本物聖女の力は無力でした ――見世物レベルの聖女のおかげで婚約破棄されました――**

鷹 綾

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40話 奇跡より尊厳

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40話 奇跡より尊厳

 午後の陽光は、穏やかだった。

 カストゥス公爵邸のテラスには、柔らかな風が吹き、白いクロスの上に並べられた茶器が静かに輝いている。
 アストリアは肘掛け椅子に腰掛け、紅茶を一口含みながら、ゆったりとした時間を楽しんでいた。

「あら……失敗ですわ」

 ふと、手を止める。

「あの本を、持ってくればよかった……」

 読書と紅茶。
 完璧な午後に、ほんの一つ欠けたもの。

 すると、控えていたジャンヌが一歩前に出た。

「私がお持ちします、アストリア様。二階のお部屋ですわね」 「ええ、お願いするわ」

 ジャンヌは一度、屋敷の方角を一瞥し、そして――目を閉じた。

「……?」

 何か言おうとした、その瞬間。

 ジャンヌの姿が、音もなく消えた。

「……え?」

 階段を使い、廊下を進み、部屋に辿り着くまで、早くても五分。
 往復すれば、十分以上。

 ――なのに。

 ほんの十秒ほどで、再びジャンヌの姿が現れた。
 手には、一冊の本。

「お待たせしました」

「……速いですわね。いえ、速すぎますわ」 「直線距離なら、十メートルもありませんから」 「え……高さは?」 「無関係です」

 アストリアは、言葉を失った。

(……見世物?)

 その評価が、静かに崩れ始める。

 そのとき、ジャンヌが続けた。

「午後から、お茶会の予定でしたよね」 「ええ、十名ほどですわ」 「では、準備を始めます」

 そう言った瞬間、ジャンヌは再び消えた。

(……いえ、今回はさすがに歩くはずですわ)

 ティーポット。
 カップ十人分。
 不安定な浮遊。
 どう考えても、瞬間移動向きではない。

 ――はずだった。

 十秒も経たずに、ジャンヌが戻ってくる。

 お盆の上には、ティーポット。
 そしてその周囲を、十個のティーカップが静かに浮遊していた。

「…………」

 完全に、言葉が消える。

「ジャンヌ……それは」 「念動力です」 「十個も?」 「総重量が手で持てる範囲なら、数は関係ありません」

 アストリアは、ゆっくりと息を吸い――問いかけた。

「あなた……瞬間移動と念動力を、同時に使えるの?」 「はい」 「複数の力を……同時に……?」

 ジャンヌは、少しだけ首を傾げた。

「だって、物を持って歩くことは普通にできますよね?」 「…………」 「同じことです」

 アストリアの思考が、完全に停止する。

「……同じレベルで考えて、いいことなの?」

 返ってきたのは、困ったような微笑みだった。

「分かりません。できるので」

 アストリアは、もう、天を仰ぐしかなかった。

 だが――
 本当の“見落とし”に気づいたのは、その少し後だった。

 紅茶が半分ほど減った頃。
 アストリアは、手元の本に視線を落とす。

 革表紙。
 金の箔押し。
 栞の位置。

 ――間違いなく、今朝まで読んでいた本。

(……待ってください)

 思い出す。

 自分は、題名を言っただろうか。
 棚の位置を指定しただろうか。

 いいえ。

『あの本を持ってくればよかった』

 それだけだった。

「……ジャンヌ」 「はい」 「私、本の名前を言いました?」 「いいえ」 「では、なぜこれを」 「アストリア様が“それ”を考えられましたので」

 あまりにも自然な答え。

 アストリアの背中を、静かな寒気が走る。

(……言葉以前の思考)

 イメージ。
 意図。
 無意識の指定。

 それを、正確に読み取り、実行する能力。

(……実用レベルどころではありませんわね)

 見世物だと判断した。
 派手だが役に立たないと思った。
 守るために檻に入れようとした。

 ――すべて、思い違いだった。

「……」

 アストリアは、本を閉じ、ゆっくりと息を吐く。

「ジャンヌ」 「はい」 「あなた……本当に、聖女でなくて正解でしたわね」

 ジャンヌは、意味が分からないまま、首を傾げた。

 その無垢さこそが、この力の本質だった。

 奇跡より尊厳。
 権威より意思。

 聖女は消え、
 一人の少女が、人生を取り戻した。

 そしてアストリアは知った。

 自分が救ったのは、
 “弱い少女”ではなかったのだと。

 
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