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第六話 初めての後悔
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第六話 初めての後悔
王城の空気は、日に日に重くなっていた。
誰もが忙しく動いているはずなのに、仕事は進まない。むしろ、手を伸ばすほどに絡まり、足を取られていく。そんな感覚が、政務棟全体を覆っていた。
「殿下、本日の会議ですが……」
側近の声に、ヴァルターはゆっくりと顔を上げた。
「延期だ」
「……延期、ですか?」
「議題が整理されていない。あれでは議論にならないだろう」
側近は言葉を失い、それでも小さく頭を下げた。
会議の延期は、問題の先送りでしかない。だが、それ以上に、今のヴァルターには決断する力が残っていなかった。
かつては、違った。
少なくとも、自分ではそう思っていた。
決断していたのは、自分だ。
判断していたのも、自分だ。
――だが本当に、そうだったのだろうか。
机に積まれた書類の山を見下ろしながら、ヴァルターは初めて、そんな疑問を抱いた。
決断する前に、すでに答えが見えていたこと。
判断する前に、必要な情報が揃えられていたこと。
それらが、すべて“当然”だと思っていた。
「……私は」
ぽつりと零れた声は、誰にも届かない。
昼過ぎ、財務局の長官が直々に訪れた。
いつもは穏やかなその男の表情が、明らかに強張っている。
「殿下、これ以上の遅延は許されません」
「……何の話だ」
「支払いの停止です。軍需、公共事業、貴族への補助金――すでに複数の案件が滞っています」
ヴァルターは、喉の奥がひりつくのを感じた。
「なぜ、今まで問題にならなかった」
「それは……」
長官は一瞬、言葉を選ぶように視線を伏せた。
「エヴァリーナ様が、事前に調整されていたからです」
その名が出た瞬間、部屋の空気が凍りついた。
「彼女は、支払いの優先順位を定め、各方面と合意を取り付け、遅れが出ないよう配慮されていました。表には出ませんが、非常に……」
「……もういい」
ヴァルターは、言葉を遮った。
聞きたくなかった。
だが同時に、耳を塞ぐこともできなかった。
「殿下」
長官は、珍しく強い口調で続ける。
「このままでは、国が回りません。
誰かが、彼女の代わりを務める必要があります」
誰か。
その言葉が、やけに空虚に響いた。
「……探せ」
絞り出すように、ヴァルターは言った。
「有能な者を」
長官は何も言わず、深く一礼して部屋を去った。
その背中を見送りながら、ヴァルターは理解していた。
――簡単には、見つからない。
なぜなら、それは“代わり”ではないからだ。
エヴァリーナが担っていたものは、一つの役職ではなく、積み重ねられた信頼と経験そのものだった。
夕刻、ヴァルターはふと、エヴァリーナと最後に交わした会話を思い出していた。
『それが、契約の終了というものでしょう?』
冷たい声ではなかった。
怒りも、恨みもなかった。
ただ、事実を述べただけの声。
「……なぜ」
彼は、机に肘をつき、額を押さえた。
「なぜ、あの時……」
続く言葉は、喉の奥で消えた。
夜、王城の回廊を歩きながら、ヴァルターは立ち止まった。
かつて、エヴァリーナが忙しなく行き交っていた場所。
彼女は、いつも立ち止まらなかった。
迷わず、淀まず、ただ必要な場所へ向かっていた。
「……冷たい、だと?」
自嘲気味に呟く。
冷たかったのは、彼女ではない。
彼女の仕事を、彼女の存在を、“当たり前”として扱っていた自分だ。
その事実が、胸に重くのしかかる。
一方その頃、クロイツ公爵家では、静かな夕食の席が設けられていた。
「王城は、かなり混乱しているようだな」
父の言葉に、エヴァリーナはナイフを置いた。
「そうですか」
「お前の名も、たびたび出ている」
「……わたくしは、何もしておりませんわ」
「それが、一番効く」
公爵は、淡々とそう言った。
エヴァリーナは、しばらく考えるように視線を落とし、やがて小さく頷いた。
「わたくしは、ただ、自分の役目を終えただけです」
それ以上でも、それ以下でもない。
同じ夜、ヴァルターは一通の書簡を前に、長く動けずにいた。
白紙のままの便箋。
何を書けばいいのか、わからなかった。
「……謝罪、か」
その言葉を口にした瞬間、胸が痛んだ。
自分は、まだ何も失っていないと思っていた。
だが違う。
すでに、失っている。
そして――それに気づくのが、あまりにも遅すぎた。
それが、ヴァルターにとっての
初めての後悔だった。
王城の空気は、日に日に重くなっていた。
誰もが忙しく動いているはずなのに、仕事は進まない。むしろ、手を伸ばすほどに絡まり、足を取られていく。そんな感覚が、政務棟全体を覆っていた。
「殿下、本日の会議ですが……」
側近の声に、ヴァルターはゆっくりと顔を上げた。
「延期だ」
「……延期、ですか?」
「議題が整理されていない。あれでは議論にならないだろう」
側近は言葉を失い、それでも小さく頭を下げた。
会議の延期は、問題の先送りでしかない。だが、それ以上に、今のヴァルターには決断する力が残っていなかった。
かつては、違った。
少なくとも、自分ではそう思っていた。
決断していたのは、自分だ。
判断していたのも、自分だ。
――だが本当に、そうだったのだろうか。
机に積まれた書類の山を見下ろしながら、ヴァルターは初めて、そんな疑問を抱いた。
決断する前に、すでに答えが見えていたこと。
判断する前に、必要な情報が揃えられていたこと。
それらが、すべて“当然”だと思っていた。
「……私は」
ぽつりと零れた声は、誰にも届かない。
昼過ぎ、財務局の長官が直々に訪れた。
いつもは穏やかなその男の表情が、明らかに強張っている。
「殿下、これ以上の遅延は許されません」
「……何の話だ」
「支払いの停止です。軍需、公共事業、貴族への補助金――すでに複数の案件が滞っています」
ヴァルターは、喉の奥がひりつくのを感じた。
「なぜ、今まで問題にならなかった」
「それは……」
長官は一瞬、言葉を選ぶように視線を伏せた。
「エヴァリーナ様が、事前に調整されていたからです」
その名が出た瞬間、部屋の空気が凍りついた。
「彼女は、支払いの優先順位を定め、各方面と合意を取り付け、遅れが出ないよう配慮されていました。表には出ませんが、非常に……」
「……もういい」
ヴァルターは、言葉を遮った。
聞きたくなかった。
だが同時に、耳を塞ぐこともできなかった。
「殿下」
長官は、珍しく強い口調で続ける。
「このままでは、国が回りません。
誰かが、彼女の代わりを務める必要があります」
誰か。
その言葉が、やけに空虚に響いた。
「……探せ」
絞り出すように、ヴァルターは言った。
「有能な者を」
長官は何も言わず、深く一礼して部屋を去った。
その背中を見送りながら、ヴァルターは理解していた。
――簡単には、見つからない。
なぜなら、それは“代わり”ではないからだ。
エヴァリーナが担っていたものは、一つの役職ではなく、積み重ねられた信頼と経験そのものだった。
夕刻、ヴァルターはふと、エヴァリーナと最後に交わした会話を思い出していた。
『それが、契約の終了というものでしょう?』
冷たい声ではなかった。
怒りも、恨みもなかった。
ただ、事実を述べただけの声。
「……なぜ」
彼は、机に肘をつき、額を押さえた。
「なぜ、あの時……」
続く言葉は、喉の奥で消えた。
夜、王城の回廊を歩きながら、ヴァルターは立ち止まった。
かつて、エヴァリーナが忙しなく行き交っていた場所。
彼女は、いつも立ち止まらなかった。
迷わず、淀まず、ただ必要な場所へ向かっていた。
「……冷たい、だと?」
自嘲気味に呟く。
冷たかったのは、彼女ではない。
彼女の仕事を、彼女の存在を、“当たり前”として扱っていた自分だ。
その事実が、胸に重くのしかかる。
一方その頃、クロイツ公爵家では、静かな夕食の席が設けられていた。
「王城は、かなり混乱しているようだな」
父の言葉に、エヴァリーナはナイフを置いた。
「そうですか」
「お前の名も、たびたび出ている」
「……わたくしは、何もしておりませんわ」
「それが、一番効く」
公爵は、淡々とそう言った。
エヴァリーナは、しばらく考えるように視線を落とし、やがて小さく頷いた。
「わたくしは、ただ、自分の役目を終えただけです」
それ以上でも、それ以下でもない。
同じ夜、ヴァルターは一通の書簡を前に、長く動けずにいた。
白紙のままの便箋。
何を書けばいいのか、わからなかった。
「……謝罪、か」
その言葉を口にした瞬間、胸が痛んだ。
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すでに、失っている。
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初めての後悔だった。
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