことができたのだから。 ※異世界転移をしている登場人物がいますが主人公ではないためタグを外しています。 ※曖昧設定。 ※一旦完結。 ※性描写は匂わせ程度。 ※小説家になろう様、カクヨム様にも掲載予定。

【完結】恋は、終わったのです

楽歩
恋愛
幼い頃に決められた婚約者、セオドアと共に歩む未来。それは決定事項だった。しかし、いつしか冷たい現実が訪れ、彼の隣には別の令嬢の笑顔が輝くようになる。 今のような関係になったのは、いつからだったのだろう。 『分からないだろうな、お前のようなでかくて、エマのように可愛げのない女には』 身長を追い越してしまった時からだろうか。  それとも、特進クラスに私だけが入った時だろうか。 あるいは――あの子に出会った時からだろうか。 ――それでも、リディアは平然を装い続ける。胸に秘めた思いを隠しながら。

さようならの定型文~身勝手なあなたへ

宵森みなと
恋愛
「好きな女がいる。君とは“白い結婚”を——」 ――それは、夢にまで見た結婚式の初夜。 額に誓いのキスを受けた“その夜”、彼はそう言った。 涙すら出なかった。 なぜなら私は、その直前に“前世の記憶”を思い出したから。 ……よりによって、元・男の人生を。 夫には白い結婚宣言、恋も砕け、初夜で絶望と救済で、目覚めたのは皮肉にも、“現実”と“前世”の自分だった。 「さようなら」 だって、もう誰かに振り回されるなんて嫌。 慰謝料もらって悠々自適なシングルライフ。 別居、自立して、左団扇の人生送ってみせますわ。 だけど元・夫も、従兄も、世間も――私を放ってはくれないみたい? 「……何それ、私の人生、まだ波乱あるの?」 はい、あります。盛りだくさんで。 元・男、今・女。 “白い結婚からの離縁”から始まる、人生劇場ここに開幕。 -----『白い結婚の行方』シリーズ ----- 『白い結婚の行方』の物語が始まる、前のお話です。

【完結】ずっと、ずっとあなたを愛していました 〜後悔も、懺悔も今更いりません〜

高瀬船
恋愛
リスティアナ・メイブルムには二歳年上の婚約者が居る。 婚約者は、国の王太子で穏やかで優しく、婚約は王命ではあったが仲睦まじく関係を築けていた。 それなのに、突然ある日婚約者である王太子からは土下座をされ、婚約を解消して欲しいと願われる。 何故、そんな事に。 優しく微笑むその笑顔を向ける先は確かに自分に向けられていたのに。 婚約者として確かに大切にされていたのに何故こうなってしまったのか。 リスティアナの思いとは裏腹に、ある時期からリスティアナに悪い噂が立ち始める。 悪い噂が立つ事など何もしていないのにも関わらず、リスティアナは次第に学園で、夜会で、孤立していく。

婚約破棄してくださって結構です

二位関りをん
恋愛
伯爵家の令嬢イヴには同じく伯爵家令息のバトラーという婚約者がいる。しかしバトラーにはユミアという子爵令嬢がいつもべったりくっついており、イヴよりもユミアを優先している。そんなイヴを公爵家次期当主のコーディが優しく包み込む……。 ※表紙にはAIピクターズで生成した画像を使用しています

【完結】どうか私を思い出さないで

miniko
恋愛
コーデリアとアルバートは相思相愛の婚約者同士だった。 一年後には学園を卒業し、正式に婚姻を結ぶはずだったのだが……。 ある事件が原因で、二人を取り巻く状況が大きく変化してしまう。 コーデリアはアルバートの足手まといになりたくなくて、身を切る思いで別れを決意した。 「貴方に触れるのは、きっとこれが最後になるのね」 それなのに、運命は二人を再び引き寄せる。 「たとえ記憶を失ったとしても、きっと僕は、何度でも君に恋をする」

処理中です...