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第30話 境界線の揺らぎ
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第30話 境界線の揺らぎ
その日は、珍しく予定外の出来事から始まった。
「エリーカ様、少しお時間を」
城内の視察を終えた直後、補佐官が慌てた様子で駆け寄ってきた。
「北区の工房で、小規模な事故がありました。
大事には至っていませんが……」
「分かりました。すぐ向かいましょう」
言い終えるより先に、アンクレイブが動いた。
「私も行く」
「ですが、公爵様はこの後――」
「構わん」
短い一言。
有無を言わせない判断だった。
馬車の中。
揺れに身を任せながら、私は書類に目を通す。
アンクレイブは、何も言わず窓の外を見ていた。
だが、急に揺れが大きくなった。
「……っ」
思わず身体が傾く。
その瞬間、
腕を引かれ、支えられた。
「大丈夫か」
近い。
驚くほど、近い距離で、彼の声がした。
「はい……ありがとうございます」
腕を離すまでに、
ほんの一瞬、時間があった。
それだけで、十分だった。
工房では、負傷者の手当てが進んでいた。
私が指示を出し、アンクレイブが現場責任者に短く確認を入れる。
連携は、自然だった。
「対応は適切だ」
彼がそう告げると、現場の緊張が一気に緩む。
(……隣に立つのが、当たり前になっている)
帰路。
今度は、沈黙が少しだけ重かった。
「さきほどは」
私が口を開く。
「助けていただき、ありがとうございました」
「当然だ」
それだけ言って、視線を外す。
だが、先ほどよりも、空気が近い。
夜。
私は自室で書類を整理していた。
すると、扉がノックされる。
「入っていい」
アンクレイブだった。
「少し、話がある」
「どうぞ」
立ったまま、彼は言った。
「今日の件で、思ったことがある」
珍しく、言葉を選んでいる。
「何でしょう?」
「君に何かあったら――」
一度、言葉を切る。
「……困る」
それは、公爵としての発言ではなかった。
「公国にとって?」
確認するように問う。
彼は、否定も肯定もせず、ただ言った。
「私が、だ」
胸が、静かに、でも確かに揺れた。
白い結婚。
契約。
合理。
それらが、今、この瞬間だけ遠のく。
「アンクレイブ様」
私は、静かに言った。
「境界線は、まだ必要です」
彼は、分かっているというように頷く。
「だが」
視線が、まっすぐこちらを向く。
「揺れていることまでは、否定しない」
否定しない。
それは、進まないという意味ではない。
踏み出さないまま、
確実に近づいている。
「……はい」
それだけ答えた。
彼は、扉へ向かいかけて、足を止める。
「エリーカ」
「はい」
「無理に決断する必要はない」
背を向けたまま、言う。
「時間は、ある」
扉が閉まる。
一人になった部屋で、私は胸に手を当てた。
(揺れている)
否定しようとしても、無理だった。
白い結婚の境界線は、
まだ越えていない。
だが――
確実に、揺らいでいる。
---
その日は、珍しく予定外の出来事から始まった。
「エリーカ様、少しお時間を」
城内の視察を終えた直後、補佐官が慌てた様子で駆け寄ってきた。
「北区の工房で、小規模な事故がありました。
大事には至っていませんが……」
「分かりました。すぐ向かいましょう」
言い終えるより先に、アンクレイブが動いた。
「私も行く」
「ですが、公爵様はこの後――」
「構わん」
短い一言。
有無を言わせない判断だった。
馬車の中。
揺れに身を任せながら、私は書類に目を通す。
アンクレイブは、何も言わず窓の外を見ていた。
だが、急に揺れが大きくなった。
「……っ」
思わず身体が傾く。
その瞬間、
腕を引かれ、支えられた。
「大丈夫か」
近い。
驚くほど、近い距離で、彼の声がした。
「はい……ありがとうございます」
腕を離すまでに、
ほんの一瞬、時間があった。
それだけで、十分だった。
工房では、負傷者の手当てが進んでいた。
私が指示を出し、アンクレイブが現場責任者に短く確認を入れる。
連携は、自然だった。
「対応は適切だ」
彼がそう告げると、現場の緊張が一気に緩む。
(……隣に立つのが、当たり前になっている)
帰路。
今度は、沈黙が少しだけ重かった。
「さきほどは」
私が口を開く。
「助けていただき、ありがとうございました」
「当然だ」
それだけ言って、視線を外す。
だが、先ほどよりも、空気が近い。
夜。
私は自室で書類を整理していた。
すると、扉がノックされる。
「入っていい」
アンクレイブだった。
「少し、話がある」
「どうぞ」
立ったまま、彼は言った。
「今日の件で、思ったことがある」
珍しく、言葉を選んでいる。
「何でしょう?」
「君に何かあったら――」
一度、言葉を切る。
「……困る」
それは、公爵としての発言ではなかった。
「公国にとって?」
確認するように問う。
彼は、否定も肯定もせず、ただ言った。
「私が、だ」
胸が、静かに、でも確かに揺れた。
白い結婚。
契約。
合理。
それらが、今、この瞬間だけ遠のく。
「アンクレイブ様」
私は、静かに言った。
「境界線は、まだ必要です」
彼は、分かっているというように頷く。
「だが」
視線が、まっすぐこちらを向く。
「揺れていることまでは、否定しない」
否定しない。
それは、進まないという意味ではない。
踏み出さないまま、
確実に近づいている。
「……はい」
それだけ答えた。
彼は、扉へ向かいかけて、足を止める。
「エリーカ」
「はい」
「無理に決断する必要はない」
背を向けたまま、言う。
「時間は、ある」
扉が閉まる。
一人になった部屋で、私は胸に手を当てた。
(揺れている)
否定しようとしても、無理だった。
白い結婚の境界線は、
まだ越えていない。
だが――
確実に、揺らいでいる。
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