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第五話 戻る場所はない
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第五話 戻る場所はない
王城の朝は、相変わらず忙しなく始まった。
だがその忙しさは、整然としたものではない。焦りと混乱が入り混じった、不格好な慌ただしさだった。
「殿下、本日の予定ですが……」
側近が差し出した紙束を、ヴァルターは受け取ることなく睨めつけた。
「多すぎる」
「……はい」
「いや、数の問題ではない。まとまりがない。なぜ同じ内容の報告が三つもある?」
側近は困ったように視線を泳がせる。
「各部署が、それぞれ独自に提出しておりまして……」
「統合は?」
「……されておりません」
ヴァルターは深く息を吐いた。
統合。調整。優先順位。
それらは、彼が意識せずとも当然のように存在していた工程だ。
――いや、存在していたのではない。
エヴァリーナが担っていたのだ。
「……もういい。置いておけ」
投げやりな言葉に、側近は一瞬ためらいながらも紙束を机の端に置いた。
それが、後に致命的な遅延へと繋がることを、この時のヴァルターはまだ理解していない。
午前中、王太子は新たな婚約者である令嬢と顔を合わせていた。
彼女は柔らかな笑みを浮かべ、優しい言葉を選び、常にヴァルターの意見に頷く。
「殿下は、本当にお忙しそうですわ。無理をなさらないでくださいませ」
「ああ……ありがとう」
その言葉に癒やされる一方で、胸の奥に小さな違和感が残る。
――それで、どうするのか。
そう問われていない。
彼女は彼を気遣うが、問題を整理することはしない。
彼の負担を軽くするのではなく、ただ寄り添うだけだ。
それが悪いわけではない。
だが、王太子という立場において、それだけでは足りなかった。
「殿下?」
不意に呼びかけられ、ヴァルターははっとする。
「いや……何でもない」
笑みを返しながら、彼は無意識に、かつての婚約者の姿を思い浮かべていた。
エヴァリーナは、寄り添うことはなかった。
だが、常に先を読んでいた。
午後、王城に一通の書簡が届いた。
クロイツ公爵家宛てではない。
王太子宛ての、極めて事務的な文面だった。
「……業務引き継ぎ完了の報告?」
ヴァルターは眉をひそめる。
それは、エヴァリーナが王城を去る前に手配していたものだった。
彼女が管理していた書類や記録は、すでに各部署へ返却され、王太子の管理下からも外されている。
「……徹底しているな」
感情を交えず、必要なことだけを済ませる。
まるで最初から、戻るつもりなどなかったかのように。
その夜、ヴァルターは一人、回廊を歩いていた。
ふと足が止まる。
かつて、エヴァリーナがよく立っていた場所だ。
舞踏会の準備状況を確認し、使用人たちに細かく指示を出していた。
「……ここで」
彼女は、王太子妃としての未来を思い描いていたのだろうか。
その問いに、答えは出ない。
一方、クロイツ公爵家では、静かな夜が流れていた。
エヴァリーナは書斎で、一冊の帳簿を閉じる。
それは王城のものではない。
公爵家の領地経営に関する資料だった。
「……久しぶりですわね」
父の補佐として、純粋に家の仕事に向き合うのは。
彼女は不思議なほど、心が軽いことに気づいていた。
誰かの期待を背負うのではなく、必要とされる場所で、必要な仕事をする。
「お嬢様」
執事が声をかける。
「王城からの使者が来ております」
エヴァリーナは、わずかに目を伏せた。
「……どのような用件ですか」
「殿下からではなく、財務局からの問い合わせとのことです」
「お断りなさい」
即答だった。
「理由は?」
「もう、わたくしの管轄ではありませんもの」
それ以上の説明は不要だった。
執事が下がった後、エヴァリーナは窓の外を眺めた。
夜空には、静かに星が瞬いている。
王城は、もう遠い。
そこに戻る理由はない。
同じ頃、ヴァルターは報告を受けていた。
「……断られた?」
「はい。エヴァリーナ様から、“すでに無関係”との返答です」
胸の奥が、わずかに軋んだ。
「……そうか」
それだけを答えるのが、精一杯だった。
この時、ヴァルターは初めて理解し始めていた。
婚約を破棄したのではない。
――自分は、彼女に去られたのだ。
そして、その場所はもう、彼女の居場所ではないということを。
王城の朝は、相変わらず忙しなく始まった。
だがその忙しさは、整然としたものではない。焦りと混乱が入り混じった、不格好な慌ただしさだった。
「殿下、本日の予定ですが……」
側近が差し出した紙束を、ヴァルターは受け取ることなく睨めつけた。
「多すぎる」
「……はい」
「いや、数の問題ではない。まとまりがない。なぜ同じ内容の報告が三つもある?」
側近は困ったように視線を泳がせる。
「各部署が、それぞれ独自に提出しておりまして……」
「統合は?」
「……されておりません」
ヴァルターは深く息を吐いた。
統合。調整。優先順位。
それらは、彼が意識せずとも当然のように存在していた工程だ。
――いや、存在していたのではない。
エヴァリーナが担っていたのだ。
「……もういい。置いておけ」
投げやりな言葉に、側近は一瞬ためらいながらも紙束を机の端に置いた。
それが、後に致命的な遅延へと繋がることを、この時のヴァルターはまだ理解していない。
午前中、王太子は新たな婚約者である令嬢と顔を合わせていた。
彼女は柔らかな笑みを浮かべ、優しい言葉を選び、常にヴァルターの意見に頷く。
「殿下は、本当にお忙しそうですわ。無理をなさらないでくださいませ」
「ああ……ありがとう」
その言葉に癒やされる一方で、胸の奥に小さな違和感が残る。
――それで、どうするのか。
そう問われていない。
彼女は彼を気遣うが、問題を整理することはしない。
彼の負担を軽くするのではなく、ただ寄り添うだけだ。
それが悪いわけではない。
だが、王太子という立場において、それだけでは足りなかった。
「殿下?」
不意に呼びかけられ、ヴァルターははっとする。
「いや……何でもない」
笑みを返しながら、彼は無意識に、かつての婚約者の姿を思い浮かべていた。
エヴァリーナは、寄り添うことはなかった。
だが、常に先を読んでいた。
午後、王城に一通の書簡が届いた。
クロイツ公爵家宛てではない。
王太子宛ての、極めて事務的な文面だった。
「……業務引き継ぎ完了の報告?」
ヴァルターは眉をひそめる。
それは、エヴァリーナが王城を去る前に手配していたものだった。
彼女が管理していた書類や記録は、すでに各部署へ返却され、王太子の管理下からも外されている。
「……徹底しているな」
感情を交えず、必要なことだけを済ませる。
まるで最初から、戻るつもりなどなかったかのように。
その夜、ヴァルターは一人、回廊を歩いていた。
ふと足が止まる。
かつて、エヴァリーナがよく立っていた場所だ。
舞踏会の準備状況を確認し、使用人たちに細かく指示を出していた。
「……ここで」
彼女は、王太子妃としての未来を思い描いていたのだろうか。
その問いに、答えは出ない。
一方、クロイツ公爵家では、静かな夜が流れていた。
エヴァリーナは書斎で、一冊の帳簿を閉じる。
それは王城のものではない。
公爵家の領地経営に関する資料だった。
「……久しぶりですわね」
父の補佐として、純粋に家の仕事に向き合うのは。
彼女は不思議なほど、心が軽いことに気づいていた。
誰かの期待を背負うのではなく、必要とされる場所で、必要な仕事をする。
「お嬢様」
執事が声をかける。
「王城からの使者が来ております」
エヴァリーナは、わずかに目を伏せた。
「……どのような用件ですか」
「殿下からではなく、財務局からの問い合わせとのことです」
「お断りなさい」
即答だった。
「理由は?」
「もう、わたくしの管轄ではありませんもの」
それ以上の説明は不要だった。
執事が下がった後、エヴァリーナは窓の外を眺めた。
夜空には、静かに星が瞬いている。
王城は、もう遠い。
そこに戻る理由はない。
同じ頃、ヴァルターは報告を受けていた。
「……断られた?」
「はい。エヴァリーナ様から、“すでに無関係”との返答です」
胸の奥が、わずかに軋んだ。
「……そうか」
それだけを答えるのが、精一杯だった。
この時、ヴァルターは初めて理解し始めていた。
婚約を破棄したのではない。
――自分は、彼女に去られたのだ。
そして、その場所はもう、彼女の居場所ではないということを。
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