『婚約破棄された公爵令嬢は、線を引く』――戻れない場所で、判断する席に座りました

鷹 綾

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第二十五話 戻れない線

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第二十五話 戻れない線

 再構成された水路整備は、予定通り十五日目を迎えた。
 進捗は九割。検証項目はすべて通過。数字は、揃っている。

「……十分ですわね」

 クロイツ公爵家の書斎で、エヴァリーナは最終報告を閉じた。
 達成感はない。あるのは、静かな確認だけだ。

「公表、いきますか」

 マティアスの問いに、彼女は頷いた。

「結果のみ。経緯は要点だけで」

 言い訳は、書かない。
 評価は、読む側に委ねる。

 その日の午後、王城で報告がなされた。
 停止、再構成、期限内達成――三点が簡潔に並ぶ。

「……完了、か」

 会議室の空気が、わずかに緩む。

「遅延は最小限」
「費用は抑制」
「検証も問題なし」

 誰もが数字を確認する中、ひとりだけ視線を上げない者がいた。
 以前の請負に深く関わっていた、貴族の一人だ。

「……やり過ぎだ」

 低い声が、静けさを割る。

「ここまで厳しくすれば、誰も手を挙げなくなる」

 その言葉に、エヴァリーナはゆっくりと答えた。

「挙げないなら、挙げないで結構です」

 一瞬、ざわめき。

「条件を守れないなら、最初から参加すべきではありません」

 言い切りだった。
 妥協の余地は、示さない。

「それでは、仕事が回らん!」

「回らないのは、条件ではなく、やり方です」

 彼女は、資料を一枚差し出す。

「今回、参加を見送った業者は四割。
 ですが、残り六割で、期限内に完了しています」

 数字が、言葉を切る。

 ヴァルターは、そのやり取りを見ていた。
 そして、はっきりと宣言する。

「……この方式を、当面の基準とする」

 決まった。
 戻れない線が、引かれた。

 会議の後、回廊でささやきが交わされる。

「もう、元には戻れないな」
「ああ……線を引いた以上、越えた者は切られる」

 その線の中心に、エヴァリーナの名がある。

 夜、クロイツ公爵家に戻った彼女は、珍しく椅子に深く腰掛けた。
 疲労が、遅れてやってくる。

「……戻れない線、ですか」

 マティアスが、静かに言う。

「引いてしまいましたね」

「ええ」

 彼女は、否定しない。

「でも、戻れる線は、信頼を削ります」

 線を引かなければ、
 誰も守れない。

「怖くは、ありませんか」

 問いは、率直だった。

 エヴァリーナは、少し考えてから答える。

「怖いのは、戻れると思い続けることです」

 曖昧な余地が、
 判断を腐らせる。

「一度、条件を破っても戻れる。
 そう思われた瞬間に、線は意味を失います」

 机の上には、新たな要請書が置かれている。
 文面は、以前よりも慎重だ。

「……言葉が、変わりましたね」

「線を見たからです」

 彼女は、要請書を閉じる。

「越えられない線があると、人は考えます」

 翌朝。
 王都では、新しい噂が広がっていた。

「クロイツ式は、厳しい」
「だが、裏道がない」
「覚悟がないと、近づけない」

 それでいい。

 近づく者だけが、残る。

 エヴァリーナ・フォン・クロイツは、
 自分で引いた線を、今日も踏み越えない。

 それは、誰かを拒むためではない。
 条件を守る世界を、戻れない場所にするためだ。

 席に座るということは、
 線を引き、その線に縛られること。

 彼女は、もう分かっていた。
 ――戻れない線を引いた者だけが、
 次の判断に進めるのだと。
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