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21話|動き出す現場
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21話|動き出す現場
合意文書に最終署名がなされた日の翌朝、帝国宰相府の廊下はいつもより早くからざわめいていた。
紙の上で決まることと、
現場が動くことは、別だ。
エルゼリア・クローヴェルは、その違いを誰よりも理解している。
「――通商枠組み、施行開始は本日正午」
短い通達が出され、各部門が一斉に動き始めた。
関税担当。
港湾管理。
物流路の再編成。
どれも、帝国側ではすでに準備が整っている。
だが、問題は――王国側だ。
「現場は、混乱します」
会議室で、担当官が率直に言った。
「判断を仰ぐ癖が抜けていない。
細部で止まる可能性が高い」
「止まらせない方法は?」
エルゼリアが、即座に問い返す。
「……明確な裁量線を引くことです」
「では、それを文書化しましょう」
彼女は、迷いなく指示した。
「“迷ったらここまでなら現場判断でよい”
その範囲を、はっきり書く」
担当官が、目を見開く。
「それは……かなり踏み込みます」
「踏み込まなければ、動きません」
淡々とした口調だった。
「責任は、私が持ちます」
その一言で、空気が変わる。
帝国では、責任を引き受ける者がいれば、
現場は動く。
即座に追加文書が作成され、
帝国側から王国側の各窓口へと送られた。
一方、王宮。
正午を過ぎても、現場からの問い合わせが止まらない。
「このケースは、どちらの解釈で?」
「例外に当たりますか?」
「判断を仰ぎたいのですが……」
以前なら、会議を開き、
結論が出るまでに半日かかっていただろう。
だが、今回は違った。
「……追加文書が来ている」
文官が、走り込んでくる。
「帝国からの補足です。
裁量範囲が、明示されています」
広げられた文書を見て、
財務官が、思わず息を吐いた。
「……ここまで書くか」
「書かれている以上、決められる」
ロネスは、そのやり取りを黙って見ていた。
判断は、依然として重い。
だが、止まらない。
現場が、動き始めている。
港では、荷の流れが整理され、
商人たちが次の取引を組み始めていた。
「条件は厳しいが、読める」
「先が見えるなら、動ける」
不満はある。
だが、不安は薄れつつあった。
その様子は、逐一、帝国宰相府にも報告されている。
「……王国側、動いています」
ハインリヒ・ヴォルフは、報告を聞き、静かに頷いた。
「想定より、早いな」
視線が、エルゼリアへ向く。
「貴女が、裁量線を引いたからだ」
「線がなければ、人は動けません」
彼女は、即答した。
「越えていい線と、
越えてはいけない線が、必要なのです」
それは、王宮で何度も痛感してきたことだった。
「王国は?」
「……戸惑っています」
エルゼリアは、少しだけ言葉を選ぶ。
「ですが、同時に――
久しぶりに、“決めていい”空気を感じているはずです」
ハインリヒは、短く息を吐いた。
「皮肉なものだな。
帝国の文書で、王国が動き出すとは」
「国は、仕組みで動きます」
彼女は、淡々と答える。
「感情ではありません」
夕刻、エルゼリアは自室に戻る途中、窓から街を見下ろした。
人の流れ。
荷車の往来。
変わらないようで、確かに変わり始めている。
――動き出した。
それは、成功の証ではない。
ただ、スタートラインに立っただけだ。
だが、止まっていたものが、再び回り始めた。
その事実は、重い。
王宮でも、同じ実感が広がっていた。
「……今日は、決まったな」
会議後、誰かがぽつりと呟く。
ロネスは、その言葉を聞き、胸の奥がわずかに痛んだ。
決まった。
動いた。
それは、喜ぶべきことのはずなのに。
――なぜ、自分は、こんなにも遅れて気づいたのか。
その夜、エルゼリアは机に向かい、次の案件を開いた。
運用開始一日目。
想定通りの混乱。
想定通りの改善。
評価は、まだ先だ。
だが――
国は、確かに動いている。
エルゼリア・クローヴェルは、静かにペンを走らせた。
これは、まだ始まりにすぎない。
本当に問われるのは、
この動きを、どこまで持続させられるか。
そして――
誰が、その責任を負い続けるのか。
答えは、すでに一つに定まりつつあった。
合意文書に最終署名がなされた日の翌朝、帝国宰相府の廊下はいつもより早くからざわめいていた。
紙の上で決まることと、
現場が動くことは、別だ。
エルゼリア・クローヴェルは、その違いを誰よりも理解している。
「――通商枠組み、施行開始は本日正午」
短い通達が出され、各部門が一斉に動き始めた。
関税担当。
港湾管理。
物流路の再編成。
どれも、帝国側ではすでに準備が整っている。
だが、問題は――王国側だ。
「現場は、混乱します」
会議室で、担当官が率直に言った。
「判断を仰ぐ癖が抜けていない。
細部で止まる可能性が高い」
「止まらせない方法は?」
エルゼリアが、即座に問い返す。
「……明確な裁量線を引くことです」
「では、それを文書化しましょう」
彼女は、迷いなく指示した。
「“迷ったらここまでなら現場判断でよい”
その範囲を、はっきり書く」
担当官が、目を見開く。
「それは……かなり踏み込みます」
「踏み込まなければ、動きません」
淡々とした口調だった。
「責任は、私が持ちます」
その一言で、空気が変わる。
帝国では、責任を引き受ける者がいれば、
現場は動く。
即座に追加文書が作成され、
帝国側から王国側の各窓口へと送られた。
一方、王宮。
正午を過ぎても、現場からの問い合わせが止まらない。
「このケースは、どちらの解釈で?」
「例外に当たりますか?」
「判断を仰ぎたいのですが……」
以前なら、会議を開き、
結論が出るまでに半日かかっていただろう。
だが、今回は違った。
「……追加文書が来ている」
文官が、走り込んでくる。
「帝国からの補足です。
裁量範囲が、明示されています」
広げられた文書を見て、
財務官が、思わず息を吐いた。
「……ここまで書くか」
「書かれている以上、決められる」
ロネスは、そのやり取りを黙って見ていた。
判断は、依然として重い。
だが、止まらない。
現場が、動き始めている。
港では、荷の流れが整理され、
商人たちが次の取引を組み始めていた。
「条件は厳しいが、読める」
「先が見えるなら、動ける」
不満はある。
だが、不安は薄れつつあった。
その様子は、逐一、帝国宰相府にも報告されている。
「……王国側、動いています」
ハインリヒ・ヴォルフは、報告を聞き、静かに頷いた。
「想定より、早いな」
視線が、エルゼリアへ向く。
「貴女が、裁量線を引いたからだ」
「線がなければ、人は動けません」
彼女は、即答した。
「越えていい線と、
越えてはいけない線が、必要なのです」
それは、王宮で何度も痛感してきたことだった。
「王国は?」
「……戸惑っています」
エルゼリアは、少しだけ言葉を選ぶ。
「ですが、同時に――
久しぶりに、“決めていい”空気を感じているはずです」
ハインリヒは、短く息を吐いた。
「皮肉なものだな。
帝国の文書で、王国が動き出すとは」
「国は、仕組みで動きます」
彼女は、淡々と答える。
「感情ではありません」
夕刻、エルゼリアは自室に戻る途中、窓から街を見下ろした。
人の流れ。
荷車の往来。
変わらないようで、確かに変わり始めている。
――動き出した。
それは、成功の証ではない。
ただ、スタートラインに立っただけだ。
だが、止まっていたものが、再び回り始めた。
その事実は、重い。
王宮でも、同じ実感が広がっていた。
「……今日は、決まったな」
会議後、誰かがぽつりと呟く。
ロネスは、その言葉を聞き、胸の奥がわずかに痛んだ。
決まった。
動いた。
それは、喜ぶべきことのはずなのに。
――なぜ、自分は、こんなにも遅れて気づいたのか。
その夜、エルゼリアは机に向かい、次の案件を開いた。
運用開始一日目。
想定通りの混乱。
想定通りの改善。
評価は、まだ先だ。
だが――
国は、確かに動いている。
エルゼリア・クローヴェルは、静かにペンを走らせた。
これは、まだ始まりにすぎない。
本当に問われるのは、
この動きを、どこまで持続させられるか。
そして――
誰が、その責任を負い続けるのか。
答えは、すでに一つに定まりつつあった。
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