『婚約破棄された令嬢ですが、王国は私抜きでは立てなかったようですね』

鷹 綾

文字の大きさ
9 / 40

9話|広がる混乱

しおりを挟む
9話|広がる混乱

 王宮の朝は、いつもより騒がしかった。

 執務棟の廊下を行き交う文官たちの足取りは早く、声は低く抑えられているものの、その調子からただならぬ雰囲気が伝わってくる。
 書類を抱えた者、誰かを探して立ち止まる者、焦った表情で走り去る者――秩序だったはずの王宮は、わずか数日のうちに別の顔を見せ始めていた。

「……また、修正ですか?」

 財務部の一室で、若い文官が疲れ切った声を上げる。

「北部諸侯から抗議文が届いた。
 昨日出した通達の文面が、彼らの権限を侵す恐れがあると」

「でも、あれは昨夜、殿下の裁可を受けたばかりで……」

「分かっている。だが、放置すれば反発は大きくなる」

 机の上には、赤字で修正指示が書き込まれた文書が積み上がっていた。
 修正しては差し戻され、差し戻されては再修正される。
 誰も、どこが正解なのか確信を持てない。

 ――以前なら。

 その言葉が、また喉元までせり上がる。
 だが誰も、口にしなかった。

 同じ頃、外交部でも似たような事態が起きていた。

「帝国からの返書ですが……こちらの解釈で問題ないでしょうか」

「……断定はできない」

「では、どうします?」

「……とりあえず、慎重な姿勢で返そう」

「それでは、交渉が停滞しますが……」

 判断を先送りにするたび、事態は静かに悪化していく。
 誰かが決断しなければならない。
 だが、その「誰か」が見当たらない。

 昼前、ロネスは執務室で報告を受けていた。

「北部諸侯から抗議。
 帝国との交渉は進展なし。
 加えて、南方の商人組合からも……」

「……まとめて言え」

 ロネスは不機嫌そうに机を叩いた。

「なぜ、こうも問題が続く」

 側近は一瞬、言葉に詰まる。

「殿下……問題自体は、以前から存在していました。
 ただ――」

「ただ?」

「……今までは、表に出る前に処理されていたのです」

 その言葉に、ロネスの表情が硬くなる。

「……つまり、誰がやっていたと言いたい」

「それは……」

 側近は視線を伏せた。
 名前を出す必要はない。
 ロネス自身が、すでに答えを知っている。

「……もういい」

 彼は手を振り、報告を打ち切った。

 だが、苛立ちは消えない。
 机の上に積まれた書類の山が、重くのしかかる。

 午後、緊急の小会議が招集された。

 議題は、商人組合からの抗議への対応。
 関税引き上げを巡る問題だった。

「強気に出るべきだ」
「いや、今は刺激すべきではない」
「だが、譲歩すれば前例になる」

 意見は割れる。
 どれも一理あるが、決め手に欠ける。

「……殿下のご判断を」

 そう促され、ロネスは言葉に詰まった。

 判断。
 それは、彼が最も得意とするもののはずだった。

 だが、材料が揃っていない。
 長期的な影響も、裏の事情も、十分に把握できていない。

「……今日は、結論を出さずに」

 その言葉に、会議室の空気が一気に重くなる。

 また先送り。
 また保留。

 会議後、廊下に出た文官たちの表情は暗かった。

「これで、何度目だ……」
「国が動いていない」
「いや、動いている。
 ――悪い方向に」

 その夜、王都では小さな混乱が起きていた。

 商人たちが価格の先行きを読めず、取引を控え始めたのだ。
 市場では噂が飛び交い、不安が広がる。

「王宮は、何を考えているんだ」
「最近、決定が遅すぎる」

 市井の声は、確実に王宮へと向かっていく。

 一方、クローヴェル侯爵家の屋敷では、
 エルゼリアが執事から簡単な報告を受けていた。

「王都の市場が、少し落ち着きを失っているようです」

「……そう」

 彼女は、それ以上を問わない。

 理由も、原因も、彼女には分かっている。
 今起きている混乱は、偶然ではない。

 複数の小さな判断の遅れ。
 調整不足。
 先送りされた決断。

 それらが積み重なり、表に噴き出し始めただけだ。

 だが、彼女は介入しない。

 それは冷酷だからではない。
 もう、その立場にいないからだ。

 夜更け、王宮の書斎で、ロネスは一人、頭を抱えていた。

「……なぜだ」

 誰に向けるでもない呟き。

 彼は、ようやく気づき始めていた。
 自分が失ったものの大きさを。

 だが、その気づきはまだ曖昧で、
 後悔と呼ぶには、あまりにも遅すぎた。

 混乱は、もう始まっている。

 そしてそれは、
 誰か一人の力では、止められない段階へと
 静かに近づいていた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

婚約破棄を本当にありがとう

あんど もあ
ファンタジー
ラブラブな婚約者のパトリシアとラルフ。そんなパトリシアに、隣国の王立高等学院に留学しないかとのお誘いが。「私、もうこの国の王立学園を卒業してますよ?」「高等学園にはブライト博士がいるわよ」「行きます!」 当然、ラルフも付いて行くのだが、そこでパトリシアは王太子の婚約者と思われて……。

「では、ごきげんよう」と去った悪役令嬢は破滅すら置き去りにして

東雲れいな
恋愛
「悪役令嬢」と噂される伯爵令嬢・ローズ。王太子殿下の婚約者候補だというのに、ヒロインから王子を奪おうなんて野心はまるでありません。むしろ彼女は、“わたくしはわたくしらしく”と胸を張り、周囲の冷たい視線にも毅然と立ち向かいます。 破滅を甘受する覚悟すらあった彼女が、誇り高く戦い抜くとき、運命は大きく動きだす。

次代の希望 愛されなかった王太子妃の愛

Rj
恋愛
王子様と出会い結婚したグレイス侯爵令嬢はおとぎ話のように「幸せにくらしましたとさ」という結末を迎えられなかった。愛し合っていると思っていたアーサー王太子から結婚式の二日前に愛していないといわれ、表向きは仲睦まじい王太子夫妻だったがアーサーにはグレイス以外に愛する人がいた。次代の希望とよばれた王太子妃の物語。 全十二話。(全十一話で投稿したものに一話加えました。2/6変更)

妹の初恋は私の婚約者

あんど もあ
ファンタジー
卒業パーティーで、第一王子から婚約破棄を宣言されたカミーユ。王子が選んだのは、カミーユの妹ジョフロアだった。だが、ジョフロアには王子との婚約が許されない秘密があった。

【完結】この運命を受け入れましょうか

なか
恋愛
「君のようは妃は必要ない。ここで廃妃を宣言する」  自らの夫であるルーク陛下の言葉。  それに対して、ヴィオラ・カトレアは余裕に満ちた微笑みで答える。   「承知しました。受け入れましょう」  ヴィオラにはもう、ルークへの愛など残ってすらいない。  彼女が王妃として支えてきた献身の中で、平民生まれのリアという女性に入れ込んだルーク。  みっともなく、情けない彼に対して恋情など抱く事すら不快だ。  だが聖女の素養を持つリアを、ルークは寵愛する。  そして貴族達も、莫大な益を生み出す聖女を妃に仕立てるため……ヴィオラへと無実の罪を被せた。  あっけなく信じるルークに呆れつつも、ヴィオラに不安はなかった。  これからの顛末も、打開策も全て知っているからだ。  前世の記憶を持ち、ここが物語の世界だと知るヴィオラは……悲運な運命を受け入れて彼らに意趣返す。  ふりかかる不幸を全て覆して、幸せな人生を歩むため。     ◇◇◇◇◇  設定は甘め。  不安のない、さっくり読める物語を目指してます。  良ければ読んでくだされば、嬉しいです。

婚約者の幼馴染って、つまりは赤の他人でしょう?そんなにその人が大切なら、自分のお金で養えよ。貴方との婚約、破棄してあげるから、他

猿喰 森繁
恋愛
完結した短編まとめました。 大体1万文字以内なので、空いた時間に気楽に読んでもらえると嬉しいです。

「君を愛することはない」と言われたので、私も愛しません。次いきます。 〜婚約破棄はご褒美です!

放浪人
恋愛
【「愛さない」と言ったのはあなたです。私はもっとハイスペックな次(夫)と幸せになりますので、どうぞお構いなく!】 侯爵令嬢リディアは、建国記念舞踏会の最中に、婚約者である王太子レオンハルトから婚約破棄を宣言される。 「君を愛することはない!」という王太子の言葉は、国中に響く『公的拒絶誓約』となってしまった。 しかし、リディアは泣かなかった。 「承知しました。私も愛しません。次いきます」 彼女は即座に撤退し、その場で慰謝料請求と名誉回復の手続きを開始する。その潔さと有能さに目をつけたのは、国の行政を牛耳る『氷の宰相』アシュ・ヴァレンシュタインだった。 「私の政治的盾になれ。条件は『恋愛感情の禁止』と『嘘がつけない契約』だ」 利害の一致した二人は、愛のない契約結婚を結ぶ。 はずだったのだが――『嘘がつけない契約』のせいで、冷徹なはずの宰相の本音が暴走! 「君を失うのは非合理だ(=大好きだ)」「君は私の光だ(=愛してる)」 隠せない溺愛と、最強の夫婦による論理的で容赦のない『ざまぁ』。 一方、リディアを捨てた王太子は「愛さない誓約」の呪いに苦しみ、自滅していく。 これは、悪役令嬢と呼ばれた女が、嘘のない真実の愛を手に入れ、国中を巻き込んで幸せになるまでの物語。

拝啓、許婚様。私は貴方のことが大嫌いでした

結城芙由奈@コミカライズ連載中
恋愛
【ある日僕の元に許婚から恋文ではなく、婚約破棄の手紙が届けられた】 僕には子供の頃から決められている許婚がいた。けれどお互い特に相手のことが好きと言うわけでもなく、月に2度の『デート』と言う名目の顔合わせをするだけの間柄だった。そんなある日僕の元に許婚から手紙が届いた。そこに記されていた内容は婚約破棄を告げる内容だった。あまりにも理不尽な内容に不服を抱いた僕は、逆に彼女を遣り込める計画を立てて許婚の元へ向かった――。 ※他サイトでも投稿中

処理中です...