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プロローグ
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濃紺のエプロンを着けると、きゅっと気が引き締まる。
今日も美味しいごはんを作って、お客さまの力になることができたらええな。
そんなことを思いながら、都倉碧は手を洗う。手を濡らしてハンドソープを泡立て、掌、手の甲、指1本1本、そして爪の間も丁寧に擦り合わせて。
「碧、手ぇ洗ったら、なますの大根千切りにしてな」
「はぁい」
碧は料理長であるお父さんの言葉に、威勢良く応える。
季節は冬真っ盛り、12月。根菜が美味しくなる時季だ。碧が持ち上げたお大根もずっしりと大振りで、真っ白な皮はぱんぱんに張り詰めている。きっと切れば、みずみずしい中身が顔を覗かせるだろう。
みっちりと生い茂っている葉っぱも青々としている。もちろん無駄にはしない。白い部分の上部で切り落とすと、やはりしっとりと濡れた断面が現れる。碧は思わずうっとりしてしまう。ああ、何ておいしそうなのだろうか。
葉っぱが付いた方は、切り口を濡らしたキッチンペーパーで包み、さらにラップで包み、全体を大きなナイロン袋に入れて冷蔵庫へ。これは明日の小鉢になる。
お大根本体は綺麗に水洗いし、5センチ厚さの輪切りにして、厚めに皮を剥く。お大根は筋があるので、それを取り除いてやらなければ舌触りが悪くなるのだ。
そして、この皮も捨てない。半分に切って半円状にして、ナイロン袋へ入れていく。明日千切りにして、お大根の葉っぱと合わせてごま炒めにするのだ。
ここは、朝ごはんとお昼ごはんのお店「とくら食堂」である。大阪市の本町に構えている。開店時間は朝の7時。まずはお仕事に向かうお客さまのお腹を満たしてもらうのだ。
閉店時間は14時で、ラストオーダーは13時半。
この本町は大阪でも有数のビジネス街である。メイン通りである御堂筋や四つ橋筋などはもちろん、路地にも大小のビルが立ち並び、多くの人々がお仕事に精を出している。「とくら食堂」は主に、そんな人たちを支える食堂なのだ。
朝からお昼の間のお店なのだが、少しだけお酒を置いている。瓶ビールと缶チューハイ、缶ハイボールだ。瓶ビールは小瓶。どれも手軽に飲めるサイズである。
基本はその日、お仕事があるお客さまが多いのだが、ピークでは無い時間帯に観光客が来たりすることもある。そういった人たちはお酒を欲しがるのだ。
とはいえ、本町はあまり観光できる様なところは無い。強いて言えば船場センタービルと、難波神社だろうか。
船場センタービルは1キロメートルにも渡る問屋街である。繊維製品を中心に、雑貨や日用品なども取り扱われている。地下には人気の飲食店も入っていたりする。
卸売問屋ではあるが、小売が可能なお店も多く、破格値で掘り出し物があったりするので、人が集まるのだ。
難波神社はお隣の心斎橋駅との間にある、人気のある神社だ。結婚式やお宮参り、七五三参りをすることもできる。
厄除けや商売繁盛などのご利益があり、反正天皇が父親である仁徳天皇を偲んで建立したと伝えられている。難波の名は昔の心斎橋の呼び名である上難波に由来するのだそう。
碧はこの「とくら食堂」で、お父さんのサポートをしている。いずれは跡を継ぐつもりで励んでいるのだ。
碧はつるんと白いお大根を千切りにする。とととととっと小気味好い音が厨房に響く。お父さんは昆布出汁が入った大きなお鍋に、削り節を詰めたお茶パックをたっぷりと沈め、ボウルに割り入れた卵を菜箸でほぐしていた。
今は午前5時過ぎ。多くの人がまだ眠っている時間帯である。7時の開店時間に向けて、お父さんも碧もせっせと手を動かす。
それに、この「とくら食堂」は土曜日と日曜日が定休日だ。ビジネス街という場所柄、やはり平日にお客さまが集まるのだ。以前は土曜日も開けていたのだが、採算を取るのが難しく、定休日にすることとなった。
そのおかげで、土曜日の夜なら学生時代のお友だちとも会える。碧は調理師専門学校に行っていたので、そのときのお友だちは軒並み飲食店に就職したから、休日もなかなか合わないのだが、高校時代のお友だちの多くは一般企業に就職しているので、土曜日なら都合が良いのだ。
さて、お大根1本まるまるの千切りができあがった。続けて金時人参だ。金時人参はお正月のお雑煮に入っているイメージが強いが、旬は12月から2月に掛けて。
この金時人参、なにわの伝統野菜にも指定されていて、古くは「大阪人参」とも言われていたとか。
お大根がたっぷりなので、金時人参は彩り程度加える。ピーラーで乾いた表面を剥いて、こちらも千切りに。お大根の千切りを入れていたボウルに合わせて、お塩を振って、両手で大きく混ぜ合わせる。
このまま5分ほど置いておいたら余分な水気が出てくる。置いてあるあいだに別のボウルに甘酢を作っておいた。食べやすい様に酸っぱさは控えめだ。そこにしんなりとしたお大根と金時人参を、水分を絞りながら入れる。
菜箸を使ってほぐしながらざくざくと混ぜる。全体に甘酢が行き渡ったら、ラップをして冷蔵庫に入れた。
「お父さん、なますオッケーやで」
「よっしゃ。ほな、味噌汁仕上げたって」
「はぁい」
昆布と削り節が沈み、黄金色を放っている大鍋。穴あきおたまを使って削り節入りお茶パックと昆布をボウルに取り出す。そして大鍋を再加熱して、沸くまでのあいだに具材の準備。今日はお豆腐だ。崩れにくい様に木綿豆腐を使う。
さいの目に切って、お豆腐のパックに戻す。お茶パックにしてもそうだが、洗い物を減らす工夫である。
お出汁が沸いたのでお豆腐を入れ、再沸騰したら弱火にして、味噌こしを使ってお味噌を溶かす。一般的な合わせ味噌だ。
お味噌は沸騰したら香りが飛ぶなんて言われている。だからそうならない様に注意している。弱火のまま置いておけば、温かさが保たれたまま風味も損なわない。
と言いながら、実は沸騰させた方が美味しくなるなんて話も最近は出ているそうだ。これはアミノ酸と糖によるメイラード反応というもので、甘みと香ばしさが増すのだとか。
だが「とくら食堂」では、お椀を顔に近付けたときに、ふわりと漂うお味噌の香りを楽しんで欲しい。なので沸騰させずに作るのだ。
もうすぐ開店時間。お父さんは熟練の動きで卵焼きを焼き続けている。大量にあった卵液も、もう底が見えそうだ。
今日の朝ごはんは、卵焼きと紅白なます、お味噌汁と白いごはんである。これで500円。お味噌汁とごはんは1杯だけ無料でおかわりができる。
「お父さん、そろそろ時間やで」
「おう。これで最後や」
お父さんが最後の卵液を小振りな卵焼き器に流す。じゅうと音がする。お父さんは手際良く手を動かして、卵を巻いていった。
「よっしゃ、完成や」
大きな炊飯器で炊いているごはんも、そろそろ蒸らし終わる。今日も無事作り終えることができた。碧は炊飯器を開ける。もわぁっと盛大に湯気が上がり、一帯が甘い香りに包まれた。
「うん、今日もつやっつや」
思わず顔をにんまりとさせてしまう。白く輝くごはんは、見ているだけで幸せな気持ちになる。碧は大きなしゃもじを使って、全体をふっくらとほぐした。
「お父さん、ごはんもいけるで」
「よっしゃ。そろそろ開店やな」
お父さんがそう応えたとき、開き戸ががらりと開いた。顔を覗かせたのはお母さんだ。お母さんはこの「とくら食堂」のお運びさんである。
「お父さん、碧ちゃん、いける?」
「おう! ばっちりや」
お父さんが快活に言うと、お母さんは振り向いて「開店でーす」と声を張った。お母さんが開き戸を大きく開けると、待っていてくれたお客さまが数組流れ込んでくる。
「らっしゃい」
「いらっしゃいませ!」
お父さんと碧は、元気一杯にお客さまをお迎えする。お母さんはいそいそと厨房に入ると、手を綺麗に洗い、お父さんと碧と同じエプロンを着けた。
こうして「とくら食堂」の1日が始まった。
今日も美味しいごはんを作って、お客さまの力になることができたらええな。
そんなことを思いながら、都倉碧は手を洗う。手を濡らしてハンドソープを泡立て、掌、手の甲、指1本1本、そして爪の間も丁寧に擦り合わせて。
「碧、手ぇ洗ったら、なますの大根千切りにしてな」
「はぁい」
碧は料理長であるお父さんの言葉に、威勢良く応える。
季節は冬真っ盛り、12月。根菜が美味しくなる時季だ。碧が持ち上げたお大根もずっしりと大振りで、真っ白な皮はぱんぱんに張り詰めている。きっと切れば、みずみずしい中身が顔を覗かせるだろう。
みっちりと生い茂っている葉っぱも青々としている。もちろん無駄にはしない。白い部分の上部で切り落とすと、やはりしっとりと濡れた断面が現れる。碧は思わずうっとりしてしまう。ああ、何ておいしそうなのだろうか。
葉っぱが付いた方は、切り口を濡らしたキッチンペーパーで包み、さらにラップで包み、全体を大きなナイロン袋に入れて冷蔵庫へ。これは明日の小鉢になる。
お大根本体は綺麗に水洗いし、5センチ厚さの輪切りにして、厚めに皮を剥く。お大根は筋があるので、それを取り除いてやらなければ舌触りが悪くなるのだ。
そして、この皮も捨てない。半分に切って半円状にして、ナイロン袋へ入れていく。明日千切りにして、お大根の葉っぱと合わせてごま炒めにするのだ。
ここは、朝ごはんとお昼ごはんのお店「とくら食堂」である。大阪市の本町に構えている。開店時間は朝の7時。まずはお仕事に向かうお客さまのお腹を満たしてもらうのだ。
閉店時間は14時で、ラストオーダーは13時半。
この本町は大阪でも有数のビジネス街である。メイン通りである御堂筋や四つ橋筋などはもちろん、路地にも大小のビルが立ち並び、多くの人々がお仕事に精を出している。「とくら食堂」は主に、そんな人たちを支える食堂なのだ。
朝からお昼の間のお店なのだが、少しだけお酒を置いている。瓶ビールと缶チューハイ、缶ハイボールだ。瓶ビールは小瓶。どれも手軽に飲めるサイズである。
基本はその日、お仕事があるお客さまが多いのだが、ピークでは無い時間帯に観光客が来たりすることもある。そういった人たちはお酒を欲しがるのだ。
とはいえ、本町はあまり観光できる様なところは無い。強いて言えば船場センタービルと、難波神社だろうか。
船場センタービルは1キロメートルにも渡る問屋街である。繊維製品を中心に、雑貨や日用品なども取り扱われている。地下には人気の飲食店も入っていたりする。
卸売問屋ではあるが、小売が可能なお店も多く、破格値で掘り出し物があったりするので、人が集まるのだ。
難波神社はお隣の心斎橋駅との間にある、人気のある神社だ。結婚式やお宮参り、七五三参りをすることもできる。
厄除けや商売繁盛などのご利益があり、反正天皇が父親である仁徳天皇を偲んで建立したと伝えられている。難波の名は昔の心斎橋の呼び名である上難波に由来するのだそう。
碧はこの「とくら食堂」で、お父さんのサポートをしている。いずれは跡を継ぐつもりで励んでいるのだ。
碧はつるんと白いお大根を千切りにする。とととととっと小気味好い音が厨房に響く。お父さんは昆布出汁が入った大きなお鍋に、削り節を詰めたお茶パックをたっぷりと沈め、ボウルに割り入れた卵を菜箸でほぐしていた。
今は午前5時過ぎ。多くの人がまだ眠っている時間帯である。7時の開店時間に向けて、お父さんも碧もせっせと手を動かす。
それに、この「とくら食堂」は土曜日と日曜日が定休日だ。ビジネス街という場所柄、やはり平日にお客さまが集まるのだ。以前は土曜日も開けていたのだが、採算を取るのが難しく、定休日にすることとなった。
そのおかげで、土曜日の夜なら学生時代のお友だちとも会える。碧は調理師専門学校に行っていたので、そのときのお友だちは軒並み飲食店に就職したから、休日もなかなか合わないのだが、高校時代のお友だちの多くは一般企業に就職しているので、土曜日なら都合が良いのだ。
さて、お大根1本まるまるの千切りができあがった。続けて金時人参だ。金時人参はお正月のお雑煮に入っているイメージが強いが、旬は12月から2月に掛けて。
この金時人参、なにわの伝統野菜にも指定されていて、古くは「大阪人参」とも言われていたとか。
お大根がたっぷりなので、金時人参は彩り程度加える。ピーラーで乾いた表面を剥いて、こちらも千切りに。お大根の千切りを入れていたボウルに合わせて、お塩を振って、両手で大きく混ぜ合わせる。
このまま5分ほど置いておいたら余分な水気が出てくる。置いてあるあいだに別のボウルに甘酢を作っておいた。食べやすい様に酸っぱさは控えめだ。そこにしんなりとしたお大根と金時人参を、水分を絞りながら入れる。
菜箸を使ってほぐしながらざくざくと混ぜる。全体に甘酢が行き渡ったら、ラップをして冷蔵庫に入れた。
「お父さん、なますオッケーやで」
「よっしゃ。ほな、味噌汁仕上げたって」
「はぁい」
昆布と削り節が沈み、黄金色を放っている大鍋。穴あきおたまを使って削り節入りお茶パックと昆布をボウルに取り出す。そして大鍋を再加熱して、沸くまでのあいだに具材の準備。今日はお豆腐だ。崩れにくい様に木綿豆腐を使う。
さいの目に切って、お豆腐のパックに戻す。お茶パックにしてもそうだが、洗い物を減らす工夫である。
お出汁が沸いたのでお豆腐を入れ、再沸騰したら弱火にして、味噌こしを使ってお味噌を溶かす。一般的な合わせ味噌だ。
お味噌は沸騰したら香りが飛ぶなんて言われている。だからそうならない様に注意している。弱火のまま置いておけば、温かさが保たれたまま風味も損なわない。
と言いながら、実は沸騰させた方が美味しくなるなんて話も最近は出ているそうだ。これはアミノ酸と糖によるメイラード反応というもので、甘みと香ばしさが増すのだとか。
だが「とくら食堂」では、お椀を顔に近付けたときに、ふわりと漂うお味噌の香りを楽しんで欲しい。なので沸騰させずに作るのだ。
もうすぐ開店時間。お父さんは熟練の動きで卵焼きを焼き続けている。大量にあった卵液も、もう底が見えそうだ。
今日の朝ごはんは、卵焼きと紅白なます、お味噌汁と白いごはんである。これで500円。お味噌汁とごはんは1杯だけ無料でおかわりができる。
「お父さん、そろそろ時間やで」
「おう。これで最後や」
お父さんが最後の卵液を小振りな卵焼き器に流す。じゅうと音がする。お父さんは手際良く手を動かして、卵を巻いていった。
「よっしゃ、完成や」
大きな炊飯器で炊いているごはんも、そろそろ蒸らし終わる。今日も無事作り終えることができた。碧は炊飯器を開ける。もわぁっと盛大に湯気が上がり、一帯が甘い香りに包まれた。
「うん、今日もつやっつや」
思わず顔をにんまりとさせてしまう。白く輝くごはんは、見ているだけで幸せな気持ちになる。碧は大きなしゃもじを使って、全体をふっくらとほぐした。
「お父さん、ごはんもいけるで」
「よっしゃ。そろそろ開店やな」
お父さんがそう応えたとき、開き戸ががらりと開いた。顔を覗かせたのはお母さんだ。お母さんはこの「とくら食堂」のお運びさんである。
「お父さん、碧ちゃん、いける?」
「おう! ばっちりや」
お父さんが快活に言うと、お母さんは振り向いて「開店でーす」と声を張った。お母さんが開き戸を大きく開けると、待っていてくれたお客さまが数組流れ込んでくる。
「らっしゃい」
「いらっしゃいませ!」
お父さんと碧は、元気一杯にお客さまをお迎えする。お母さんはいそいそと厨房に入ると、手を綺麗に洗い、お父さんと碧と同じエプロンを着けた。
こうして「とくら食堂」の1日が始まった。
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