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2章 「まこ庵」での日々
第3話 「まこ庵」の始まり
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真琴が以前勤めていた割烹に退職希望を告げたのは、新居建設中の最中、完成予定日の2ヶ月ほど前。寒さ厳しい1月末ごろのことだった。
ランチと夜営業の間の隙間時間に、経営陣が詰めている事務所に退職願を提出し挨拶したあと、料理長には直接伝えた。
控え室でのできごとだったので、副料理長や同僚にも聞かれていた。
「2月末付けで退職願を出しました。結婚しまして、そのご縁で和カフェの経営をすることになりまして」
料理長は無表情のままぽつりと「そうか」と言っただけだったのだが、副料理長は「へっ」と吐き捨てる様に言った。見るとその顔は醜く歪んでいる。悪し様に言われることがありありと分かる表情だった。
「これやから女は。結婚したら簡単に投げ出して、楽できるんやもんなぁ。なぁ、ほんまに羨ましいよなぁ。料理長も大変でしたね。女なんて雇わなあかんかったんですから」
嫌味を超えて単純な悪意である。部下がめでたいはずの結婚を決めたのに、こんなことしか言えない副料理長にあらためて落胆する。そんなにもこの世界で女を忌避するか。同僚たちもいやらしくにやにやとした顔を真琴に向けていた。
まだ退職まで1ヶ月ほどあるが、最後の最後でこんな目に遭わなければならないことに、真琴は情けなさを感じていた。どうしてこの職場では、女性というだけでこんな思いをしなければならないのか。
「やめろ」
その時、低く強く響いたのは料理長の声だった。普段から口数少なく、声もそう大きく無い料理長のこんな声を聞いたのは、少なくとも真琴は初めてだった。副料理長たちも驚いている。
「浮田、これまで庇ってやれんで、ほんまに済まんかった。俺は口下手やから、でもそれを言い訳にしてええこと無いよな」
「いえ……」
真琴は戸惑う。そう長いせりふでも無いのに、普段から必要最小限しか口にしない料理長なので、こんな量の言葉を聞くのは初めてだった。
「経営陣と話をして、うちの店も女性に機会を持ってもらうべきや言うて女性、浮田を採用した。それやのにいざ蓋を開けてみたらこれや。ほんまに残念やった。現場が乱れるんを恐れて何もできん自分にも嫌気がさしとった」
そのせりふに、副料理長たちが気まずそうに視線を反らす。料理長の注意などが一切無かったので、副料理長たちは料理長も同じだと、調子に乗っていた部分もあっただろう。だが料理長の思惑はそうでは無かった。経営陣の方針に賛成していたのだ。
「男女平等や言うて、いろんなとこがそれに沿う様にやってはる。今はテレビでも女性の料理人が出て、男性と遜色無い腕前を披露してはる。保育士や看護師にも男性が増えた。それやのにうちはずっと時代に乗らんかった。別にな、それが悪いとは思わん。その店ごとの特徴やから、それでええとも思う。でもな、それに凝り固まるんがええとも思わん。経営陣は風穴を開けたかったんや」
風穴。もしかしたら、経営陣も料理長も、このお店の厨房に漂う空気を窮屈に感じていたのだろうか。確かに閉鎖的な男性社会だとは、真琴も何度も思い知らされたが。
「せやけどこの店は、結局浮田までも取り込んで、閉め切ったままやった。浮田をきっかけにこれからも女性料理人を雇いたいて経営陣も思ってたけど、吉か凶か、空きが出んかったからな」
経営陣と料理長は未来と発展を見ていたのに、副料理長以下が居心地の良い殻に閉じこもり、時代に取り残されていた。
だが、真琴もそうだったのでは無いだろうか。雑用と賄い作りにいっぱいいっぱいになって、自分で現状を打破しようとしただろうか。
「私にもお料理を任せてください」
勇気を出してそう言い続けることができたら、何かが変わっていたかも知れない。現状の忙しさを言い訳にしていたのはきっと真琴も同じだ。ますます疎まれようとも、行動すべきだったのだ。
それでもここで励んだ5年間を無駄だとは思いたくない。学べたことだってきっとあったはずだ。これから活かせることだってきっとある。
「浮田、賄い作ってもろた時、浮田んときだけ誰も何も言わんかったやろ」
「はい」
「あれな、いつもようできとった。せやから、誰も何も言えんかったんや」
真琴は目を見開く。まさかそんな風に思っていてくれたとは。思わず副料理長たちの方を見ると、皆舌打ちでもしたい様な、苦虫を噛み潰した様な表情になっていた。
「浮田、今まではまともに教えてもやれんかったけど、あと1ヶ月、短いけど俺に付け。和カフェするんでも料理は出すやろ。俺が教えられることは教えたる」
「ありがとうございます!」
真琴は料理長に深く頭を下げた。まさか、こんな段階でこんなことになるなんて。まるで期待をしていなかっただけに驚愕するしか無い。
それでもこれから短期間でも、新たな財産が築けるのはありがたい。真琴はますます気合いを入れた。
そして4月10日、「まこ庵」は新開店の日を迎えた。午前中の今、真琴と雅玖は、あびこ観音の本堂の前にいる。商売繁盛をお願いしに来たのだ。
思えば、あびこ観音に良縁を願ったから雅玖と結婚することになり、5人の子どもたちを授かり、「まこ庵」の開店に至ったのだ。あびこ観音は雅玖との縁だけでは無く、真琴にとって良いものをたくさん運んでくれた。
いつもありがとうございます。これからもどうぞよろしくお願いします。
真琴は心の底からそう思い、神妙に手を合わせた。
和カフェを開くことは専門学校時代の友人にも伝えていたので、連名などでいくつかの豪華な花かごが届いた。そして、前職の割烹からも立派な胡蝶蘭が。経営陣が計らってくれたのだろう。
真琴はそれらを大事に、「まこ庵」の外や中に置いた。途端にお店が華やかになった。
「凄いですね。これも真琴さんの人徳ですね。とても幸先が良い始まりではありませんか」
雅玖は数々のお花で彩られた「まこ庵」を見て、満足げに微笑んだ。人徳はともかくとして、真琴もそう思う。
たくさんの人々に祝福され、「まこ庵」はスタートする。真琴の胸も期待に膨らむ。
同時に、お客に来てもらえなかったらどうしようという不安ももたげる。きっとそれは全ての店舗経営者が通る感情なのだろう。
だが、真琴はできる限りを精一杯やるしか無いのだ。美味しいお料理とスイーツを作り、おもてなしをする。次もまた来ていただける様に。
フライヤーにオープン記念割引券を付けて、近隣にポスティングしたりもした。雅玖と子どもたちも手伝ってくれた。ぜひその頑張りに報いたい。
子どもたちは平日の今日学校があるので、オープンに立ち会えないことを悔しがっていた。そんな子どもたちに、できれば良い報告がしたい。
どうか、お客が来てくれます様に。楽しんでいただけます様に。
「さ、雅玖、開けようか」
「はい」
真琴はランチメニューを書いた立て看板をお店の前に置き、「OPEN」の札を掛けた。
ランチと夜営業の間の隙間時間に、経営陣が詰めている事務所に退職願を提出し挨拶したあと、料理長には直接伝えた。
控え室でのできごとだったので、副料理長や同僚にも聞かれていた。
「2月末付けで退職願を出しました。結婚しまして、そのご縁で和カフェの経営をすることになりまして」
料理長は無表情のままぽつりと「そうか」と言っただけだったのだが、副料理長は「へっ」と吐き捨てる様に言った。見るとその顔は醜く歪んでいる。悪し様に言われることがありありと分かる表情だった。
「これやから女は。結婚したら簡単に投げ出して、楽できるんやもんなぁ。なぁ、ほんまに羨ましいよなぁ。料理長も大変でしたね。女なんて雇わなあかんかったんですから」
嫌味を超えて単純な悪意である。部下がめでたいはずの結婚を決めたのに、こんなことしか言えない副料理長にあらためて落胆する。そんなにもこの世界で女を忌避するか。同僚たちもいやらしくにやにやとした顔を真琴に向けていた。
まだ退職まで1ヶ月ほどあるが、最後の最後でこんな目に遭わなければならないことに、真琴は情けなさを感じていた。どうしてこの職場では、女性というだけでこんな思いをしなければならないのか。
「やめろ」
その時、低く強く響いたのは料理長の声だった。普段から口数少なく、声もそう大きく無い料理長のこんな声を聞いたのは、少なくとも真琴は初めてだった。副料理長たちも驚いている。
「浮田、これまで庇ってやれんで、ほんまに済まんかった。俺は口下手やから、でもそれを言い訳にしてええこと無いよな」
「いえ……」
真琴は戸惑う。そう長いせりふでも無いのに、普段から必要最小限しか口にしない料理長なので、こんな量の言葉を聞くのは初めてだった。
「経営陣と話をして、うちの店も女性に機会を持ってもらうべきや言うて女性、浮田を採用した。それやのにいざ蓋を開けてみたらこれや。ほんまに残念やった。現場が乱れるんを恐れて何もできん自分にも嫌気がさしとった」
そのせりふに、副料理長たちが気まずそうに視線を反らす。料理長の注意などが一切無かったので、副料理長たちは料理長も同じだと、調子に乗っていた部分もあっただろう。だが料理長の思惑はそうでは無かった。経営陣の方針に賛成していたのだ。
「男女平等や言うて、いろんなとこがそれに沿う様にやってはる。今はテレビでも女性の料理人が出て、男性と遜色無い腕前を披露してはる。保育士や看護師にも男性が増えた。それやのにうちはずっと時代に乗らんかった。別にな、それが悪いとは思わん。その店ごとの特徴やから、それでええとも思う。でもな、それに凝り固まるんがええとも思わん。経営陣は風穴を開けたかったんや」
風穴。もしかしたら、経営陣も料理長も、このお店の厨房に漂う空気を窮屈に感じていたのだろうか。確かに閉鎖的な男性社会だとは、真琴も何度も思い知らされたが。
「せやけどこの店は、結局浮田までも取り込んで、閉め切ったままやった。浮田をきっかけにこれからも女性料理人を雇いたいて経営陣も思ってたけど、吉か凶か、空きが出んかったからな」
経営陣と料理長は未来と発展を見ていたのに、副料理長以下が居心地の良い殻に閉じこもり、時代に取り残されていた。
だが、真琴もそうだったのでは無いだろうか。雑用と賄い作りにいっぱいいっぱいになって、自分で現状を打破しようとしただろうか。
「私にもお料理を任せてください」
勇気を出してそう言い続けることができたら、何かが変わっていたかも知れない。現状の忙しさを言い訳にしていたのはきっと真琴も同じだ。ますます疎まれようとも、行動すべきだったのだ。
それでもここで励んだ5年間を無駄だとは思いたくない。学べたことだってきっとあったはずだ。これから活かせることだってきっとある。
「浮田、賄い作ってもろた時、浮田んときだけ誰も何も言わんかったやろ」
「はい」
「あれな、いつもようできとった。せやから、誰も何も言えんかったんや」
真琴は目を見開く。まさかそんな風に思っていてくれたとは。思わず副料理長たちの方を見ると、皆舌打ちでもしたい様な、苦虫を噛み潰した様な表情になっていた。
「浮田、今まではまともに教えてもやれんかったけど、あと1ヶ月、短いけど俺に付け。和カフェするんでも料理は出すやろ。俺が教えられることは教えたる」
「ありがとうございます!」
真琴は料理長に深く頭を下げた。まさか、こんな段階でこんなことになるなんて。まるで期待をしていなかっただけに驚愕するしか無い。
それでもこれから短期間でも、新たな財産が築けるのはありがたい。真琴はますます気合いを入れた。
そして4月10日、「まこ庵」は新開店の日を迎えた。午前中の今、真琴と雅玖は、あびこ観音の本堂の前にいる。商売繁盛をお願いしに来たのだ。
思えば、あびこ観音に良縁を願ったから雅玖と結婚することになり、5人の子どもたちを授かり、「まこ庵」の開店に至ったのだ。あびこ観音は雅玖との縁だけでは無く、真琴にとって良いものをたくさん運んでくれた。
いつもありがとうございます。これからもどうぞよろしくお願いします。
真琴は心の底からそう思い、神妙に手を合わせた。
和カフェを開くことは専門学校時代の友人にも伝えていたので、連名などでいくつかの豪華な花かごが届いた。そして、前職の割烹からも立派な胡蝶蘭が。経営陣が計らってくれたのだろう。
真琴はそれらを大事に、「まこ庵」の外や中に置いた。途端にお店が華やかになった。
「凄いですね。これも真琴さんの人徳ですね。とても幸先が良い始まりではありませんか」
雅玖は数々のお花で彩られた「まこ庵」を見て、満足げに微笑んだ。人徳はともかくとして、真琴もそう思う。
たくさんの人々に祝福され、「まこ庵」はスタートする。真琴の胸も期待に膨らむ。
同時に、お客に来てもらえなかったらどうしようという不安ももたげる。きっとそれは全ての店舗経営者が通る感情なのだろう。
だが、真琴はできる限りを精一杯やるしか無いのだ。美味しいお料理とスイーツを作り、おもてなしをする。次もまた来ていただける様に。
フライヤーにオープン記念割引券を付けて、近隣にポスティングしたりもした。雅玖と子どもたちも手伝ってくれた。ぜひその頑張りに報いたい。
子どもたちは平日の今日学校があるので、オープンに立ち会えないことを悔しがっていた。そんな子どもたちに、できれば良い報告がしたい。
どうか、お客が来てくれます様に。楽しんでいただけます様に。
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