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第二十三章
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【第二十三章 第一巻ノ1 】
ここは日月神示の原文を掲載しています。
日月神示という厳格に満ちた大神様であり、三千世界の裁き主として、私たちに最後の審判という裁きをする為に現界に降りてこられたのです。
香港を始め、日本でも火災が起きています。
既に大神様の最後の審判は始まったのです。
これから人類が経験したことがないようなことが起きるでしょう。三千世界の大洗濯は既に始まりました。
何故なら『子の年とその年の前後10年に気をつけろ!8のつく日に気をつけろ!』
『子の年とその年の前後10年』に既に入っているからです。天変地異だけではありません。香港火災のような火災、水害、竜巻、線状降水帯もそうです。
身魂の汚れている人を狙い撃ちです。
これこそが神のなせる技です。
読者の皆さん、早く目覚て下さい。
『善一筋で生きて下さい。』
日月神示に書記されているのですから。
人間として、正しい生き方をして下さい。
出口王仁三郎は言う。
「今という今善き心、善き言葉、善き行いを励むこそ善き」
という人生の極意を教えているのですから。
貴方も私も神人合一した神であり、神さまの代行者なのですから!
貴方が幸せになれないわけがない。
一日も早く、目覚めて下さい。
人間として間違った行い、悪口、陰口、不平不満な想い、腹立て、癇癪、利己的な考え方や、強い者勝ちの考え方を改めて、人間本来の正しい生き方に目覚めて下さい。
その答えは出口王仁三郎の『神さまの教え』にあるのですから。
どうか、皆さん、「神さま」を怒らせないで下さい。
どうか、悪口、陰口、乱暴な言葉、喧嘩、罵倒、怒りなどの言葉を発して空気を汚さないで下さい。
汚れてくると強風が吹いたり、台風が来て汚れた大気を綺麗にするのですから。
そんなことの繰り返しなんですよ。
台風が来たり、線状降水帯が来て集中豪雨になるのも、大気が汚れているからですよ。
これが大宇宙の法則なのですから。
「日月神示」ではこのように汚れた大気を綺麗にすることを「浄化」というんです。
また、大気を汚すものには車の排ガス、工場排煙などがありますよね。
川や河、湖、海も同じですよね。
一箇所の太平洋や東京湾、大阪湾など海水が汚れてくると地震が発生し大津波が起きて海水を一気に綺麗にします。
これも「浄化」なんです。
このように神さまは汚れた川、河、湖、海、大気、陸を一瞬に綺麗にするんです。
もし綺麗にならないのならすべてを破壊します。
だから「神さまを怒らせないで下さい」
自動書記した岡本天明を最後に確認して下さい。
日月神示は、神典研究家で画家でもあった岡本天明に「国常立尊」(国之常立神)という高級神霊からの神示を自動書記によって記述したとされる書物。昭和19年から27年(昭和23・26年も無し)に一連の神示が降り、6年後の昭和33、34年に補巻とする1巻、さらに2年後に8巻の神示が降りたとされる。
日月神示が降ろされたとされる麻賀多神社。写真は本殿。日月神示の最初の第一帖と第二帖は第二次世界大戦中の昭和19年6月10日に、この神社の社務所で書記された。
《原文掲載》
殆どが漢数字、独特の記号、若干のかな文字が混じった文体で構成され、抽象的な絵のみで書記されている「巻」もある[1]。本巻38巻と補巻1巻の計39巻が既に発表されているが、他にも、神霊より発表を禁じられている「巻」が13巻あり、天明はこの未発表のものについて昭和36年に「或る時期が来れば発表を許されるものか、許されないのか、現在の所では不明であります」と語っている。
日月神示は、その難解さから、書記した天明自身も当初は、ほとんど読むことが出来なかったが、仲間の神典研究家や霊能者達の協力などで少しずつ解読が進み、天明亡き後も妻である岡本三典(1917年〈大正6年〉11月9日 - 2009年〈平成21年〉6月23日)の努力により、現在では一部を除きかなりの部分が解読されたといわれている。 しかし、一方では神示の中に「この筆示は8通りに読めるのであるぞ」と書かれていることもあり、解読法の一つに成功したという認識が関係者の間では一般的である。そのために、仮訳という副題を添えての発表もあった。
なお、原文を解読して漢字仮名交じり文に書き直されたものは、特に「ひふみ神示」または「一二三神示」と呼ばれる。日月神示はその登場以来、関係者や一部専門家を除きほとんど知られていなかったが、1990年代の初め頃より神典研究家で翻訳家の中矢伸一の著作などにより広く一般にも知られるようになってきたといわれている。
麻賀多神社境内の巨大杉(県指定天然記念物)推古天皇の時代に植樹されたとされ、高さ約40m、太さ約9mの約1400年近くの樹齢を持つ東日本一の大杉である。
前述の扶乩実験の約2か月後の6月10日に天明は同郷の先輩で知人でもあった高田集蔵の誘いで千葉県印旛郡公津村台方(現・成田市台方)を訪れるが、そこに実験の時に現れた天之日月神を祀る延喜式内社で麻賀多神社の末社である「天之日津久神社」があった。 神典研究家で神名には明るかった天明でも天之日月神がいかなる神なのか、また、どこに鎮座され祀られている神なのかが扶乩実験後もしばらくは分らなかったと後に述懐している。
「天之日月神」を祀る麻賀多神社の末社である「天日津久神社」(あまのひつくじんじゃ)。この社は向って本殿右側後方の場所に位置する。天明はこの神社に参拝後、神示の自動書記を有無を言わせぬ圧倒的な力で神霊により強制的にさせられた。
天明によると天之日津久神社を参拝し厚く御礼を申し上げ、社務所で一息ついている時に予期しない自動書記現象が起こったという。画家でもあった天明は矢立や画仙紙を常に持ち歩く習慣がありこの時も例外ではなかったが、突然、額のあたりに「ピリッ」とした強い衝動と右腕に非常な激痛を感じ、矢立と画仙紙を取り出し、筆を画仙紙にのせたところ自分の意思に反して猛烈な勢いで筆が走り意味不明の殴り書きをした。天明の言葉によれば、右腕に焼火箸を突っ込まれたような激痛だったという。
以前から霊的体験が豊富で自らも霊媒役などを務めた経験がある天明は、右腕の激痛時にこれらは自動書記の前触れかもしれないと瞬間的に思ったという。同時にこれ程強く肉体に感応する場合は従来の体験から考えて幽界からの感応ではないかと思い、少し困惑もしたという。しかし、特に額部分からきたことと(天明自身の述懐では、それまでにあった霊体験のもので幽界からの感応は、そのほとんどが肉体の背後からのものだったという)、激痛を感じながらも気分は悪くないことから、神界からのものだと思い直しこれを確信したという。
これ以前に天明が経験していた自動書記や霊的現象では天明自身が中止しようと思えば中止出来たが、今回の場合は中止しようとすればさらに右腕の激痛が耐えられぬほどになり全く自由にならなかったという。 これが後に日月神示と呼ばれる神示、神典でこの日が発現の重要な日となった。
なお、書記を終えた時には先程までの右腕の激痛は嘘のように消えていたという。その後も神示が降りてくる時には右腕が痛くなり、書記が終われば治まるということの繰り返しが続いたといわれている。
なお、この時に書記されたものが日月神示の第一巻である「上つ巻」の第一帖および第二帖であった。
麻賀多神社の社務所で天明が最初に自動書記で書かされた原文は下のようなものであった。
「二二八八れ十二ほん八れ ㋹の九二のま九十の㋹のちからをあら八す四十七れる」
これは次の通りに読めると言われている
「富士は晴れたり日本晴れ 神の国のまことの神の力を現す世となれる」
続いて
「卍も十も九も八きりたすけて七六かしい五くろうのない四かくるから 三たまを二たんにみかいて一すしのま九十を十四て九れ四 いま一十九十六あるか 九の九六八三たまを三かいておらぬ十こせぬ 九の四八まって二十十七一九六てある」
これについても読み方は
「仏もキリストも何もかもハッキリ助けてシチ難しい御苦労の無い世がくるから ミタマを不断に磨いて一筋のマコトを通して呉れよ 今一苦労あるが この苦労はミタマを磨いておらぬと越せぬ この世始まって二度とない苦労である」
《解釈》
解釈としてはマコトの神が世に出現して神の力を現して、すべてを助け何の苦労もない理想的な世界に立て直していくが、その前には人類は未だかつてなかったほどの大災厄や大試練を迎えなければならない。助かるためには身魂[9](心、精神、身体)を絶え間なく磨き、鍛練しつつ備えよ。磨いていなければ助かることが出来ない。という内容だと考えられている。
日月神示の中ではこのような大災厄や大試練を「三千世界の大洗濯」や「大峠」と呼んで、多くの帖で書記されている。この大峠は我々の住むこの現界のみならず、神界、霊界、幽界なども含めたすべての世界とすべての存在に等しく起こるとされ、森羅万象のうち何ひとつそれから免れることができるものは存在しないという。また、この現界よりもはるかに高次元で高度と思われる神界の神々や守護神といった存在でもこの大峠を越せない存在があるという。
この身魂磨きや心の浄化、また正しい食生活で身体を健康で強壮なものに保っていくことの大切さは日月神示の主題と言っても良く、我々ひとりひとりがこの現界をより良く生きるためにも、この先に起こるとされる大峠を無事に乗り越えるためにも極めて重大なことであり日月神示自体が降ろされた理由もこれに尽きると考えられる 。なお、日月神示はこれらの帖を手始めに昭和19年から天明が亡くなる2年前の昭和36年まで17年間にわたり書記されていく。神示には「人間の生き方」「正しい食生活について」「夫婦の本当のありかた」さらには「霊界」の実相(霊界のことについては節を設けて後述)についても書記されているなど非常に広範囲にわたっての記述が見られるが、未来に関するいわゆる「予言書」的な記述部分も多く見られる。また、日月神示はそのほとんどが数字や記号で書記されているが、その理由を神霊自らが神示の中で
「高度の霊人となれば文字はない。ただ文字の元をなす「レ」と「〇」と「+」があるのみ。また高度の霊人の文字として、ほとんど数字のみが使用されている場合もある。数字は、他の文字に比して多くの密意を蔵しているからである」(二日んの巻第十三帖)や「天人同志の文字は数字が多いぞ。天人の言葉はマコトであるから、ただ一言で万語を伝え得るぞ。」と「星座之巻」第十八帖、第十九帖で述べている。同様なことは18世紀の巨大な科学者にして政治家であり、また、その後半生は霊能者として有名なスウェーデンの貴族であるE.スウェデンボルグも天界探訪の事を記した自身の著作で(参3)「天人の文字は数字が非常に多かった。」と書いていて興味深いものがある[独自研究?]。日月神示より以前に他で出された神示類ではこのようなことはみられず、神霊が「今まで他に出て居たのは皆、神示先(ふでさき)ぢゃ。ここは神示(ふで)ぢゃ。キの神示ぢゃ」(カゼの巻第六帖、第七帖)と書記させている。また、「アメの巻」第十三帖でも「外で判らん根本のキのこと知らす此の方の神示ぢゃ、三千世界[14]のこと一切の事説いて聞かして得心させて上げますぞや。落ち着いて聞き落としのない様になされよ。」とも語られている。
また、一方ではこの神示は単に現界に生きる人間のみならず、天界や霊界、また、その他多くの世界に住んでいる存在(神、竜神、天人、天使、霊人達)にも等しく与えられているらしい次のような記述もみられる。「この神示は、神と竜神と天人天使と人民たちに与えてあるのぢゃ」と「極め之巻」第十八帖で述べられている。
《天の岩戸》
日月神示によると、昭和20年の段階で奥の神界の岩戸は開かれており、中の神界における岩戸開きが最中とされ、次の世の型を急ぐと述べられている(「夜明けの巻」第十一帖)。
岩戸開く仕組みについては「下つ巻」第二十二帖で「岩戸開く仕組 知らしてやりたいなれど、この仕組、言ふてはならず、・・・」と明かされていない。
岩戸が開けるには、一苦労、二苦労と困難が訪れるとされ、子の年に岩戸が開かれると予言されている。
「あら楽(たぬ)し、あなさやけ、元津御神の御光の、輝く御代ぞ近づけり。岩戸開けたり野も山も、草の片葉(かきは)も言(こと)止(や)めて、大御光に寄り集ふ、誠の御代ぞ楽しけれ。今一苦労二苦労、とことん苦労あるなれど、楽しき苦労ぞ目出度けれ。申、酉すぎて戌の年、亥の年、子の年 目出度けれ。一二三(ひふみ)の裏の御用する身魂も今に引き寄せるから、その覚悟せよ。覚悟よいか。待ちに待ちにし秋来たぞ。」(「夜明けの巻」第十二帖)
昭和20年以後の子年は、昭和23年(1948年)、昭和35年(1960年)、昭和47年(1972年)、昭和59年(1984年)、平成8年(1996年)。
昭和59年の後に、一八十(イワト)が成ったとする平成の時代が訪れている。日月神示で示されるアヤワは一八十の位置にあると飛鳥昭雄は述べている。
三千世界の
日月神示の内容は極めて広範囲にわたり、神霊が上記の「アメの巻」第十三帖で
「外で判らん根本のキのこと知らす此の方の神示ぢゃ。三千世界のこと一切の事説いて聞かして得心させて上げますぞや。落ち着いて聞き落としのない様になされよ。」
と語っているように、そのそれぞれに多くの記述が見られるが最も大きな特徴は神霊自身が「下つ巻」第一帖や「春の巻」第一帖、「黄金の巻」第二帖で
「この道は宗教ではないぞ、教会ではないぞ、道ざから、今までの様な教会作らせんぞ。」
「此処は光の道伝え、行ふ所、教えでないと申してあろう。教へは教へに過ぎん。道でなくては、今度はならんのぢゃ。」
「今迄の日本の宗教は日本だけの宗教。この度は世界のもとの、三千世界の大道ぞ、教えでないぞ。」
また、「アメの巻」第一帖、「〇つりの巻」第一帖、同巻第六帖の
「此の道は只の神信心とは根本から違ふと申してあろが、三千世界の大道ざぞ。」
「今迄の教ではこの道判らんぞ。」
「三界を貫く道ぞ誠なり誠の道は一つなりけり。神界の誠かくれし(隠れし)今迄の道は誠の道でないぞや、鬼おろち草木動物虫けらも一つにゑらぐ道ぞ誠ぞ。」
と述べているように、この神示を宗教でもなく教えでもなく「三千世界の大道」で「三界を貫く誠の道」だと語っていることであろう。そのために既成宗教の信仰のあり方や教えとは大きく異なるものが多く、それらを否定している記述も随所に見られる。例えば既成宗教では有名な教えのひとつとされる「右の頬を打たれたら、左の頬も出しなさい」と言う教えについてでは日月神示を書記させたこの神霊は次のように述べられている。
「右の頬をうたれたら左の頬を出せよ、それが無抵抗で平和の元ぢゃと申しているが、その心根をよく洗って見つめよ、それは無抵抗ではないぞ、打たれるやうなものを心の中にもっているから打たれるのぞ。マコトに居れば相手が手をふり上げても打つことは出来ん、よくききわけてくだされよ。笑って来る赤子の無邪気は打たれんであろうが、これが無抵抗ぞ。世界一家天下太平ぢゃ、左の頬を出すおろかさをやめて下されよ」(極め之巻第十五帖)
「そなたは無抵抗主義が平和の基だと申して、右の頬を打たれたら左の頬をさし出して御座るなれど、それは真の無抵抗ではないぞ。よく聞きなされ、打たれるやうなものをそなたがもってゐるからこそ、打たれる結果となるのぢゃ。まことに磨けたら、まことに相手を愛してゐたならば、打たれるような雰囲気は生れないのであるぞ。頬をうたれて下さるなよ。生れ赤児見よと知らしてあろうが。」(月光の巻第五十三帖)
(※これらの帖に関しては、幼児虐待や幼児殺しをしてしまう親が度々ニュースになるなど、説得力のない文章だと考える人や意見もある。)
同様に既成宗教では神の「しるし」や「証し」として重要視、神聖視されている奇跡であるが、これについても完全に否定。いくつかの帖で言及され、奇跡やこれらを求め信じる人に大きな警鐘を鳴らしている。「二日んの巻」第十三帖では「地獄的下級霊の現われには、多くの奇跡的なものをふくむ。奇跡とは大いなる動きに逆行する動きの現われであること知らねばならない。かかる奇跡によりては、霊人も地上人も向上し得ない。」や「黄金の巻」第二十二帖でも「奇跡では改心出来んのであるぞ」また、「龍音の巻」第十八帖では「正神には奇跡はない、奇跡ないことが大きな奇跡であるぞ、奇跡するものは亡びる。高級霊は態度が立派であるぞ。わかりたか。」と語られている。
また、他の多くの宗教が修行の一環や、神への自己犠牲のしるしとして断食の必要性やその意義を説いているが日月神示では断食すること自体を厳しく戒めているのも注目される。「日月の巻」第三帖では「滝に打たれ断食する様な行は幽界の行ぞ。神の国のお土踏み、神国の光いきして、神国から生まれる食べ物頂きて、神国のおん仕事してゐる臣民には行は要らぬのざぞ。此の事よく心得よ。」と述べられ、滝に打たれたり、断食するような行は低い世界の行に過ぎず全く必要がないのだとされる。さらに「正しい食生活について」では「食物を食べるのも喜びであるぞ。正しき食物正しく食べよ。更に喜びふえて弥栄えるのぢゃ。悪い食物悪く食べるから悪くなるのぢゃ。何も彼も同様ぞ。人民は喜びの子と申してあらう。罪の子でないぞ。うれしうれしの道あるに、何故歩まんのぢゃ。」(春の巻第五帖)と語られている。
しかし、一方で多食や肉食についてはこれを戒めており、次のような帖もある。「食物節してこそ、ささげてこそ、運ひらけるのぢゃ。病治るのぢゃ。食物、今の半分で足りると申してあらうが。遠くて近いものヒフミの食べ方して見なされよ。運ひらけ、病治ってうれしうれしと輝くぞ。そんなこと位で、病治ったり、運開ける位なら、人民はこんなに苦しまんと申すが、それが理窟と申すもの。理窟悪と申してあるもの。低い学に囚われたメクラ、ツンボと申すものぞ。」(冬の巻捕帖)「四ツ足を食ってはならん、共喰となるぞ、草木から動物生まれると申してあろう、臣民の食物は五穀野菜の類であるぞ。」(碧玉の巻第八帖)。なお肉食についてはそれを戒めつつも、次のようにも書記させている「獣の喰ひ物くふ時には一度神に献げてからにせよ、神から頂けよ、さうすれば神の喰べ物となって、何たべても大じやうぶになるのぞ」(天つ巻第五帖)。
「人間の生き方」に関しては次の記述が代表的なものであろう。
「臣民にわかる様にいふなれば、身も心も神のものざから、毎日毎日神から頂いたものと思へばよいのであるぞ、それでその身体をどんなにしたらよいかと云ふこと分かるであらうが、夜になれば眠ったときはお返ししてゐるのざと思へ、それでよく分かるであらうが。身魂みがくと申すことは、神の入れものとして神からお預りしてゐる、神の最も尊いとことしてお扱ひすることぞ」(富士の巻第十四帖)。「目覚めたら其の日の生命お預りした事を神に感謝し、其の生命を神の御心のままに弥栄に仕へまつる事に祈れよ。神は其の日其の時に何すべきかに就いて教へるぞ。明日の事に心使ふなよ。心は配れよ。取越苦労するなよ。」(日月の巻第十五帖)と語られている。
さらに夫婦のありかたについては次のように述べられている。
「愛は養はねばならん。夫婦はいのちがけで、お互にきづき合はねばならんぞ。夫婦愛はあるのではない。築き上げねばならんぞ。つくり出すのぢゃ。そこに尊さあるぞ。喜びあるぞ。」(春の巻第二十六帖)。「家の治まらんのは女が出るからぞ。夫立てると果報は女に来るぞ。」(黄金の巻第七十二帖)、また「妻にまかせきった夫、夫にまかせきった妻の姿となれよ。信仰の真の道ひらけるぞ。一皮むけるぞ。岩戸ひらけるぞ。不二(富士)晴れるぞ。」(黄金の巻第九十九帖)、さらには「夫婦けんかするでない。夫のみいかんのでない。妻のみ悪いのでないぞ。お互に己の姿を出し合ってゐるのぞ。よく会得せよ。」(月光の巻第九帖)とあり、お互いに信頼しきった夫婦関係が大切で真の信仰の礎であると語られている。
《霊界と現界との関係》
日月神示には霊界についての記述も多く見られるが、特に「二日んの巻」(ジシンの巻)や「龍音之巻」は、ほとんどがこれらについての記述である。そのなかでも、我々が住んでいるこの現界と関係が深いと思われるもので主なものを以下に箇条書きで記す。
広く霊界といっても神界と幽界に大別され、神界は天国と霊国に分けられ、幽界はそれぞれ、陽界と陰界に分けられる。
天国には天人が、霊国には天使が住み、幽界は陽界には陽霊人が、陰界には陰霊人が住んでいる[17]。
幽界は人間界(現界)と最も深い関係にあり、初期の神懸かりのほとんどはこの幽界からの感応によるものであるから注意が必要である。
幽界は本来は無いものであるが、人間の地獄的想念が生み出したものである。
高度の霊がただちに肉体人に感応することはなく、それぞれの段階を経て感応するものであることを忘れてはならない。
参1 目に見えぬ所からの通信は高度のものほど肉体的には感応が弱くなり、暗示的なものになる。下級霊は現実界と紙一重の所に住んでいるため、その感応は極めて強く人間の目にはいかにも、もっともらしく映るのでこれも注意が必要である。
高度なものはその人間の心(精神)に応じてそれと同一波長の神霊に伝達され、その神霊の感応によって表現される。
下級霊が懸かった霊媒の態度や所作、動作、言動は高ぶったり、威張ったり、命令したり、断言したり、高度の神名を名乗ったりするものであるがこれらはよく見極めればわかる。
特別の使命を持つ天使は、最下級の霊界まで降って来て人間に特別な通信をしたり、指示したりすることがある。また天使の霊が母体(母胎)に宿り人間として生まれて来ることもある。末世にはこの種の降誕人がたくさんある。
特別の使命を持つ天使は別として、人間霊以外の霊で人間に憑依するのは、日本を例にとれば神、天狗、仙人、狐、狸、猫などが大部分である。
先祖霊に化けて何かを企てる動物霊が多いから注意を要する。動物霊が祖先のことを知っているのは、その憑依の対象となる人間の肉体霊(その人間の想念や考えていること)の知っていることを、直ちに知り得るからである。
動物霊が人間の言葉を使うのは不可解にも思えるが、それは例えれば、他人の家に入り込んでそこにある道具類をそのまま使うのと同じ道理である。動物霊でも他の霊でも人間に感応したならば、ある程度その人間の持つ言葉を使いこなせる。日本人に感応すれば日本語を、米国人ならば英語を語ることが出来る。
基本的に下級霊や動物霊は人間に感応はするが肉体の内部までは入り込めない。しかし、感応の度が強ければ入ったと同様に見える場合がある。
例外として人間の魂と動物の魂が入れ替わっていることもある。こうした場合は肉体に入り込んだと考えて良い。例えばそれが狐なら狐の様相を露呈するから、すぐ判るが悪行を積んだ霊などの場合は、その時代時代に合わせて化けているので見破ることがなかなか難しい。
人間霊の場合でもある種の霊は、自分自身が高度な神界に住んでいると誤信しているものがいるが、こうした霊が感応した場合は自信をもって断言する場合が多い。人間の知らぬ世界のことを自信を以って強く告げてくるので、判別は困難で多くの場合、審神者は参ってしまう。
仙人というのはどんなに高度に見えるものでも、幽界に属す。なぜなら、仙人界には戒律があるからである。神界には戒律はない。真の宗教に戒律はないのである。戒律がある宗教は亡びる。しかし、神界にも仙人的な存在はある。
竜体(竜神と思われる)を持つ霊は神界にも幽界にもある。竜体だからといってそれらが全て神界に属すると思うのは誤りである。
先祖霊が出る場合は、何か頼みたいことがある場合が多い。浄化した高級霊ともなれば、人間の肉体に判るような感応はほとんどない。
先祖は現界に住んでいる肉体人を土台として修業するものである。また、同様に霊界における自分は先祖との交流や交渉は深いものである。その先祖は神界に属する場合と幽界に属する場合とがある。神界に属するものは正流を通じて、幽界に属する場合は外流を通じて、肉体人の子孫にそれぞれ感応してくる。
下級霊や動物霊の場合は「酔いどれ」のように箸にも棒にもかからないことを言ってくる。霊の要求だからといって、そのまま受け入れるのではなく、よく判断した上で処理しなければならない。
霊眼で見たり霊耳で聞いたりすることは間違いが多い。霊耳は耳をふさいでも内から聞こえてくる。また、霊人と語るのは非常に危険である。
参2 物を見るのは額で見ることが重要である。額の目に見の誤りはなく、額の判断に間違いはな。また、正神からの感応は額から入り、顔面全体に及び、やがては身体全身に及んでいくものである。逆に、悪の霊が懸かった場合は肉体の背後や首すじなどから感応し、肉体の「みぞおち」あたりに集まり、そこで頑張るものである。
霊覚者や行者の中には奇跡的なことや非常識な行動をする者がよくいて、一般人はそれに騙されることがよくある。これらは、いずれも下級霊の仕業である。
正神には奇跡はない。高級霊は態度が立派である。
どんな下級霊であっても、その霊を馬鹿にしてはならない。馬鹿にすると反射的に審神者を馬鹿にして始末に負えないことになるので思慮が必要である。特にその霊が病気に関連をもっている場合は微妙である。霊には常に愛を持って接し、柔らかく持ち掛け良い方向に導いて行こうとする努力が大切である。霊の邪道的要求を受けて一時的に病気を治すと、それに倍になってぶり返すものである。
悪霊自身は自身を悪だとは思っていない。
霊的良識は神示や神典類によって、また体験によって養われる。さらには高度の科学書も参考になる。
人間界(現界)のことを良く知っている霊は人間界を去って間もない霊か地上世界に長く住んでいた動物霊か、人間に憑依していた霊である。
神の守護というのは人間からは全然わからないものである。判る様な守護は低い神や悪神の守護である。悪神でも大将ともなればその守護は人間にはわからない[22]。
日本には日本の守護の神、中国には中国の、外国には外国のそれぞれの守護の神がいる。
今の人間は9分9厘は幽界との繋がりを持つから、よくよく自分自身を審神し反省する必要がある。
霊媒を通じてこの世に呼びかける霊の9分9厘は邪霊である。今後はさらに激しくなる。
少しでも、怪しいと思った場合はそれが神の言葉でも裏表の見境もなく闇雲に信じてはならない。例え神の言葉でも自分で一応考えて、審神することが重要である。
悪神が懸かった時は自分では偉い神様が乗り移ったと信じ込む場合が多い。それは自分の天狗のような高慢な心が原因である。
我は「天照大御神」などと名乗る霊にろくなものはいない。こうした霊に憑かれた人間は例外なく大言壮語するものであり、眉唾ものである。
幽界霊も時によっては正しく善なることを言うが、それはただ言うだけである。例えるなら悪人が口先だけで善を語るようなものである。
良い言葉ならば、たとえ悪神が語ってもいいのでは?とも思えるが、それは理屈である。真の善言や真言は心、言葉、行ないが一致しているから直ちに力を持つが、それらが一致していないと力は出ないのである。言葉の上のみ同一であっても例えば、同じ「はい」という返事でも喜びの時と不満の時とでは違うように、偽りの言葉は落ち着いて聞けば判るものである。
その人間の心に相応した神しか拝めない。悪い心で拝めば、どんなに立派な神前でも悪神が感応する。逆に悪神を拝んでも正しい愛や喜びがあり、善い念が通じるならば悪神は引っ込んでそれぞれの善い神が現れる。
2重3重人格というのは2重3重の憑き物の転換によるものであり、群集心理とはその時の一時的な憑依霊達の仕業である。また、流行病のほとんどが邪霊集団の作用や仕業によるものである。
霊人には何でも判っているとか神懸りで世界のことが何でも分かると思うのは大きな間違いである。
人は死ぬ時の想念がそのまま続くので、その想念に応じた世界に住むことになるのである。この世を天国として暮らしていた人は天国へ、地獄と感じて生きていた人は自ら地獄的な想念を作り出してそのような世界に住むことになる。
神界より真っ直ぐに感応する想念が正流である。幽界からや幽界を経て流れてくる想念が外流である。
神的自分が本守護神であり、霊的自分が正守護神である。また、幽界的自分が副守護神である。本守護神は大神の歓喜である。
偶然の真理を覚ることが大切である。この世に偶然というものは、ひとつも存在しない。高い所(神界、天界)から来るから人間には偶然や奇跡と見えるのである。神からの現われであり、その手順が現界の人間には全く分からないためにそう見えるだけである。これが判れば大安心、立命である。
人間の肉体は最底部をなすものであるから、肉体的動きの以前において必ず霊的動きが有る。また、肉体的には小さな行為であつても霊的には大きな意味や働きをしている場合が多い。
天界で起こった出来事は必ず現界にも起こる。しかし、その時の現界の状況にもある程度左右され、早くなったり逆に遅くなったりする場合がある。また、時によっては順序が違う場合もある[25]。
天人や天使の行為が人間にうつるのであるが、逆に人間の自由や能力の如何によっての行為も天界や霊界に反映する。日本や外国では土地が違うように天界へのうつり方も違うのである。
悪いこと(天災や戦争や世の中の騒動や混乱など)を待つ心は魔の心である。いつどこにそれらが来たり、起ったりするのかと待ち望んでいるような心は悪魔に使われているのである。
ここは日月神示の原文を掲載しています。
日月神示という厳格に満ちた大神様であり、三千世界の裁き主として、私たちに最後の審判という裁きをする為に現界に降りてこられたのです。
香港を始め、日本でも火災が起きています。
既に大神様の最後の審判は始まったのです。
これから人類が経験したことがないようなことが起きるでしょう。三千世界の大洗濯は既に始まりました。
何故なら『子の年とその年の前後10年に気をつけろ!8のつく日に気をつけろ!』
『子の年とその年の前後10年』に既に入っているからです。天変地異だけではありません。香港火災のような火災、水害、竜巻、線状降水帯もそうです。
身魂の汚れている人を狙い撃ちです。
これこそが神のなせる技です。
読者の皆さん、早く目覚て下さい。
『善一筋で生きて下さい。』
日月神示に書記されているのですから。
人間として、正しい生き方をして下さい。
出口王仁三郎は言う。
「今という今善き心、善き言葉、善き行いを励むこそ善き」
という人生の極意を教えているのですから。
貴方も私も神人合一した神であり、神さまの代行者なのですから!
貴方が幸せになれないわけがない。
一日も早く、目覚めて下さい。
人間として間違った行い、悪口、陰口、不平不満な想い、腹立て、癇癪、利己的な考え方や、強い者勝ちの考え方を改めて、人間本来の正しい生き方に目覚めて下さい。
その答えは出口王仁三郎の『神さまの教え』にあるのですから。
どうか、皆さん、「神さま」を怒らせないで下さい。
どうか、悪口、陰口、乱暴な言葉、喧嘩、罵倒、怒りなどの言葉を発して空気を汚さないで下さい。
汚れてくると強風が吹いたり、台風が来て汚れた大気を綺麗にするのですから。
そんなことの繰り返しなんですよ。
台風が来たり、線状降水帯が来て集中豪雨になるのも、大気が汚れているからですよ。
これが大宇宙の法則なのですから。
「日月神示」ではこのように汚れた大気を綺麗にすることを「浄化」というんです。
また、大気を汚すものには車の排ガス、工場排煙などがありますよね。
川や河、湖、海も同じですよね。
一箇所の太平洋や東京湾、大阪湾など海水が汚れてくると地震が発生し大津波が起きて海水を一気に綺麗にします。
これも「浄化」なんです。
このように神さまは汚れた川、河、湖、海、大気、陸を一瞬に綺麗にするんです。
もし綺麗にならないのならすべてを破壊します。
だから「神さまを怒らせないで下さい」
自動書記した岡本天明を最後に確認して下さい。
日月神示は、神典研究家で画家でもあった岡本天明に「国常立尊」(国之常立神)という高級神霊からの神示を自動書記によって記述したとされる書物。昭和19年から27年(昭和23・26年も無し)に一連の神示が降り、6年後の昭和33、34年に補巻とする1巻、さらに2年後に8巻の神示が降りたとされる。
日月神示が降ろされたとされる麻賀多神社。写真は本殿。日月神示の最初の第一帖と第二帖は第二次世界大戦中の昭和19年6月10日に、この神社の社務所で書記された。
《原文掲載》
殆どが漢数字、独特の記号、若干のかな文字が混じった文体で構成され、抽象的な絵のみで書記されている「巻」もある[1]。本巻38巻と補巻1巻の計39巻が既に発表されているが、他にも、神霊より発表を禁じられている「巻」が13巻あり、天明はこの未発表のものについて昭和36年に「或る時期が来れば発表を許されるものか、許されないのか、現在の所では不明であります」と語っている。
日月神示は、その難解さから、書記した天明自身も当初は、ほとんど読むことが出来なかったが、仲間の神典研究家や霊能者達の協力などで少しずつ解読が進み、天明亡き後も妻である岡本三典(1917年〈大正6年〉11月9日 - 2009年〈平成21年〉6月23日)の努力により、現在では一部を除きかなりの部分が解読されたといわれている。 しかし、一方では神示の中に「この筆示は8通りに読めるのであるぞ」と書かれていることもあり、解読法の一つに成功したという認識が関係者の間では一般的である。そのために、仮訳という副題を添えての発表もあった。
なお、原文を解読して漢字仮名交じり文に書き直されたものは、特に「ひふみ神示」または「一二三神示」と呼ばれる。日月神示はその登場以来、関係者や一部専門家を除きほとんど知られていなかったが、1990年代の初め頃より神典研究家で翻訳家の中矢伸一の著作などにより広く一般にも知られるようになってきたといわれている。
麻賀多神社境内の巨大杉(県指定天然記念物)推古天皇の時代に植樹されたとされ、高さ約40m、太さ約9mの約1400年近くの樹齢を持つ東日本一の大杉である。
前述の扶乩実験の約2か月後の6月10日に天明は同郷の先輩で知人でもあった高田集蔵の誘いで千葉県印旛郡公津村台方(現・成田市台方)を訪れるが、そこに実験の時に現れた天之日月神を祀る延喜式内社で麻賀多神社の末社である「天之日津久神社」があった。 神典研究家で神名には明るかった天明でも天之日月神がいかなる神なのか、また、どこに鎮座され祀られている神なのかが扶乩実験後もしばらくは分らなかったと後に述懐している。
「天之日月神」を祀る麻賀多神社の末社である「天日津久神社」(あまのひつくじんじゃ)。この社は向って本殿右側後方の場所に位置する。天明はこの神社に参拝後、神示の自動書記を有無を言わせぬ圧倒的な力で神霊により強制的にさせられた。
天明によると天之日津久神社を参拝し厚く御礼を申し上げ、社務所で一息ついている時に予期しない自動書記現象が起こったという。画家でもあった天明は矢立や画仙紙を常に持ち歩く習慣がありこの時も例外ではなかったが、突然、額のあたりに「ピリッ」とした強い衝動と右腕に非常な激痛を感じ、矢立と画仙紙を取り出し、筆を画仙紙にのせたところ自分の意思に反して猛烈な勢いで筆が走り意味不明の殴り書きをした。天明の言葉によれば、右腕に焼火箸を突っ込まれたような激痛だったという。
以前から霊的体験が豊富で自らも霊媒役などを務めた経験がある天明は、右腕の激痛時にこれらは自動書記の前触れかもしれないと瞬間的に思ったという。同時にこれ程強く肉体に感応する場合は従来の体験から考えて幽界からの感応ではないかと思い、少し困惑もしたという。しかし、特に額部分からきたことと(天明自身の述懐では、それまでにあった霊体験のもので幽界からの感応は、そのほとんどが肉体の背後からのものだったという)、激痛を感じながらも気分は悪くないことから、神界からのものだと思い直しこれを確信したという。
これ以前に天明が経験していた自動書記や霊的現象では天明自身が中止しようと思えば中止出来たが、今回の場合は中止しようとすればさらに右腕の激痛が耐えられぬほどになり全く自由にならなかったという。 これが後に日月神示と呼ばれる神示、神典でこの日が発現の重要な日となった。
なお、書記を終えた時には先程までの右腕の激痛は嘘のように消えていたという。その後も神示が降りてくる時には右腕が痛くなり、書記が終われば治まるということの繰り返しが続いたといわれている。
なお、この時に書記されたものが日月神示の第一巻である「上つ巻」の第一帖および第二帖であった。
麻賀多神社の社務所で天明が最初に自動書記で書かされた原文は下のようなものであった。
「二二八八れ十二ほん八れ ㋹の九二のま九十の㋹のちからをあら八す四十七れる」
これは次の通りに読めると言われている
「富士は晴れたり日本晴れ 神の国のまことの神の力を現す世となれる」
続いて
「卍も十も九も八きりたすけて七六かしい五くろうのない四かくるから 三たまを二たんにみかいて一すしのま九十を十四て九れ四 いま一十九十六あるか 九の九六八三たまを三かいておらぬ十こせぬ 九の四八まって二十十七一九六てある」
これについても読み方は
「仏もキリストも何もかもハッキリ助けてシチ難しい御苦労の無い世がくるから ミタマを不断に磨いて一筋のマコトを通して呉れよ 今一苦労あるが この苦労はミタマを磨いておらぬと越せぬ この世始まって二度とない苦労である」
《解釈》
解釈としてはマコトの神が世に出現して神の力を現して、すべてを助け何の苦労もない理想的な世界に立て直していくが、その前には人類は未だかつてなかったほどの大災厄や大試練を迎えなければならない。助かるためには身魂[9](心、精神、身体)を絶え間なく磨き、鍛練しつつ備えよ。磨いていなければ助かることが出来ない。という内容だと考えられている。
日月神示の中ではこのような大災厄や大試練を「三千世界の大洗濯」や「大峠」と呼んで、多くの帖で書記されている。この大峠は我々の住むこの現界のみならず、神界、霊界、幽界なども含めたすべての世界とすべての存在に等しく起こるとされ、森羅万象のうち何ひとつそれから免れることができるものは存在しないという。また、この現界よりもはるかに高次元で高度と思われる神界の神々や守護神といった存在でもこの大峠を越せない存在があるという。
この身魂磨きや心の浄化、また正しい食生活で身体を健康で強壮なものに保っていくことの大切さは日月神示の主題と言っても良く、我々ひとりひとりがこの現界をより良く生きるためにも、この先に起こるとされる大峠を無事に乗り越えるためにも極めて重大なことであり日月神示自体が降ろされた理由もこれに尽きると考えられる 。なお、日月神示はこれらの帖を手始めに昭和19年から天明が亡くなる2年前の昭和36年まで17年間にわたり書記されていく。神示には「人間の生き方」「正しい食生活について」「夫婦の本当のありかた」さらには「霊界」の実相(霊界のことについては節を設けて後述)についても書記されているなど非常に広範囲にわたっての記述が見られるが、未来に関するいわゆる「予言書」的な記述部分も多く見られる。また、日月神示はそのほとんどが数字や記号で書記されているが、その理由を神霊自らが神示の中で
「高度の霊人となれば文字はない。ただ文字の元をなす「レ」と「〇」と「+」があるのみ。また高度の霊人の文字として、ほとんど数字のみが使用されている場合もある。数字は、他の文字に比して多くの密意を蔵しているからである」(二日んの巻第十三帖)や「天人同志の文字は数字が多いぞ。天人の言葉はマコトであるから、ただ一言で万語を伝え得るぞ。」と「星座之巻」第十八帖、第十九帖で述べている。同様なことは18世紀の巨大な科学者にして政治家であり、また、その後半生は霊能者として有名なスウェーデンの貴族であるE.スウェデンボルグも天界探訪の事を記した自身の著作で(参3)「天人の文字は数字が非常に多かった。」と書いていて興味深いものがある[独自研究?]。日月神示より以前に他で出された神示類ではこのようなことはみられず、神霊が「今まで他に出て居たのは皆、神示先(ふでさき)ぢゃ。ここは神示(ふで)ぢゃ。キの神示ぢゃ」(カゼの巻第六帖、第七帖)と書記させている。また、「アメの巻」第十三帖でも「外で判らん根本のキのこと知らす此の方の神示ぢゃ、三千世界[14]のこと一切の事説いて聞かして得心させて上げますぞや。落ち着いて聞き落としのない様になされよ。」とも語られている。
また、一方ではこの神示は単に現界に生きる人間のみならず、天界や霊界、また、その他多くの世界に住んでいる存在(神、竜神、天人、天使、霊人達)にも等しく与えられているらしい次のような記述もみられる。「この神示は、神と竜神と天人天使と人民たちに与えてあるのぢゃ」と「極め之巻」第十八帖で述べられている。
《天の岩戸》
日月神示によると、昭和20年の段階で奥の神界の岩戸は開かれており、中の神界における岩戸開きが最中とされ、次の世の型を急ぐと述べられている(「夜明けの巻」第十一帖)。
岩戸開く仕組みについては「下つ巻」第二十二帖で「岩戸開く仕組 知らしてやりたいなれど、この仕組、言ふてはならず、・・・」と明かされていない。
岩戸が開けるには、一苦労、二苦労と困難が訪れるとされ、子の年に岩戸が開かれると予言されている。
「あら楽(たぬ)し、あなさやけ、元津御神の御光の、輝く御代ぞ近づけり。岩戸開けたり野も山も、草の片葉(かきは)も言(こと)止(や)めて、大御光に寄り集ふ、誠の御代ぞ楽しけれ。今一苦労二苦労、とことん苦労あるなれど、楽しき苦労ぞ目出度けれ。申、酉すぎて戌の年、亥の年、子の年 目出度けれ。一二三(ひふみ)の裏の御用する身魂も今に引き寄せるから、その覚悟せよ。覚悟よいか。待ちに待ちにし秋来たぞ。」(「夜明けの巻」第十二帖)
昭和20年以後の子年は、昭和23年(1948年)、昭和35年(1960年)、昭和47年(1972年)、昭和59年(1984年)、平成8年(1996年)。
昭和59年の後に、一八十(イワト)が成ったとする平成の時代が訪れている。日月神示で示されるアヤワは一八十の位置にあると飛鳥昭雄は述べている。
三千世界の
日月神示の内容は極めて広範囲にわたり、神霊が上記の「アメの巻」第十三帖で
「外で判らん根本のキのこと知らす此の方の神示ぢゃ。三千世界のこと一切の事説いて聞かして得心させて上げますぞや。落ち着いて聞き落としのない様になされよ。」
と語っているように、そのそれぞれに多くの記述が見られるが最も大きな特徴は神霊自身が「下つ巻」第一帖や「春の巻」第一帖、「黄金の巻」第二帖で
「この道は宗教ではないぞ、教会ではないぞ、道ざから、今までの様な教会作らせんぞ。」
「此処は光の道伝え、行ふ所、教えでないと申してあろう。教へは教へに過ぎん。道でなくては、今度はならんのぢゃ。」
「今迄の日本の宗教は日本だけの宗教。この度は世界のもとの、三千世界の大道ぞ、教えでないぞ。」
また、「アメの巻」第一帖、「〇つりの巻」第一帖、同巻第六帖の
「此の道は只の神信心とは根本から違ふと申してあろが、三千世界の大道ざぞ。」
「今迄の教ではこの道判らんぞ。」
「三界を貫く道ぞ誠なり誠の道は一つなりけり。神界の誠かくれし(隠れし)今迄の道は誠の道でないぞや、鬼おろち草木動物虫けらも一つにゑらぐ道ぞ誠ぞ。」
と述べているように、この神示を宗教でもなく教えでもなく「三千世界の大道」で「三界を貫く誠の道」だと語っていることであろう。そのために既成宗教の信仰のあり方や教えとは大きく異なるものが多く、それらを否定している記述も随所に見られる。例えば既成宗教では有名な教えのひとつとされる「右の頬を打たれたら、左の頬も出しなさい」と言う教えについてでは日月神示を書記させたこの神霊は次のように述べられている。
「右の頬をうたれたら左の頬を出せよ、それが無抵抗で平和の元ぢゃと申しているが、その心根をよく洗って見つめよ、それは無抵抗ではないぞ、打たれるやうなものを心の中にもっているから打たれるのぞ。マコトに居れば相手が手をふり上げても打つことは出来ん、よくききわけてくだされよ。笑って来る赤子の無邪気は打たれんであろうが、これが無抵抗ぞ。世界一家天下太平ぢゃ、左の頬を出すおろかさをやめて下されよ」(極め之巻第十五帖)
「そなたは無抵抗主義が平和の基だと申して、右の頬を打たれたら左の頬をさし出して御座るなれど、それは真の無抵抗ではないぞ。よく聞きなされ、打たれるやうなものをそなたがもってゐるからこそ、打たれる結果となるのぢゃ。まことに磨けたら、まことに相手を愛してゐたならば、打たれるような雰囲気は生れないのであるぞ。頬をうたれて下さるなよ。生れ赤児見よと知らしてあろうが。」(月光の巻第五十三帖)
(※これらの帖に関しては、幼児虐待や幼児殺しをしてしまう親が度々ニュースになるなど、説得力のない文章だと考える人や意見もある。)
同様に既成宗教では神の「しるし」や「証し」として重要視、神聖視されている奇跡であるが、これについても完全に否定。いくつかの帖で言及され、奇跡やこれらを求め信じる人に大きな警鐘を鳴らしている。「二日んの巻」第十三帖では「地獄的下級霊の現われには、多くの奇跡的なものをふくむ。奇跡とは大いなる動きに逆行する動きの現われであること知らねばならない。かかる奇跡によりては、霊人も地上人も向上し得ない。」や「黄金の巻」第二十二帖でも「奇跡では改心出来んのであるぞ」また、「龍音の巻」第十八帖では「正神には奇跡はない、奇跡ないことが大きな奇跡であるぞ、奇跡するものは亡びる。高級霊は態度が立派であるぞ。わかりたか。」と語られている。
また、他の多くの宗教が修行の一環や、神への自己犠牲のしるしとして断食の必要性やその意義を説いているが日月神示では断食すること自体を厳しく戒めているのも注目される。「日月の巻」第三帖では「滝に打たれ断食する様な行は幽界の行ぞ。神の国のお土踏み、神国の光いきして、神国から生まれる食べ物頂きて、神国のおん仕事してゐる臣民には行は要らぬのざぞ。此の事よく心得よ。」と述べられ、滝に打たれたり、断食するような行は低い世界の行に過ぎず全く必要がないのだとされる。さらに「正しい食生活について」では「食物を食べるのも喜びであるぞ。正しき食物正しく食べよ。更に喜びふえて弥栄えるのぢゃ。悪い食物悪く食べるから悪くなるのぢゃ。何も彼も同様ぞ。人民は喜びの子と申してあらう。罪の子でないぞ。うれしうれしの道あるに、何故歩まんのぢゃ。」(春の巻第五帖)と語られている。
しかし、一方で多食や肉食についてはこれを戒めており、次のような帖もある。「食物節してこそ、ささげてこそ、運ひらけるのぢゃ。病治るのぢゃ。食物、今の半分で足りると申してあらうが。遠くて近いものヒフミの食べ方して見なされよ。運ひらけ、病治ってうれしうれしと輝くぞ。そんなこと位で、病治ったり、運開ける位なら、人民はこんなに苦しまんと申すが、それが理窟と申すもの。理窟悪と申してあるもの。低い学に囚われたメクラ、ツンボと申すものぞ。」(冬の巻捕帖)「四ツ足を食ってはならん、共喰となるぞ、草木から動物生まれると申してあろう、臣民の食物は五穀野菜の類であるぞ。」(碧玉の巻第八帖)。なお肉食についてはそれを戒めつつも、次のようにも書記させている「獣の喰ひ物くふ時には一度神に献げてからにせよ、神から頂けよ、さうすれば神の喰べ物となって、何たべても大じやうぶになるのぞ」(天つ巻第五帖)。
「人間の生き方」に関しては次の記述が代表的なものであろう。
「臣民にわかる様にいふなれば、身も心も神のものざから、毎日毎日神から頂いたものと思へばよいのであるぞ、それでその身体をどんなにしたらよいかと云ふこと分かるであらうが、夜になれば眠ったときはお返ししてゐるのざと思へ、それでよく分かるであらうが。身魂みがくと申すことは、神の入れものとして神からお預りしてゐる、神の最も尊いとことしてお扱ひすることぞ」(富士の巻第十四帖)。「目覚めたら其の日の生命お預りした事を神に感謝し、其の生命を神の御心のままに弥栄に仕へまつる事に祈れよ。神は其の日其の時に何すべきかに就いて教へるぞ。明日の事に心使ふなよ。心は配れよ。取越苦労するなよ。」(日月の巻第十五帖)と語られている。
さらに夫婦のありかたについては次のように述べられている。
「愛は養はねばならん。夫婦はいのちがけで、お互にきづき合はねばならんぞ。夫婦愛はあるのではない。築き上げねばならんぞ。つくり出すのぢゃ。そこに尊さあるぞ。喜びあるぞ。」(春の巻第二十六帖)。「家の治まらんのは女が出るからぞ。夫立てると果報は女に来るぞ。」(黄金の巻第七十二帖)、また「妻にまかせきった夫、夫にまかせきった妻の姿となれよ。信仰の真の道ひらけるぞ。一皮むけるぞ。岩戸ひらけるぞ。不二(富士)晴れるぞ。」(黄金の巻第九十九帖)、さらには「夫婦けんかするでない。夫のみいかんのでない。妻のみ悪いのでないぞ。お互に己の姿を出し合ってゐるのぞ。よく会得せよ。」(月光の巻第九帖)とあり、お互いに信頼しきった夫婦関係が大切で真の信仰の礎であると語られている。
《霊界と現界との関係》
日月神示には霊界についての記述も多く見られるが、特に「二日んの巻」(ジシンの巻)や「龍音之巻」は、ほとんどがこれらについての記述である。そのなかでも、我々が住んでいるこの現界と関係が深いと思われるもので主なものを以下に箇条書きで記す。
広く霊界といっても神界と幽界に大別され、神界は天国と霊国に分けられ、幽界はそれぞれ、陽界と陰界に分けられる。
天国には天人が、霊国には天使が住み、幽界は陽界には陽霊人が、陰界には陰霊人が住んでいる[17]。
幽界は人間界(現界)と最も深い関係にあり、初期の神懸かりのほとんどはこの幽界からの感応によるものであるから注意が必要である。
幽界は本来は無いものであるが、人間の地獄的想念が生み出したものである。
高度の霊がただちに肉体人に感応することはなく、それぞれの段階を経て感応するものであることを忘れてはならない。
参1 目に見えぬ所からの通信は高度のものほど肉体的には感応が弱くなり、暗示的なものになる。下級霊は現実界と紙一重の所に住んでいるため、その感応は極めて強く人間の目にはいかにも、もっともらしく映るのでこれも注意が必要である。
高度なものはその人間の心(精神)に応じてそれと同一波長の神霊に伝達され、その神霊の感応によって表現される。
下級霊が懸かった霊媒の態度や所作、動作、言動は高ぶったり、威張ったり、命令したり、断言したり、高度の神名を名乗ったりするものであるがこれらはよく見極めればわかる。
特別の使命を持つ天使は、最下級の霊界まで降って来て人間に特別な通信をしたり、指示したりすることがある。また天使の霊が母体(母胎)に宿り人間として生まれて来ることもある。末世にはこの種の降誕人がたくさんある。
特別の使命を持つ天使は別として、人間霊以外の霊で人間に憑依するのは、日本を例にとれば神、天狗、仙人、狐、狸、猫などが大部分である。
先祖霊に化けて何かを企てる動物霊が多いから注意を要する。動物霊が祖先のことを知っているのは、その憑依の対象となる人間の肉体霊(その人間の想念や考えていること)の知っていることを、直ちに知り得るからである。
動物霊が人間の言葉を使うのは不可解にも思えるが、それは例えれば、他人の家に入り込んでそこにある道具類をそのまま使うのと同じ道理である。動物霊でも他の霊でも人間に感応したならば、ある程度その人間の持つ言葉を使いこなせる。日本人に感応すれば日本語を、米国人ならば英語を語ることが出来る。
基本的に下級霊や動物霊は人間に感応はするが肉体の内部までは入り込めない。しかし、感応の度が強ければ入ったと同様に見える場合がある。
例外として人間の魂と動物の魂が入れ替わっていることもある。こうした場合は肉体に入り込んだと考えて良い。例えばそれが狐なら狐の様相を露呈するから、すぐ判るが悪行を積んだ霊などの場合は、その時代時代に合わせて化けているので見破ることがなかなか難しい。
人間霊の場合でもある種の霊は、自分自身が高度な神界に住んでいると誤信しているものがいるが、こうした霊が感応した場合は自信をもって断言する場合が多い。人間の知らぬ世界のことを自信を以って強く告げてくるので、判別は困難で多くの場合、審神者は参ってしまう。
仙人というのはどんなに高度に見えるものでも、幽界に属す。なぜなら、仙人界には戒律があるからである。神界には戒律はない。真の宗教に戒律はないのである。戒律がある宗教は亡びる。しかし、神界にも仙人的な存在はある。
竜体(竜神と思われる)を持つ霊は神界にも幽界にもある。竜体だからといってそれらが全て神界に属すると思うのは誤りである。
先祖霊が出る場合は、何か頼みたいことがある場合が多い。浄化した高級霊ともなれば、人間の肉体に判るような感応はほとんどない。
先祖は現界に住んでいる肉体人を土台として修業するものである。また、同様に霊界における自分は先祖との交流や交渉は深いものである。その先祖は神界に属する場合と幽界に属する場合とがある。神界に属するものは正流を通じて、幽界に属する場合は外流を通じて、肉体人の子孫にそれぞれ感応してくる。
下級霊や動物霊の場合は「酔いどれ」のように箸にも棒にもかからないことを言ってくる。霊の要求だからといって、そのまま受け入れるのではなく、よく判断した上で処理しなければならない。
霊眼で見たり霊耳で聞いたりすることは間違いが多い。霊耳は耳をふさいでも内から聞こえてくる。また、霊人と語るのは非常に危険である。
参2 物を見るのは額で見ることが重要である。額の目に見の誤りはなく、額の判断に間違いはな。また、正神からの感応は額から入り、顔面全体に及び、やがては身体全身に及んでいくものである。逆に、悪の霊が懸かった場合は肉体の背後や首すじなどから感応し、肉体の「みぞおち」あたりに集まり、そこで頑張るものである。
霊覚者や行者の中には奇跡的なことや非常識な行動をする者がよくいて、一般人はそれに騙されることがよくある。これらは、いずれも下級霊の仕業である。
正神には奇跡はない。高級霊は態度が立派である。
どんな下級霊であっても、その霊を馬鹿にしてはならない。馬鹿にすると反射的に審神者を馬鹿にして始末に負えないことになるので思慮が必要である。特にその霊が病気に関連をもっている場合は微妙である。霊には常に愛を持って接し、柔らかく持ち掛け良い方向に導いて行こうとする努力が大切である。霊の邪道的要求を受けて一時的に病気を治すと、それに倍になってぶり返すものである。
悪霊自身は自身を悪だとは思っていない。
霊的良識は神示や神典類によって、また体験によって養われる。さらには高度の科学書も参考になる。
人間界(現界)のことを良く知っている霊は人間界を去って間もない霊か地上世界に長く住んでいた動物霊か、人間に憑依していた霊である。
神の守護というのは人間からは全然わからないものである。判る様な守護は低い神や悪神の守護である。悪神でも大将ともなればその守護は人間にはわからない[22]。
日本には日本の守護の神、中国には中国の、外国には外国のそれぞれの守護の神がいる。
今の人間は9分9厘は幽界との繋がりを持つから、よくよく自分自身を審神し反省する必要がある。
霊媒を通じてこの世に呼びかける霊の9分9厘は邪霊である。今後はさらに激しくなる。
少しでも、怪しいと思った場合はそれが神の言葉でも裏表の見境もなく闇雲に信じてはならない。例え神の言葉でも自分で一応考えて、審神することが重要である。
悪神が懸かった時は自分では偉い神様が乗り移ったと信じ込む場合が多い。それは自分の天狗のような高慢な心が原因である。
我は「天照大御神」などと名乗る霊にろくなものはいない。こうした霊に憑かれた人間は例外なく大言壮語するものであり、眉唾ものである。
幽界霊も時によっては正しく善なることを言うが、それはただ言うだけである。例えるなら悪人が口先だけで善を語るようなものである。
良い言葉ならば、たとえ悪神が語ってもいいのでは?とも思えるが、それは理屈である。真の善言や真言は心、言葉、行ないが一致しているから直ちに力を持つが、それらが一致していないと力は出ないのである。言葉の上のみ同一であっても例えば、同じ「はい」という返事でも喜びの時と不満の時とでは違うように、偽りの言葉は落ち着いて聞けば判るものである。
その人間の心に相応した神しか拝めない。悪い心で拝めば、どんなに立派な神前でも悪神が感応する。逆に悪神を拝んでも正しい愛や喜びがあり、善い念が通じるならば悪神は引っ込んでそれぞれの善い神が現れる。
2重3重人格というのは2重3重の憑き物の転換によるものであり、群集心理とはその時の一時的な憑依霊達の仕業である。また、流行病のほとんどが邪霊集団の作用や仕業によるものである。
霊人には何でも判っているとか神懸りで世界のことが何でも分かると思うのは大きな間違いである。
人は死ぬ時の想念がそのまま続くので、その想念に応じた世界に住むことになるのである。この世を天国として暮らしていた人は天国へ、地獄と感じて生きていた人は自ら地獄的な想念を作り出してそのような世界に住むことになる。
神界より真っ直ぐに感応する想念が正流である。幽界からや幽界を経て流れてくる想念が外流である。
神的自分が本守護神であり、霊的自分が正守護神である。また、幽界的自分が副守護神である。本守護神は大神の歓喜である。
偶然の真理を覚ることが大切である。この世に偶然というものは、ひとつも存在しない。高い所(神界、天界)から来るから人間には偶然や奇跡と見えるのである。神からの現われであり、その手順が現界の人間には全く分からないためにそう見えるだけである。これが判れば大安心、立命である。
人間の肉体は最底部をなすものであるから、肉体的動きの以前において必ず霊的動きが有る。また、肉体的には小さな行為であつても霊的には大きな意味や働きをしている場合が多い。
天界で起こった出来事は必ず現界にも起こる。しかし、その時の現界の状況にもある程度左右され、早くなったり逆に遅くなったりする場合がある。また、時によっては順序が違う場合もある[25]。
天人や天使の行為が人間にうつるのであるが、逆に人間の自由や能力の如何によっての行為も天界や霊界に反映する。日本や外国では土地が違うように天界へのうつり方も違うのである。
悪いこと(天災や戦争や世の中の騒動や混乱など)を待つ心は魔の心である。いつどこにそれらが来たり、起ったりするのかと待ち望んでいるような心は悪魔に使われているのである。
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神典日月神示 真実の物語
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私は二人の方々の神憑りについて、今から25年前にその真実を知りました。
この方たちのお名前は
大本開祖•出口なお(でぐちなお)、
神典研究家で画家でもあった岡本天明(おかもとてんめい)です。
この日月神示(ひつきしんじ)または日尽神示(ひつくしんじ)は、神典研究家で画家でもあった岡本天明(おかもとてんめい)に「国常立尊(国之常立神)という高級神霊からの神示を自動書記によって記述したとされる書物のことです。
昭和19年から27年(昭和23・26年も無し)に一連の神示が降り、6年後の昭和33、34年に補巻とする1巻、さらに2年後に8巻の神示が降りたとされています。
その書物を纏めた書類です。
この書類は神国日本の未来の預言書なのだ。
私はこの日月神示(ひつきしんじ)に出会い、研究し始めてもう25年になります。
日月神示が降ろされた場所は麻賀多神社(まかたじんじゃ)です。日月神示の最初の第一帖と第二帖は第二次世界大戦中の昭和19年6月10日に、この神社の社務所で岡本天明が神憑りに合い自動書記さされたのです。
殆どが漢数字、独特の記号、若干のかな文字が混じった文体で構成され、抽象的な絵のみで書記されている「巻」もあります。
本巻38巻と補巻1巻の計39巻が既に発表されているが、他にも、神霊より発表を禁じられている「巻」が13巻あり、天明はこの未発表のものについて昭和36年に「或る時期が来れば発表を許されるものか、許されないのか、現在の所では不明であります」と語っています。
日月神示は、その難解さから、書記した天明自身も当初は、ほとんど読むことが出来なかったが、仲間の神典研究家や霊能者達の協力などで少しずつ解読が進み、天明亡き後も妻である岡本三典(1917年〈大正6年〉11月9日 ~2009年〈平成21年〉6月23日)の努力により、現在では一部を除きかなりの部分が解読されたと言われているます。しかし、一方では神示の中に「この筆示は8通りに読めるのであるぞ」と書かれていることもあり、解読法の一つに成功したという認識が関係者の間では一般的です。
そのために、仮訳という副題を添えての発表もありました。
なお、原文を解読して漢字仮名交じり文に書き直されたものは、特に「ひふみ神示」または「一二三神示」と呼ばれています。
縄文人の祝詞に「ひふみ祝詞(のりと)」という祝詞の歌があります。
日月神示はその登場以来、関係者や一部専門家を除きほとんど知られていなかったが、1990年代の初め頃より神典研究家で翻訳家の中矢伸一の著作などにより広く一般にも知られるようになってきたと言われています。
この小説は真実の物語です。
「神典日月神示(しんてんひつきしんじ)真実の物語」
どうぞ、お楽しみ下さい。
『神知りて 人の幸せ 祈るのみ
神の伝えし 愛善の道』
◆アルファポリスの24hポイントって?◆「1時間で消滅する数百ptの謎」や「投稿インセンティブ」「読者数/PV早見表」等の考察・所感エッセイ
カワカツ
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◆24h.ptから算出する「読者(閲覧・PV)数確認早見表」を追加しました。各カテゴリ100人までの読者数を確認可能です。自作品の読者数把握の参考にご利用下さい。※P.15〜P.20に掲載
(2023.9.8時点確認の各カテゴリptより算出)
◆「結局、アルファポリスの24hポイントって何なの!」ってモヤモヤ感を短いエッセイとして書きなぐっていましたが、途中から『24hポイントの仕組み考察』になってしまいました。
◆「せっかく増えた数百ptが1時間足らずで消えてしまってる?!」とか、「24h.ptは分かるけど、結局、何人の読者さんが見てくれてるの?」など、気付いた事や疑問などをつらつら上げています。
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