シング 神さまの指先

笑里

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伝言

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「パスポートは忘れてないよな」
「大丈夫、持ってる」
「あっ、チケットは」
「持ってるよ」
「それから、あれ。ええっと……」
 圭が大きなため息をつきながら、
「だから大丈夫だって。昨日ステラと3人で一緒にちゃんとチェックしたでしょう?」
と圭司をなだめている。
 3月が終わろうとするころ、圭司たちはニューヨークにあるJFK空港の国際線ロビーにいた。世界でも最大級の空港だけのことはあり、世界にはこんなに人がいるのかと思うほどさまざまな国籍と思われる人でごった返していて、2時間前には空港に着いたのに、1時間を過ぎてもまだ出国の手続きが終わっていなかった。

 合格通知をもらってからの2ヶ月間は留学の準備で目まぐるしく過ぎた。去年は不安の中で進路を考えていた圭は、留学が決まって安心したのか落ち着きを取り戻した。むしろ圭を日本に送り出す圭司の方がオタオタし始めたぐらいだ。
「なあ、やっぱりアメリカの高校でよくないか。日本は遠すぎないか」
などと圭司が言い始め、何度もステラから嗜められた。
 横浜にある実家の、かつて圭司が使っていた部屋は、圭司が住んでいた時のまま綺麗に掃除だけしてあると史江から聞いた。大学に入り、圭司が両親や姉と同じ教師になる道に反発し、中目黒で一人暮らしを始めてからも、決して母は圭司の部屋には手をつけなかった。結局アメリカへ渡ってしまっても、そのままだったということか。絶対その部屋に住みたいと言う圭には、好きにしろと言ってある。
 家財道具は横浜の部屋に揃っているので、日本へ送るものは圭の衣類がほとんどだ。楽器も送ろうと思ったが、それだけは自分で持っていくと圭がいう。
 圭の制服を作るからと、史江に頼まれてステラが採寸したものをメールで2月には送っている。サイズを決定する前には、スカート丈のことでステラと圭が二人で散々話し合っていた。領事館で初めて見た学園の女の子たちのスカートの短さに圭は衝撃を受けたらしい。圭は基本的にジーンズなどのパンツを着用することがほとんどで、スカートの類は滅多に履かない。その圭の真新しい制服が日本に着いたらできているはずだ。それを着た圭の姿を目の前で見られないのが少々残念なことだった。

「ひとつ頼みがあるんだ」
 出発日の前日の夜、圭司がいう。「何?」と圭が返事をした。
「日本に行ったら、すぐじゃなくていいから、中目黒という駅に行って写真をいっぱい撮って送ってくれないか」
「ナカ、メグロ?」
「そう、中目黒だ。横浜から乗り換えなしで電車で行ける。俺が昔過ごした思い出の街なんだ。どう変わっているか見てみたい」
 そう言って、紙に駅の名前を英語と日本語で書いた。圭はそのメモを折り畳むと、いつも持っているポシェットに入れた。

 やっと搭乗手続きの列が進み始めた。
「じゃあ、行ってくる」圭司の気持ちを知ってか知らずか、こともなげに言うと軽く手を振り、くるりと背を向けて列に並んだ。金属探知機のゲートのその先はもう見送りの者は中に入れない。
 もうこれでしばらく会うことはないのに、結構あっさりとしたものだな——
 あの寒い感謝祭の夜、ゴミ箱の隙間で下着姿で震えていた圭が、俺がかつて飛び出した日本へ代わりに向かおうとしている。
 ——彼女は、圭は俺と出会って良かったと思っていてくれてるだろうか。

「圭!」
 思わず大声で叫んだ。それまで背を向けていた圭が振り向いた。その頬には涙が何本も伝っていた。隣にいたステラが唇を震わせながら、何も言わずギュッと圭司の右腕を掴んだ。
「圭! 日本に、俺の代わりに日本に伝えてくれ! 圭司は元気だって! 圭という女の子に出会って、今すごく幸せに、アメリカで楽しく暮らしてるって、そうニッポンに伝えてくれ!」
 叫ぶ圭司に向かって、圭は何度も首を縦に振った。
「うん、必ず伝える! アイラブユー、圭司! アイラブユー、ステラ!」
 そう言って今度は両手を上げて圭司とステラに向かって大きく手を振ると、今度は何度も振り返りながらゲートの中へ消えていった。

 圭が行ってしまった空港の喧騒の中で、
「やっぱり、アメリカの高校に行かせた方がよかったかしら——」
と、ステラがぽつりと呟くのが聞こえた。
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