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第十話 戻れない場所
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第十話 戻れない場所
王城の執務室に、朝の光が差し込んでいた。
だがその光は、どこか冷たく、机の上に広がる書類の山を淡々と照らすだけだった。
ヴァルターは椅子に腰掛けたまま、しばらく動けずにいた。
昨夜引き出しにしまい込んだ便箋の感触が、指先に残っている。
「……認める、か」
自嘲気味に呟く。
それは謝罪ではない。
許しを乞う言葉でもない。
ただの事実確認だ。
彼女の判断が正しく、自分の選択が誤っていたという――あまりにも遅い理解。
「殿下」
側近の声に、ヴァルターは顔を上げた。
「本日の予定ですが、貴族院より再度の要請が来ております」
「内容は?」
「予算配分の再調整についてです。
特に、地方への補助金が滞っている件で……」
ヴァルターは、深く息を吐いた。
「……わかった。通せ」
会議室に集まった貴族たちは、皆、疲れた表情を浮かべていた。
かつてのような余裕はない。
「殿下、率直に申し上げます」
年配の侯爵が、扇を閉じて口を開く。
「現在の体制では、調整が追いついておりません。
誰が責任を持って判断するのか、はっきりさせていただきたい」
その言葉に、場が静まり返る。
――責任。
それは、今まで曖昧にされてきた言葉だった。
「……私が」
ヴァルターは、低く言った。
「最終判断は、私が下す」
「それは、以前から変わりません」
別の貴族が続ける。
「問題は、その判断に至るまでの整理です。
殿下お一人で担えるものではない」
痛いところを突かれ、ヴァルターは唇を噛んだ。
「……代替案は?」
「正直に申し上げますと」
侯爵は、一瞬だけ言葉を選び、続けた。
「エヴァリーナ・フォン・クロイツ様ほど、全体を見渡せる方はおりませんでした」
誰も否定しなかった。
それが、何よりの答えだった。
一方、クロイツ公爵家では、朝から慌ただしさはあったものの、混乱はなかった。
エヴァリーナは書斎で、新たな資料に目を通している。
隣国との合意を踏まえ、次に動かすべき案件。
それは、王城にいた頃よりも、はるかに自由度が高い。
「……話が早いのは、楽ですわね」
独り言のように呟くと、自然と口元が緩んだ。
そこへ、父であるクロイツ公爵が入ってくる。
「隣国から、正式な礼状が届いた」
「もう?」
「仕事が早いというのは、向こうも理解しているらしい」
公爵は、手紙を机に置きながら言った。
「……王城からも、動きがある」
エヴァリーナは顔を上げた。
「どのような?」
「貴族院を通じて、“一度話を聞いてほしい”とな」
彼女は、ほんの一瞬だけ沈黙した。
「お断りください」
声は、揺れなかった。
「理由は?」
「戻る前提の話になるからです」
はっきりとした言葉だった。
「わたくしは、もう王城の歯車ではありません。
必要な時だけ呼ばれ、都合よく使われる立場には戻れません」
公爵は、ゆっくりと頷いた。
「……その覚悟があるなら、十分だ」
同じ頃、王城ではヴァルターが報告を受けていた。
「……断られた、か」
「はい。“話を聞く立場ではない”とのことです」
胸の奥に、鈍い痛みが走る。
だが、それは怒りではなかった。
「……当然だな」
彼は、静かにそう言った。
選ばなかったのは、自分だ。
切り捨てたのも、自分だ。
それなのに、今さら“話を聞いてほしい”など、あまりにも虫が良すぎる。
夜、ヴァルターは王城のバルコニーに立ち、王都の灯りを見下ろしていた。
かつては、この景色を“支配している”と錯覚していた。
「……戻れない場所、か」
呟いた言葉は、風に溶けて消える。
エヴァリーナがいた場所。
彼女が築いた流れ。
それらはもう、彼の手の届かないところへ進んでいる。
一方、エヴァリーナは自室の窓辺に立ち、夜空を見上げていた。
同じ月が、静かに輝いている。
「……後悔は、しておりませんわ」
誰に聞かせるでもなく、そう告げる。
王城に戻らない。
それは逃げではない。
自分の価値を、自分で選び取るという決断だ。
こうして、二人は完全に理解した。
かつて同じ場所に立っていたとしても、
もう戻れない場所があるということを。
そして、その事実こそが、
次の未来へ進むための、確かな一歩なのだと。
王城の執務室に、朝の光が差し込んでいた。
だがその光は、どこか冷たく、机の上に広がる書類の山を淡々と照らすだけだった。
ヴァルターは椅子に腰掛けたまま、しばらく動けずにいた。
昨夜引き出しにしまい込んだ便箋の感触が、指先に残っている。
「……認める、か」
自嘲気味に呟く。
それは謝罪ではない。
許しを乞う言葉でもない。
ただの事実確認だ。
彼女の判断が正しく、自分の選択が誤っていたという――あまりにも遅い理解。
「殿下」
側近の声に、ヴァルターは顔を上げた。
「本日の予定ですが、貴族院より再度の要請が来ております」
「内容は?」
「予算配分の再調整についてです。
特に、地方への補助金が滞っている件で……」
ヴァルターは、深く息を吐いた。
「……わかった。通せ」
会議室に集まった貴族たちは、皆、疲れた表情を浮かべていた。
かつてのような余裕はない。
「殿下、率直に申し上げます」
年配の侯爵が、扇を閉じて口を開く。
「現在の体制では、調整が追いついておりません。
誰が責任を持って判断するのか、はっきりさせていただきたい」
その言葉に、場が静まり返る。
――責任。
それは、今まで曖昧にされてきた言葉だった。
「……私が」
ヴァルターは、低く言った。
「最終判断は、私が下す」
「それは、以前から変わりません」
別の貴族が続ける。
「問題は、その判断に至るまでの整理です。
殿下お一人で担えるものではない」
痛いところを突かれ、ヴァルターは唇を噛んだ。
「……代替案は?」
「正直に申し上げますと」
侯爵は、一瞬だけ言葉を選び、続けた。
「エヴァリーナ・フォン・クロイツ様ほど、全体を見渡せる方はおりませんでした」
誰も否定しなかった。
それが、何よりの答えだった。
一方、クロイツ公爵家では、朝から慌ただしさはあったものの、混乱はなかった。
エヴァリーナは書斎で、新たな資料に目を通している。
隣国との合意を踏まえ、次に動かすべき案件。
それは、王城にいた頃よりも、はるかに自由度が高い。
「……話が早いのは、楽ですわね」
独り言のように呟くと、自然と口元が緩んだ。
そこへ、父であるクロイツ公爵が入ってくる。
「隣国から、正式な礼状が届いた」
「もう?」
「仕事が早いというのは、向こうも理解しているらしい」
公爵は、手紙を机に置きながら言った。
「……王城からも、動きがある」
エヴァリーナは顔を上げた。
「どのような?」
「貴族院を通じて、“一度話を聞いてほしい”とな」
彼女は、ほんの一瞬だけ沈黙した。
「お断りください」
声は、揺れなかった。
「理由は?」
「戻る前提の話になるからです」
はっきりとした言葉だった。
「わたくしは、もう王城の歯車ではありません。
必要な時だけ呼ばれ、都合よく使われる立場には戻れません」
公爵は、ゆっくりと頷いた。
「……その覚悟があるなら、十分だ」
同じ頃、王城ではヴァルターが報告を受けていた。
「……断られた、か」
「はい。“話を聞く立場ではない”とのことです」
胸の奥に、鈍い痛みが走る。
だが、それは怒りではなかった。
「……当然だな」
彼は、静かにそう言った。
選ばなかったのは、自分だ。
切り捨てたのも、自分だ。
それなのに、今さら“話を聞いてほしい”など、あまりにも虫が良すぎる。
夜、ヴァルターは王城のバルコニーに立ち、王都の灯りを見下ろしていた。
かつては、この景色を“支配している”と錯覚していた。
「……戻れない場所、か」
呟いた言葉は、風に溶けて消える。
エヴァリーナがいた場所。
彼女が築いた流れ。
それらはもう、彼の手の届かないところへ進んでいる。
一方、エヴァリーナは自室の窓辺に立ち、夜空を見上げていた。
同じ月が、静かに輝いている。
「……後悔は、しておりませんわ」
誰に聞かせるでもなく、そう告げる。
王城に戻らない。
それは逃げではない。
自分の価値を、自分で選び取るという決断だ。
こうして、二人は完全に理解した。
かつて同じ場所に立っていたとしても、
もう戻れない場所があるということを。
そして、その事実こそが、
次の未来へ進むための、確かな一歩なのだと。
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