『婚約破棄された公爵令嬢は、線を引く』――戻れない場所で、判断する席に座りました

鷹 綾

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第二話 抜け落ちた歯車

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第二話 抜け落ちた歯車

 王城の朝は、いつも慌ただしい。
 にもかかわらず、この日の政務棟には、どこか奇妙な静けさが漂っていた。

「……次は、何をすればいい?」

 王太子ヴァルターは、机の前で腕を組み、苛立ちを隠そうともせずに呟いた。
 目の前には、積み上げられた書類の山。だが、それらは整理されておらず、重要度も判別できない。昨日までは、決してこんなことはなかった。

 本来なら、この時間には――
 必要な書類が取捨選択され、要点がまとめられ、判断すべき事項だけが彼の机に置かれているはずだった。

「……エヴァリーナは?」

 無意識に出たその名に、側近たちが一斉に視線を逸らす。

「殿下……昨日の件で……」

 言葉を濁す側近に、ヴァルターは舌打ちした。

「わかっている。もう彼女はいない」

 そう。
 エヴァリーナ・フォン・クロイツは、王城を去った。

 それは彼自身が選び、宣言した結果だ。
 形式だけの婚約を断ち切り、真実の愛を選んだ――はずだった。

「……それなら、代わりは?」

「い、いえ……」

 側近の一人が、困惑したように口を開く。

「これまでエヴァリーナ様が担当されていた業務は……その……正式な引き継ぎが、まだ……」

「引き継ぎ?」

 ヴァルターは眉をひそめる。

「必要ないだろう。あれは彼女が勝手に抱え込んでいただけだ。もともと、王太子妃候補の仕事など、補助的なものに過ぎない」

 そう言い切った瞬間、部屋の空気が微妙に凍りついた。

 だが誰も、それを否定しなかった。
 否定できなかった。

 その日の午前、最初の異変は財務局からもたらされた。

「殿下! 今月分の支出報告が……!」

 駆け込んできた官吏は、顔色を失っている。

「何だ、騒々しい」

「予算配分の確認ができておらず、支払いが止まっています! どの案件を優先すべきか、判断が……」

「そんなこと、今までどうしていた?」

 官吏は一瞬、言葉に詰まった。

「……エヴァリーナ様が……事前に……」

 その名が出た瞬間、ヴァルターの顔が強張る。

「……わかった。後で見る」

 そう言って書類を受け取ったものの、彼は中身を理解できなかった。
 数字が多すぎる。背景説明がない。関連資料も見当たらない。

 これまで彼は、最終判断だけを下していればよかった。
 その判断に至るまでの整理は、すべてエヴァリーナが担っていたのだ。

 昼前には、外交官が訪れた。

「殿下、隣国からの抗議文についてですが……」

「抗議?」

「先日の条約文面に不備があると指摘されています。特に、関税率の表記が……」

 ヴァルターは唇を噛んだ。

 あの条約文は、確かに自分が署名した。
 だが、細部まで確認した覚えはない。

「……確認しておく」

 その返答に、外交官は不安げな表情を浮かべたが、それ以上は言わなかった。

 午後になると、貴族たちが次々と謁見を求めてきた。

「殿下、先日の調整についてですが――」

「殿下、我が家の件は――」

 誰もが口々に訴えるが、話が噛み合わない。
 どこで、誰と、どんな約束が交わされたのか、ヴァルター自身が把握していないのだ。

「……なぜ、こんなことに……」

 思わず漏れた呟きに、側近たちは沈黙する。

 その頃、王城から少し離れたクロイツ公爵家では、まったく違う朝が始まっていた。

 エヴァリーナは、久しぶりに自室の窓を開け、庭を眺めていた。
 王城にいた頃とは違い、急かされることのない時間。

「……静かですわ」

 それは不安ではなく、安堵だった。

 机の上には、王城に提出するはずだった書類の控えが置かれている。
 だが、それらはもう不要だ。

「役目は、終わりましたもの」

 彼女は淡々とそう呟き、書類を閉じた。

 王城で何が起きているか、エヴァリーナは知らない。
 だが――知る必要もなかった。

 歯車が抜け落ちた機械は、すぐには止まらない。
 だが、確実に軋み、いずれ崩れる。

 それは、彼女が何もしなくても起こることだった。

 その日の夜、ヴァルターは執務室で一人、山のような書類に囲まれていた。

「……エヴァリーナ……」

 かつて当たり前のようにそこにあった存在を、初めて重く意識しながら。

 だが、まだ彼は理解していなかった。
 失ったものの大きさを。
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