『婚約破棄された公爵令嬢は、線を引く』――戻れない場所で、判断する席に座りました

鷹 綾

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第十七話 対等な距離

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第十七話 対等な距離

 王城を後にした夜、エヴァリーナは馬車の中で深く背もたれに身を預けていた。
 疲労はある。だが、それ以上に――奇妙な静けさが胸に広がっている。

「……終わりましたわね」

 独り言のように呟く。
 今日の会合で決まったのは、案件の進め方だけではない。
 彼女と王城の距離、その“形”そのものだった。

 翌朝、クロイツ公爵家の書斎には、早くも複数の書類が届いていた。
 王城からの正式文書、隣国からの進捗報告、交易都市からの現場データ。

「速いですわね」

 皮肉ではない。
 線が引かれ、責任の所在が明確になったことで、歯車が噛み合い始めている。

 そこへ、執事が静かに告げた。

「お嬢様、アイゼンリッター卿がお見えです」

「どうぞ」

 マティアス・フォン・アイゼンリッターは、いつも通り簡潔に一礼すると、すぐに本題に入った。

「王城との文書、拝見しました」

「もう?」

「向こうも、動きが早い」

 それは、評価だった。

「……思い切りましたね」

 マティアスは、率直に言う。

「王城と関わる以上、曖昧さを残せば、必ず引きずられます。
 線を引く判断は、正しい」

 エヴァリーナは、頷いた。

「わたくし自身のためでもありますが、現場のためでもありますわ」

「対等になりましたね」

 その言葉に、彼女は視線を上げる。

「王城と?」

「ええ。
 以前は、補佐という名の従属でした。
 今は――」

「契約関係、ですわね」

 淡々とした答えだった。

 だが、その“契約”という言葉の重みを、二人とも理解している。

 午後、王城ではヴァルターが新しい体制の下での初会議に臨んでいた。
 議題は同じでも、空気が違う。

「最終判断は、クロイツ公爵令嬢に委ねる、でよろしいな」

 貴族院の代表が、確認する。

「……ああ」

 ヴァルターは、短く答えた。

 言葉にするたび、胸の奥が少しずつ削られる。
 だが同時に、奇妙な安堵もあった。

「では、意見を」

 議論は活発だった。
 だが、以前のような責任回避の沈黙はない。

 誰もが理解している。
 最終的に決める人間が、決まっているということを。

 その夜、エヴァリーナは王城から届いた議事録に目を通していた。
 読み終え、静かにペンを取る。

「……修正、三点」

 感情は挟まない。
 事実と合理性だけを基準に、指示を書き込む。

 数時間後、返送された修正案は、すぐに受理された。

「……早い」

 以前なら、こうはいかなかった。

 同じ頃、ヴァルターは執務室で、その修正案を読んでいた。

「……的確だな」

 否定しようのない事実だった。

 彼女は、感情で動かない。
 だが、冷酷でもない。

 最も効果的な一手を、最も早く選ぶ。
 それができる人間が、どれほど貴重か――今なら分かる。

 夜半、エヴァリーナは書斎の灯りを落とし、窓辺に立った。
 王都の灯りが、遠く瞬いている。

「……対等な距離、ですか」

 王城にいた頃、彼女は常に一歩下がっていた。
 今は、下がらない。
 だが、踏み込まれもしない。

 それは、孤独ではない。
 健全な距離だ。

 背後で、扉が静かに閉まる音がした。

「無理はしていませんか」

 マティアスの声だった。

「いいえ」

 彼女は振り返らずに答える。

「むしろ、無理をしなくていい」

 彼は、わずかに笑った。

「それなら、結構です」

 短い沈黙。
 だが、そこには不安も緊張もない。

「……エヴァリーナ」

「はい」

「あなたは、もう“戻る人”ではありません」

 彼女は、ゆっくりと頷いた。

「ええ。
 ですが、逃げた人でもありませんわ」

 選んだだけだ。
 自分の立つ場所を。

 その事実が、今ははっきりと胸にある。

 王城と、隣国と、自分自身。
 それぞれと引いた線は、明確だ。

 近すぎず、遠すぎず。
 そして――対等。

 エヴァリーナ・フォン・クロイツは、
 ようやくその距離に、安定を感じていた。

 それは、ざまぁでも復讐でもない。
 自分を軽んじない世界で、生きるという選択の結果だった。

 そしてその選択が、
 確実に、次の局面を呼び寄せつつあることを、
 彼女はまだ知らない。
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