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13 不老長生の薬
13-3 煙の中の面影
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義太夫は塑像金剛力士立像(仁王像)を見上げる。
「筋骨隆々として、おっそろしい顔じゃなぁ」
法隆寺伽藍の入り口にある左右の仁王像。右を見ても左を見ても、同じように恐ろしい。この仁王門の左の像は「密迹金剛」、右の像は「那羅延金剛」と呼ばれている。日の本最古とも言われる像がここに置かれたのは平城京遷都の翌年というから、それから八百年もの間、ここでにらみを利かせていることになる。
「八百年も立たされては、ああも皺だらけになるかのう」
「義太夫殿、阿呆なことを申されるな。寺の坊主に叱られましょうぞ」
助九郎が慌てて言うと、義太夫は「つまらぬことを気にするな」と肩をすくめた。
「…にしても、この丸っこい石は歩きにくいのう」
義太夫が玉砂利を蹴飛ばすと、助九郎が焦った顔をして
「それは玉砂利。足元から邪気を払う御霊、魂にござります」
「何じゃ、意味があるのか」
と、今度は傍にある大木を蹴飛ばす。
「義太夫殿!なんとバチ当たりな!それは御神木でござりますぞ!」
血相を変える助九郎に、義太夫が軽く笑って
「然様か、ではちとご利益に預かるか」
べたべたと木の表面を触る。
「もうおやめくだされ。寺の者どもが白い目で見ておりまする」
助九郎が青ざめ、必死で義太夫を引きはがす。
「助九郎、おぬしが何事もなかったかのように我が家に戻れたのは、わしのお陰ではないか。もう少し有難く思い、丁重に扱って然るべきじゃ」
義太夫が得意顔で言うと、助九郎は聞き捨てならぬと言わんばかりに
「危うく命を落とすところであった義太夫殿を助けたは、それがしにて」
「そうじゃったかのう…」
「もうどちらでもかまいませぬ。明智殿と若殿の軍勢も整い、そろそろ出立にござりますぞ」
助九郎が義太夫を促す。光秀と一益がそれぞれ、軍勢を引き連れて大和を進み、付近の寺院に起請文を書かせて所領の指出しを命じることになっている。
「おぉ、我らは何処の寺へ参るのか」
「それが、殿は中川寺成身院に行くと」
「なに?ようやっと逃れてきた成身院に、また行くのか」
あの山中に一か月も閉じ込められていた。皆、危うく命を落とすところだった危うい場所に、今度は軍勢を引き連れていくという。
「なんでも寺側と話をつけ、義太夫殿も行けば小躍りするじゃろうと、殿が仰せで」
「小躍り? また幻術にかかり、妙ちきりんな舞を踊らされると仰せか?」
一体、どんな話をつけたというのか。一益は口の端をわずかに上げた。理由は言葉にされずとも伝わるものがあった。その笑みに、義太夫をはじめとする家臣たちへの目こぼしがにじんでいた。
一益が義太夫と合流して法隆寺に戻ってほどなく、明智光秀と三九郎が兵を連れて合流した。
「どうにも興福寺は差出に応じる気配がない」
一益がそう話すと、光秀は
「寺領が減らされることを恐れておると、筒井殿はそう申されておりまする。この辺りは実り豊かな土地にて、領民から集めた米を酒にしておりまする。我らが民から年貢米を徴収すると酒が造れぬと」
民から年貢を取り立てると、寺に米が入らなくなり、酒造ができなくなるという。
「寺で酒を造っておるのか」
僧侶は戒律で飲酒を戒められている筈だが、その寺で酒造とは。
「表向きは仏に献上する酒。しかし、寺の近くには川が流れているところが多く、この清涼な水と米で酒を造り、堺や京で利を得ておりまする。この酒造技術は大和の僧房独自のものにて、門外不出とされておるとか」
興福寺の酒造の中心となっているのが配下にある中川寺成身院だった。
一益はふと合点がいった。
(なるほど、成身院の者どもが義太夫を逃すまいと執拗に追ったのは、そのためか)
何も知らずに踏み込んだ義太夫を、門外不出の秘技を盗みに来た者と勘違いしたのだろう。逃げられぬよう、僧兵どもが周到に罠まで仕掛けていたのも頷ける話だった。
「寺の酒造りは興福寺ばかりではありませぬ。平安の昔からの大和の寺の伝統とも聞き及びまする」
寺では世間の目をはばかるために酒とは言わず、般若湯と呼んでいる。明智光秀の言うように大和の国では伝統的に大寺院で醸造され、寺の主要な資金源になっていた。
「どこの寺に行っても我らを警戒するのは、そうした事情か」
法隆寺の僧侶が、大和の国を如何するつもりか、と聞いてきたのも、酒造を禁止されることを恐れたからだろう。
「ならば年貢は米ではなく、銭と酒で納めさせよ」
一益が言うと、光秀はしばし顎に手をやり、深くうなずいた。
「なるほど……銭ならば流通を妨げず、酒ならば寺の面目も保たれる。さすが左近殿、理にかなっておりまする」
「理というより、兵どもの腹を満たすには、まず酒が要るというだけの話よ」
一益が口の端をわずかに上げる。光秀もつられて笑った。
「左近殿と理を尽くす場で意見を交わすと、どうもそれがしが小賢しく見えてしまいますな」
「いや、日向守(光秀)の眼は先を見すぎるがゆえ。わしなどは足元しか見ておらぬ」
軽いやり取りだったが、互いの言葉に敬意が滲んでいた。
その笑みを見ていた筒井順慶は、ふと安堵したように息をついた。
筒井順慶を介して伝えられると、寺側もようやく応じた。交渉は円満にまとまったらしい。
「坊主どもの造る酒は、都で造る酒よりもうまいとの評判らしく」
助九郎が嬉しそうに言うと、義太夫も目を輝かせる。
「なんと!ならば、我らもその評判を広めねばならぬのう。あやつらの酒を呑み干してやれば、評判もますます高まるはずじゃ!」
得意げに胸を張る義太夫に、助九郎は呆れ顔で首を振った。
「義太夫殿、それは評判を高めるどころか、酒蔵を空にする所業にござります…」
義太夫はまるで気にせぬ様子で続ける。
「わしは伊勢を出て以来、酒にありついておらぬ。殿はそんなわしを不憫に思い、わしのために、あの成身院に向かうと、そう仰せなのじゃ」
何か違う気がしたが、助九郎は曖昧に頷く。
「楽しみじゃのう。今宵は酒盛りじゃ」
成身院で散々な目にあったことも忘れ、義太夫は足取りも軽く興福寺へと向かう。
(大した奴め)
一益が苦笑いして義太夫を見ていると、三九郎が馬を近寄せてきた。
「父上。仰せの通り多羅尾常陸守について調べて参りました」
「何かわかったか」
三九郎は大きく頷く。
「この大和には多羅尾常陸守の妹がおりまする」
「妹…では荼枳尼とは」
一益の目がかすかに鋭さを帯びた。
「多羅尾常陸守の妹でござりまする。多羅尾は甲賀衆と通じ、甲賀にとって脅威となる父上を亡きものにしようと企んでおるのでは」
多羅尾常陸守とその妹に命を狙われる理由がわからない。すみれの縁者であるなら尚のこと、何故なのか。
「その者が毒草を使って幻術を操る者か」
「はい。七宝行者の話をお聞き及びではありませぬか」
一益の胸裏に、得体の知れぬ影がよぎった。かつて世を惑わせた幻術師の名が、再び甦ったかのように思えた。
かつてこの興福寺にそのようなものがいたことは知っている。七宝行者と呼ばれたその僧侶は大和を治める松永久秀と親しかった。陰陽師には興味を示さなかった信長も、何故か七宝行者の幻術に興味を示し、城に呼んで披露させたと聞いたことがある。
「しかし幻術は六師外道。それゆえ興福寺を破門されておりまする」
六師外道とは仏教から見て異端とみなされる教えを指す。七宝行者は笹の葉を鯉に変えたり、死者の姿を見せたりといった幻術を人々に見せていたらしい。
「七宝行者の幻術は人を誑かす怪し気な術。荼枳尼は七宝行者から幻術を学び、我らを陥れようとしているものかと」
義太夫を追って成身院に来た荼枳尼は、今、この大和のどこにいるだろうか。
「幻術などは毒草を用いたまやかしにすぎぬ」
「その毒草が曲者でござりまする。重々ご用心いただきたく」
三九郎は心底心配しているようだ。
(成身院からそう遠くへは行くまい)
室生寺には戻らず、成身院から付かず離れずの場所で一益が来るのを待っている。なぜか、そんな気がする。
興福寺につき、明智光秀は吉祥寺へ向かい、一益は中川寺成身院に向かった。筒井順慶から聞いていたらしく、成身院では先日とは打って変わって、快く迎え入れられ、酒の準備までされていた。
「酒じゃ!待ちに待った酒じゃ」
義太夫が喜んで酒樽に飛んでいく。喜んでいるのは義太夫だけではない。都の酒よりもうまいと聞いて、皆、楽しみにしていたようだ。
「酒はいくらでもござりますゆえ、お好きなだけお召し上がりくだされ」
僧侶が声をかけると、皆、喜んで酒樽に群がる。
「父上、荼枳尼はこの先の奥の院におるとのことにござります」
皆が賑やかに酒盛りしていると、三九郎が聞きつけてきて耳打ちする。
「やはりそうか。では行くしかあるまい」
助九郎一人を供につけ、奥の院へと足を向ける。義太夫と助九郎が最初に向かった女人高野と呼ばれる室生寺とは離れている。こんなところまで追ってこられたのは荼枳尼が素破だからだろう。
奥の院まで行くと、尼僧が待っていたかのように門の前に立っていた。
「滝川左近様とお見受けいたしまする」
「いかにも、わしが滝川左近である」
「お待ち申しておりました。こちらへ」
本堂へと誘われる。振り返ると、助九郎が緊張した面持ちで物陰に身を潜めていた。
(ひとけがない)
先ほどの成身院には僧兵が溢れていたが、ここは静まり返り、天井の梁には蜘蛛の巣が垂れ下がっている。廃寺となって久しい気配がする。
寂れた本堂の奥には、色あせた全身赤の仏像――愛染明王が据えられていた。その前に、修験装束をまとった細身の女が一人、静かに佇んでいる。
香の煙が立ちこめ、女の輪郭は揺らいで見えた。
(似ている…)
亡き許嫁・すみれを思わせるその姿に、一益は思わず息を呑んだ。
「お久しゅうござりまする」
女の声が堂内に響いた。耳に届いたのは、まぎれもなく、かつてのすみれと同じ響き。香の香りに混じって、甘く苦い草の匂いが鼻を刺す。
「何故にわしを狙うのか」
問いかけながら、その顔を確かめようとしたが、女はうつむきがちで、煙に包まれた面差しは判然としない。
「滝川一党は甲賀にとっては脅威。皆、恐れておりまする。何故、魔王に仕え、故国を滅ぼそうとなされるのか」
「上様は魔王ではない。この戦国乱世を終わらせることのできる唯一のお方。それゆえ長年仕えてきた。そなたも戦のなき世を見たいと、そう思うであろう」
荼枳尼は首を横に振る。
「信長が伊賀を許すとお思いか。伊賀はもとより、甲賀も捨て置くことはありますまい。されど滝川家の皆々様が我らにお味方くだされば、毛利と手を組み、悪しき織田を打ち破ることもできましょう」
荼枳尼は再びうつむいたまま、なかなか顔をあげようとしない。その沈黙が、失われたはずの影を呼び寄せる。
「わしに寝返れと、そう申すか」
一益の声が低く響いた。
応えぬまま、荼枳尼は煙の中でかすかに肩を震わせる。
誘っているのか、怯えているのか判別できない。
荼枳尼の曖昧さが一益の胸奥をざわめかせる。
(これはすみれではない。だが…)
目の前にいるはずの荼枳尼の姿がかすみ、輪郭が揺らぎ始めた。女が背を向けると、その声音が悲嘆に満ち、なおもすみれを思わせる。
「またも、わらわを捨て置かれるのか」
その声が鼓膜を刺すと同時に、胸の奥で亡きすみれの影が揺れた。柄を握る手の微かな震えに気づく。血の巡りが鈍り、痺れるような冷たさが指先から腕へと這い上がってくる。
(これは幻術の業…心を惑わす影にすぎぬ)
そう言い聞かせても、耳の奥にはかつての声が蘇り、懐かしさが疼いて離れない。
そのとき女の口からもう一度、忍ぶような声がもれた。
「左近様は、甲賀を出たときと同じように、またもわらわを捨て殺しになさるのか」
ふと胸の奥で、言葉が鈍く反響した。
(左近様…?)
口元がわずかに歪んだ。それは敵を嘲る笑みにも似て、
同時に、己が一瞬でも幻に心を寄せたことへの、苦い嗤いでもあった。
すみれは生涯ただ一度も、左近とは呼ばなかった。いつも変わらず「将監様」と、ひそやかに呼んだ。名を違えて呼ぶその一言が、幻影を覆う薄絹を裂く。
一益は歯を食いしばり、確信に変わった思いを吐き捨てる。
「そなたは幻術師としては申し分ない。されど素破としては半人前。すみれは、わしを将監様と呼んでおったのじゃ」
刀を抜く音が低く堂内に鳴った。
鞘走りの金属音が、薄闇の空気を裂いて漂う。
刃先は静かに光を引き、鍔が鳴り合う瞬間、世界の輪郭が鋭くなる。大地を踏みしめ、全身の重心を一点に寄せて――振り下ろした。
だが切り裂いたのは空気だけで、手応えはなかった。風のように軽やかに、女の姿は煙に紛れ、ひらりと愛染明王の台座へ舞い移った。赤い仏座に映るその影は、不気味に静かに、その場に実在した。
「助九郎!であえ!」
外から助九郎の駆け寄る足音が応え、何かが床に落ちるのを一益は見逃さなかった。紙片は鳥の子、そこから淀んだ白煙が立ち上り、たちまち視界を奪う。
助九郎の手が肩を掴み、強く引き出される。外の冷気が本堂の蒸気を切り裂き、二人は闇と光の縁へと押し出された。振り返ると、内部は白と黒が混じり合い、女影の姿は既に消えている。
(にしても、よく似ていた)
胸に残る疼きは確かなものだが、それを舌先で切り捨てるように一益は呼吸を整えた。
「篠山理兵衛に伝えよ。つまらぬ小細工をするなと」
もう迷いはない。残されたのは、修羅を生き抜いた者の冷ややかな覚悟だけだった。
本堂の外はすでに宵闇に沈み、白煙が風に流されて消えていく。
しかし胸に残る影は消えず、一益は深く息を吐いた。
幻術に惑わされたのか、それとも真にすみれの面影を宿していたのか――
その答えは、一益の吐いた息とともに、闇へ溶けた。
夜の大和に虫の声が満ちる。
だがその静けさの裏には、甲賀衆の暗い謀が息を潜めている。
一益は振り返りもせず、ただ歩を進めた。
――乱世に潜む影は、なおも姿を変え、立ちはだかろうとしていた。
「筋骨隆々として、おっそろしい顔じゃなぁ」
法隆寺伽藍の入り口にある左右の仁王像。右を見ても左を見ても、同じように恐ろしい。この仁王門の左の像は「密迹金剛」、右の像は「那羅延金剛」と呼ばれている。日の本最古とも言われる像がここに置かれたのは平城京遷都の翌年というから、それから八百年もの間、ここでにらみを利かせていることになる。
「八百年も立たされては、ああも皺だらけになるかのう」
「義太夫殿、阿呆なことを申されるな。寺の坊主に叱られましょうぞ」
助九郎が慌てて言うと、義太夫は「つまらぬことを気にするな」と肩をすくめた。
「…にしても、この丸っこい石は歩きにくいのう」
義太夫が玉砂利を蹴飛ばすと、助九郎が焦った顔をして
「それは玉砂利。足元から邪気を払う御霊、魂にござります」
「何じゃ、意味があるのか」
と、今度は傍にある大木を蹴飛ばす。
「義太夫殿!なんとバチ当たりな!それは御神木でござりますぞ!」
血相を変える助九郎に、義太夫が軽く笑って
「然様か、ではちとご利益に預かるか」
べたべたと木の表面を触る。
「もうおやめくだされ。寺の者どもが白い目で見ておりまする」
助九郎が青ざめ、必死で義太夫を引きはがす。
「助九郎、おぬしが何事もなかったかのように我が家に戻れたのは、わしのお陰ではないか。もう少し有難く思い、丁重に扱って然るべきじゃ」
義太夫が得意顔で言うと、助九郎は聞き捨てならぬと言わんばかりに
「危うく命を落とすところであった義太夫殿を助けたは、それがしにて」
「そうじゃったかのう…」
「もうどちらでもかまいませぬ。明智殿と若殿の軍勢も整い、そろそろ出立にござりますぞ」
助九郎が義太夫を促す。光秀と一益がそれぞれ、軍勢を引き連れて大和を進み、付近の寺院に起請文を書かせて所領の指出しを命じることになっている。
「おぉ、我らは何処の寺へ参るのか」
「それが、殿は中川寺成身院に行くと」
「なに?ようやっと逃れてきた成身院に、また行くのか」
あの山中に一か月も閉じ込められていた。皆、危うく命を落とすところだった危うい場所に、今度は軍勢を引き連れていくという。
「なんでも寺側と話をつけ、義太夫殿も行けば小躍りするじゃろうと、殿が仰せで」
「小躍り? また幻術にかかり、妙ちきりんな舞を踊らされると仰せか?」
一体、どんな話をつけたというのか。一益は口の端をわずかに上げた。理由は言葉にされずとも伝わるものがあった。その笑みに、義太夫をはじめとする家臣たちへの目こぼしがにじんでいた。
一益が義太夫と合流して法隆寺に戻ってほどなく、明智光秀と三九郎が兵を連れて合流した。
「どうにも興福寺は差出に応じる気配がない」
一益がそう話すと、光秀は
「寺領が減らされることを恐れておると、筒井殿はそう申されておりまする。この辺りは実り豊かな土地にて、領民から集めた米を酒にしておりまする。我らが民から年貢米を徴収すると酒が造れぬと」
民から年貢を取り立てると、寺に米が入らなくなり、酒造ができなくなるという。
「寺で酒を造っておるのか」
僧侶は戒律で飲酒を戒められている筈だが、その寺で酒造とは。
「表向きは仏に献上する酒。しかし、寺の近くには川が流れているところが多く、この清涼な水と米で酒を造り、堺や京で利を得ておりまする。この酒造技術は大和の僧房独自のものにて、門外不出とされておるとか」
興福寺の酒造の中心となっているのが配下にある中川寺成身院だった。
一益はふと合点がいった。
(なるほど、成身院の者どもが義太夫を逃すまいと執拗に追ったのは、そのためか)
何も知らずに踏み込んだ義太夫を、門外不出の秘技を盗みに来た者と勘違いしたのだろう。逃げられぬよう、僧兵どもが周到に罠まで仕掛けていたのも頷ける話だった。
「寺の酒造りは興福寺ばかりではありませぬ。平安の昔からの大和の寺の伝統とも聞き及びまする」
寺では世間の目をはばかるために酒とは言わず、般若湯と呼んでいる。明智光秀の言うように大和の国では伝統的に大寺院で醸造され、寺の主要な資金源になっていた。
「どこの寺に行っても我らを警戒するのは、そうした事情か」
法隆寺の僧侶が、大和の国を如何するつもりか、と聞いてきたのも、酒造を禁止されることを恐れたからだろう。
「ならば年貢は米ではなく、銭と酒で納めさせよ」
一益が言うと、光秀はしばし顎に手をやり、深くうなずいた。
「なるほど……銭ならば流通を妨げず、酒ならば寺の面目も保たれる。さすが左近殿、理にかなっておりまする」
「理というより、兵どもの腹を満たすには、まず酒が要るというだけの話よ」
一益が口の端をわずかに上げる。光秀もつられて笑った。
「左近殿と理を尽くす場で意見を交わすと、どうもそれがしが小賢しく見えてしまいますな」
「いや、日向守(光秀)の眼は先を見すぎるがゆえ。わしなどは足元しか見ておらぬ」
軽いやり取りだったが、互いの言葉に敬意が滲んでいた。
その笑みを見ていた筒井順慶は、ふと安堵したように息をついた。
筒井順慶を介して伝えられると、寺側もようやく応じた。交渉は円満にまとまったらしい。
「坊主どもの造る酒は、都で造る酒よりもうまいとの評判らしく」
助九郎が嬉しそうに言うと、義太夫も目を輝かせる。
「なんと!ならば、我らもその評判を広めねばならぬのう。あやつらの酒を呑み干してやれば、評判もますます高まるはずじゃ!」
得意げに胸を張る義太夫に、助九郎は呆れ顔で首を振った。
「義太夫殿、それは評判を高めるどころか、酒蔵を空にする所業にござります…」
義太夫はまるで気にせぬ様子で続ける。
「わしは伊勢を出て以来、酒にありついておらぬ。殿はそんなわしを不憫に思い、わしのために、あの成身院に向かうと、そう仰せなのじゃ」
何か違う気がしたが、助九郎は曖昧に頷く。
「楽しみじゃのう。今宵は酒盛りじゃ」
成身院で散々な目にあったことも忘れ、義太夫は足取りも軽く興福寺へと向かう。
(大した奴め)
一益が苦笑いして義太夫を見ていると、三九郎が馬を近寄せてきた。
「父上。仰せの通り多羅尾常陸守について調べて参りました」
「何かわかったか」
三九郎は大きく頷く。
「この大和には多羅尾常陸守の妹がおりまする」
「妹…では荼枳尼とは」
一益の目がかすかに鋭さを帯びた。
「多羅尾常陸守の妹でござりまする。多羅尾は甲賀衆と通じ、甲賀にとって脅威となる父上を亡きものにしようと企んでおるのでは」
多羅尾常陸守とその妹に命を狙われる理由がわからない。すみれの縁者であるなら尚のこと、何故なのか。
「その者が毒草を使って幻術を操る者か」
「はい。七宝行者の話をお聞き及びではありませぬか」
一益の胸裏に、得体の知れぬ影がよぎった。かつて世を惑わせた幻術師の名が、再び甦ったかのように思えた。
かつてこの興福寺にそのようなものがいたことは知っている。七宝行者と呼ばれたその僧侶は大和を治める松永久秀と親しかった。陰陽師には興味を示さなかった信長も、何故か七宝行者の幻術に興味を示し、城に呼んで披露させたと聞いたことがある。
「しかし幻術は六師外道。それゆえ興福寺を破門されておりまする」
六師外道とは仏教から見て異端とみなされる教えを指す。七宝行者は笹の葉を鯉に変えたり、死者の姿を見せたりといった幻術を人々に見せていたらしい。
「七宝行者の幻術は人を誑かす怪し気な術。荼枳尼は七宝行者から幻術を学び、我らを陥れようとしているものかと」
義太夫を追って成身院に来た荼枳尼は、今、この大和のどこにいるだろうか。
「幻術などは毒草を用いたまやかしにすぎぬ」
「その毒草が曲者でござりまする。重々ご用心いただきたく」
三九郎は心底心配しているようだ。
(成身院からそう遠くへは行くまい)
室生寺には戻らず、成身院から付かず離れずの場所で一益が来るのを待っている。なぜか、そんな気がする。
興福寺につき、明智光秀は吉祥寺へ向かい、一益は中川寺成身院に向かった。筒井順慶から聞いていたらしく、成身院では先日とは打って変わって、快く迎え入れられ、酒の準備までされていた。
「酒じゃ!待ちに待った酒じゃ」
義太夫が喜んで酒樽に飛んでいく。喜んでいるのは義太夫だけではない。都の酒よりもうまいと聞いて、皆、楽しみにしていたようだ。
「酒はいくらでもござりますゆえ、お好きなだけお召し上がりくだされ」
僧侶が声をかけると、皆、喜んで酒樽に群がる。
「父上、荼枳尼はこの先の奥の院におるとのことにござります」
皆が賑やかに酒盛りしていると、三九郎が聞きつけてきて耳打ちする。
「やはりそうか。では行くしかあるまい」
助九郎一人を供につけ、奥の院へと足を向ける。義太夫と助九郎が最初に向かった女人高野と呼ばれる室生寺とは離れている。こんなところまで追ってこられたのは荼枳尼が素破だからだろう。
奥の院まで行くと、尼僧が待っていたかのように門の前に立っていた。
「滝川左近様とお見受けいたしまする」
「いかにも、わしが滝川左近である」
「お待ち申しておりました。こちらへ」
本堂へと誘われる。振り返ると、助九郎が緊張した面持ちで物陰に身を潜めていた。
(ひとけがない)
先ほどの成身院には僧兵が溢れていたが、ここは静まり返り、天井の梁には蜘蛛の巣が垂れ下がっている。廃寺となって久しい気配がする。
寂れた本堂の奥には、色あせた全身赤の仏像――愛染明王が据えられていた。その前に、修験装束をまとった細身の女が一人、静かに佇んでいる。
香の煙が立ちこめ、女の輪郭は揺らいで見えた。
(似ている…)
亡き許嫁・すみれを思わせるその姿に、一益は思わず息を呑んだ。
「お久しゅうござりまする」
女の声が堂内に響いた。耳に届いたのは、まぎれもなく、かつてのすみれと同じ響き。香の香りに混じって、甘く苦い草の匂いが鼻を刺す。
「何故にわしを狙うのか」
問いかけながら、その顔を確かめようとしたが、女はうつむきがちで、煙に包まれた面差しは判然としない。
「滝川一党は甲賀にとっては脅威。皆、恐れておりまする。何故、魔王に仕え、故国を滅ぼそうとなされるのか」
「上様は魔王ではない。この戦国乱世を終わらせることのできる唯一のお方。それゆえ長年仕えてきた。そなたも戦のなき世を見たいと、そう思うであろう」
荼枳尼は首を横に振る。
「信長が伊賀を許すとお思いか。伊賀はもとより、甲賀も捨て置くことはありますまい。されど滝川家の皆々様が我らにお味方くだされば、毛利と手を組み、悪しき織田を打ち破ることもできましょう」
荼枳尼は再びうつむいたまま、なかなか顔をあげようとしない。その沈黙が、失われたはずの影を呼び寄せる。
「わしに寝返れと、そう申すか」
一益の声が低く響いた。
応えぬまま、荼枳尼は煙の中でかすかに肩を震わせる。
誘っているのか、怯えているのか判別できない。
荼枳尼の曖昧さが一益の胸奥をざわめかせる。
(これはすみれではない。だが…)
目の前にいるはずの荼枳尼の姿がかすみ、輪郭が揺らぎ始めた。女が背を向けると、その声音が悲嘆に満ち、なおもすみれを思わせる。
「またも、わらわを捨て置かれるのか」
その声が鼓膜を刺すと同時に、胸の奥で亡きすみれの影が揺れた。柄を握る手の微かな震えに気づく。血の巡りが鈍り、痺れるような冷たさが指先から腕へと這い上がってくる。
(これは幻術の業…心を惑わす影にすぎぬ)
そう言い聞かせても、耳の奥にはかつての声が蘇り、懐かしさが疼いて離れない。
そのとき女の口からもう一度、忍ぶような声がもれた。
「左近様は、甲賀を出たときと同じように、またもわらわを捨て殺しになさるのか」
ふと胸の奥で、言葉が鈍く反響した。
(左近様…?)
口元がわずかに歪んだ。それは敵を嘲る笑みにも似て、
同時に、己が一瞬でも幻に心を寄せたことへの、苦い嗤いでもあった。
すみれは生涯ただ一度も、左近とは呼ばなかった。いつも変わらず「将監様」と、ひそやかに呼んだ。名を違えて呼ぶその一言が、幻影を覆う薄絹を裂く。
一益は歯を食いしばり、確信に変わった思いを吐き捨てる。
「そなたは幻術師としては申し分ない。されど素破としては半人前。すみれは、わしを将監様と呼んでおったのじゃ」
刀を抜く音が低く堂内に鳴った。
鞘走りの金属音が、薄闇の空気を裂いて漂う。
刃先は静かに光を引き、鍔が鳴り合う瞬間、世界の輪郭が鋭くなる。大地を踏みしめ、全身の重心を一点に寄せて――振り下ろした。
だが切り裂いたのは空気だけで、手応えはなかった。風のように軽やかに、女の姿は煙に紛れ、ひらりと愛染明王の台座へ舞い移った。赤い仏座に映るその影は、不気味に静かに、その場に実在した。
「助九郎!であえ!」
外から助九郎の駆け寄る足音が応え、何かが床に落ちるのを一益は見逃さなかった。紙片は鳥の子、そこから淀んだ白煙が立ち上り、たちまち視界を奪う。
助九郎の手が肩を掴み、強く引き出される。外の冷気が本堂の蒸気を切り裂き、二人は闇と光の縁へと押し出された。振り返ると、内部は白と黒が混じり合い、女影の姿は既に消えている。
(にしても、よく似ていた)
胸に残る疼きは確かなものだが、それを舌先で切り捨てるように一益は呼吸を整えた。
「篠山理兵衛に伝えよ。つまらぬ小細工をするなと」
もう迷いはない。残されたのは、修羅を生き抜いた者の冷ややかな覚悟だけだった。
本堂の外はすでに宵闇に沈み、白煙が風に流されて消えていく。
しかし胸に残る影は消えず、一益は深く息を吐いた。
幻術に惑わされたのか、それとも真にすみれの面影を宿していたのか――
その答えは、一益の吐いた息とともに、闇へ溶けた。
夜の大和に虫の声が満ちる。
だがその静けさの裏には、甲賀衆の暗い謀が息を潜めている。
一益は振り返りもせず、ただ歩を進めた。
――乱世に潜む影は、なおも姿を変え、立ちはだかろうとしていた。
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