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5章 前に進むために
第3話 儚いもの
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「……やっぱり、わたしの母は、父の浮気相手やったんですね。もしかしたらって思ってたんですけど」
由祐がぽつりと言うと、立花さんは一瞬目を丸くして、それでもゆったりと頷いた。
「はい、そうなりますねぇ。こちらの桑原さん、そしてお母さまが荻野さんのことを知ったのが、お父さまが亡くなられたあとに公開された、遺言書の中でのことになるのですよ」
立花さんがビジネスバッグから出した封筒をテーブルに置き、由祐に滑らす。封筒の表には遺言書と書かれていた。
「よろしければ、ご覧ください。お父さまの遺言書です」
「ええんですか?」
「はい」
由祐はおずおずと遺言書に手を伸ばす。そっと持ち上げて、中身を出した。縦書きの罫線入りのシンプルな便箋に、手書きのボールペン文字が並んでいた。あまり綺麗な字では無いが、丁寧に書かれていたのでちゃんと読める。
そこには遺産の相続先などがひとつひとつ丁寧に書かれている。見たところ、奥さまと息子さんである桑原さんにほぼ等分になる様になっている様だ。
その間に、由祐たちのコーヒーが届いた。まだ手を付ける気にはなれない。
最後の方に、お母さんのことが書かれていて、由祐は目を見開いた。
私には、若い頃に関係を持っていた女性がいる。荻野香苗と言う。
香苗がなんばのラウンジで働いている所に、客として行った私と出会い、私が一目惚れをしてしまったのだ。
私は結婚指輪を着ける習慣が無いのを良い事に、独身と偽って香苗と付き合った。
しかし香苗が身籠ってしまったので、私は実は妻子持ちだと言う事を明かして、香苗から逃げたのだ。
今でもその事を後悔している。
香苗とお腹の子は苦労したと思う。
お詫びとして、遺産の十パーセントを香苗親子に譲りたい。
当時の家は、確か大国町だった筈である。どうか見つけ出して、私の代わりに謝って欲しい。
「これ……」
由祐は愕然として思わず声を漏らす。しかし、この文面のままお父さんを捉えるなら。
「おとん、クズやん」
思わず呆れた様な言葉を出していた。すると斜め前に座っている桑原さんが「ぷっ」と吹き出す。
「あっ、すいません、人さまのお父さまに! いや、わたしの父でもあるかも知れんのですけど」
由祐が慌てると。
「いやいや、母と私も同じことを思いましたから。人さまの大事な娘さんを騙して妊娠させてって、母は特に怒ってましたねぇ」
そういう桑原さんに悲壮感や怒りなどの感情は見られない。由祐としては、責められても当然だと思っていたので、友好的にも見える桑原さんに驚いてしまう。
思わず茨木さんと見ると、そこにはいつもと変わらない茨木さん。だからこそ由祐はほっと安心してしまう。
「お母さまと桑原さんには、ほんまに申し訳無いことをしました。母は確かに騙されていたんかも知れませんけど、不倫をしていたのは事実なんですから」
「いや、ほんまに、私らは荻野さんのお母さまに悪印象はまるで無いんですよ。言うてしまえば、お母さまかて父の被害者なんですから。父との子を、あなたを妊娠して、結婚できるて思いはっても不思議や無かったし、そんなときに実は結婚してて子どももおるって知らされたときは、ほんまにショックやったと思います」
「それは、そうでしょうけど」
由祐の立場としては、ただただ申し訳無いという気持ちしか沸いてこないのだ。自分は庶子だった。その事実は決して軽く無い。
「ほんまに、お母さまとご自分を責めんといてくださいね。このことは、責められるんは父ひとりやと、母も私も思ってます。父はもうあの世に逝ってしもたから、何も言えんですけどね」
桑原さんはそう言って、暖かな笑顔を見せてくれた。由祐は桑原さんの懐の大きさに感嘆し、心の底から感謝の念が芽生える。だからこそ。
「ほんまに、ありがとうございます」
こう言うのが精一杯だった。
「母も私も、父の遺産の一部を、ぜひ受け取って欲しいて思ってます。私らが知らんかったということは、認知はもちろん、養育費なんてのも父は払ってへんかったでしょうから、その埋め合わせやと思ってもらえたら。もちろん足りひんやろうってことは分かってるんですけど、それぐらいはさせてもらわんと、母と私の気が済みませんので。お母さまを亡くされて、ご苦労もあったでしょうから」
「いえ、それこそお母さまと桑原さんで相続してください。わたしは不義の子です。お母さまと桑原さんにそこまでしていただく筋は無いと思うんです。それにわたしは法律上、父の子や無いんですから」
「確かにそうかも知れません。でも筋て言うなら、本来なら荻野さんは父の遺産の4分の1を相続する権利があるんですよ。父が認知もせずに逃げる様な真似したから、こんなことになっとる。父の不義理の清算の意味、ちゅうにしても軽すぎなんですけど、それで少しでも溜飲を下げて欲しいて思ってます」
「溜飲なんて」
遺産相続は、夫婦どちらかが死去した場合、遺言などで特筆が無ければ、配偶者に2分の1、子に2分の1の相続が発生する。子が複数いた場合、その2分の1を人数分等分にするのが法定相続分である。
由祐がお父さんをグズだと思ったことは事実だ。だが顔も見たことが無い人を、許すも許さないも、という気持ちが大きい。由祐の中でお父さんは最初からいなかった人であり、亡くなったと聞かされた今でも、いまいち現実感が伴わないのだ。
生物学上「だけ」の親なんて、子にとっては儚いものなのだな、なんて由祐は思ったのだった。
由祐がぽつりと言うと、立花さんは一瞬目を丸くして、それでもゆったりと頷いた。
「はい、そうなりますねぇ。こちらの桑原さん、そしてお母さまが荻野さんのことを知ったのが、お父さまが亡くなられたあとに公開された、遺言書の中でのことになるのですよ」
立花さんがビジネスバッグから出した封筒をテーブルに置き、由祐に滑らす。封筒の表には遺言書と書かれていた。
「よろしければ、ご覧ください。お父さまの遺言書です」
「ええんですか?」
「はい」
由祐はおずおずと遺言書に手を伸ばす。そっと持ち上げて、中身を出した。縦書きの罫線入りのシンプルな便箋に、手書きのボールペン文字が並んでいた。あまり綺麗な字では無いが、丁寧に書かれていたのでちゃんと読める。
そこには遺産の相続先などがひとつひとつ丁寧に書かれている。見たところ、奥さまと息子さんである桑原さんにほぼ等分になる様になっている様だ。
その間に、由祐たちのコーヒーが届いた。まだ手を付ける気にはなれない。
最後の方に、お母さんのことが書かれていて、由祐は目を見開いた。
私には、若い頃に関係を持っていた女性がいる。荻野香苗と言う。
香苗がなんばのラウンジで働いている所に、客として行った私と出会い、私が一目惚れをしてしまったのだ。
私は結婚指輪を着ける習慣が無いのを良い事に、独身と偽って香苗と付き合った。
しかし香苗が身籠ってしまったので、私は実は妻子持ちだと言う事を明かして、香苗から逃げたのだ。
今でもその事を後悔している。
香苗とお腹の子は苦労したと思う。
お詫びとして、遺産の十パーセントを香苗親子に譲りたい。
当時の家は、確か大国町だった筈である。どうか見つけ出して、私の代わりに謝って欲しい。
「これ……」
由祐は愕然として思わず声を漏らす。しかし、この文面のままお父さんを捉えるなら。
「おとん、クズやん」
思わず呆れた様な言葉を出していた。すると斜め前に座っている桑原さんが「ぷっ」と吹き出す。
「あっ、すいません、人さまのお父さまに! いや、わたしの父でもあるかも知れんのですけど」
由祐が慌てると。
「いやいや、母と私も同じことを思いましたから。人さまの大事な娘さんを騙して妊娠させてって、母は特に怒ってましたねぇ」
そういう桑原さんに悲壮感や怒りなどの感情は見られない。由祐としては、責められても当然だと思っていたので、友好的にも見える桑原さんに驚いてしまう。
思わず茨木さんと見ると、そこにはいつもと変わらない茨木さん。だからこそ由祐はほっと安心してしまう。
「お母さまと桑原さんには、ほんまに申し訳無いことをしました。母は確かに騙されていたんかも知れませんけど、不倫をしていたのは事実なんですから」
「いや、ほんまに、私らは荻野さんのお母さまに悪印象はまるで無いんですよ。言うてしまえば、お母さまかて父の被害者なんですから。父との子を、あなたを妊娠して、結婚できるて思いはっても不思議や無かったし、そんなときに実は結婚してて子どももおるって知らされたときは、ほんまにショックやったと思います」
「それは、そうでしょうけど」
由祐の立場としては、ただただ申し訳無いという気持ちしか沸いてこないのだ。自分は庶子だった。その事実は決して軽く無い。
「ほんまに、お母さまとご自分を責めんといてくださいね。このことは、責められるんは父ひとりやと、母も私も思ってます。父はもうあの世に逝ってしもたから、何も言えんですけどね」
桑原さんはそう言って、暖かな笑顔を見せてくれた。由祐は桑原さんの懐の大きさに感嘆し、心の底から感謝の念が芽生える。だからこそ。
「ほんまに、ありがとうございます」
こう言うのが精一杯だった。
「母も私も、父の遺産の一部を、ぜひ受け取って欲しいて思ってます。私らが知らんかったということは、認知はもちろん、養育費なんてのも父は払ってへんかったでしょうから、その埋め合わせやと思ってもらえたら。もちろん足りひんやろうってことは分かってるんですけど、それぐらいはさせてもらわんと、母と私の気が済みませんので。お母さまを亡くされて、ご苦労もあったでしょうから」
「いえ、それこそお母さまと桑原さんで相続してください。わたしは不義の子です。お母さまと桑原さんにそこまでしていただく筋は無いと思うんです。それにわたしは法律上、父の子や無いんですから」
「確かにそうかも知れません。でも筋て言うなら、本来なら荻野さんは父の遺産の4分の1を相続する権利があるんですよ。父が認知もせずに逃げる様な真似したから、こんなことになっとる。父の不義理の清算の意味、ちゅうにしても軽すぎなんですけど、それで少しでも溜飲を下げて欲しいて思ってます」
「溜飲なんて」
遺産相続は、夫婦どちらかが死去した場合、遺言などで特筆が無ければ、配偶者に2分の1、子に2分の1の相続が発生する。子が複数いた場合、その2分の1を人数分等分にするのが法定相続分である。
由祐がお父さんをグズだと思ったことは事実だ。だが顔も見たことが無い人を、許すも許さないも、という気持ちが大きい。由祐の中でお父さんは最初からいなかった人であり、亡くなったと聞かされた今でも、いまいち現実感が伴わないのだ。
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