『婚約破棄された公爵令嬢は、線を引く』――戻れない場所で、判断する席に座りました

鷹 綾

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第十六話 引き返せない線

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第十六話 引き返せない線

 王都に戻る馬車の中で、エヴァリーナは一通の書簡を手にしていた。
 封は王城のもの。差出人の名は書かれていないが、誰の意思かは察しがつく。

「……来ましたわね」

 読み終え、彼女は小さく息を吐いた。
 内容は丁寧で、言葉遣いも慎重だった。交易都市での暫定措置が成果を上げたことへの謝意。王国として状況を把握したいという要請。そして、――「一度、直接話がしたい」という一文。

 助言ではない、と書いてある。
 だが、判断権については、何も触れられていない。

 エヴァリーナは、馬車の揺れに身を任せながら考える。
 線は、すでに引いた。
 だが線というものは、踏み越えられなければ意味がない。

 クロイツ公爵家に着くと、応接室には父が待っていた。

「王城からの書簡か」

「ええ」

 エヴァリーナは、要点だけを簡潔に伝える。

「……曖昧だな」

 公爵は、短く評した。

「判断を戻さず、成果だけを取り込もうとしている」

「承知しております」

 彼女は、迷いなく頷いた。

「ですから、条件を書いて返します」

 その夜、エヴァリーナは机に向かい、便箋を広げた。
 言葉は慎重に選ぶが、遠回しにはしない。

『ご要請の件、承りました。
 ただし、前提条件がございます。
 判断権と責任の所在を明確にし、それが伴わない限り、関与いたしません』

 ペン先が、わずかに止まる。

『また、暫定措置の成果は、名義人であるわたくしの責任です。
 成功のみを王城の功績とする形には、同意いたしかねます』

 書き終え、封をする。
 線は、さらに太くなった。

 一方、王城では、ヴァルターがその返書を前に沈黙していた。
 側近たちも、言葉を失っている。

「……正論だな」

 ヴァルターは、静かに言った。

「だが、これを受け入れるということは」

「権限を、分け渡すことになります」

 側近が答える。

「ええ」

 彼は、目を閉じた。

 王太子として、最も避けてきた選択だ。
 だが、避け続けた結果が、今の混乱でもある。

「……時間をくれ」

 その言葉に、誰も反対しなかった。

 数日後。
 エヴァリーナは、王城の会議室に立っていた。

 戻ったのではない。
 招かれたのでもない。

 条件付きで、踏み込んだのだ。

「お久しぶりです、殿下」

 形式的な挨拶。
 だが、距離は以前とまるで違う。

「……来てくれて、感謝する」

 ヴァルターの声は、どこか硬かった。

「感謝は、結果に対して向けてくださいませ」

 エヴァリーナは、席に座らず、立ったまま告げる。

「わたくしは、確認に参りました。
 判断権と責任を、どこまで明文化できるのか」

 会議室が、静まり返る。

「王城が、成果だけを欲するのであれば」

 彼女は、一切声を荒げずに続けた。

「今ここで、お引き取りいたします」

 ヴァルターは、ゆっくりと息を吸った。

「……全面的とは言えない」

 正直な答えだった。

「だが、少なくとも、今回の案件に関しては――
 君に、最終判断を委ねたい」

 エヴァリーナは、彼を見つめる。

「文書で」

「もちろんだ」

 短い沈黙の後、彼女は頷いた。

「では、確認いたします」

 机上に置かれた草案を取り、赤ペンで修正を入れる。
 期限、権限、責任の範囲。
 一行一行、曖昧さを削ぎ落とす。

「……ここも」

「そこまで必要か?」

「必要ですわ」

 淡々と、しかし譲らない。

 最終的に、文書は原形を留めないほど書き換えられた。

「これで」

 エヴァリーナは、ペンを置いた。

「引き返せない線が、引かれました」

 ヴァルターは、文書を見つめ、静かに言った。

「……君は、容赦がないな」

「いいえ」

 彼女は、わずかに微笑んだ。

「これは、誠実です」

 その夜、王城を出たエヴァリーナは、深く息を吐いた。
 戻ったのではない。
 だが、完全に離れたわけでもない。

「……線を引くというのは」

 自分に言い聞かせるように呟く。

「相手を拒むことではありません。
 自分を、守ることですわ」

 王都の灯りが、遠くに揺れている。
 その中で、彼女は確信していた。

 もう、曖昧な場所には立たない。
 引き返せない線を越えた以上、進むしかない。

 そしてその先にある席は、
 以前よりも、はるかに重く、はるかに確かなものだった。
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