3 / 39
第三話 気づかれなかった不在
しおりを挟む
第三話 気づかれなかった不在
王城の朝鐘が鳴り響いても、執務室の空気は重いままだった。
窓から差し込む光が机の上の書類を照らしているが、そこに整然とした秩序はない。ただ無秩序に積まれた紙の山が、王太子ヴァルターの視界を占領している。
「……これが、全部今日中だと?」
声を荒げたヴァルターに、側近の青年が申し訳なさそうに頷いた。
「はい。各部署から、判断を仰ぎたい案件が集中しておりまして……」
「なぜ同時に来る!」
「今までは……いえ……」
青年は言いかけて口を閉ざした。
今までは、という言葉の続きが何を指すのか、ヴァルター自身が一番よく理解していたからだ。
今までは、エヴァリーナが受け止めていた。
部署ごとに案件を整理し、優先順位をつけ、不要なものを弾き、今すぐ決断すべきものだけを残す。王太子の机に届く頃には、すでに答えの半分は用意されていた。
だが今、その緩衝材は存在しない。
「……仕方ない。上から順に持ってこい」
「す、すべてですか?」
「他に方法があるのか?」
側近は小さく首を振り、山のような書類を抱え直した。
最初の数枚は、まだ理解できた。
だが、途中から文字が頭に入ってこなくなる。数字、条文、但し書き。互いに関連しているはずの文書が、別々の束になっているため、全体像が掴めない。
「……誰だ、この形式で出したのは」
「財務局です」
「前は、こんな書き方ではなかったはずだ」
側近は言葉を選びながら答える。
「エヴァリーナ様が……各局に書式を統一するよう、指示されていましたので……」
ヴァルターは思わず黙り込んだ。
書式の統一。
そんな地味で目立たない作業を、誰が評価するだろうか。だが、それが失われた途端、混乱は一気に表面化する。
昼前、別の側近が駆け込んできた。
「殿下、貴族院から抗議が……」
「またか」
「先日の調整会議で、エヴァリーナ様がまとめていた合意事項について、確認が取れないと……」
「合意事項は議事録に残っているだろう」
「その議事録が……どこにも……」
ヴァルターは額を押さえた。
「どういうことだ」
「最終版は、エヴァリーナ様の管理下にありました。殿下の決裁を受けてから、正式に配布する予定だったかと……」
つまり、未完成の状態だったということだ。
彼女がいなくなった今、その最終版を仕上げられる者はいない。
「……勝手なことを」
吐き捨てるように言ったその言葉に、誰も同意しなかった。
午後になると、王城内のあちこちで小さな混乱が起き始めた。
約束されたはずの予算が下りない。
聞いていた話と条件が違う。
誰に確認すればいいのかわからない。
「殿下、これはどういうことでしょう!」
声を荒げる老貴族を前に、ヴァルターは言葉を失った。
――自分は、何も知らない。
その事実が、じわじわと胸を締めつける。
一方その頃、クロイツ公爵家では、穏やかな午後が流れていた。
エヴァリーナは庭園を散策し、久しぶりに花の名前を思い出していた。
王城にいた頃は、季節を感じる余裕すらなかった。
「お嬢様、お茶のご用意ができております」
「ありがとう。今、参りますわ」
テーブルに並んだ茶器を見て、彼女は小さく息をついた。
誰かに急かされることもなく、次の予定を詰め込まれることもない。
それは、不思議なほど心を落ち着かせた。
「……不思議ですわね」
婚約を破棄され、王城を去ったというのに。
涙は出なかった。
悔しさも、怒りも、どこか遠い。
彼女は、ただ役目を果たしてきただけだ。
その役目が不要になったのなら、身を引く。それだけのこと。
夕刻、ヴァルターは執務室で椅子に沈み込んでいた。
一日中書類に追われ、何一つ解決していない。
「……なぜ、誰も教えてくれなかった」
小さく呟いた言葉は、誰にも届かない。
彼はまだ、理解していなかった。
エヴァリーナが担っていたものが、単なる「補助」ではなかったことを。
そして、彼女がいないという現実が、まだ始まったばかりであることを。
王城の朝鐘が鳴り響いても、執務室の空気は重いままだった。
窓から差し込む光が机の上の書類を照らしているが、そこに整然とした秩序はない。ただ無秩序に積まれた紙の山が、王太子ヴァルターの視界を占領している。
「……これが、全部今日中だと?」
声を荒げたヴァルターに、側近の青年が申し訳なさそうに頷いた。
「はい。各部署から、判断を仰ぎたい案件が集中しておりまして……」
「なぜ同時に来る!」
「今までは……いえ……」
青年は言いかけて口を閉ざした。
今までは、という言葉の続きが何を指すのか、ヴァルター自身が一番よく理解していたからだ。
今までは、エヴァリーナが受け止めていた。
部署ごとに案件を整理し、優先順位をつけ、不要なものを弾き、今すぐ決断すべきものだけを残す。王太子の机に届く頃には、すでに答えの半分は用意されていた。
だが今、その緩衝材は存在しない。
「……仕方ない。上から順に持ってこい」
「す、すべてですか?」
「他に方法があるのか?」
側近は小さく首を振り、山のような書類を抱え直した。
最初の数枚は、まだ理解できた。
だが、途中から文字が頭に入ってこなくなる。数字、条文、但し書き。互いに関連しているはずの文書が、別々の束になっているため、全体像が掴めない。
「……誰だ、この形式で出したのは」
「財務局です」
「前は、こんな書き方ではなかったはずだ」
側近は言葉を選びながら答える。
「エヴァリーナ様が……各局に書式を統一するよう、指示されていましたので……」
ヴァルターは思わず黙り込んだ。
書式の統一。
そんな地味で目立たない作業を、誰が評価するだろうか。だが、それが失われた途端、混乱は一気に表面化する。
昼前、別の側近が駆け込んできた。
「殿下、貴族院から抗議が……」
「またか」
「先日の調整会議で、エヴァリーナ様がまとめていた合意事項について、確認が取れないと……」
「合意事項は議事録に残っているだろう」
「その議事録が……どこにも……」
ヴァルターは額を押さえた。
「どういうことだ」
「最終版は、エヴァリーナ様の管理下にありました。殿下の決裁を受けてから、正式に配布する予定だったかと……」
つまり、未完成の状態だったということだ。
彼女がいなくなった今、その最終版を仕上げられる者はいない。
「……勝手なことを」
吐き捨てるように言ったその言葉に、誰も同意しなかった。
午後になると、王城内のあちこちで小さな混乱が起き始めた。
約束されたはずの予算が下りない。
聞いていた話と条件が違う。
誰に確認すればいいのかわからない。
「殿下、これはどういうことでしょう!」
声を荒げる老貴族を前に、ヴァルターは言葉を失った。
――自分は、何も知らない。
その事実が、じわじわと胸を締めつける。
一方その頃、クロイツ公爵家では、穏やかな午後が流れていた。
エヴァリーナは庭園を散策し、久しぶりに花の名前を思い出していた。
王城にいた頃は、季節を感じる余裕すらなかった。
「お嬢様、お茶のご用意ができております」
「ありがとう。今、参りますわ」
テーブルに並んだ茶器を見て、彼女は小さく息をついた。
誰かに急かされることもなく、次の予定を詰め込まれることもない。
それは、不思議なほど心を落ち着かせた。
「……不思議ですわね」
婚約を破棄され、王城を去ったというのに。
涙は出なかった。
悔しさも、怒りも、どこか遠い。
彼女は、ただ役目を果たしてきただけだ。
その役目が不要になったのなら、身を引く。それだけのこと。
夕刻、ヴァルターは執務室で椅子に沈み込んでいた。
一日中書類に追われ、何一つ解決していない。
「……なぜ、誰も教えてくれなかった」
小さく呟いた言葉は、誰にも届かない。
彼はまだ、理解していなかった。
エヴァリーナが担っていたものが、単なる「補助」ではなかったことを。
そして、彼女がいないという現実が、まだ始まったばかりであることを。
0
あなたにおすすめの小説
『婚約破棄された公爵令嬢は、王と交わらない道を選ぶ』
ふわふわ
恋愛
婚約者である王太子アルベルトから、一方的に婚約破棄を告げられた公爵令嬢エレノア。
だが彼女は、涙も復讐も選ばなかった。
「婚約は、役目でしたもの。終わったのなら、それで結構ですわ」
王宮を去ったエレノアは、領地に戻り、
干渉しない・依存しない・無理をしない
ただそれだけを軸に、静かに領地運営を始める。
一方、王となったアルベルトもまた、
彼女に頼らないことを選び、
「一人の判断に依存しない国」を作るための統治に身を投じていた。
復縁もしない。
恋にすがらない。
それでも、二人の選択は確かに国を安定へと導いていく。
これは、
交わらないことを選んだ二人が、
それぞれの場所で“続けられる世界”を完成させる物語。
派手なざまぁも、甘い溺愛もない。
けれど、静かに積み重なる判断と選択が、
やがて「誰にも壊せない秩序」へと変わっていく――。
婚約破棄から始まる、
大人のための静かなざまぁ恋愛ファンタジー
記憶喪失の婚約者は私を侍女だと思ってる
きまま
恋愛
王家に仕える名門ラングフォード家の令嬢セレナは王太子サフィルと婚約を結んだばかりだった。
穏やかで優しい彼との未来を疑いもしなかった。
——あの日までは。
突如として王都を揺るがした
「王太子サフィル、重傷」の報せ。
駆けつけた医務室でセレナを待っていたのは、彼女を“知らない”婚約者の姿だった。
※本作品は別サイトにて掲載中です
逆行した悪女は婚約破棄を待ち望む~他の令嬢に夢中だったはずの婚約者の距離感がおかしいのですか!?
魚谷
恋愛
目が覚めると公爵令嬢オリヴィエは学生時代に逆行していた。
彼女は婚約者である王太子カリストに近づく伯爵令嬢ミリエルを妬み、毒殺を図るも失敗。
国外追放の系に処された。
そこで老商人に拾われ、世界中を見て回り、いかにそれまで自分の世界が狭かったのかを痛感する。
新しい人生がこのまま謳歌しようと思いきや、偶然滞在していた某国の動乱に巻き込まれて命を落としてしまう。
しかし次の瞬間、まるで夢から目覚めるように、オリヴィエは5年前──ミリエルの毒殺を図った学生時代まで時を遡っていた。
夢ではないことを確信したオリヴィエはやり直しを決意する。
ミリエルはもちろん、王太子カリストとも距離を取り、静かに生きる。
そして学校を卒業したら大陸中を巡る!
そう胸に誓ったのも束の間、次々と押し寄せる問題に回帰前に習得した知識で対応していたら、
鬼のように恐ろしかったはずの王妃に気に入られ、回帰前はオリヴィエを疎ましく思っていたはずのカリストが少しずつ距離をつめてきて……?
「君を愛している」
一体なにがどうなってるの!?
第一王子様が選んだのは、妹ではなく私でした!
睡蓮
恋愛
姉妹であるクレアとミリア、しかしその仲は決していいと言えるものではなかった。妹のミリアはずる賢く、姉のクレアの事を悪者に仕立て上げて自分を可愛く見せる事に必死になっており、二人の両親もまたそんなミリアに味方をし、クレアの事を冷遇していた。そんなある日の事、二人のもとにエバー第一王子からの招待状が届けられる。これは自分に対する好意に違いないと確信したミリアは有頂天になり、それまで以上にクレアの事を攻撃し始める。…しかし、エバー第一王子がその心に決めていたのはミリアではなく、クレアなのだった…!
何も決めなかった王国は、静かに席を失う』
ふわふわ
恋愛
王太子の婚約者として、
表には立たず、裏で国を支えてきた公爵令嬢ネフェリア。
だが――
彼女が追い出されたのは、嫉妬でも陰謀でもなかった。
ただ一つ、「決める役割」を、国が彼女一人に押しつけていたからだ。
婚約破棄の後、ネフェリアを失った王国は変わろうとする。
制度を整え、会議を重ね、慎重に、正しく――
けれどその“正しさ”は、何一つ決断を生まなかった。
一方、帝国は違った。
完璧ではなくとも、期限内に返事をする。
責任を分け、判断を止めない。
その差は、やがて「呼ばれない会議」「残らない席」「知らされない決定」となって現れる。
王国は滅びない。
だが、何も決めない国は、静かに舞台の外へ追いやられていく。
――そして迎える、最後の選択。
これは、
剣も魔法も振るわない“静かなざまぁ”。
何も決めなかった過去に、国そのものが向き合う物語。
聞き分けよくしていたら婚約者が妹にばかり構うので、困らせてみることにした
今川幸乃
恋愛
カレン・ブライスとクライン・ガスターはどちらも公爵家の生まれで政略結婚のために婚約したが、お互い愛し合っていた……はずだった。
二人は貴族が通う学園の同級生で、クラスメイトたちにもその仲の良さは知られていた。
しかし、昨年クラインの妹、レイラが貴族が学園に入学してから状況が変わった。
元々人のいいところがあるクラインは、甘えがちな妹にばかり構う。
そのたびにカレンは聞き分けよく我慢せざるをえなかった。
が、ある日クラインがレイラのためにデートをすっぽかしてからカレンは決心する。
このまま聞き分けのいい婚約者をしていたところで状況は悪くなるだけだ、と。
※ざまぁというよりは改心系です。
※4/5【レイラ視点】【リーアム視点】の間に、入れ忘れていた【女友達視点】の話を追加しました。申し訳ありません。
【完結】ジュリアはバツイチ人生を謳歌する
ariya
恋愛
エレン王国の名門貴族・アグリア伯爵家に嫁いだジュリア・アグリア(旧姓ベルティー)。
夫のアベル・アグリア伯爵は、騎士として王妃の護衛任務に没頭し、結婚翌日からほぼ別居状態。
社交界のパーティーでは妻のエスコートを代理人に任せ、父の葬儀にも顔を出さず、事務的な会話と手紙のやり取りだけの日々が続く。
ジュリアは8年間の冷遇に耐え抜いたが、ある朝の食事中、静かに切り出す。
「私たち、離婚しましょう」
アベルは絶句するが、ジュリアは淡々と不満を告げる。
どれも自分のしでかしたことにアベルは頭を抱える。
彼女はすでに離婚届と慰謝料の用意を済ませ、夫の仕事に理解を示さなかった「有責妻」として後腐れなく別れるつもりだった。
アベルは内心で反発しつつも、ジュリアの決意の固さに渋々サイン。
こうしてジュリア・アグリアは、伯爵夫人としての全てを置き去りにし、バツイチ人生を開始する。
捨てられた令嬢と、選ばれなかった未来
鍛高譚
恋愛
「君とは釣り合わない。だから、僕は王女殿下を選ぶ」
婚約者アルバート・ロンズデールに冷たく告げられた瞬間、エミリア・ウィンスレットの人生は暗転した。
王都一の名門公爵令嬢として慎ましくも誠実に彼を支えてきたというのに、待っていたのは無慈悲な婚約破棄――しかも相手は王女クラリッサ。
アルバートと王女の華やかな婚約発表の裏で、エミリアは社交界から冷遇され、"捨てられた哀れな令嬢"と嘲笑される日々が始まる。
だが、彼女は決して屈しない。
「ならば、貴方たちが後悔するような未来を作るわ」
そう決意したエミリアは、ある人物から手を差し伸べられる。
――それは、冷静沈着にして王国の正統な後継者、皇太子アレクシス・フォルベルト。
彼は告げる。「私と共に来い。……君の聡明さと誇りが、この国には必要だ」
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる