『婚約破棄された令嬢ですが、王国は私抜きでは立てなかったようですね』

鷹 綾

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9話|広がる混乱

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9話|広がる混乱

 王宮の朝は、いつもより騒がしかった。

 執務棟の廊下を行き交う文官たちの足取りは早く、声は低く抑えられているものの、その調子からただならぬ雰囲気が伝わってくる。
 書類を抱えた者、誰かを探して立ち止まる者、焦った表情で走り去る者――秩序だったはずの王宮は、わずか数日のうちに別の顔を見せ始めていた。

「……また、修正ですか?」

 財務部の一室で、若い文官が疲れ切った声を上げる。

「北部諸侯から抗議文が届いた。
 昨日出した通達の文面が、彼らの権限を侵す恐れがあると」

「でも、あれは昨夜、殿下の裁可を受けたばかりで……」

「分かっている。だが、放置すれば反発は大きくなる」

 机の上には、赤字で修正指示が書き込まれた文書が積み上がっていた。
 修正しては差し戻され、差し戻されては再修正される。
 誰も、どこが正解なのか確信を持てない。

 ――以前なら。

 その言葉が、また喉元までせり上がる。
 だが誰も、口にしなかった。

 同じ頃、外交部でも似たような事態が起きていた。

「帝国からの返書ですが……こちらの解釈で問題ないでしょうか」

「……断定はできない」

「では、どうします?」

「……とりあえず、慎重な姿勢で返そう」

「それでは、交渉が停滞しますが……」

 判断を先送りにするたび、事態は静かに悪化していく。
 誰かが決断しなければならない。
 だが、その「誰か」が見当たらない。

 昼前、ロネスは執務室で報告を受けていた。

「北部諸侯から抗議。
 帝国との交渉は進展なし。
 加えて、南方の商人組合からも……」

「……まとめて言え」

 ロネスは不機嫌そうに机を叩いた。

「なぜ、こうも問題が続く」

 側近は一瞬、言葉に詰まる。

「殿下……問題自体は、以前から存在していました。
 ただ――」

「ただ?」

「……今までは、表に出る前に処理されていたのです」

 その言葉に、ロネスの表情が硬くなる。

「……つまり、誰がやっていたと言いたい」

「それは……」

 側近は視線を伏せた。
 名前を出す必要はない。
 ロネス自身が、すでに答えを知っている。

「……もういい」

 彼は手を振り、報告を打ち切った。

 だが、苛立ちは消えない。
 机の上に積まれた書類の山が、重くのしかかる。

 午後、緊急の小会議が招集された。

 議題は、商人組合からの抗議への対応。
 関税引き上げを巡る問題だった。

「強気に出るべきだ」
「いや、今は刺激すべきではない」
「だが、譲歩すれば前例になる」

 意見は割れる。
 どれも一理あるが、決め手に欠ける。

「……殿下のご判断を」

 そう促され、ロネスは言葉に詰まった。

 判断。
 それは、彼が最も得意とするもののはずだった。

 だが、材料が揃っていない。
 長期的な影響も、裏の事情も、十分に把握できていない。

「……今日は、結論を出さずに」

 その言葉に、会議室の空気が一気に重くなる。

 また先送り。
 また保留。

 会議後、廊下に出た文官たちの表情は暗かった。

「これで、何度目だ……」
「国が動いていない」
「いや、動いている。
 ――悪い方向に」

 その夜、王都では小さな混乱が起きていた。

 商人たちが価格の先行きを読めず、取引を控え始めたのだ。
 市場では噂が飛び交い、不安が広がる。

「王宮は、何を考えているんだ」
「最近、決定が遅すぎる」

 市井の声は、確実に王宮へと向かっていく。

 一方、クローヴェル侯爵家の屋敷では、
 エルゼリアが執事から簡単な報告を受けていた。

「王都の市場が、少し落ち着きを失っているようです」

「……そう」

 彼女は、それ以上を問わない。

 理由も、原因も、彼女には分かっている。
 今起きている混乱は、偶然ではない。

 複数の小さな判断の遅れ。
 調整不足。
 先送りされた決断。

 それらが積み重なり、表に噴き出し始めただけだ。

 だが、彼女は介入しない。

 それは冷酷だからではない。
 もう、その立場にいないからだ。

 夜更け、王宮の書斎で、ロネスは一人、頭を抱えていた。

「……なぜだ」

 誰に向けるでもない呟き。

 彼は、ようやく気づき始めていた。
 自分が失ったものの大きさを。

 だが、その気づきはまだ曖昧で、
 後悔と呼ぶには、あまりにも遅すぎた。

 混乱は、もう始まっている。

 そしてそれは、
 誰か一人の力では、止められない段階へと
 静かに近づいていた。
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