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第一話 静かなる婚約破棄
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第一話 静かなる婚約破棄
朝の光が、王城の高窓から静かに差し込んでいた。
白いレースのカーテンを透かして広がる柔らかな光を、エヴァリーナ・フォン・クロイツは無言で受け止めている。
今日もまた、滞りなく一日が始まる。
王太子妃候補としての一日が。
侍女が差し出す紅茶の温度は適切で、砂糖の量も指示どおり。机の上に並べられた書類は重要度順に整えられ、余計な紙一枚ない。財務報告、貴族家からの嘆願書、外交儀礼に関する覚書。どれも、最終的には王太子ヴァルターの判断を仰ぐものだが、その前段階の整理と調整は、すべてエヴァリーナの役目だった。
彼女は一枚一枚、淡々と目を通し、必要な箇所に朱を入れていく。
無駄な動きはない。迷いもない。
この役目を果たすことこそが、彼女の存在理由だった。
エヴァリーナはクロイツ公爵家の長女として生まれ、幼い頃から王太子妃となるための教育を受けてきた。礼儀作法、社交術、歴史、法、財務、外交。感情に流されることは戒められ、常に冷静であれと教えられた。
愛や恋といった曖昧なものは、政治の場では不要だと。
だから彼女は、王太子ヴァルターに恋をしたことはない。
それを欠点だと思ったこともなかった。
婚約とは契約であり、役割分担だ。
王太子妃として王国を支える。それが自分の務めであり、誇りだった。
「エヴァリーナ様、本日の舞踏会ですが……」
侍女の声に、彼女は顔を上げる。
「例年どおりで構いません。配置と進行は、昨日まとめた案のままで」
「かしこまりました」
舞踏会。
王城で定期的に開かれる、貴族たちへのお披露目の場だ。形式的な挨拶、形式的な笑顔、形式的な賛辞。そのすべてに、彼女は慣れていた。
ただ一つ、最近気にかかっていることがあるとすれば――ヴァルターの態度だった。
婚約者であるはずの彼は、ここしばらく露骨にエヴァリーナを避けていた。公務の場でも視線を合わせず、必要な報告も最低限。代わりに、ある若い令嬢の姿が彼の隣にあることが増えている。
真実の愛。
そんな言葉が、どこか遠い場所の出来事のように頭をよぎる。
もしヴァルターがそれを求めるのなら、それはそれで構わない。
ただし、それが役目の放棄を意味するのであれば、話は別だった。
舞踏会当日。
王城の大広間は、いつも以上の華やかさに包まれていた。
豪奢なシャンデリアの下、色とりどりのドレスをまとった貴族たちが集い、弦楽の音色が響く。エヴァリーナは王太子妃候補として定位置に立ち、背筋を伸ばし、穏やかな微笑を浮かべていた。
――その瞬間までは。
「皆に、聞いてもらいたいことがある」
ヴァルターの声が、広間に響いた。
一瞬でざわめきが静まり返る。
彼はエヴァリーナの隣ではなく、一人の若い令嬢の手を取って立っていた。その光景を見た瞬間、空気が張り詰めるのを、エヴァリーナは冷静に感じ取る。
「私は……エヴァリーナ・フォン・クロイツとの婚約を、ここに破棄する」
言葉が落ちる。
重く、しかし明確に。
誰かが息を呑み、誰かが小さく悲鳴を上げた。
だが、エヴァリーナは動揺しなかった。
――そういう選択をなさったのですね。
ただ、それだけを思った。
「私は真実の愛を選ぶ。形式だけの関係ではなく、心から支え合える相手を」
ヴァルターの視線が一瞬だけ、彼女に向けられる。
「君は正しい。しかし、冷たい」
その言葉に、エヴァリーナは内心で小さく首を傾げた。
正しいのなら、それで十分ではないのか。
彼女は一歩前に出た。
広間中の視線を一身に受けながら、静かに頭を下げる。
「承知いたしました」
声は震えず、澄んでいた。
「婚約破棄を受け入れます。王太子殿下のご判断、尊重いたしましょう」
どよめきが広がる。
「ただし」
エヴァリーナは顔を上げ、はっきりと告げた。
「本日をもって、わたくしは王家に関わるすべての業務から退きます。これまで管理しておりました財務補佐、文書整理、貴族間調整についても、すべてお返ししますわ」
「な……?」
ヴァルターが言葉を失う。
「それが、契約の終了というものでしょう?」
エヴァリーナは微笑んだ。
いつもと変わらぬ、完璧な微笑だった。
――この瞬間、誰も気づかなかった。
それが王国にとっての、静かな崩壊の始まりだということに。
エヴァリーナ・フォン・クロイツは、こうして王城を後にした。
泣くことも、縋ることもなく。
役目を終えた者として。
朝の光が、王城の高窓から静かに差し込んでいた。
白いレースのカーテンを透かして広がる柔らかな光を、エヴァリーナ・フォン・クロイツは無言で受け止めている。
今日もまた、滞りなく一日が始まる。
王太子妃候補としての一日が。
侍女が差し出す紅茶の温度は適切で、砂糖の量も指示どおり。机の上に並べられた書類は重要度順に整えられ、余計な紙一枚ない。財務報告、貴族家からの嘆願書、外交儀礼に関する覚書。どれも、最終的には王太子ヴァルターの判断を仰ぐものだが、その前段階の整理と調整は、すべてエヴァリーナの役目だった。
彼女は一枚一枚、淡々と目を通し、必要な箇所に朱を入れていく。
無駄な動きはない。迷いもない。
この役目を果たすことこそが、彼女の存在理由だった。
エヴァリーナはクロイツ公爵家の長女として生まれ、幼い頃から王太子妃となるための教育を受けてきた。礼儀作法、社交術、歴史、法、財務、外交。感情に流されることは戒められ、常に冷静であれと教えられた。
愛や恋といった曖昧なものは、政治の場では不要だと。
だから彼女は、王太子ヴァルターに恋をしたことはない。
それを欠点だと思ったこともなかった。
婚約とは契約であり、役割分担だ。
王太子妃として王国を支える。それが自分の務めであり、誇りだった。
「エヴァリーナ様、本日の舞踏会ですが……」
侍女の声に、彼女は顔を上げる。
「例年どおりで構いません。配置と進行は、昨日まとめた案のままで」
「かしこまりました」
舞踏会。
王城で定期的に開かれる、貴族たちへのお披露目の場だ。形式的な挨拶、形式的な笑顔、形式的な賛辞。そのすべてに、彼女は慣れていた。
ただ一つ、最近気にかかっていることがあるとすれば――ヴァルターの態度だった。
婚約者であるはずの彼は、ここしばらく露骨にエヴァリーナを避けていた。公務の場でも視線を合わせず、必要な報告も最低限。代わりに、ある若い令嬢の姿が彼の隣にあることが増えている。
真実の愛。
そんな言葉が、どこか遠い場所の出来事のように頭をよぎる。
もしヴァルターがそれを求めるのなら、それはそれで構わない。
ただし、それが役目の放棄を意味するのであれば、話は別だった。
舞踏会当日。
王城の大広間は、いつも以上の華やかさに包まれていた。
豪奢なシャンデリアの下、色とりどりのドレスをまとった貴族たちが集い、弦楽の音色が響く。エヴァリーナは王太子妃候補として定位置に立ち、背筋を伸ばし、穏やかな微笑を浮かべていた。
――その瞬間までは。
「皆に、聞いてもらいたいことがある」
ヴァルターの声が、広間に響いた。
一瞬でざわめきが静まり返る。
彼はエヴァリーナの隣ではなく、一人の若い令嬢の手を取って立っていた。その光景を見た瞬間、空気が張り詰めるのを、エヴァリーナは冷静に感じ取る。
「私は……エヴァリーナ・フォン・クロイツとの婚約を、ここに破棄する」
言葉が落ちる。
重く、しかし明確に。
誰かが息を呑み、誰かが小さく悲鳴を上げた。
だが、エヴァリーナは動揺しなかった。
――そういう選択をなさったのですね。
ただ、それだけを思った。
「私は真実の愛を選ぶ。形式だけの関係ではなく、心から支え合える相手を」
ヴァルターの視線が一瞬だけ、彼女に向けられる。
「君は正しい。しかし、冷たい」
その言葉に、エヴァリーナは内心で小さく首を傾げた。
正しいのなら、それで十分ではないのか。
彼女は一歩前に出た。
広間中の視線を一身に受けながら、静かに頭を下げる。
「承知いたしました」
声は震えず、澄んでいた。
「婚約破棄を受け入れます。王太子殿下のご判断、尊重いたしましょう」
どよめきが広がる。
「ただし」
エヴァリーナは顔を上げ、はっきりと告げた。
「本日をもって、わたくしは王家に関わるすべての業務から退きます。これまで管理しておりました財務補佐、文書整理、貴族間調整についても、すべてお返ししますわ」
「な……?」
ヴァルターが言葉を失う。
「それが、契約の終了というものでしょう?」
エヴァリーナは微笑んだ。
いつもと変わらぬ、完璧な微笑だった。
――この瞬間、誰も気づかなかった。
それが王国にとっての、静かな崩壊の始まりだということに。
エヴァリーナ・フォン・クロイツは、こうして王城を後にした。
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役目を終えた者として。
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