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5章 前に進むために
第4話 だからこそ
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お母さまと桑原さんのお申し出はありがたいと思う。お金はあって困ることは無い。だが何度考えても、由祐に相続する権利は無いのでは、と思うのだ。
やはり、法律上の子どもでは無いということが大きい。確かに由祐だって、少なからず苦労したという自負はある。だがいちばん大変だったのは、由祐をひとりで産んで、働いて、育ててくれたお母さんだ。
お母さんが今生きていたら、由祐は間違い無く「いただいておこう」と言うだろう。お母さんにはその権利がある。
だが、やはり由祐にあるとは思えないのだ。
だから、断ろうと思って口を開き掛けた。そのとき。
「由祐、もろとけ」
静かな声でそう言ったのは、茨木さんだった。由祐は驚き目を丸くして、茨木さんを見上げる。
「でも」
「その方が、相手の気も済むやろ」
「そう、でしょうか」
由祐は戸惑ってしまう。すると桑原さんは、味方ができたとばかりに身を乗り出す。
「そうですよ、荻野さん。何やったら臨時収入やとでも思って、受け取ってください。正直なところ、1割にしたらそんな大金や無いんですよ。父は普通の会社員で、新卒で入った会社を定年まで勤めたんで、退職金は満額もらえましたけど、そのあと居酒屋を始めましてね、開店資金で結構使ってます。店はそこそこ流行ってたみたいですけど、リースナブルな店やったから、トータルしたらそんな稼ぎは出んかったんですよね」
「父は、居酒屋さんをしてたんですか?」
「そうなんです。父は料理上手でしたね。きっと、荻野さんがそれを受け継いだんでしょうね、私はからっきしですから」
不思議だ。由祐のお料理の腕は、まるでお父さんからの財産の様だ。何となく心がふうわりと暖かくなる。
「場所は新世界で、実はね、今、荻野さんが店やってはる場所で、やったんですよ。歳で身体がきつぅなって引退したんです」
「……え?」
由祐は唖然としてしまう。由祐の前に、あの場所で、居酒屋をやっていたのが、お父さん?
「ほんま、なんですか? それ」
「はい」
桑原さんは深く頷く。立花さんが「いやぁ、驚きましたぁ」とあとを引き受けた。
「実はねぇ、桑原と私は大学のサークルの同期でしてねぇ。私が法学部で、桑原は文学部でした。その縁で、桑原の遺言書を預かったんですよ~。桑原が亡くなった原因はすい臓がんでしてねぇ、見つかったときにはもう手遅れで。それで私を病室に呼んで、遺言書を書いたんです。せやから私は、遺言書の内容を知ってました。浮気のことはもちろん驚きましたし憤りましたけど、死に向かっている人間に無体なことはできません。「阿呆なことしたな」、それだけ言うて飲み込みました。それに、そのことを責める資格があるのは奥さまと翔悟さん、そして荻野さんとお母さまですからねぇ。知るころには亡くなってるわけですが」
由祐はちろ、と茨木さんを見上げる。だが驚いた様子は無い。いつも冷静な茨木さんだから、いつも通りの無表情を保っているのか、……それとも、まさか。
「病気になったことは、バチが当たったんやなぁなんて母と言ってたんですよ。それまでは善良な父親て疑わへんかったのに、それどころや無かった。いやまぁ、今さら言うてもどうにもならんのですけどね。せやからせめて、荻野さんにはきちんとお詫びと、託された財産分与をさしてもらいたいんです」
「奥さまと翔悟くんからその意思を聞きまして、私が調査会社に依頼しましたぁ。そこでお母さまが亡くなられていたこと、荻野さんが新世界で、しかも桑原がかつて商売していたところでお惣菜酒房をされていたことを知ったんですよぉ。これが荻野さんにとってご縁なんか酷なんかは、私ごときでは分かりません。ですが、死者に鞭打つ様なことはやっぱりしたくなくて。酷いことしたやつですけど、慈悲の心を持っていただけたらって思ってしまうんです」
由祐が産まれたときからいなかった、会ったことも無い、顔も知らないお父さん。恨むとか、そういった気持ちは沸かない。確かに阿呆なことをしたのだろう。お母さんは大変な思いをした。それでも。
由祐のお料理の腕がお父さん由来なのなら、それは今由祐の武器になっているし、そのおかげで深雪ちゃんに喜んでもらえて、茨木さんに出会えたとも言える。感謝の気持ちすら芽生えてしまうのが不思議だった。
どうするのが最善なのか。そう思うと、今なら、たったひとつしか思い浮かばなかった。由祐はあらためて姿勢を正す。
「わたし、あの、父に悪感情はありません。確かに母には酷いことをしましたが、わたしがお料理で身を立てられているのはお父さんのおかげかも知れませんし、お店の場所も、めっちゃええ物件ですから、良縁やと思ってます。ですので、……父の遺産、謹んでお受け取りさせていただきます」
すると、桑原さんと立花さんが揃って目を見開いて、「はぁ~」と脱力したあと「良かったぁ~」と言い合った。
「ほんまに良かったです。父が荻野さんにしたことの罪は消えませんが、これで少しは肩の荷が下りた気がします。母と私の自己満足なんでしょうし、お詫びする以外どう償ったらええんか正直分からんのですが、せめて金銭面だけでもできることがあるんやったら、私らも救われます」
「いえ、こちらこそ、そこまでお気に留めていただいて、ほんまにありがとうございます。正直、こちらにしてみても寝耳に水やったんで驚いたんですけど、あの、父の遺産は、大事に、お店のために使わせていただきます」
「うん、ええ様に使ってください。ほんまにありがとうございます」
「いえ、もう、ほんまにこちらこそなんで」
良かった、何とか良いところに落ち着くことができただろうか。由祐がほっとして茨木さんを見上げると、その無表情の中に、少しの安堵が見えた気がした。
やはり、法律上の子どもでは無いということが大きい。確かに由祐だって、少なからず苦労したという自負はある。だがいちばん大変だったのは、由祐をひとりで産んで、働いて、育ててくれたお母さんだ。
お母さんが今生きていたら、由祐は間違い無く「いただいておこう」と言うだろう。お母さんにはその権利がある。
だが、やはり由祐にあるとは思えないのだ。
だから、断ろうと思って口を開き掛けた。そのとき。
「由祐、もろとけ」
静かな声でそう言ったのは、茨木さんだった。由祐は驚き目を丸くして、茨木さんを見上げる。
「でも」
「その方が、相手の気も済むやろ」
「そう、でしょうか」
由祐は戸惑ってしまう。すると桑原さんは、味方ができたとばかりに身を乗り出す。
「そうですよ、荻野さん。何やったら臨時収入やとでも思って、受け取ってください。正直なところ、1割にしたらそんな大金や無いんですよ。父は普通の会社員で、新卒で入った会社を定年まで勤めたんで、退職金は満額もらえましたけど、そのあと居酒屋を始めましてね、開店資金で結構使ってます。店はそこそこ流行ってたみたいですけど、リースナブルな店やったから、トータルしたらそんな稼ぎは出んかったんですよね」
「父は、居酒屋さんをしてたんですか?」
「そうなんです。父は料理上手でしたね。きっと、荻野さんがそれを受け継いだんでしょうね、私はからっきしですから」
不思議だ。由祐のお料理の腕は、まるでお父さんからの財産の様だ。何となく心がふうわりと暖かくなる。
「場所は新世界で、実はね、今、荻野さんが店やってはる場所で、やったんですよ。歳で身体がきつぅなって引退したんです」
「……え?」
由祐は唖然としてしまう。由祐の前に、あの場所で、居酒屋をやっていたのが、お父さん?
「ほんま、なんですか? それ」
「はい」
桑原さんは深く頷く。立花さんが「いやぁ、驚きましたぁ」とあとを引き受けた。
「実はねぇ、桑原と私は大学のサークルの同期でしてねぇ。私が法学部で、桑原は文学部でした。その縁で、桑原の遺言書を預かったんですよ~。桑原が亡くなった原因はすい臓がんでしてねぇ、見つかったときにはもう手遅れで。それで私を病室に呼んで、遺言書を書いたんです。せやから私は、遺言書の内容を知ってました。浮気のことはもちろん驚きましたし憤りましたけど、死に向かっている人間に無体なことはできません。「阿呆なことしたな」、それだけ言うて飲み込みました。それに、そのことを責める資格があるのは奥さまと翔悟さん、そして荻野さんとお母さまですからねぇ。知るころには亡くなってるわけですが」
由祐はちろ、と茨木さんを見上げる。だが驚いた様子は無い。いつも冷静な茨木さんだから、いつも通りの無表情を保っているのか、……それとも、まさか。
「病気になったことは、バチが当たったんやなぁなんて母と言ってたんですよ。それまでは善良な父親て疑わへんかったのに、それどころや無かった。いやまぁ、今さら言うてもどうにもならんのですけどね。せやからせめて、荻野さんにはきちんとお詫びと、託された財産分与をさしてもらいたいんです」
「奥さまと翔悟くんからその意思を聞きまして、私が調査会社に依頼しましたぁ。そこでお母さまが亡くなられていたこと、荻野さんが新世界で、しかも桑原がかつて商売していたところでお惣菜酒房をされていたことを知ったんですよぉ。これが荻野さんにとってご縁なんか酷なんかは、私ごときでは分かりません。ですが、死者に鞭打つ様なことはやっぱりしたくなくて。酷いことしたやつですけど、慈悲の心を持っていただけたらって思ってしまうんです」
由祐が産まれたときからいなかった、会ったことも無い、顔も知らないお父さん。恨むとか、そういった気持ちは沸かない。確かに阿呆なことをしたのだろう。お母さんは大変な思いをした。それでも。
由祐のお料理の腕がお父さん由来なのなら、それは今由祐の武器になっているし、そのおかげで深雪ちゃんに喜んでもらえて、茨木さんに出会えたとも言える。感謝の気持ちすら芽生えてしまうのが不思議だった。
どうするのが最善なのか。そう思うと、今なら、たったひとつしか思い浮かばなかった。由祐はあらためて姿勢を正す。
「わたし、あの、父に悪感情はありません。確かに母には酷いことをしましたが、わたしがお料理で身を立てられているのはお父さんのおかげかも知れませんし、お店の場所も、めっちゃええ物件ですから、良縁やと思ってます。ですので、……父の遺産、謹んでお受け取りさせていただきます」
すると、桑原さんと立花さんが揃って目を見開いて、「はぁ~」と脱力したあと「良かったぁ~」と言い合った。
「ほんまに良かったです。父が荻野さんにしたことの罪は消えませんが、これで少しは肩の荷が下りた気がします。母と私の自己満足なんでしょうし、お詫びする以外どう償ったらええんか正直分からんのですが、せめて金銭面だけでもできることがあるんやったら、私らも救われます」
「いえ、こちらこそ、そこまでお気に留めていただいて、ほんまにありがとうございます。正直、こちらにしてみても寝耳に水やったんで驚いたんですけど、あの、父の遺産は、大事に、お店のために使わせていただきます」
「うん、ええ様に使ってください。ほんまにありがとうございます」
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