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第九話 交差しない道
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第九話 交差しない道
王城の執務室で、ヴァルターは長い沈黙のまま立っていた。
机上には隣国からの返書の写しが置かれている。文面は簡潔で、だが残酷なほど明確だった。
「……“クロイツ公爵令嬢と直接協議する”。
王城は、同席を希望する場合のみ通知せよ、か」
側近が喉を鳴らし、言葉を探す。
「殿下、隣国は形式を無視しているわけではありません。
彼らはただ……」
「実務を選んだ、ということだな」
ヴァルターは、視線を上げずに続けた。
「肩書きではなく、結果を出してきた者を」
側近は、反論しなかった。
否定できる材料が、もう残っていないからだ。
その日の午後、王都では噂が静かに走っていた。
“隣国の代表が、クロイツ公爵家を訪れるらしい”
それは大きな声で語られず、扇の陰で、あるいは回廊の角で、囁かれる。
「王城を通さない、ですって?」
「正式な外交ではないそうよ。
でも……仕事としては、あちらの方が通じるらしいわ」
社交界の耳は早い。
そして、評価は一度傾くと、元には戻らない。
一方、クロイツ公爵家では、来訪の準備が淡々と進められていた。
過剰な装飾はない。だが、必要なものはすべて揃っている。
「席次は、こちらで」
エヴァリーナは、図面を指でなぞりながら言った。
「議題は財政と通商。
儀礼は最小限で構いません。重要なのは、合意の内容ですわ」
「承知しました」
使用人たちは、迷いなく動く。
それは、王城にいた頃と同じ光景だった。
――違うのは、彼女が“誰のため”に働いているかだけだ。
応接室に、隣国の代表が現れたのは、夕刻前だった。
年若いが、鋭い眼差しの男。背筋の伸びた立ち姿に、無駄がない。
「エヴァリーナ・フォン・クロイツ様」
「ようこそ。お時間を取っていただき、ありがとうございます」
握手は短く、名乗りも簡潔だった。
すぐに本題へ入る。
「王城を通さず、失礼かもしれません」
「いいえ」
エヴァリーナは、穏やかに首を振った。
「形式は、合意を守るためにあります。
守られない形式に、意味はありません」
代表は、わずかに口角を上げた。
「噂に違わぬ方だ」
資料が広げられ、数字が交わされる。
関税、輸送路、支払いの期日。
話は早かった。
「この条件なら、双方に無理がありません」
「ええ。来季の見直しを前提に、柔軟性も持たせましょう」
合意は、短時間でまとまった。
無駄な駆け引きも、感情的な演説もない。
仕事として、ただ最適解を選ぶ。
「……やはり」
代表は、書類に署名しながら言った。
「あなたがいると、話が早い」
その言葉に、エヴァリーナは微笑んだ。
「それは、積み上げの結果ですわ」
同じ頃、王城ではヴァルターが報告を受けていた。
「……合意が成立した?」
「はい。条件は、我々が想定していたよりも良好です」
ヴァルターは、椅子に深く座り込んだ。
「王城は……」
「通知のみです。
同席の要請は、ありませんでした」
胸の奥に、鈍い痛みが走る。
――交差しない。
彼女の道と、自分の道は。
夜、ヴァルターは便箋を取り出し、初めて文字を書いた。
長い文ではない。言い訳もない。
『君の判断が正しかった。
私は、それを認める』
書き終えたところで、彼は手を止めた。
続く言葉が、出てこない。
謝罪は、遅すぎる。
依頼は、身勝手だ。
封をせず、便箋は引き出しにしまわれた。
一方、エヴァリーナは夜の書斎で、合意書を整理していた。
机上の灯りが、静かに彼女の横顔を照らす。
「……これで、次へ進めますわね」
王城を通らない道。
だが、閉ざされた道ではない。
彼女は、もう振り返らなかった。
選んだのは、誰かの影に立つ未来ではない。
自分の仕事に、責任を持つ未来だ。
その夜、王都の空には、雲一つない月が浮かんでいた。
同じ月を見上げながら、二人は別々の場所で、同じ事実を理解していた。
――道は、もう交差しない。
そして、それは
終わりではなく、始まりなのだと。
王城の執務室で、ヴァルターは長い沈黙のまま立っていた。
机上には隣国からの返書の写しが置かれている。文面は簡潔で、だが残酷なほど明確だった。
「……“クロイツ公爵令嬢と直接協議する”。
王城は、同席を希望する場合のみ通知せよ、か」
側近が喉を鳴らし、言葉を探す。
「殿下、隣国は形式を無視しているわけではありません。
彼らはただ……」
「実務を選んだ、ということだな」
ヴァルターは、視線を上げずに続けた。
「肩書きではなく、結果を出してきた者を」
側近は、反論しなかった。
否定できる材料が、もう残っていないからだ。
その日の午後、王都では噂が静かに走っていた。
“隣国の代表が、クロイツ公爵家を訪れるらしい”
それは大きな声で語られず、扇の陰で、あるいは回廊の角で、囁かれる。
「王城を通さない、ですって?」
「正式な外交ではないそうよ。
でも……仕事としては、あちらの方が通じるらしいわ」
社交界の耳は早い。
そして、評価は一度傾くと、元には戻らない。
一方、クロイツ公爵家では、来訪の準備が淡々と進められていた。
過剰な装飾はない。だが、必要なものはすべて揃っている。
「席次は、こちらで」
エヴァリーナは、図面を指でなぞりながら言った。
「議題は財政と通商。
儀礼は最小限で構いません。重要なのは、合意の内容ですわ」
「承知しました」
使用人たちは、迷いなく動く。
それは、王城にいた頃と同じ光景だった。
――違うのは、彼女が“誰のため”に働いているかだけだ。
応接室に、隣国の代表が現れたのは、夕刻前だった。
年若いが、鋭い眼差しの男。背筋の伸びた立ち姿に、無駄がない。
「エヴァリーナ・フォン・クロイツ様」
「ようこそ。お時間を取っていただき、ありがとうございます」
握手は短く、名乗りも簡潔だった。
すぐに本題へ入る。
「王城を通さず、失礼かもしれません」
「いいえ」
エヴァリーナは、穏やかに首を振った。
「形式は、合意を守るためにあります。
守られない形式に、意味はありません」
代表は、わずかに口角を上げた。
「噂に違わぬ方だ」
資料が広げられ、数字が交わされる。
関税、輸送路、支払いの期日。
話は早かった。
「この条件なら、双方に無理がありません」
「ええ。来季の見直しを前提に、柔軟性も持たせましょう」
合意は、短時間でまとまった。
無駄な駆け引きも、感情的な演説もない。
仕事として、ただ最適解を選ぶ。
「……やはり」
代表は、書類に署名しながら言った。
「あなたがいると、話が早い」
その言葉に、エヴァリーナは微笑んだ。
「それは、積み上げの結果ですわ」
同じ頃、王城ではヴァルターが報告を受けていた。
「……合意が成立した?」
「はい。条件は、我々が想定していたよりも良好です」
ヴァルターは、椅子に深く座り込んだ。
「王城は……」
「通知のみです。
同席の要請は、ありませんでした」
胸の奥に、鈍い痛みが走る。
――交差しない。
彼女の道と、自分の道は。
夜、ヴァルターは便箋を取り出し、初めて文字を書いた。
長い文ではない。言い訳もない。
『君の判断が正しかった。
私は、それを認める』
書き終えたところで、彼は手を止めた。
続く言葉が、出てこない。
謝罪は、遅すぎる。
依頼は、身勝手だ。
封をせず、便箋は引き出しにしまわれた。
一方、エヴァリーナは夜の書斎で、合意書を整理していた。
机上の灯りが、静かに彼女の横顔を照らす。
「……これで、次へ進めますわね」
王城を通らない道。
だが、閉ざされた道ではない。
彼女は、もう振り返らなかった。
選んだのは、誰かの影に立つ未来ではない。
自分の仕事に、責任を持つ未来だ。
その夜、王都の空には、雲一つない月が浮かんでいた。
同じ月を見上げながら、二人は別々の場所で、同じ事実を理解していた。
――道は、もう交差しない。
そして、それは
終わりではなく、始まりなのだと。
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