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5章 前に進むために
第5話 お父さんの人となり
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それから由祐は、お財布にしまってあるキャッシュカードから遺産の振込先を立花さんに伝え、それからはお父さんのお話を、桑原さんにたくさん聞かせてもらった。
お父さんの名前は洋祐、桑原洋祐といった。享年72歳。あの場所での居酒屋は70歳までの10年間、続けたのだそう。写真も見せてもらったのだが、穏やかそうな人で、優しそうな笑顔を浮かべていた。
お料理上手なお父さんは、桑原家の家事担当だったそうだ。奥さまはお医者さんで、日々を忙しくしていて、家事にまで手が回らなかったそうなのだ。
「今にして思えば、父なりの罪滅ぼしのつもりやったんかも知れんのですけど。いや、これは穿って見すぎかな?」
もちろん今や何も知ることはできないが、お父さんが少しでも奥さまと桑原さんに申し訳無いことをしたと思っていたのなら、少しは救われるのでは無いだろうか。
実際お母さんにも悪いことをしたと思っていたから、こうして荻野家に遺産を遺そうとしてくれたわけだし。
ちなみに、お父さんの遺産は相続税が掛からない額なのだそうだ。由祐は詳しいことは分からないのだが、きっと難しいことだし、立花さんも余計なことだと特に口にすることは無かった。
「うちはね、母が大黒柱なんですよ。外科医で、総合病院勤めでね。父とは少し歳の差があって、まだ64歳で現役です。私の実家は持ち家なんですけど、そこも母の名義でローンを払ってたのも母でした。今は私も独立して、結婚もして所帯を持ってますけどね」
奥さまは、それはもう毅然とした女性なのだそうだ。息子である桑原さんも、時々息が詰まりそうになってしまっていたのだとか。
「浮気は確かにあかんのですけど、父も、外で癒されたかったんかなぁって。せやからラウンジ通いしてたんかなぁって。浮気なんてせずに、ただの息抜きで済めば良かったのに」
本当にそうだ。お父さんがお母さんにしたことは、どうしても許されるものでは無いのだが、少しだけ、ほんの少しだけ、お父さんの気持ちが分からないことは無い。
由祐から見たお母さんは曲がったことが嫌いだったから、お父さんが既婚者だと正直に言えば、絶対にお父さんの誘いには乗らなかったのだろう。
お母さんは悔やんだだろうか、お父さんに裏切られて、恨んだだろうか。
無意識とはいえ由祐にお酒への苦手意識を植え付けた一面、挨拶は大事だと教えてくれた一面、そして、由祐の前ではいつでも笑顔でいてくれた一面。
そうだ、お母さんこそ、我が道を行く人だった。だからお父さんに去られても由祐を産んでくれた。新たな生命を慈しんでくれたのだ。苦労するのが目に見えているのだから、堕胎する選択肢だってあっただろうに。
由祐が祖父母との関わりが無いのは、お母さんのお仕事が影響したからだと聞いた。祖父母はともに教師だったのだそうだ。そんな厳格な祖父母は、お母さんがラウンジ嬢をすることが許せなかったのだ。
お仕事に貴賤は無し、なんて口で言うのは簡単だ。祖父母もきっと学校ではそういう教育をしていたのかも知れない。それでも娘であるお母さんのお仕事には理解を示せなかった。
そこで、結婚もせずに妊娠してしまい、しかも相手は既婚者。そのときすでに勘当状態であったお母さんは当然両親、由祐にとっての祖父母には頼れない。
つくづくと、お母さんは凄い人だったのだな、と思う。それはきっと、桑原さんのお母さまも。
「お母さまは、厳しい方なんですか?」
「そうですね、確かに厳しかったかも知れません。でもね、私、そんな母には憧れもあったんですよ。格好良い人です。もちろん私には見せへん脆いとこかてあるんかも知れません。でもそれを感じさせん人です。せやから私も医学方面に進みたいて思って。でも私に医学部に入るほどの頭はありませんでしたから、何とか薬学部に。薬剤師になりました。あ、父はあんま仕事では有能では無かったみたいです。出世コースからは外れとった様で」
「あらま」
由祐は思わず苦笑してしまう。何だか想像ができてしまう。浮気相手を妊娠させてしまう迂闊さと、似通っている様に思える。
「でもね、家のことはほんまに有能やったんですよ。それが定年後の居酒屋に繋がって、70になるまでそれなりにやってたんですから、そっちの才能はあったんでしょう。荻野さんと一緒ですね」
「そうですね」
複雑な思いを抱きながらも、どこか嬉しさも感じていた。これまで影も形も知らなかったお父さんが、少しずつだが見えてくる様な気がしてくる。
優しくて、でもちょっと卑怯で、もしかしたら臆病で、でもきっと思いやりがあった。人なんていろいろな側面があって形成されているものだから、由祐が口走ってしまった「クズ」もお父さんの一面で、そんないろいろなプラスとマイナスが寄り合わさった人だったのだろう。
「あの、荻野さん、ご迷惑で無ければ、今度母と、お店にお伺いしてええですか? ほんまは今日は母も来たがってたんですけど、どうしても外せん手術があるてことで。私らも、荻野さんの料理が食べてみたいです」
「はい、ぜひ!」
由祐が破顔すると、桑原さんも笑顔になってくれた。
「ありがとうございます」
「いつでも来てください。うちの一押しはどて焼きなんですよ」
「え、父の店と一緒や」
「あら」
桑原さんと由祐は、思わず「ふふ」と微笑みあったのだった。
お父さんの名前は洋祐、桑原洋祐といった。享年72歳。あの場所での居酒屋は70歳までの10年間、続けたのだそう。写真も見せてもらったのだが、穏やかそうな人で、優しそうな笑顔を浮かべていた。
お料理上手なお父さんは、桑原家の家事担当だったそうだ。奥さまはお医者さんで、日々を忙しくしていて、家事にまで手が回らなかったそうなのだ。
「今にして思えば、父なりの罪滅ぼしのつもりやったんかも知れんのですけど。いや、これは穿って見すぎかな?」
もちろん今や何も知ることはできないが、お父さんが少しでも奥さまと桑原さんに申し訳無いことをしたと思っていたのなら、少しは救われるのでは無いだろうか。
実際お母さんにも悪いことをしたと思っていたから、こうして荻野家に遺産を遺そうとしてくれたわけだし。
ちなみに、お父さんの遺産は相続税が掛からない額なのだそうだ。由祐は詳しいことは分からないのだが、きっと難しいことだし、立花さんも余計なことだと特に口にすることは無かった。
「うちはね、母が大黒柱なんですよ。外科医で、総合病院勤めでね。父とは少し歳の差があって、まだ64歳で現役です。私の実家は持ち家なんですけど、そこも母の名義でローンを払ってたのも母でした。今は私も独立して、結婚もして所帯を持ってますけどね」
奥さまは、それはもう毅然とした女性なのだそうだ。息子である桑原さんも、時々息が詰まりそうになってしまっていたのだとか。
「浮気は確かにあかんのですけど、父も、外で癒されたかったんかなぁって。せやからラウンジ通いしてたんかなぁって。浮気なんてせずに、ただの息抜きで済めば良かったのに」
本当にそうだ。お父さんがお母さんにしたことは、どうしても許されるものでは無いのだが、少しだけ、ほんの少しだけ、お父さんの気持ちが分からないことは無い。
由祐から見たお母さんは曲がったことが嫌いだったから、お父さんが既婚者だと正直に言えば、絶対にお父さんの誘いには乗らなかったのだろう。
お母さんは悔やんだだろうか、お父さんに裏切られて、恨んだだろうか。
無意識とはいえ由祐にお酒への苦手意識を植え付けた一面、挨拶は大事だと教えてくれた一面、そして、由祐の前ではいつでも笑顔でいてくれた一面。
そうだ、お母さんこそ、我が道を行く人だった。だからお父さんに去られても由祐を産んでくれた。新たな生命を慈しんでくれたのだ。苦労するのが目に見えているのだから、堕胎する選択肢だってあっただろうに。
由祐が祖父母との関わりが無いのは、お母さんのお仕事が影響したからだと聞いた。祖父母はともに教師だったのだそうだ。そんな厳格な祖父母は、お母さんがラウンジ嬢をすることが許せなかったのだ。
お仕事に貴賤は無し、なんて口で言うのは簡単だ。祖父母もきっと学校ではそういう教育をしていたのかも知れない。それでも娘であるお母さんのお仕事には理解を示せなかった。
そこで、結婚もせずに妊娠してしまい、しかも相手は既婚者。そのときすでに勘当状態であったお母さんは当然両親、由祐にとっての祖父母には頼れない。
つくづくと、お母さんは凄い人だったのだな、と思う。それはきっと、桑原さんのお母さまも。
「お母さまは、厳しい方なんですか?」
「そうですね、確かに厳しかったかも知れません。でもね、私、そんな母には憧れもあったんですよ。格好良い人です。もちろん私には見せへん脆いとこかてあるんかも知れません。でもそれを感じさせん人です。せやから私も医学方面に進みたいて思って。でも私に医学部に入るほどの頭はありませんでしたから、何とか薬学部に。薬剤師になりました。あ、父はあんま仕事では有能では無かったみたいです。出世コースからは外れとった様で」
「あらま」
由祐は思わず苦笑してしまう。何だか想像ができてしまう。浮気相手を妊娠させてしまう迂闊さと、似通っている様に思える。
「でもね、家のことはほんまに有能やったんですよ。それが定年後の居酒屋に繋がって、70になるまでそれなりにやってたんですから、そっちの才能はあったんでしょう。荻野さんと一緒ですね」
「そうですね」
複雑な思いを抱きながらも、どこか嬉しさも感じていた。これまで影も形も知らなかったお父さんが、少しずつだが見えてくる様な気がしてくる。
優しくて、でもちょっと卑怯で、もしかしたら臆病で、でもきっと思いやりがあった。人なんていろいろな側面があって形成されているものだから、由祐が口走ってしまった「クズ」もお父さんの一面で、そんないろいろなプラスとマイナスが寄り合わさった人だったのだろう。
「あの、荻野さん、ご迷惑で無ければ、今度母と、お店にお伺いしてええですか? ほんまは今日は母も来たがってたんですけど、どうしても外せん手術があるてことで。私らも、荻野さんの料理が食べてみたいです」
「はい、ぜひ!」
由祐が破顔すると、桑原さんも笑顔になってくれた。
「ありがとうございます」
「いつでも来てください。うちの一押しはどて焼きなんですよ」
「え、父の店と一緒や」
「あら」
桑原さんと由祐は、思わず「ふふ」と微笑みあったのだった。
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