『婚約破棄された令嬢ですが、王国は私抜きでは立てなかったようですね』

鷹 綾

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11話|見抜く者

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11話|見抜く者

 帝国からの使者が去った翌日、王宮は重苦しい沈黙に包まれていた。

 迎賓の間で交わされたやり取りは、すでに上層部の間で共有されている。
 だが、誰一人として声高に語ろうとはしない。

 ――ハインリヒ・ヴォルフ。
 ――彼は、最初から気づいていた。

 その事実が、王宮の人間たちの胸に重くのしかかっていた。

 ロネスは執務室で、一人、机に肘をついていた。
 帝国特使の冷たい灰色の瞳が、何度も脳裏に蘇る。

「交渉能力が残っているかどうかを確認しに来た」

 あれは、交渉ではない。
 査定だった。

 自分と、この国が、
 帝国にとって「相手をする価値があるかどうか」を。

「……なぜ、あそこまで把握している」

 低く呟いた声は、誰にも届かない。

 エルゼリア・クローヴェル。
 その名を、ハインリヒは一度も口にしなかった。
 だが、言葉の端々に滲んでいた。

 ――裏で政務を支えていた人物。
 ――実務を理解している者。

 それが誰かなど、考えるまでもない。

 ロネスは、苛立ちを紛らわすように書類を手に取る。
 だが、内容は頭に入ってこない。

 同じ頃、王宮の一角では、非公式な集まりが開かれていた。

 参加しているのは、財務、外交、軍務の古参たち。
 誰もが、表情を硬くしている。

「……正直に言おう」

 年配の財務官が、低い声で切り出した。

「帝国は、すでに我々の混乱を把握している。
 しかも、その原因まで」

 沈黙が落ちる。

「彼らは、数字の動きと文書の遅延だけで、
 王宮の中枢が機能不全を起こしていると判断した」

「そんな……」

 若い官吏が息を呑む。

「そこまで、分かるものなのですか」

「分かるさ」

 財務官は、苦々しく笑った。

「彼らは、我々が思っている以上に、
 “人”を見ている」

 その言葉に、別の高官が続ける。

「そして……
 誰が、この王宮を実際に動かしていたのかも」

 名前は出ない。
 だが、全員が理解していた。

「エルゼリア嬢がいなくなってから、
 決裁の速度が落ちた。
 判断の質も、明らかに」

「帝国は、それを“異変”として捉えた」

 誰かが、深く息を吐いた。

「……見抜かれた、ということか」

「そうだ」

 帝国は、すでに答えに辿り着いている。
 あとは、それをどう利用するか――それだけだ。

 一方その頃、帝国側の使節団は王都の離れにある館で、静かに滞在していた。

 ハインリヒ・ヴォルフは、窓辺に立ち、王都の街並みを見下ろしている。
 人の流れ。
 市場の活気。
 微妙な停滞。

 ――表面は、まだ整っている。

 だが、内部は違う。

「……予想以上に、分かりやすい」

 彼は、誰に向けるでもなく呟いた。

 帝国宰相から命じられたのは、ただ一つ。
 王国が、今後も交渉相手として成立するかどうかを見極めること。

 そのために、ハインリヒは資料を徹底的に洗った。
 過去数年分の外交文書。
 財政の推移。
 諸侯との合意内容。

 すると、ある時期を境に、共通点が浮かび上がった。

 文書の精度が、異様に高い。
 判断が、速く、的確。
 だが、その人物の名前は、表に出てこない。

「……典型的だな」

 有能な実務者が、表に出ず、
 無能な上に立つ者が評価される構図。

 そして、その有能な人物が去った途端、
 すべてが噛み合わなくなる。

 ハインリヒは、昨日の会談を思い出す。

 ロネスは、自信に満ちた態度を装っていた。
 だが、その内側は、空洞だった。

「……見抜かれる覚悟もなく、切り捨てたか」

 愚かだが、珍しくもない。

 帝国にとって重要なのは、
 王太子の感情でも、王宮の体面でもない。

 ――実務を回せる人間が、どこにいるか。

 それだけだ。

 ハインリヒは、机の上に置かれた控えを手に取る。
 そこには、簡潔な人物調査の結果が記されていた。

 エルゼリア・クローヴェル。
 侯爵家令嬢。
 王太子の元婚約者。

「……なるほど」

 感情を排した文章の中に、
 彼女がどれほど多くの調整と判断を担っていたかが、はっきりと浮かび上がっている。

 婚約破棄の経緯を読んだとき、
 ハインリヒは、ほんのわずかに眉を動かした。

「評価されなかったのではない。
 見ていなかっただけだ」

 彼は、静かに結論を出す。

 この王国は、今、交渉相手として危うい。
 だが――

 もし、あの令嬢が帝国側に立つのであれば。
 話は、まったく別になる。

 その夜、王宮では、ロネスが眠れずにいた。

 ハインリヒの言葉。
 沈黙。
 周囲の視線。

 ようやく、薄くではあるが、
 一つの疑念が胸に浮かび始めていた。

 ――自分は、本当に、正しい選択をしたのか。

 だが、その問いに向き合うには、
 彼はまだ、あまりにも臆病だった。

 一方、帝国の館では、
 ハインリヒが宰相宛てに短い報告書を書き上げていた。

 そこには、結論だけが記されている。

 ――王国は不安定。
 ――だが、回復の鍵となる人物は存在する。

 ペンを置き、彼は静かに呟いた。

「……さて」

 次に動くべきは、
 王宮ではない。

 その人物本人だ。

 ハインリヒ・ヴォルフは、すでに理解していた。

 この交渉の主役が、
 王太子ロネスではなく――
 エルゼリア・クローヴェルであることを。
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