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10話|帝国からの使者
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10話|帝国からの使者
王宮に緊張が走ったのは、正午の鐘が鳴る少し前だった。
「――帝国より、使節団が到着しました」
その報告は、執務棟の各所を一気に駆け巡った。
文官たちは顔を見合わせ、息を呑む。
「この時期に、ですか……?」
「事前の予告は?」
「ありません。ただ、先方は正式な外交使節だと」
不穏な空気が、静かに広がっていく。
帝国。
王国にとって最大の隣国であり、軍事・経済ともに一枚上手の存在。
その帝国が、何の前触れもなく使者を寄越す――それは、歓迎すべき出来事ではない。
ロネスは執務室で報告を受け、露骨に顔を曇らせた。
「……今、帝国と衝突する余裕はない」
側近たちも無言で頷く。
財政は不安定、国内は混乱、諸侯の不満もくすぶっている。
「使節の代表は?」
「――ハインリヒ・ヴォルフ。
帝国宰相直属の特使とのことです」
その名が告げられた瞬間、室内の空気が一段と張り詰めた。
「……狼か」
ロネスは、低く呟く。
ハインリヒ・ヴォルフ。
帝国宰相の右腕にして、冷酷無比と名高い男。
感情を表に出さず、交渉では一切の妥協を許さない――
その名は、王国の上層部でも知られていた。
「……なぜ、今だ」
答えは出ない。
迎賓の間では、慌ただしく準備が進められていた。
文官たちは走り回り、書類を確認し、席次を決め直す。
「……以前なら、エルゼリア様が……」
誰かが、思わず漏らす。
すぐに、周囲が黙殺するように視線を逸らした。
今は、いない。
その現実を、否応なく突きつけられる。
ほどなくして、重厚な扉が開かれた。
黒を基調とした簡素な正装に身を包んだ男が、静かに足を踏み入れる。
背筋は真っ直ぐで、歩みに一切の迷いがない。
鋭い灰色の瞳が、室内を一巡した。
「帝国宰相特使、ハインリヒ・ヴォルフだ」
低く、抑揚の少ない声。
それだけで、場の空気が一変する。
ロネスは前に進み、形式的な挨拶を交わした。
「遠路はるばる、我が国へようこそ」
「歓迎は不要だ。
本題に入ろう」
容赦のない言葉に、周囲の文官たちがわずかに身を強張らせる。
「近頃、貴国の動きが不安定だ」
単刀直入だった。
「外交文書の返答は遅れ、通達の内容は二転三転。
市場も、落ち着きを失いつつある」
ロネスは眉をひそめる。
「それは……内政の問題だ」
「内政が、外に影響を及ぼす段階に来ている」
ハインリヒは、冷ややかに言い切った。
「帝国は、無用な混乱を嫌う」
その一言が、重く響く。
「本日は、確認に来た。
――貴国に、交渉能力が残っているかどうかを」
迎賓の間が、完全に静まり返った。
ロネスは、即座に言葉を返せなかった。
これほど露骨な牽制を受けるとは、想定していなかったのだ。
「……もちろんだ」
そう答えたものの、声に確信はない。
ハインリヒは、わずかに首を傾げた。
「ならば、次の会談には――
“実務を理解している者”を同席させろ」
その言葉に、文官たちの間にざわめきが走る。
「具体的には?」
ロネスが問い返す。
ハインリヒは、ほんの一瞬だけ考える素振りを見せ、淡々と告げた。
「以前、貴国の王宮にいた令嬢だ。
裏で政務を支えていた人物」
名前は出さなかった。
だが、誰もが理解した。
――エルゼリア・クローヴェル。
ロネスの表情が、強張る。
「……彼女は、すでに王宮を離れている」
「承知している」
ハインリヒは即答した。
「だからこそ、興味がある」
冷たい瞳が、ロネスを射抜く。
「彼女を手放した理由を」
その問いに、答えられる者はいなかった。
迎賓の間を出たあと、文官たちは言葉を失ったまま立ち尽くしていた。
帝国は、すでに把握している。
王国の中枢を支えていた人物の存在を。
そして、その喪失を。
その夜、クローヴェル侯爵家の屋敷に、一通の書簡が届いた。
封蝋に刻まれたのは、帝国の紋章。
エルゼリアは静かにそれを見つめ、ゆっくりと封を切る。
短く、簡潔な文面。
――帝国宰相特使
――ハインリヒ・ヴォルフ
――正式な招待。
彼女は、ふっと息を吐いた。
運命が、確かに次の段階へ進んだことを、
その一通の書簡が告げていた。
王宮では、まだ誰も知らない。
この使者の来訪が、
王国と、そしてロネス自身にとって――
決定的な分岐点になるということを。
王宮に緊張が走ったのは、正午の鐘が鳴る少し前だった。
「――帝国より、使節団が到着しました」
その報告は、執務棟の各所を一気に駆け巡った。
文官たちは顔を見合わせ、息を呑む。
「この時期に、ですか……?」
「事前の予告は?」
「ありません。ただ、先方は正式な外交使節だと」
不穏な空気が、静かに広がっていく。
帝国。
王国にとって最大の隣国であり、軍事・経済ともに一枚上手の存在。
その帝国が、何の前触れもなく使者を寄越す――それは、歓迎すべき出来事ではない。
ロネスは執務室で報告を受け、露骨に顔を曇らせた。
「……今、帝国と衝突する余裕はない」
側近たちも無言で頷く。
財政は不安定、国内は混乱、諸侯の不満もくすぶっている。
「使節の代表は?」
「――ハインリヒ・ヴォルフ。
帝国宰相直属の特使とのことです」
その名が告げられた瞬間、室内の空気が一段と張り詰めた。
「……狼か」
ロネスは、低く呟く。
ハインリヒ・ヴォルフ。
帝国宰相の右腕にして、冷酷無比と名高い男。
感情を表に出さず、交渉では一切の妥協を許さない――
その名は、王国の上層部でも知られていた。
「……なぜ、今だ」
答えは出ない。
迎賓の間では、慌ただしく準備が進められていた。
文官たちは走り回り、書類を確認し、席次を決め直す。
「……以前なら、エルゼリア様が……」
誰かが、思わず漏らす。
すぐに、周囲が黙殺するように視線を逸らした。
今は、いない。
その現実を、否応なく突きつけられる。
ほどなくして、重厚な扉が開かれた。
黒を基調とした簡素な正装に身を包んだ男が、静かに足を踏み入れる。
背筋は真っ直ぐで、歩みに一切の迷いがない。
鋭い灰色の瞳が、室内を一巡した。
「帝国宰相特使、ハインリヒ・ヴォルフだ」
低く、抑揚の少ない声。
それだけで、場の空気が一変する。
ロネスは前に進み、形式的な挨拶を交わした。
「遠路はるばる、我が国へようこそ」
「歓迎は不要だ。
本題に入ろう」
容赦のない言葉に、周囲の文官たちがわずかに身を強張らせる。
「近頃、貴国の動きが不安定だ」
単刀直入だった。
「外交文書の返答は遅れ、通達の内容は二転三転。
市場も、落ち着きを失いつつある」
ロネスは眉をひそめる。
「それは……内政の問題だ」
「内政が、外に影響を及ぼす段階に来ている」
ハインリヒは、冷ややかに言い切った。
「帝国は、無用な混乱を嫌う」
その一言が、重く響く。
「本日は、確認に来た。
――貴国に、交渉能力が残っているかどうかを」
迎賓の間が、完全に静まり返った。
ロネスは、即座に言葉を返せなかった。
これほど露骨な牽制を受けるとは、想定していなかったのだ。
「……もちろんだ」
そう答えたものの、声に確信はない。
ハインリヒは、わずかに首を傾げた。
「ならば、次の会談には――
“実務を理解している者”を同席させろ」
その言葉に、文官たちの間にざわめきが走る。
「具体的には?」
ロネスが問い返す。
ハインリヒは、ほんの一瞬だけ考える素振りを見せ、淡々と告げた。
「以前、貴国の王宮にいた令嬢だ。
裏で政務を支えていた人物」
名前は出さなかった。
だが、誰もが理解した。
――エルゼリア・クローヴェル。
ロネスの表情が、強張る。
「……彼女は、すでに王宮を離れている」
「承知している」
ハインリヒは即答した。
「だからこそ、興味がある」
冷たい瞳が、ロネスを射抜く。
「彼女を手放した理由を」
その問いに、答えられる者はいなかった。
迎賓の間を出たあと、文官たちは言葉を失ったまま立ち尽くしていた。
帝国は、すでに把握している。
王国の中枢を支えていた人物の存在を。
そして、その喪失を。
その夜、クローヴェル侯爵家の屋敷に、一通の書簡が届いた。
封蝋に刻まれたのは、帝国の紋章。
エルゼリアは静かにそれを見つめ、ゆっくりと封を切る。
短く、簡潔な文面。
――帝国宰相特使
――ハインリヒ・ヴォルフ
――正式な招待。
彼女は、ふっと息を吐いた。
運命が、確かに次の段階へ進んだことを、
その一通の書簡が告げていた。
王宮では、まだ誰も知らない。
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王国と、そしてロネス自身にとって――
決定的な分岐点になるということを。
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