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5章 前に進むために
第9話 これからも、ずっと
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その日も無事、「ゆうやけ」はオーダーストップを迎えた。由祐は釜本さんのために、せっせとフライパンを振るう。
二口女の釜本さんは、こうして毎日お料理を食べ尽くしてくれるので、本当に助かっている。もちろん由祐の晩酌用はタッパーに取り分けてある。今日は菜の花の卵とじとポテトサラダを詰めた。
ポテトサラダは皮ごとの新じゃがいもと新玉ねぎを使っている。これも春だけのごちそうだ。水分をたっぷりと蓄えた新じゃがいもはねっとりと甘い。新玉ねぎもいつもの貯蔵玉ねぎの様に塩揉みはせず、粗みじん切りにして、瑞々しい歯ごたえを活かしてある。
今釜本さんは、作り置きのお惣菜をもりもりと食べてくれている。その幸せそうな顔を見ると、由祐も嬉しくなる。今作っているメインも、美味しく食べてくれるといいな、そんなことを考えながら、さくさくと作り上げていく。
お客さまはみなさん、由祐のお料理を美味しそうに食べてくれる。それが日々の励みになっている。
由祐はにんまりとしてしまう。心の中にはいろいろな感情が渦巻いて、でもそれはどれも暖かくて。ぽかぽかとする気持ちに、由祐は心を委ねるのだった。
「ゆうやけ」の片付けを終えた12時半。茨木さんは由祐をお家に送ってくれようと、厨房の片隅に置いてある空のカートに手を伸ばした。そのとき。
「茨木さん、今日はこのまま、少しお酒に付き合ってくれませんか?」
茨木さんの手がぴくりと止まる。
「そらええけど。何かあったか?」
「いいえ。でも少し、日本酒が飲みたくて」
由祐が微笑んで言うと、茨木さんは少し呆れた様に。
「ま、ええけどな」
そう言って頭を掻いた。今だからこそ思う。茨木さんは由祐に厳しくて、甘い。そう、茨木さんは由祐を甘やかしてくれているのだ。もちろん耳に痛いことだって言う。だがその根底にあるのは、由祐への思いやりなのでは無いだろうか。
茨木さんはいつもの席に掛ける。由祐は厨房に入って広口とっくりを出して、そこに日本酒を注ぐ。「真澄」白妙だ。
これは、由祐のはじまりの日本酒だった。お酒の美味しさを知ったこと、今の「ゆうやけ」を始めるきっかけだったこと、そして、茨木さんとの出会いだったこと。
由祐はバッグから、布に包んで巾着袋に入れていた緑色のぐい呑みを出す。清潔な状態のまま、お守りにと持ち歩いていたのだ。
由祐はお家での晩酌では缶ビールを飲むので、今まで使う機会はあまり無かった。それでも最初に買った酒器、それも茨木さんとのお揃いを身に付けることは、由祐の精神安定剤になっていた。
……ああ、そうか、由祐はきっと、ずっと前から茨木さんに惹かれていたのだ。それはゆっくりゆっくりと大きくなって、今日やっと、気付くことができたのだ。
由祐は客席に回り、茨木さんの隣に腰掛ける。茨木さんのぐい呑みにはすでに「真澄」がなみなみと注がれている。由祐も自分のぐい呑みに注いだ。
ふたりはぐい呑みを重ね、茨木さんはぐいっと、由祐はちびりと傾けた。体内にじわりと「真澄」が広がっていく。それはまるで、由祐の中の様々な世界をクリアにしていく様な。
そっか、わたし、ほんまに好きなんや。それが例えほのかなものでも、由祐にとっては大切なもの。由祐の正直な気持ちが自身を幸せにしてくれるのだ。
由祐はそれを守りたい。だからそっと目を伏せて、ゆっくりと、口を開いた。
「……茨木さん、茨木さんは、ずっとわたしのそばにいてくれますか?」
勇気を振り絞って。淡い恋を知って、少し臆病になってしまった由祐は、決して茨木さんの目を見れないけれど。だが。
「ああ、おれは、由祐がここで商売しとる限り、ずっとそばにおる。絶対や」
茨木さんのその強い言葉に、由祐は目尻が潤みそうになる。ああ、こんな、こんなに恵まれていて良いのだろうか。
永遠に続くものなんて無い。
それはかつて茨木さんに言われたことだ。平井さんにだって。それでも由祐は願ってしまう。
由祐の恋心は絶対に報われない。茨木さんはあやかしと人間の関わりについて、特に色恋が絡むことには積極的では無い。それが茨木さんの価値観だ。
だからこそ、由祐はこの「ゆうやけ」を守ることで、自分のわがままを叶えるのだ。
由祐にとって大きなそれを、どうか許して欲しい。もう由祐の人生に、茨木さんはいなくてはならないものになってしまったのだから。
5月、ゴールデンウィークに入った。すっかりと春たけなわだ。気候は暖かくなり、植物園などではバラが可憐にほころんでいるだろう。
「ゆうやけ」は今日も営業である。仕込みを終えた由祐は、カウンタ席に予約制のプレートをふたつ置いた。
「そっか、今日か」
「はい」
すでに飲み始めている茨木さんに、由祐は応える。今日は桑原さんとお母さまが来てくれることになっているのだ。
喫茶店で初めて会ったとき、桑原さんと由祐は連絡先を交換した。チャットSNSのアカウントである。
由祐は差し出がましい様なことはしたくなかったので、こちらから連絡をすることは控えていた。ただあらためてお礼は言いたかったので、それだけは送らせてもらった。
それから、時々だがやりとりが続いた。そして今日、ふたりで来てくれることになったのだ。普段は激務のお母さまだが、連休に入ってやっと時間が作れるとのことだったのだ。
お母さまと桑原さんと、由祐の関係は複雑かも知れない。だが深雪ちゃんも言ってくれた。会う時間は作れなかったので、お電話での会話だったのだが。
「そんなええ人そうやったら、ええ関係が築けたらええね。でも、由祐ちゃんに血縁関係のある人がおってくれて良かった。やっぱりね、おるんとおらんのとでは、ちゃう気がするんよ」
本当にその通りだと思う。迷惑がられる様なことがあれば潔く離れるが、それまでは繋がりがあれば嬉しいと思う。
表の木札を営業中に返すと、今日も龍さんがやってくる。
「龍さん、いらっしゃいませ」
「ほっほ、由祐ちゃん、今日もよろしゅうな」
龍さんを促して、由祐も中に入る。龍さんは茨木さんの横に座り、由祐はおしぼりとおちょこを出した。
「何にしはります?」
「茨木と同じもんで」
「はい、お待ちくださいね」
今日の茨木さんは「伯楽星」純米吟醸だ。宮城県の新澤醸造店が醸している。果物の様な爽やかさが香り、ほのかな酸味がきりっとした味わいを生み出す、食中酒にもぴったりの逸品である。
由祐は冷蔵庫から緑色の一升瓶を出し、広口とっくりに注いで出した。
「はい、どうぞ」
「ありがとうさん」
茨木さんと龍さんは乾杯をし、揃って静かに杯を傾ける。
緩やかな時間が流れる。今日もきっとあやかしの皆さん、そして人間の常連さんが、この「ゆうやけ」を彩ってくれる。由祐のお料理を食べて、お酒を飲んで、おしゃべりをして、憩って。
そんな空間を、茨木さんと作っていける瞬間が、本当に由祐の宝物だ。これからも守っていきたい。由祐がふっと頬を和ますと。
開き戸がからりと開いた。
「由祐さん、こんにちは」
桑原さんだ。ということは、あとに続いて入ってきた妙齢の女性は、きっと。
「あなたが由祐さんやね。こんにちは、お会いできてうれしいわ」
女性はそう言って、淑やかな笑みを浮かべた。
「お母さま、翔悟お兄さん、ようこそいらっしゃいませ。わたしも、お会いできて嬉しいです」
由祐は言って、満面の笑みになったのだった。
二口女の釜本さんは、こうして毎日お料理を食べ尽くしてくれるので、本当に助かっている。もちろん由祐の晩酌用はタッパーに取り分けてある。今日は菜の花の卵とじとポテトサラダを詰めた。
ポテトサラダは皮ごとの新じゃがいもと新玉ねぎを使っている。これも春だけのごちそうだ。水分をたっぷりと蓄えた新じゃがいもはねっとりと甘い。新玉ねぎもいつもの貯蔵玉ねぎの様に塩揉みはせず、粗みじん切りにして、瑞々しい歯ごたえを活かしてある。
今釜本さんは、作り置きのお惣菜をもりもりと食べてくれている。その幸せそうな顔を見ると、由祐も嬉しくなる。今作っているメインも、美味しく食べてくれるといいな、そんなことを考えながら、さくさくと作り上げていく。
お客さまはみなさん、由祐のお料理を美味しそうに食べてくれる。それが日々の励みになっている。
由祐はにんまりとしてしまう。心の中にはいろいろな感情が渦巻いて、でもそれはどれも暖かくて。ぽかぽかとする気持ちに、由祐は心を委ねるのだった。
「ゆうやけ」の片付けを終えた12時半。茨木さんは由祐をお家に送ってくれようと、厨房の片隅に置いてある空のカートに手を伸ばした。そのとき。
「茨木さん、今日はこのまま、少しお酒に付き合ってくれませんか?」
茨木さんの手がぴくりと止まる。
「そらええけど。何かあったか?」
「いいえ。でも少し、日本酒が飲みたくて」
由祐が微笑んで言うと、茨木さんは少し呆れた様に。
「ま、ええけどな」
そう言って頭を掻いた。今だからこそ思う。茨木さんは由祐に厳しくて、甘い。そう、茨木さんは由祐を甘やかしてくれているのだ。もちろん耳に痛いことだって言う。だがその根底にあるのは、由祐への思いやりなのでは無いだろうか。
茨木さんはいつもの席に掛ける。由祐は厨房に入って広口とっくりを出して、そこに日本酒を注ぐ。「真澄」白妙だ。
これは、由祐のはじまりの日本酒だった。お酒の美味しさを知ったこと、今の「ゆうやけ」を始めるきっかけだったこと、そして、茨木さんとの出会いだったこと。
由祐はバッグから、布に包んで巾着袋に入れていた緑色のぐい呑みを出す。清潔な状態のまま、お守りにと持ち歩いていたのだ。
由祐はお家での晩酌では缶ビールを飲むので、今まで使う機会はあまり無かった。それでも最初に買った酒器、それも茨木さんとのお揃いを身に付けることは、由祐の精神安定剤になっていた。
……ああ、そうか、由祐はきっと、ずっと前から茨木さんに惹かれていたのだ。それはゆっくりゆっくりと大きくなって、今日やっと、気付くことができたのだ。
由祐は客席に回り、茨木さんの隣に腰掛ける。茨木さんのぐい呑みにはすでに「真澄」がなみなみと注がれている。由祐も自分のぐい呑みに注いだ。
ふたりはぐい呑みを重ね、茨木さんはぐいっと、由祐はちびりと傾けた。体内にじわりと「真澄」が広がっていく。それはまるで、由祐の中の様々な世界をクリアにしていく様な。
そっか、わたし、ほんまに好きなんや。それが例えほのかなものでも、由祐にとっては大切なもの。由祐の正直な気持ちが自身を幸せにしてくれるのだ。
由祐はそれを守りたい。だからそっと目を伏せて、ゆっくりと、口を開いた。
「……茨木さん、茨木さんは、ずっとわたしのそばにいてくれますか?」
勇気を振り絞って。淡い恋を知って、少し臆病になってしまった由祐は、決して茨木さんの目を見れないけれど。だが。
「ああ、おれは、由祐がここで商売しとる限り、ずっとそばにおる。絶対や」
茨木さんのその強い言葉に、由祐は目尻が潤みそうになる。ああ、こんな、こんなに恵まれていて良いのだろうか。
永遠に続くものなんて無い。
それはかつて茨木さんに言われたことだ。平井さんにだって。それでも由祐は願ってしまう。
由祐の恋心は絶対に報われない。茨木さんはあやかしと人間の関わりについて、特に色恋が絡むことには積極的では無い。それが茨木さんの価値観だ。
だからこそ、由祐はこの「ゆうやけ」を守ることで、自分のわがままを叶えるのだ。
由祐にとって大きなそれを、どうか許して欲しい。もう由祐の人生に、茨木さんはいなくてはならないものになってしまったのだから。
5月、ゴールデンウィークに入った。すっかりと春たけなわだ。気候は暖かくなり、植物園などではバラが可憐にほころんでいるだろう。
「ゆうやけ」は今日も営業である。仕込みを終えた由祐は、カウンタ席に予約制のプレートをふたつ置いた。
「そっか、今日か」
「はい」
すでに飲み始めている茨木さんに、由祐は応える。今日は桑原さんとお母さまが来てくれることになっているのだ。
喫茶店で初めて会ったとき、桑原さんと由祐は連絡先を交換した。チャットSNSのアカウントである。
由祐は差し出がましい様なことはしたくなかったので、こちらから連絡をすることは控えていた。ただあらためてお礼は言いたかったので、それだけは送らせてもらった。
それから、時々だがやりとりが続いた。そして今日、ふたりで来てくれることになったのだ。普段は激務のお母さまだが、連休に入ってやっと時間が作れるとのことだったのだ。
お母さまと桑原さんと、由祐の関係は複雑かも知れない。だが深雪ちゃんも言ってくれた。会う時間は作れなかったので、お電話での会話だったのだが。
「そんなええ人そうやったら、ええ関係が築けたらええね。でも、由祐ちゃんに血縁関係のある人がおってくれて良かった。やっぱりね、おるんとおらんのとでは、ちゃう気がするんよ」
本当にその通りだと思う。迷惑がられる様なことがあれば潔く離れるが、それまでは繋がりがあれば嬉しいと思う。
表の木札を営業中に返すと、今日も龍さんがやってくる。
「龍さん、いらっしゃいませ」
「ほっほ、由祐ちゃん、今日もよろしゅうな」
龍さんを促して、由祐も中に入る。龍さんは茨木さんの横に座り、由祐はおしぼりとおちょこを出した。
「何にしはります?」
「茨木と同じもんで」
「はい、お待ちくださいね」
今日の茨木さんは「伯楽星」純米吟醸だ。宮城県の新澤醸造店が醸している。果物の様な爽やかさが香り、ほのかな酸味がきりっとした味わいを生み出す、食中酒にもぴったりの逸品である。
由祐は冷蔵庫から緑色の一升瓶を出し、広口とっくりに注いで出した。
「はい、どうぞ」
「ありがとうさん」
茨木さんと龍さんは乾杯をし、揃って静かに杯を傾ける。
緩やかな時間が流れる。今日もきっとあやかしの皆さん、そして人間の常連さんが、この「ゆうやけ」を彩ってくれる。由祐のお料理を食べて、お酒を飲んで、おしゃべりをして、憩って。
そんな空間を、茨木さんと作っていける瞬間が、本当に由祐の宝物だ。これからも守っていきたい。由祐がふっと頬を和ますと。
開き戸がからりと開いた。
「由祐さん、こんにちは」
桑原さんだ。ということは、あとに続いて入ってきた妙齢の女性は、きっと。
「あなたが由祐さんやね。こんにちは、お会いできてうれしいわ」
女性はそう言って、淑やかな笑みを浮かべた。
「お母さま、翔悟お兄さん、ようこそいらっしゃいませ。わたしも、お会いできて嬉しいです」
由祐は言って、満面の笑みになったのだった。
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最新話まで読ませていただきました。由裕のお父さんの件がこう繋がってくるのですね。ついつい先を読んでしまいました。
美味しそうな食事、賑やかで頼もしいあやかしたち、深雪や平井さんをはじめとした気概のいい人たち。彼らのやりとりを見ていてほっこりと素敵な気持ちになるお話だなあと思いました。ご馳走さまでした。
ご感想ありがとうございます!
最新話までご覧くださり、ありがとうございます。
ほっこりとしてくださり、本当にほっとしています。
ごはんや、あやかしや人とのふれあいで、そういった雰囲気が出せているのなら、ほんまに嬉しいです。
ありがとうございました!( ̄∇ ̄*)
まだ途中ですが、大阪の情景や飲食店の裏側、お酒の知識などが丁寧に描かれていて、とても読み応えのある作品だなと思いました。
由裕がお酒や母のことを自分なりに理解して、友人とともに視野を広げていく姿がよかったです。彼女が言うように、もっと勉強しないと視野が狭いままだな、なんて思いました。
ご感想ありがとうございます!
わたし自身が大阪出身在住で、大好きな大阪を舞台にしつつ、また大好きなお酒を扱わせていただいております。
なので、読み応えがあると言っていただけて、本当に嬉しいです。
お話はもう少しだけ続きます。またお時間がありましたら、お付き合いいただけましたら幸いです。
ありがとうございました!( ̄∇ ̄*)