本物聖女の力は無力でした ――見世物レベルの聖女のおかげで婚約破棄されました――**

鷹 綾

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18話 守る対象の再定義

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18話 守る対象の再定義

 方向を定めたはずなのに、世界は何事もなかったかのように動き続けていた。

 朝の鐘は鳴り、聖女披露の準備は淡々と進み、王宮の廊下では貴族たちが昨日と同じ噂話をしている。まるで、アルトリア・カストゥスの内側で起きた決定など、最初から存在しなかったかのように。

(……ええ、分かっておりますわ)

 自室の窓辺で、アルトリアは静かに思う。

(決意しただけでは、何も変わらない)

 だが、それでも――決意は決意だ。

 昨日までの自分は、「聖女という立場をどう守るか」を考えていた。
 今日は違う。

(私はもう、“立場”を守りません)

(守るべきは――人ですわ)

 それは、簡単な言葉でありながら、これまで一度も真正面から考えたことのない発想だった。

 アルトリアは、ゆっくりと部屋を出た。向かう先は、ジャンヌのもと。理由をつける必要はない。今の自分にとって、それは自然な行動だった。

 扉をノックすると、ジャンヌの小さな声が返ってくる。

「どうぞ……」

 部屋に入ると、ジャンヌは衣装の準備をしていた。白い布、金糸の刺繍、聖女として用意された装い。触れれば柔らかく、見れば美しい。だが、そのすべてが「役割」を主張している。

「アルトリア様……」

 ジャンヌは少し驚いたように目を瞬かせた。

「昨日の話……」

「ええ。続きですわ」

 アルトリアは、椅子を引いて腰を下ろした。視線を合わせ、ゆっくりと言葉を選ぶ。

「昨日、私は“守らない”と言いましたわね」

「……はい」

 ジャンヌは不安そうに頷く。

「でも、それは“何もしない”という意味ではありません」

 アルトリアは、はっきりと告げる。

「守る対象を、変えます」

「対象……?」

「ええ」

 アルトリアは、一度だけ深呼吸をした。

「これまで私は、“聖女ジャンヌ”を守ろうとしていました。王太子の婚約者であること、教会が認める存在であること、その立場があれば、あなたは切り捨てられない」

 ジャンヌは、黙って聞いている。

「けれど、それは――あなたを“役割”として扱うことでもありました」

 ジャンヌの指先が、衣装の端をぎゅっと掴んだ。

「だから、これからは違います」

 アルトリアは、視線を逸らさずに続ける。

「私が守るのは、聖女ではありません。婚約者でもありません」

 一拍置いて。

「ジャンヌ・テレーゼという、一人の人間です」

 その言葉が落ちた瞬間、部屋の空気が変わった。

 ジャンヌは、しばらく何も言えずにいた。驚き、戸惑い、そして――ほんのわずかな希望が混じった表情。

「……そんなこと、できるのですか?」

 不安と疑念が入り混じった声。

「立場がなくなったら……私は……」

「ええ、危険になりますわ」

 アルトリアは、否定しなかった。

「聖女でもなく、王太子の婚約者でもなければ、あなたは“ただの平民の少女”になります」

 その現実は、あまりにも厳しい。

「それでも、です」

 アルトリアの声は、静かだが揺るがない。

「それでも私は、あなたの意思を奪う安全より、意思を持つ危険を選びます」

 ジャンヌの目に、涙が滲んだ。

「……怖い、です」

「ええ」

 アルトリアは頷く。

「私も怖いですわ」

 それは、初めて認める感情だった。

 貴族として生きてきたアルトリアにとって、「立場を捨てること」は、最も不安定で、最も制御できない選択だ。

(でも)

(それを選ばなければ、“人”は守れない)

 ジャンヌは、震える声で尋ねた。

「……私が、嫌だと言ったら……?」

 アルトリアは、即座に答える。

「その意思を、最優先します」

 迷いはなかった。

「披露が嫌なら、嫌だと言えばいい。婚約が嫌なら、嫌だと言えばいい」

「そんなことをしたら……」

「その結果がどうなるかは、私が引き受けます」

 それは、立場を守るという意味での“保護”ではない。
 意思を守るという意味での“覚悟”だった。

 ジャンヌは、ゆっくりと椅子に座り込んだ。

「……私……」

 言葉が詰まる。

「ずっと……誰かに決めてもらうものだと思っていました」

「そうでしょうね」

 アルトリアは、柔らかく微笑んだ。

「この世界は、そういう仕組みですもの」

 しばらく、沈黙が流れた。

 やがて、ジャンヌは小さく、しかしはっきりと言った。

「……少しだけ、考える時間をください」

「もちろんですわ」

 その返事を聞いたとき、アルトリアの胸に、静かな確信が生まれた。

(これで、いい)

 守る対象を再定義した今、自分が進むべき道ははっきりしている。

 もう、“聖女”を守るために嘘はつかない。
 もう、“婚約”を盾にして人を縛らない。

 守るのは、ジャンヌ本人。
 その意思と、その尊厳。

(あとは……方法ですわね)

 アルトリアは、部屋を出ながら次の段階を思い描いていた。

 権威が人を縛るのなら。
 その権威に、真正面から問いを突きつけるしかない。

 それがどれほど面倒で、どれほど危険で、どれほど貴族的でない選択であっても。

 アルトリア・カストゥスは、もう後戻りしない。

 守る対象は、定まったのだから。
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