『婚約破棄された令嬢ですが、王国は私抜きでは立てなかったようですね』

鷹 綾

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8話|戻らない席

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8話|戻らない席

 王宮の執務棟、その一角にある小会議室。
 かつて、エルゼリア・クローヴェルが当然のように座っていた席は、今日も空いたままだった。

 楕円卓の端。
 全体を見渡せ、なおかつ誰の邪魔にもならない位置。
 議論が滞れば、自然と視線が集まり、次の一手が提示される――そんな場所。

 今は、誰もそこに座ろうとしない。

「……では、次の議題に」

 進行役の文官が声を出すが、どこか歯切れが悪い。
 視線は、無意識のうちに空席へと向かい、そして慌てて逸らされる。

 ――もう、いない。
 ――戻らない。

 分かっているはずなのに、その現実が、まだ受け入れきれていなかった。

「本日の会議には、王太子殿下も同席されます」

 そう告げられると、場の空気がわずかに引き締まる。
 ロネスは、苛立ちを隠さない表情で入室した。

「……始めろ」

 短い命令。

 議題は、諸侯への新たな通達案。
 税制改正に関わる、繊細な内容だった。

「この文面であれば、大きな反発はないかと……」

 若い文官が案を読み上げる。

 だが、読み終えた直後、年配の官吏が眉をひそめた。

「……この表現では、北部諸侯が反発する可能性が高い」

「なぜです?」

「過去の事例を踏まえれば、あの一文は……」

 言葉が途中で止まる。

 誰もが、同じ人物を思い浮かべたからだ。
 以前なら、その「過去の事例」はすでに整理され、
 どの表現が安全で、どこが危険か、明確になっていた。

「……修正案は?」

 ロネスが苛立ちを含んだ声で問う。

「それが……」

 誰も答えない。

 沈黙が、じわじわと広がっていく。

「……誰か、代案はないのか」

 苛立ちが、はっきりと声に滲む。

 だが、返ってくるのは曖昧な意見ばかりだった。

「少し表現を和らげては……」
「いや、それでは弱すぎる」
「しかし、強く出れば……」

 議論は堂々巡りを始める。

 ロネスは、無意識のうちに空席を睨みつけていた。

「……結局、どうする」

 答えは出ない。

 会議は予定時間を大きく超え、
 それでも結論が出ないまま終了した。

 解散の合図が出ると、文官たちは疲れ切った表情で席を立つ。

「……あの席、まだ空けているんですね」

 若い官吏が、小声で呟いた。

「埋められないんだろう」
 別の者が、苦々しく答える。
「誰が座っても、比べられる」

 それは、誰もが感じている事実だった。

 その日の午後、ロネスは一人、執務室に戻っていた。
 机の上には、未決の案件が山のように積まれている。

「……面倒なことばかりだ」

 彼は苛立ち紛れに書類をめくるが、
 どれも一読しただけでは判断できないものばかりだ。

 以前は違った。
 要点がまとめられ、注意点が書き添えられ、
 自分は最終判断を下すだけでよかった。

 ――なぜ、こんなにも。

 ふと、胸の奥に小さな違和感が芽生える。

 自分は、本当に一人で、これらを処理してきたのか。

「……いや」

 ロネスは首を振る。

 考えたくない。
 今さら、認めるわけにはいかない。

 同じ頃、クローヴェル侯爵家の屋敷では、
 エルゼリアが庭を歩いていた。

 王宮から離れた生活は、驚くほど静かだった。
 誰にも急かされず、誰にも判断を求められない。

 それでも、完全な安らぎがあるわけではない。

 ――会議は、荒れているでしょうね。

 想像は、容易だった。
 誰が何を主張し、どこで止まり、
 どの議題が先送りにされているのか。

 理由も、原因も、すべて分かる。

 だが、彼女は何もしない。

 それが、自分の選んだ立場だからだ。

 夕暮れ時、エルゼリアは屋敷の窓辺に立ち、空を見上げた。
 沈みゆく夕日が、王都の方角を赤く染めている。

 あの場所に、自分の席はもうない。

 そして――
 王宮には、もう「代わりの席」も存在しない。

 戻らない席。
 埋まらない空白。

 それは、やがて王宮全体を蝕むことになる。

 この時点では、
 まだ誰も、それを「危機」と呼んでいなかった。
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