『婚約破棄された公爵令嬢は、線を引く』――戻れない場所で、判断する席に座りました

鷹 綾

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第十二話 選ばれる理由

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第十二話 選ばれる理由

 クロイツ公爵家の朝は、穏やかだった。
 だがその静けさの中で、エヴァリーナは確かに変化を感じ取っていた。

 書斎の机に並べられた資料は、これまでとは質が違う。
 王城向けの報告書でも、社交界用の覚書でもない。
 隣国が実際に抱えている問題、その内情を示す、生々しい数字と状況説明。

「……隠さないのですね」

 独り言のように呟き、ページをめくる。

 財政赤字の内訳。
 通商路の停滞。
 一部貴族の既得権益が改革を阻んでいる現状。

 どれも、王城では最後まで見せてもらえなかった類の情報だ。
 “判断に不要”という名目で、伏せられていたもの。

 そこへ、執事が来客を告げた。

「お嬢様、アイゼンリッター卿がお見えです」

「……どうぞ」

 応接室に現れたマティアス・フォン・アイゼンリッターは、昨日と変わらぬ落ち着いた様子だった。
 無駄な挨拶はなく、席に着くなり、静かに口を開く。

「結論を急かすために来たわけではありません」

「承知しております」

「ですが、ひとつだけ伝えておきたいことがあります」

 マティアスは、資料の束に軽く手を置いた。

「あなたを招いた理由です」

 エヴァリーナは視線を上げ、黙って続きを待つ。

「多くの者は、あなたを“有能な補佐”だと評価しています。
 王城でも、社交界でも」

 その言葉に、彼女の表情は動かない。

「ですが、我々が評価したのは、そこではありません」

 マティアスは、はっきりと言った。

「あなたは、判断を他人に委ねません。
 最終的に責任を負う覚悟で、全体を組み立てる」

 エヴァリーナの指が、わずかに止まる。

「それは、王太子の役目だったはずですわ」

「名目上は」

 即答だった。

「ですが、実際に“王国がどう動くか”を決めていたのは、あなたでした」

 沈黙が落ちる。

 それは、非難ではない。
 ましてや、皮肉でもない。

 ただの事実確認だ。

「……その立場は、望んだものではありません」

 エヴァリーナは、静かに答えた。

「求められた役目を果たしただけです」

「それができる人間は、そう多くありません」

 マティアスは、わずかに視線を細めた。

「多くは、判断を上に投げます。
 責任を避けるために」

 彼女は、反論しなかった。
 それが事実だからだ。

「我々が用意した席は、“補佐”ではありません」

 マティアスは、ゆっくりと言葉を選ぶ。

「あなた自身が決め、動かし、結果に名を刻む席です」

 その言葉に、エヴァリーナの胸の奥で、何かがはっきりと形を成した。

 ――それは、誘いではない。
 期待でも、依存でもない。

 対等な提示だ。

「……なぜ、わたくしなのですか」

 彼女は、初めてそう問うた。

「他にも、優秀な人材はいるはずです」

 マティアスは、少しだけ考え、答える。

「あなたは、“戻らない”選択をした」

 エヴァリーナの瞳が、わずかに揺れた。

「多くの者は、捨てられても、いつか呼び戻されることを期待します。
 ですが、あなたは境界を引いた」

 その言葉は、正確だった。

「それは、自分の価値を理解している証拠です」

 沈黙の中で、エヴァリーナは思い出していた。

 王城での日々。
 当然のように仕事を抱え、当然のように成果を渡し、
 評価は常に“誰かのもの”だった。

「……即答はできませんわ」

 彼女は、はっきりと言った。

「構いません」

 マティアスは立ち上がる。

「ただ、覚えておいてください。
 この席は、“あなたが戻るまで空けておく”ものではありません」

 エヴァリーナは、顔を上げる。

「……どういう意味ですか」

「選ぶのは、あなたですが」

 彼は、淡々と告げた。

「席は、動いています。
 世界は、止まって待ってはくれません」

 去り際、マティアスは振り返った。

「ですが――あなたが座るなら、そこは最も安定する」

 扉が閉じ、室内に静けさが戻る。

 エヴァリーナは、しばらくその場に立ち尽くしていた。

「……選ばれる理由、ですか」

 王太子妃候補だった理由。
 それは、家柄と教育と、都合。

 だが今、示された理由は違う。

 自分が選び、引いた線そのもの。

 その夜、エヴァリーナは初めて、王城の未来を考えなかった。
 代わりに考えていたのは――

「……わたくし自身は、どこに座りたいのか」

 答えは、まだ出ない。

 だが一つだけ、はっきりしている。

 今度は、
 選ばれる側ではなく、選ぶ側なのだということを。

 そしてその事実が、
 彼女の心を、静かに、しかし確かに前へ押していた。
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