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29. 近付く距離
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「すごく、すごーーく笑われたんだが……」
「え!?」
「栽培セットを買った時の笑いなんて全然大したことじゃなかった。こんなにも恥ずかしかったのは初めてかもしれない……」
───翌日
昨日、盛大に椅子からずり落ちて、「こ、腰が……!」と痛そうにヨボヨボ歩きで帰って行った夫。
それでも今日も同じ時間に現れた夫は、持っていた紙袋を私に手渡しながらそう言った。
手に持つとその紙袋はズシッと重かった。
どうやら、中身は私がお願いした本らしい───……
(き、昨日の今日で!? 早っ!)
「療養生活の間、俺も色々な本を読んだけど、さすがに愛と陰謀が渦巻くドロドロの愛憎劇が舞台となる内容の本を読んだことはなかった」
「……ですよね」
夫はしみじみとそう言った。
むしろ、あなたが読んでいたら私の方が驚くわ。
「だから、店員さんに聞くしかなかったんだ」
「……もしかして、そのまま訊ねたのですか?」
「うん」
夫は当然だろう?
そう言わんばかりの顔で頷いた。
「……!」
その美しい顔で、愛と陰謀が渦巻くドロドロな愛憎劇が繰り広げられる物語の本を見繕ってくれと言ったの?
見たかった! ……じゃなくて、店員さん驚いただろうなぁ、と思った。
「……栽培セットもですけど、使用人に買いに行かせるとかしてもよろしかったのでは?」
「いいや」
ふと気になって私がそう聞いてみると夫は首を横に振った。
「マーゴットに贈るものだから俺が自分の手で買わないと意味がないだろう?」
「──そ、そそそそそう、ですか……!」
「うん」
動揺してしまって声が裏返った。
(もう! やっぱりずるい夫だわ。頬が……!)
「そういうわけで、店員さんオススメのここ一年以内に発売した愛と陰謀が渦巻くドロドロ物語らしいから、ぜひとも愛憎劇を楽しんで読んでくれ」
「え!」
「マーゴット? どうしたの?」
「ここ一年以内って……」
「うん。記憶を失くす前のマーゴットもこういう話を好きだったのかな、と思って。だから、一年以内に発売しているもの限定にしてもらった」
夫は当たり前のようにそう言った。
「古いとマーゴットが持っているかもしれないだろう? それに……もし記憶が戻ることがあったら……さ、新しい方がいいかと思ったんだけど、駄目だった?」
「……だ、駄目じゃない、です」
すごく色々なことを考えてくれていた。
何だかもう胸がいっぱい。
「あ、ありがとう……ございます」
私が照れながらお礼を言うと夫は優しく笑う。
だけど、その笑顔は少し切なそうにも見えた。
「あの?」
「……約一年、君は俺のそばにいてくれたけど」
「けど?」
「マーゴットのこと……知らないことだらけなんだな、と改めて思ったよ」
「……」
その言葉に私の胸がキュッと締め付けられる。
(きっと私は、いつか別れの時が来ると思って深入りしないでおこう──そう決めていたんじゃないかしら……)
やっぱりすれ違っている。
───そうだわ。
知りたい……と言えば!
「あ、あの! 聞いてもいいですか?」
「うん?」
「私は、あなたのことをなんて呼んでいましたか?」
「え?」
夫はその質問に驚いた顔をする。
私はどうしてそう思ったかの説明を始めた。
「事情がなんであれ、私たちは結婚しているので呼び方は定番の旦那様……なのかと思ったのですが、あまり私の中ではその言葉がしっくり来なくて……」
「……旦那様と呼ぶのが?」
「はい。それで……実際はどうだったのかな、と思ったのです」
すると夫は苦笑しながらも教えてくれた。
「“ナイジェル”だ」
「ナイジェル……様?」
「うん。そう呼んでいた」
口にしたらストンッと私の中に降りてきてすんなり納得出来た。
(忘れた……と思っていても本能で記憶の欠片として残っているのかもしれない)
そう思わされた。
「でも、マーゴットの呼びたいように呼んでくれて構わないよ?」
「うーん…………ナイジェル様、がしっくり来ます」
「そうか」
(……でも、いつか“旦那様”と呼んでみたい……かも)
「マーゴット? 顔が……」
「な、なんでもありません!」
そう思ってしまった気持ちが恥ずかしくて恥ずかしくて夫の顔が見れず紙袋で顔を隠した。
そして、その晩は夫から貰った本を読み漁ってしまい、翌日は珍しく寝不足のまま朝を迎えることになってしまった。
「マーゴットさん、おはよ…………ぉう!?」
マリィさんが私の顔を見て変な声を上げた。
「マーゴットさん……もしかして徹夜しました?」
「ま、まあ……分かります?」
「分かるわ! 何があったの?」
「何って……」
(あの本よ! ……とにかく危険すぎる!)
面白すぎてページをめくる手が止まらなかったわ!
もう、ドロドロ具合が最高!
すったもんだの末にようやく本当の気持ちに気付いて、二人が結ばれたと思った直後に、実は妊娠していた元愛人が訪ねて来て微笑みながら「もちろん、あなたの子よ」って言ったところなんて……もう、ゾクゾクしたわ!
(うーん……やっぱり記憶がなくても好きになる物って変わらないのかも!)
「そんな顔で出迎えたら、ナイジェル様が心配しそうね」
「え? そ、そうかしら? って、今日も来るの?」
ずっと連日来ているし、もう特に用事はないのだと思うけど?
そう思って首を捻ったらマリィさんは言う。
「用がなくても毎日来ると思うわよ」
「どうして?」
「そんなの決まっているわ……好きな人の顔は毎日みたいでしょう?」
「好きな人の顔……毎日……」
そう口にしながら、私の頭の中に浮かんだのは夫の顔。
(違っ……こ、これは好みの顔だからよ……そうよ! そうに違いない……)
でも、会えるのは嬉しい。
笑ってくれたら私も嬉しくて幸せな気持ちになるの。
─────
そして、マリィさんの予想通り夫は本当に今日もやって来た。
「マーゴット!」
「──ナイジェル……様」
名前で呼ぶのは気恥ずかしかったけれど呼んでみた。
夫にもちゃんと聞こえていたようで、少し照れくさそうに笑ってくれた。
「今日のお土産は皆で食べれるようにとお菓子を買って来た。受付に預けて来たから後で皆で食べてくれ」
「あ……ありがとうございます」
周囲のことまで気遣ってくれたのね?
サラッとそんなことが出来てしまうナイジェル様に胸がキュンとした。
だけど、そんなナイジェル様の美しい顔が私を見るなり曇ってしまう。
(──?)
「……マーゴット。顔色が良くない。もしかして寝不足?」
「え……」
マリィさんの言ったように一目で見抜かれてしまった!
「何かあったのか!? どこか身体が悪いとか? ───それとも何か悩みごと!?」
「え、え、え……」
そして、確かにめちゃくちゃ心配してる!
しかも、悩みごとは俺のせいか!? とか言って頭まで抱えている……
「ち、違います! 本……本が面白すぎて……止められなかったのです」
「本……? 本ってあの……? ドロドロ?」
「はい、ドロドロ……」
「そ、そうか、ドロドロが」
夫は慌てたことが恥ずかしかったのか、咳をしながら誤魔化そうとする。
でも、その頬はほんのり赤い。
「ケホッ……喜んで貰えて嬉しいが、仕事に支障をきたすような徹夜は駄目だぞ」
「ふふ、はい」
「治癒魔法だって使えばかなり体力を使うだろう?」
「ええ、気を付けます」
私がそう言うと、夫はそっと手を伸ばして私の頭を撫でた。
「ナイジェル様……」
「……マーゴット」
私たちが名前を呼び合い見つめ合って互いの顔がそっと近付こうとしたその時───
「……え? なに? 光っ……?」
「な、なんだ?」
突然、私がずっと首にかけていたネックレスの石が光った。
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