婚約破棄して「無能」と捨てた元婚約者様へ。私が隣国の魔導予算を握っていますが、今さら戻ってこいなんて冗談ですよね?』

鷹 綾

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第40話 名前が消えた、その先で

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第40話 名前が消えた、その先で

 朝の魔導庁は、いつもと変わらなかった。

 通路を行き交う職員の足音。
 制御盤の低い駆動音。
 報告書をめくる紙の擦れる音。

 誰も、特別な日だとは思っていない。

 だが――
 アラルガンにとっては、
 区切りの日だった。

 机の上には、一通の文書が置かれている。

 《役職変更通知》

 内容は簡潔だった。

 ――補佐官職を解く。
 ――以後、非常勤顧問として登録。
 ――常駐義務なし。

 罷免ではない。
 追放でもない。

 ただ、
 必要でなくなったという通知だ。

「……ようやく、か」

 声は、驚くほど穏やかだった。

 ◇

 午前。

 最後の定例会議。

 議題は、次期四半期の運用計画。

 進行は、若い区画責任者が務めている。

「では、
 第三議題に移ります」

 彼の声は、落ち着いていた。

 質疑も、
 判断も、
 滞りない。

 アラルガンは、
 端の席で、
 ただ聞いている。

 誰も、
 彼に視線を向けない。

 意見を求めない。
 判断を仰がない。

 それでいい。

 ――もう、
 彼がいなくても、
 会議は進む。

 会議の終わり。

 議事録確認の欄に、
 新しい責任者の名が並ぶ。

 アラルガンの名は、
 どこにもない。

 その事実を、
 胸の奥で静かに受け止める。

 ◇

 昼。

 食堂で、
 いつもの席に座ると、
 向かいに若い技師が腰を下ろした。

「……補佐官」

「もう、
 その呼び方は要らない」

「……アラルガンさん」

 一瞬の迷いの後、
 そう呼び直す。

「今日で、
 一区切りだと聞きました」

「ああ」

「……正直、
 実感がありません」

 アラルガンは、
 少し考えてから答える。

「実感がないなら、
 成功だ」

「……え?」

「去る人間が、
 目立たないというのは、
 仕組みが生きている証拠だ」

 若い技師は、
 しばらく黙り、
 やがて小さく笑った。

「……寂しいですね」

「そうだな」

 否定はしなかった。

 ◇

 午後。

 最後の巡回。

 第一区画。
 第三区画。
 第七区画。

 どこも、
 問題なく稼働している。

「判断基準、
 共有されています」

「緊急時フロー、
 即応可能です」

「代理権限、
 問題なし」

 報告は、
 淡々としている。

 アラルガンは、
 ただ頷くだけだ。

 もう、
 口を出す理由がない。

 それが、
 何よりの安心だった。

 ◇

 夕方。

 私物整理は、
 驚くほど早く終わった。

 書類は、
 ほとんど残っていない。

 個人の決裁書も、
 英雄的な記録も、
 そもそも、
 存在しなかった。

 机の引き出しに残っていたのは、
 一冊の古い手帳だけ。

 最初の頁を開く。

 そこには、
 かつての自分の字で、
 こう書かれていた。

 「全ては、
 私が決めねばならない」

 アラルガンは、
 小さく息を吐き、
 その頁を破った。

 代わりに、
 新しい頁に書く。

 「誰もが、
 決められるようにする」

 それで、
 十分だった。

 ◇

 日没。

 魔導庁を出ると、
 王都は黄金色の光に包まれていた。

 人々は、
 いつも通りの一日を終え、
 家路についている。

 誰も、
 彼に気づかない。

 それでいい。

 守られた街は、
 守った者を覚えていなくていい。

 橋の上で、
 立ち止まる。

 結界の外縁が、
 夕焼けに溶け込んで見えた。

「……名前が、
 消えたな」

 独り言。

 だが、
 不思議と空虚ではない。

 名前が消えたからこそ、
 残ったものがある。

 ――判断の連鎖。
 ――責任の分散。
――沈黙の中で続く安全。

 それらは、
 もう、
 彼のものではない。

 街のものだ。

 ◇

 夜。

 新しく借りた小さな部屋。

 豪奢さはないが、
 窓から星が見える。

 灯りを点け、
 椅子に腰を下ろす。

 明日から、
 彼は「いない人間」になる。

 緊急時に、
 呼ばれることはあるかもしれない。

 だが、
 それも、
 最後の保険だ。

「……悪くない」

 小さく呟く。

 かつては、
 王太子として。
 次に、
 補佐官として。

 常に、
 中心に立っていた。

 今は違う。

 中心が、
 存在しない。

 それが、
 最も強い形だと、
 彼は知っている。

 灯りを落とし、
 ベッドに横になる。

 街は、
 今日も静かだ。

 結界は、
 何事もなく輝き、
 人々は眠る。

 誰も、
 彼の名を呼ばない。

 それでいい。

 名前が消えた、その先で。

 世界は、
 ちゃんと回っている。

 それこそが――
 アラルガンが、
 人生をかけて作り上げた、
 唯一にして、
 最大の成果だった。
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