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第1話 三十センチの奇跡
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第1話 三十センチの奇跡
王都中央広場は、朝から異様な熱気に包まれていた。
露店の呼び声も、楽師の音色も、いつもなら雑多に混じり合うはずのざわめきが、今日はひとつの期待に収束している。人々の視線は、広場の中央に設えられた簡素な台へと吸い寄せられていた。
「本当に……奇跡が起こるんだって?」 「教会のお墨付きらしいぞ」 「聖女かもしれないって話だ」
半信半疑と好奇心が入り混じった声が、波のように広がる。
貴賓席の一角で、その様子を静かに眺めている少女がいた。
アルトリア・カストゥス。
カストゥス公爵家の令嬢にして、王都でも名の知られた存在だ。背筋を伸ばし、優雅に手を重ね、完璧な令嬢然とした佇まいを崩さない。その表情は穏やかで、誰から見ても「興味深い催しを見物に来た貴族の娘」にしか映らないだろう。
――だが、その内側は、少し違っていた。
(ずいぶんと人が集まりましたわね)
冷静に、人数を見積もる。
(噂の広まり方からして、教会が裏で手を回しているのは明白……。さて、どれほどの“奇跡”をお見せになるのかしら)
やがて、台の上に一人の少女が姿を現した。
年の頃は十代半ばだろうか。華美な装いではない。むしろ質素といっていい服装で、場の熱気に怯えるように肩をすくめている。その様子に、アルトリアはわずかに眉を動かした。
(……随分と普通の子)
少女の名が告げられる。
「ジャンヌ・テレーゼ」
司祭の声に合わせ、場の空気が張り詰めた。
ジャンヌは一度、大きく息を吸い込み、目を閉じる。そして――。
ふわり、と。
少女の足が、地面から離れた。
「……っ!」
どよめきが走る。
ジャンヌの身体は、確かに宙に浮いていた。だが、その高さは――。
(三十センチ、ほどですわね)
アルトリアの思考は、即座に数値化する。
(人一人が躓いた拍子に跳ね上がる程度。落下しても怪我はしない。反動も……見当たりませんわ)
浮遊は数秒続き、やがてゆっくりと地に戻る。
それだけだった。
だが、広場の反応は違った。
「浮いた! 本当に浮いたぞ!」 「神の御業だ……!」 「聖女だ! 聖女が現れた!」
歓声と喝采が、空気を震わせる。誰かが膝をつき、誰かが祈りを捧げる。興奮は連鎖し、疑念を飲み込んでいく。
アルトリアは、その様子を静かに見渡した。
(派手……ですわね)
事実としては、たった三十センチの浮遊。それ以上でも、それ以下でもない。だが、人々は「浮いた」という一点だけで、そこに意味と価値を過剰に付与している。
(……役に立たない)
結論は、あまりにも早く、そして揺るがなかった。
戦で兵を救うこともできない。荷を運ぶことも、建物を越えることもできない。実用性は、ほぼ皆無。
――見世物としてなら、話は別だが。
その瞬間、アルトリアの視界の端で、一人の男が立ち上がるのが見えた。
王太子ルートヴィヒ・マシアス。
高揚を隠しきれない表情で、台上の少女を見つめている。その瞳は、奇跡そのものではなく、「それがもたらすもの」を計算している者の光を帯びていた。
(……ああ)
アルトリアは、内心で静かに息を吐く。
(派手さに弱いのは、昔から変わりませんのね、あの方)
王太子が一歩前に出る気配がしただけで、周囲の空気が変わる。教会関係者がざわめき、貴族たちが視線を交わす。
まだ、何も宣言はされていない。
だが、アルトリアにはわかっていた。
(“使える”と、思われましたわね)
視線を台上のジャンヌへ戻す。少女は、歓声に包まれながらも、どこか居心地悪そうに俯いていた。その姿に、胸の奥で小さな違和感が芽生える。
(……あの子は)
奇跡を起こした張本人だというのに、誇らしさも、喜びもない。ただ、流れに押し流されているだけのように見える。
(聖女と祭り上げられるには、あまりにも……)
アルトリアは、そこで言葉を切った。
まだ、判断する段階ではない。
だが、確かな予感だけはあった。
(これは――)
(面倒なことになりますわね)
広場を包む歓声は、しばらく鳴り止まなかった。
三十センチの奇跡は、人々の期待を大きく膨らませ、そして静かに、歪みを生み始めていた。
王都中央広場は、朝から異様な熱気に包まれていた。
露店の呼び声も、楽師の音色も、いつもなら雑多に混じり合うはずのざわめきが、今日はひとつの期待に収束している。人々の視線は、広場の中央に設えられた簡素な台へと吸い寄せられていた。
「本当に……奇跡が起こるんだって?」 「教会のお墨付きらしいぞ」 「聖女かもしれないって話だ」
半信半疑と好奇心が入り混じった声が、波のように広がる。
貴賓席の一角で、その様子を静かに眺めている少女がいた。
アルトリア・カストゥス。
カストゥス公爵家の令嬢にして、王都でも名の知られた存在だ。背筋を伸ばし、優雅に手を重ね、完璧な令嬢然とした佇まいを崩さない。その表情は穏やかで、誰から見ても「興味深い催しを見物に来た貴族の娘」にしか映らないだろう。
――だが、その内側は、少し違っていた。
(ずいぶんと人が集まりましたわね)
冷静に、人数を見積もる。
(噂の広まり方からして、教会が裏で手を回しているのは明白……。さて、どれほどの“奇跡”をお見せになるのかしら)
やがて、台の上に一人の少女が姿を現した。
年の頃は十代半ばだろうか。華美な装いではない。むしろ質素といっていい服装で、場の熱気に怯えるように肩をすくめている。その様子に、アルトリアはわずかに眉を動かした。
(……随分と普通の子)
少女の名が告げられる。
「ジャンヌ・テレーゼ」
司祭の声に合わせ、場の空気が張り詰めた。
ジャンヌは一度、大きく息を吸い込み、目を閉じる。そして――。
ふわり、と。
少女の足が、地面から離れた。
「……っ!」
どよめきが走る。
ジャンヌの身体は、確かに宙に浮いていた。だが、その高さは――。
(三十センチ、ほどですわね)
アルトリアの思考は、即座に数値化する。
(人一人が躓いた拍子に跳ね上がる程度。落下しても怪我はしない。反動も……見当たりませんわ)
浮遊は数秒続き、やがてゆっくりと地に戻る。
それだけだった。
だが、広場の反応は違った。
「浮いた! 本当に浮いたぞ!」 「神の御業だ……!」 「聖女だ! 聖女が現れた!」
歓声と喝采が、空気を震わせる。誰かが膝をつき、誰かが祈りを捧げる。興奮は連鎖し、疑念を飲み込んでいく。
アルトリアは、その様子を静かに見渡した。
(派手……ですわね)
事実としては、たった三十センチの浮遊。それ以上でも、それ以下でもない。だが、人々は「浮いた」という一点だけで、そこに意味と価値を過剰に付与している。
(……役に立たない)
結論は、あまりにも早く、そして揺るがなかった。
戦で兵を救うこともできない。荷を運ぶことも、建物を越えることもできない。実用性は、ほぼ皆無。
――見世物としてなら、話は別だが。
その瞬間、アルトリアの視界の端で、一人の男が立ち上がるのが見えた。
王太子ルートヴィヒ・マシアス。
高揚を隠しきれない表情で、台上の少女を見つめている。その瞳は、奇跡そのものではなく、「それがもたらすもの」を計算している者の光を帯びていた。
(……ああ)
アルトリアは、内心で静かに息を吐く。
(派手さに弱いのは、昔から変わりませんのね、あの方)
王太子が一歩前に出る気配がしただけで、周囲の空気が変わる。教会関係者がざわめき、貴族たちが視線を交わす。
まだ、何も宣言はされていない。
だが、アルトリアにはわかっていた。
(“使える”と、思われましたわね)
視線を台上のジャンヌへ戻す。少女は、歓声に包まれながらも、どこか居心地悪そうに俯いていた。その姿に、胸の奥で小さな違和感が芽生える。
(……あの子は)
奇跡を起こした張本人だというのに、誇らしさも、喜びもない。ただ、流れに押し流されているだけのように見える。
(聖女と祭り上げられるには、あまりにも……)
アルトリアは、そこで言葉を切った。
まだ、判断する段階ではない。
だが、確かな予感だけはあった。
(これは――)
(面倒なことになりますわね)
広場を包む歓声は、しばらく鳴り止まなかった。
三十センチの奇跡は、人々の期待を大きく膨らませ、そして静かに、歪みを生み始めていた。
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