43 / 154
第四十三巻 日本の首都•東京は神の国!
しおりを挟む
日本の首都•東京は神の国!
私は日月神示に接し学問として研究して来ました。そして日月神示の教えを読み解くうちに
一つの結論に至りました。それは『東京は神さまに守られている。』ということです。
それでは、その理由をお話しする前に東京の歴史についてご説明します。
東京にも先史時代がありました。先史時代とは、文字による記録が存在しない時代を指します。この時代の人類の歴史は、考古学的な遺跡や遺物、地質学、人類学などの研究によって解明されています。人類史の大部分を占める期間です。
先史時代は、文字が発明され、文献記録が残される以前の時代です。文字の有無が、先史時代と歴史時代を区別する明確な基準となります。
先史時代は、使用された道具の素材によって大きく区分されます。
狩をする縄文人とマンモスのイメージ図
石器時代には旧石器時代、新石器時代、青銅器時代、鉄器時代がありました。
旧石器時代は、打製石器を使用し、新石器時代:は磨製石器や土器を使用し、農耕・牧畜が始まった時代です。そして青銅器時代へ、この時代は青銅器を使用しました。そうして鉄器時代へ、鉄器を使用した時代です。
先史時代には、猿人、原人、旧人、そして現生人類(新人)へと人類が進化しました。
猿人は約700万年前に誕生し、直立二足歩行を始めたと考えられています。
原人は約50万年前に出現し、打製石器を使用し、火も使用したとされています。
旧人は脳容積が現代人とほぼ同じで、埋葬の習慣があったと考えられています。
新人は約12万年前にアフリカで誕生し、世界中に拡散しました。
先史時代の人々は、狩猟採集生活を送っていました。新石器時代には農耕と牧畜が始まり、定住生活へと移行し、社会や技術が発展しました。おそらく日本列島にはこの新石器時代に縄文人がいて、最初の民族だと私は思っています。一般図書には一万六千五百万年頃と記述されていますが、実は専門家の図書を読んでみると三万八千年頃と記述されていました。web上で調べてみると縄文時代は約1万5000年前から約2300年前まで続いた、との記述でした。』このようにバラバラです。しかし、私が確信している縄文人は約三万八千年前から日本列島で暮らしていたと思うのです。
さて、東京の歴史の話しです。
多摩丘陵にある丸池遺跡、羽根沢台遺跡、出山遺跡、天文台構内遺跡(いずれも三鷹市)では、三万年から二万年前の黒曜石製石器が検出されている。黒曜石産地は伊豆・箱根、長野県中央高地産である。また、伊豆諸島神津島は旧石器時代の重要な黒曜石の産地となっており、南関東で広く流通していた。
古墳時代、日本書紀には534年(安閑天皇元年)に武蔵国で乱が起きたが、大和朝廷の助けにより笠原直使主が戦いに勝利し大和朝廷から武蔵国造であることを認知された(武蔵国造の乱)とあり、その際、笠原直使主は屯倉(大和朝廷の直轄領)を献上している。この事は、まだ大和朝廷の権力は関東までそれ程及んでいなかった事が窺える。
伝説に属するものであるが、飛鳥時代の628年(推古天皇36年)、宮戸川(現・隅田川)で漁をしていた檜前浜成・竹成兄弟の網に観音像がかかり、この像を拝した兄弟の主人・土師中知は出家し、自宅を寺に改めて供養、これが浅草寺の始まりという。その後645年(大化元年)、勝海という僧が寺を整備し観音の夢告により本尊を秘仏と定めたとされる(『浅草寺縁起』)。
現代の東京都の領域は、令制国の武蔵国の一角である。郡においては、東京都区部は豊島郡(中心部)、荏原郡、足立郡の一部、下総国葛飾郡の一部に相当する。多摩地域は多麻郡となっていた。近世初期に、葛飾郡のうち、隅田川から利根川(現代の江戸川下流)の間が、下総国から分離されて武蔵国に編入された。武蔵国は、現在の東京都全域だけでなく、埼玉県全域と神奈川県東北部を含む広い版図であるが、国府と国分寺はそれぞれ現在の府中市と国分寺市にあった。当初の武蔵国は、五畿七道では東山道に属していたが、771年に東海道所属に変更された。
『延喜式神名帳』には多磨郡に小野神社(一宮論社)、足立郡に氷川神社(名神大社、一宮論社)、阿伎留神社、青渭神社等が見えるが、後世武蔵国総社とされた大國魂神社や、東京の神社として著名な神田明神や日枝神社の名は見えない。
この時代、新羅や高句麗からの亡命者が日本に居住していたが、朝廷が渡来人に武蔵国の一部への移住を命じ、移住することになった(現在の埼玉県地域にあった新羅郡や高麗郡は、それに由来する地名である)。
平安時代後期(中世)には武蔵七党と総称される在地武士団が興り、関東に進出した畿内の河内源氏の家人となった。後白河天皇皇子以仁王の令旨を受け伊豆国の源頼朝が挙兵した治承・寿永の乱においては豊島氏、足立氏、葛西氏らが活躍している。
12世紀には豊島郡江戸郷の名が見え、この地を本拠とする江戸氏も興った。これ以後、当地は江戸と呼ばれるようになる。鎌倉時代には多摩地方に北関東から鎌倉へ至る鎌倉街道が整備され、鎌倉後期には上野国の新田義貞が鎌倉幕府軍を破った分倍河原の戦いが起っている。又、1282年(弘安5年)旅上にあった日蓮が武蔵国池上郷の池上宗仲の屋敷で没し、その地に池上本門寺が創建された。
戦国時代には扇谷上杉氏の家宰であった太田氏が台頭し、江戸城を築いた太田道灌が武蔵国の掌握に力を注いだが暗殺され、相模国小田原城を拠点とする新興勢力である後北条氏が進出し、武蔵は後北条氏の領国となる。この後北条氏は北条早雲を祖とする。あの鹿島の剣豪塚原卜伝も早雲と関わりがある。
後北条氏当主北条氏政の弟である北条氏照は八王子城を築き、西方の甲斐国の武田氏に備えた。後北条氏は豊臣秀吉の小田原征伐によって1590年に滅んでいる。
後北条氏の滅亡後、豊臣政権下においては東海地方と武田遺領である甲信地方の5ヶ国を支配していた徳川家康は関東地方(武蔵国を含むほとんど全部)への領地替えとなり、駿府城(旧静岡市)から江戸城に入る。
関ヶ原の戦いを経て家康は引き続き江戸を武家政権の所在地と定め、1603年3月24日(旧暦2月12日)に江戸幕府を開き、江戸時代が到来する。ここに、首都は京都でありながら、幕府の所在する江戸が実質的に日本の行政の中心地となった。幕府を開いた家康は進んで鷹狩りをやり、白金御殿などの御殿も造った。江戸は人口の急増とともに拡大していき、18世紀初頭には人口100万人を超える世界有数の大都市へと発展を遂げていた。5代将軍徳川綱吉の時代には現在の23区内唯一の喜多見藩があったが、数年で消滅した。18世紀後半から19世紀初頭には、化政文化をはじめとする江戸独自の文化が発達し、上方に代わる文化の発信地となった。
多摩地方は甲州街道沿いを除いて大半が未開拓地域の乏水地帯であったが、近世には玉川上水や野火止用水など用水路の開削が行われ新田開発が進展する。享保年間には将軍吉宗の享保の改革において江戸町奉行の大岡忠相が地方御用を兼任し武蔵野新田開発が行われ、江戸中後期には多摩地方に諸村落が成立する。
1867年11月9日(慶応3年旧暦10月14日)の徳川慶喜による大政奉還と1868年1月3日(慶応3年旧暦12月9日)の王政復古のクーデターによって江戸幕府が崩壊し、同年5月3日(慶応4年(明治元年)旧暦4月11日)の江戸城開城によって江戸は新政府の支配下に入った。7月1日(旧暦5月12日)、新政府は江戸府を設置し、9月3日(旧暦7月17日)に江戸が東亰(後に東京)と改称されると、江戸府も東京府と改称された。
1869年に明治天皇が皇居(東京城、旧江戸城)に入ると、東京は近代日本の事実上の首都となった(東京を首都とする法的根拠はないとする意見もある。東京奠都を参照)。
1868年(明治元年旧暦5月19日)に寺社奉行、町奉行、勘定奉行を廃止して社寺裁判所、市政裁判所、民政裁判所を設け、南町奉行所は南市政裁判所、北町奉行所は北市政裁判所と改めた。同年(旧暦7月17日)に市政裁判所を廃止して東京府を置くことになり、南北市政裁判所は合併し、同年(旧暦8月17日)に東京府幸橋御門内(現在の東京都千代田区内幸町1丁目)の旧郡山藩柳沢家の上屋敷を東京府庁にあてた。改装工事のため南裁判所で府庁の事務を開始し、同年(9月2日)にすべての業務が南裁判所から府庁へ移された。東京には全国から新政府に仕える人々が集まり、多くは皇居周辺(後世の山手線内側)に住んだ。これが山の手族の起源である。また、築地には外国人居留地が設けられ、銀座には西洋風の煉瓦街が作られて、文明開化が進んだ。
廃藩置県後の1871年12月25日(明治4年11月14日)、東京府のほか関東地方に存在していた各県が廃止され、武蔵国荏原郡と豊島郡、および足立郡、葛飾郡のそれぞれ一部を管轄区域とする東京府が改めて設置されることとなった。このとき旧来の東京府の区域については6大区の下に97小区を置く「大区小区制」が敷かれ、一方廃止された品川県、浦和県、小菅県、および世田谷に飛地を有していた長浜県からの行政の移管は半年ほどかけて順次行い、旧県時代の区割りのままとした。この際に神奈川県の管轄となった多摩郡のうち、現在の中野区、杉並区の区域が翌1872年(明治5年)東京府に移管され、管轄区域は現在の東京都区部(23区)のうち練馬区西部(後の大泉町)及び世田谷区西部(後の砧村及び千歳村)を除いた区域となった。その後1873年(明治6年)3月18日に大区小区の区割りが全域一貫したものとなり、総計11大区103小区となった。
1878年(明治11年)郡区町村編制法に基づき、東京府内の中心市街地に麹町区以下の15区が、同年11月2日に編成された。市街地に隣接する区域は荏原郡・東多摩郡・南豊島郡・北豊島郡・南足立郡・南葛飾郡の6郡に編成される(このうち、東多摩郡と南豊島郡は1896年(明治29年)4月1日に統合されて豊多摩郡となった)。また、同年1月11日より、伊豆諸島が東京府の管轄となった。1889年(明治22年)5月1日に市制特例による特別市制により東京市が発足し、1899年(明治32年)10月1日には、市制特例を廃止し、東京市は一般市制による一般市となった。1893年(明治26年)4月1日、神奈川県に属していた三多摩を東京府に編入した。
大正期に入ると、東京市への人口流入は更に進み、1920年の人口は370万人になったが、1923年(大正13年)9月1日には関東大震災に襲われ、特に下町が大打撃を受け、一時、明治時代に明治政府による藩債処分により大打撃を受けた面積が半分程度の大阪市の人口が東京市を抜くことにもなった。近衛文麿政権以後の政権は、戦時体制を敷いて、経済・産業・文化・芸術・教育、その他あらゆる分野の中枢を東京に集めた。
三多摩にも市ができた。1917年(大正6年)、東京府南多摩郡八王子町は市制を施行し、東京府八王子市となった。原内閣の郡制廃止後の1940年(昭和15年)、東京府北多摩郡立川町が市となり、東京府立川市となった。この時点で、東京府には、東京府東京市と八王子市と立川市の3市があった。
第二次世界大戦中の1943年(昭和18年)7月1日には、東京市と東京府は廃止され、東京都が設置された。初代東京都長官は、内務省出身の大達茂雄であった。第二次世界大戦末期の1945年(昭和20年)3月10日には東京大空襲によって下町を中心に甚大な被害を受け、都庁舎も失った。その後の空襲による被害もあわせて、市街地の多くが焼け野原と化した。また、小笠原諸島の硫黄島では地上戦が行われ、日米両軍が多大な犠牲を払った戦いとなった。第二次世界大戦の終結により、旧日本軍の基地や施設は、連合国軍に順次接収された。208ヶ所あった都内の米軍基地は、多年にわたる取組みの歴史を経て、現在は8ヶ所になっている。
さて、日月神示の教えから私は皆さまに断言する。日本の首都東京は『神の国』である、と。何故か?それは全国民に、そしてお茶の間に、テレビ放映により毎日素敵なドラマを配信しているからだ。ドラマの俳優、女優はみんなイケメン、美人揃いである。顔の輪郭は整っていて、鼻筋は通り二重瞼、そしてスタイルがいい。テレビドラマで、彼や彼女達を視聴しているとドラマのシーンは感動の嵐である。心は癒される。幸せを感じる。涙を流す。そのテレビドラマの世界はまさに、日月神示の教える世界感がある。東京には善の心を持った人々が集っている。過去から現代、そして未来へと。三千世界の大洗濯の為に現れた罪の裁き主•国常立尊の最後の審判は既に始まっています。日本を始めとして、全世界で、地球規模で起こるでしょう。天界も霊界も幽界も現界も善と悪の戦いが始まりました。だから日月神示は「神界も現界も霊界も幽界もすべてを一旦ぶち壊す!」と、私たち人類に教えているのです。私たちは身魂を磨き、善一筋で生きていくことです。我良し、強い者勝ちの考え方を改心し、トランプ大統領も、習近平もプーチンも金正恩も善一筋で生きることです。そうすればすぐに『ミロクの世の中』になりますよ。全世界の人々は幸せに満ちた、愛情豊かな思いやりのある世界になるですょう。日月神示の教えていることを皆様は毎日実行して下さい。
私は日月神示に接し学問として研究して来ました。そして日月神示の教えを読み解くうちに
一つの結論に至りました。それは『東京は神さまに守られている。』ということです。
それでは、その理由をお話しする前に東京の歴史についてご説明します。
東京にも先史時代がありました。先史時代とは、文字による記録が存在しない時代を指します。この時代の人類の歴史は、考古学的な遺跡や遺物、地質学、人類学などの研究によって解明されています。人類史の大部分を占める期間です。
先史時代は、文字が発明され、文献記録が残される以前の時代です。文字の有無が、先史時代と歴史時代を区別する明確な基準となります。
先史時代は、使用された道具の素材によって大きく区分されます。
狩をする縄文人とマンモスのイメージ図
石器時代には旧石器時代、新石器時代、青銅器時代、鉄器時代がありました。
旧石器時代は、打製石器を使用し、新石器時代:は磨製石器や土器を使用し、農耕・牧畜が始まった時代です。そして青銅器時代へ、この時代は青銅器を使用しました。そうして鉄器時代へ、鉄器を使用した時代です。
先史時代には、猿人、原人、旧人、そして現生人類(新人)へと人類が進化しました。
猿人は約700万年前に誕生し、直立二足歩行を始めたと考えられています。
原人は約50万年前に出現し、打製石器を使用し、火も使用したとされています。
旧人は脳容積が現代人とほぼ同じで、埋葬の習慣があったと考えられています。
新人は約12万年前にアフリカで誕生し、世界中に拡散しました。
先史時代の人々は、狩猟採集生活を送っていました。新石器時代には農耕と牧畜が始まり、定住生活へと移行し、社会や技術が発展しました。おそらく日本列島にはこの新石器時代に縄文人がいて、最初の民族だと私は思っています。一般図書には一万六千五百万年頃と記述されていますが、実は専門家の図書を読んでみると三万八千年頃と記述されていました。web上で調べてみると縄文時代は約1万5000年前から約2300年前まで続いた、との記述でした。』このようにバラバラです。しかし、私が確信している縄文人は約三万八千年前から日本列島で暮らしていたと思うのです。
さて、東京の歴史の話しです。
多摩丘陵にある丸池遺跡、羽根沢台遺跡、出山遺跡、天文台構内遺跡(いずれも三鷹市)では、三万年から二万年前の黒曜石製石器が検出されている。黒曜石産地は伊豆・箱根、長野県中央高地産である。また、伊豆諸島神津島は旧石器時代の重要な黒曜石の産地となっており、南関東で広く流通していた。
古墳時代、日本書紀には534年(安閑天皇元年)に武蔵国で乱が起きたが、大和朝廷の助けにより笠原直使主が戦いに勝利し大和朝廷から武蔵国造であることを認知された(武蔵国造の乱)とあり、その際、笠原直使主は屯倉(大和朝廷の直轄領)を献上している。この事は、まだ大和朝廷の権力は関東までそれ程及んでいなかった事が窺える。
伝説に属するものであるが、飛鳥時代の628年(推古天皇36年)、宮戸川(現・隅田川)で漁をしていた檜前浜成・竹成兄弟の網に観音像がかかり、この像を拝した兄弟の主人・土師中知は出家し、自宅を寺に改めて供養、これが浅草寺の始まりという。その後645年(大化元年)、勝海という僧が寺を整備し観音の夢告により本尊を秘仏と定めたとされる(『浅草寺縁起』)。
現代の東京都の領域は、令制国の武蔵国の一角である。郡においては、東京都区部は豊島郡(中心部)、荏原郡、足立郡の一部、下総国葛飾郡の一部に相当する。多摩地域は多麻郡となっていた。近世初期に、葛飾郡のうち、隅田川から利根川(現代の江戸川下流)の間が、下総国から分離されて武蔵国に編入された。武蔵国は、現在の東京都全域だけでなく、埼玉県全域と神奈川県東北部を含む広い版図であるが、国府と国分寺はそれぞれ現在の府中市と国分寺市にあった。当初の武蔵国は、五畿七道では東山道に属していたが、771年に東海道所属に変更された。
『延喜式神名帳』には多磨郡に小野神社(一宮論社)、足立郡に氷川神社(名神大社、一宮論社)、阿伎留神社、青渭神社等が見えるが、後世武蔵国総社とされた大國魂神社や、東京の神社として著名な神田明神や日枝神社の名は見えない。
この時代、新羅や高句麗からの亡命者が日本に居住していたが、朝廷が渡来人に武蔵国の一部への移住を命じ、移住することになった(現在の埼玉県地域にあった新羅郡や高麗郡は、それに由来する地名である)。
平安時代後期(中世)には武蔵七党と総称される在地武士団が興り、関東に進出した畿内の河内源氏の家人となった。後白河天皇皇子以仁王の令旨を受け伊豆国の源頼朝が挙兵した治承・寿永の乱においては豊島氏、足立氏、葛西氏らが活躍している。
12世紀には豊島郡江戸郷の名が見え、この地を本拠とする江戸氏も興った。これ以後、当地は江戸と呼ばれるようになる。鎌倉時代には多摩地方に北関東から鎌倉へ至る鎌倉街道が整備され、鎌倉後期には上野国の新田義貞が鎌倉幕府軍を破った分倍河原の戦いが起っている。又、1282年(弘安5年)旅上にあった日蓮が武蔵国池上郷の池上宗仲の屋敷で没し、その地に池上本門寺が創建された。
戦国時代には扇谷上杉氏の家宰であった太田氏が台頭し、江戸城を築いた太田道灌が武蔵国の掌握に力を注いだが暗殺され、相模国小田原城を拠点とする新興勢力である後北条氏が進出し、武蔵は後北条氏の領国となる。この後北条氏は北条早雲を祖とする。あの鹿島の剣豪塚原卜伝も早雲と関わりがある。
後北条氏当主北条氏政の弟である北条氏照は八王子城を築き、西方の甲斐国の武田氏に備えた。後北条氏は豊臣秀吉の小田原征伐によって1590年に滅んでいる。
後北条氏の滅亡後、豊臣政権下においては東海地方と武田遺領である甲信地方の5ヶ国を支配していた徳川家康は関東地方(武蔵国を含むほとんど全部)への領地替えとなり、駿府城(旧静岡市)から江戸城に入る。
関ヶ原の戦いを経て家康は引き続き江戸を武家政権の所在地と定め、1603年3月24日(旧暦2月12日)に江戸幕府を開き、江戸時代が到来する。ここに、首都は京都でありながら、幕府の所在する江戸が実質的に日本の行政の中心地となった。幕府を開いた家康は進んで鷹狩りをやり、白金御殿などの御殿も造った。江戸は人口の急増とともに拡大していき、18世紀初頭には人口100万人を超える世界有数の大都市へと発展を遂げていた。5代将軍徳川綱吉の時代には現在の23区内唯一の喜多見藩があったが、数年で消滅した。18世紀後半から19世紀初頭には、化政文化をはじめとする江戸独自の文化が発達し、上方に代わる文化の発信地となった。
多摩地方は甲州街道沿いを除いて大半が未開拓地域の乏水地帯であったが、近世には玉川上水や野火止用水など用水路の開削が行われ新田開発が進展する。享保年間には将軍吉宗の享保の改革において江戸町奉行の大岡忠相が地方御用を兼任し武蔵野新田開発が行われ、江戸中後期には多摩地方に諸村落が成立する。
1867年11月9日(慶応3年旧暦10月14日)の徳川慶喜による大政奉還と1868年1月3日(慶応3年旧暦12月9日)の王政復古のクーデターによって江戸幕府が崩壊し、同年5月3日(慶応4年(明治元年)旧暦4月11日)の江戸城開城によって江戸は新政府の支配下に入った。7月1日(旧暦5月12日)、新政府は江戸府を設置し、9月3日(旧暦7月17日)に江戸が東亰(後に東京)と改称されると、江戸府も東京府と改称された。
1869年に明治天皇が皇居(東京城、旧江戸城)に入ると、東京は近代日本の事実上の首都となった(東京を首都とする法的根拠はないとする意見もある。東京奠都を参照)。
1868年(明治元年旧暦5月19日)に寺社奉行、町奉行、勘定奉行を廃止して社寺裁判所、市政裁判所、民政裁判所を設け、南町奉行所は南市政裁判所、北町奉行所は北市政裁判所と改めた。同年(旧暦7月17日)に市政裁判所を廃止して東京府を置くことになり、南北市政裁判所は合併し、同年(旧暦8月17日)に東京府幸橋御門内(現在の東京都千代田区内幸町1丁目)の旧郡山藩柳沢家の上屋敷を東京府庁にあてた。改装工事のため南裁判所で府庁の事務を開始し、同年(9月2日)にすべての業務が南裁判所から府庁へ移された。東京には全国から新政府に仕える人々が集まり、多くは皇居周辺(後世の山手線内側)に住んだ。これが山の手族の起源である。また、築地には外国人居留地が設けられ、銀座には西洋風の煉瓦街が作られて、文明開化が進んだ。
廃藩置県後の1871年12月25日(明治4年11月14日)、東京府のほか関東地方に存在していた各県が廃止され、武蔵国荏原郡と豊島郡、および足立郡、葛飾郡のそれぞれ一部を管轄区域とする東京府が改めて設置されることとなった。このとき旧来の東京府の区域については6大区の下に97小区を置く「大区小区制」が敷かれ、一方廃止された品川県、浦和県、小菅県、および世田谷に飛地を有していた長浜県からの行政の移管は半年ほどかけて順次行い、旧県時代の区割りのままとした。この際に神奈川県の管轄となった多摩郡のうち、現在の中野区、杉並区の区域が翌1872年(明治5年)東京府に移管され、管轄区域は現在の東京都区部(23区)のうち練馬区西部(後の大泉町)及び世田谷区西部(後の砧村及び千歳村)を除いた区域となった。その後1873年(明治6年)3月18日に大区小区の区割りが全域一貫したものとなり、総計11大区103小区となった。
1878年(明治11年)郡区町村編制法に基づき、東京府内の中心市街地に麹町区以下の15区が、同年11月2日に編成された。市街地に隣接する区域は荏原郡・東多摩郡・南豊島郡・北豊島郡・南足立郡・南葛飾郡の6郡に編成される(このうち、東多摩郡と南豊島郡は1896年(明治29年)4月1日に統合されて豊多摩郡となった)。また、同年1月11日より、伊豆諸島が東京府の管轄となった。1889年(明治22年)5月1日に市制特例による特別市制により東京市が発足し、1899年(明治32年)10月1日には、市制特例を廃止し、東京市は一般市制による一般市となった。1893年(明治26年)4月1日、神奈川県に属していた三多摩を東京府に編入した。
大正期に入ると、東京市への人口流入は更に進み、1920年の人口は370万人になったが、1923年(大正13年)9月1日には関東大震災に襲われ、特に下町が大打撃を受け、一時、明治時代に明治政府による藩債処分により大打撃を受けた面積が半分程度の大阪市の人口が東京市を抜くことにもなった。近衛文麿政権以後の政権は、戦時体制を敷いて、経済・産業・文化・芸術・教育、その他あらゆる分野の中枢を東京に集めた。
三多摩にも市ができた。1917年(大正6年)、東京府南多摩郡八王子町は市制を施行し、東京府八王子市となった。原内閣の郡制廃止後の1940年(昭和15年)、東京府北多摩郡立川町が市となり、東京府立川市となった。この時点で、東京府には、東京府東京市と八王子市と立川市の3市があった。
第二次世界大戦中の1943年(昭和18年)7月1日には、東京市と東京府は廃止され、東京都が設置された。初代東京都長官は、内務省出身の大達茂雄であった。第二次世界大戦末期の1945年(昭和20年)3月10日には東京大空襲によって下町を中心に甚大な被害を受け、都庁舎も失った。その後の空襲による被害もあわせて、市街地の多くが焼け野原と化した。また、小笠原諸島の硫黄島では地上戦が行われ、日米両軍が多大な犠牲を払った戦いとなった。第二次世界大戦の終結により、旧日本軍の基地や施設は、連合国軍に順次接収された。208ヶ所あった都内の米軍基地は、多年にわたる取組みの歴史を経て、現在は8ヶ所になっている。
さて、日月神示の教えから私は皆さまに断言する。日本の首都東京は『神の国』である、と。何故か?それは全国民に、そしてお茶の間に、テレビ放映により毎日素敵なドラマを配信しているからだ。ドラマの俳優、女優はみんなイケメン、美人揃いである。顔の輪郭は整っていて、鼻筋は通り二重瞼、そしてスタイルがいい。テレビドラマで、彼や彼女達を視聴しているとドラマのシーンは感動の嵐である。心は癒される。幸せを感じる。涙を流す。そのテレビドラマの世界はまさに、日月神示の教える世界感がある。東京には善の心を持った人々が集っている。過去から現代、そして未来へと。三千世界の大洗濯の為に現れた罪の裁き主•国常立尊の最後の審判は既に始まっています。日本を始めとして、全世界で、地球規模で起こるでしょう。天界も霊界も幽界も現界も善と悪の戦いが始まりました。だから日月神示は「神界も現界も霊界も幽界もすべてを一旦ぶち壊す!」と、私たち人類に教えているのです。私たちは身魂を磨き、善一筋で生きていくことです。我良し、強い者勝ちの考え方を改心し、トランプ大統領も、習近平もプーチンも金正恩も善一筋で生きることです。そうすればすぐに『ミロクの世の中』になりますよ。全世界の人々は幸せに満ちた、愛情豊かな思いやりのある世界になるですょう。日月神示の教えていることを皆様は毎日実行して下さい。
20
あなたにおすすめの小説
日露戦争の真実
蔵屋
歴史・時代
私の先祖は日露戦争の奉天の戦いで若くして戦死しました。
日本政府の定めた徴兵制で戦地に行ったのでした。
日露戦争が始まったのは明治37年(1904)2月6日でした。
帝政ロシアは清国の領土だった中国東北部を事実上占領下に置き、さらに朝鮮半島、日本海に勢力を伸ばそうとしていました。
日本はこれに対抗し開戦に至ったのです。
ほぼ同時に、日本連合艦隊はロシア軍の拠点港である旅順に向かい、ロシア軍の旅順艦隊の殲滅を目指すことになりました。
ロシア軍はヨーロッパに配備していたバルチック艦隊を日本に派遣するべく準備を開始したのです。
深い入り江に守られた旅順沿岸に設置された強力な砲台のため日本の連合艦隊は、陸軍に陸上からの旅順艦隊攻撃を要請したのでした。
この物語の始まりです。
『神知りて 人の幸せ 祈るのみ
神の伝えし 愛善の道』
この短歌は私が今年元旦に詠んだ歌である。
作家 蔵屋日唱
【戦国時代小説】 甲斐の虎•武田信玄と軍師•山本勘助
蔵屋
歴史・時代
わたしは、以前、甲斐国を観光旅行したことがある。
何故、甲斐国なのか?
それは、日本を象徴する富士山があるからだ。
さて、今回のわたしが小説の題材にした『甲斐の虎•武田信玄と軍師•山本勘助』はこの甲斐国で殆どの戦国乱世の時代を生き抜いた。そして越後の雄•上杉謙信との死闘は武田信玄、山本勘助にとっては人生そのものであったことだろう。
そんな彼らにわたしはスポットライトを当て読者の皆さんに彼らの素顔を知って頂く為に物語として執筆したものである。
なお、この小説の執筆に当たり『甲陽軍鑑』を参考にしていることを申し述べておく。
それでは、わたしが執筆した小説を最後までお楽しみ下さい。
読者の皆さんの人生において、お役に立てれば幸いです。
【最新版】 日月神示
蔵屋
歴史・時代
最近日月神示の予言本に不安を抱いている方もあると思うがまったく心配いらない。
何故なら日月神示では「取り越し苦労や過ぎ越し苦労はするな!」
「今に生きよ!」
「善一筋で生きよ!」
「身魂磨きをせよ!」
「人間の正しい生き方」
「人間の正しい食生活」
「人間の正しい夫婦のあり方」
「身も心も神さまからお借りしているのじゃから夜になって寝る前に神さまに一旦お返しするのじゃ。そうしたら身と心をどのようにしたらよいか、分かるじゃろ!」
たったのこれだけを守れば良いということだ。
根拠のない書籍や情報源等に惑わされてはダメだ。
日月神示も出口王仁三郎もそのようなことは一切言っていない。
これらの書籍や情報源は「日月神示」が警告する「臣民を惑わすものが出てくるから気をつけよ!」
という言葉に注目して欲しい。
今回、私は読者の皆さんに間違った解釈をされている日月神示を分かりやすく解説していくことにしました。
どうか、最後までお読み下さい。
日月神示の予言については、私が執筆中の「神典日月神示の真実」をお読み下さい。
滝川家の人びと
卯花月影
歴史・時代
勝利のために走るのではない。
生きるために走る者は、
傷を負いながらも、歩みを止めない。
戦国という時代の只中で、
彼らは何を失い、
走り続けたのか。
滝川一益と、その郎党。
これは、勝者の物語ではない。
生き延びた者たちの記録である。
もし石田三成が島津義弘の意見に耳を傾けていたら
俣彦
歴史・時代
慶長5年9月14日。
赤坂に到着した徳川家康を狙うべく夜襲を提案する宇喜多秀家と島津義弘。
史実では、これを退けた石田三成でありましたが……。
もしここで彼らの意見に耳を傾けていたら……。
【アラウコの叫び 】第1巻/16世紀の南米史
ヘロヘロデス
歴史・時代
【毎日07:20投稿】 1500年以降から300年に渡り繰り広げられた「アラウコ戦争」を題材にした物語です。
マプチェ族とスペイン勢力との激突だけでなく、
スペイン勢力内部での覇権争い、
そしてインカ帝国と複雑に様々な勢力が絡み合っていきます。
※ 現地の友人からの情報や様々な文献を元に史実に基づいて描かれている部分もあれば、
フィクションも混在しています。
また動画制作などを視野に入れてる為、脚本として使いやすい様に、基本は会話形式で書いています。
HPでは人物紹介や年表等、最新話を先行公開しています。
公式HP:アラウコの叫び
youtubeチャンネル名:ヘロヘロデス
insta:herohero_agency
tiktok:herohero_agency
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる
