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第五巻
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【第五巻ノ1】
《日露戦争とは?》
私たちが日露戦争を語る上で大切なことがあります。
私は以下のことを皆さんと一緒に考えてみたいと思います。
1.日露戦争はどのような戦いであったのか?
2.帝政ロシアはどのような国であったのか?
3.清国はどのような国になっていたのか?
4.日本連合艦隊は当時、どのような状況であったのか?
5.旅順とはどんな地理的位置にあったのか?
6.当時日本が考えていた制海権とは、どのようなものであったのか?
7.ロシアのバルチック艦隊は当時、どのような艦隊であったのか?
8.当時の日本陸軍第三軍とはどのような軍隊だったのか?
この8項目をまず、一緒に考えてみたい。
最初のテーマは日露戦争についてだ。
朝鮮・中国東北部の支配権をめぐる日本国とロシア国の戦争であった。
1904年開戦。
日本海海戦で日本が勝利した。
翌年9月アメリカ大統領セオドア・ルーズヴェルトの仲介で日本国はポーツマス講和条約に調印した。
2番目は帝政ロシアである。
当時、ロシアのロマノフ王朝の別称である、
1613年イヴァン四世の血統を引くミハイル・ロマノフがツァーリに選出されて以来、1917年のロシア革命でニコライ2世が退位するまで、ロシアを約300年間統治した政治体制であった。
3番目は清国である。
中国最後の統一王朝である。
1616年、中国東北の女性貴族がヌルハチによって統一され後金を建国した。
1636年2代目ホンタイジにより国号を清に改称した。
1644年明を征服。
瀋陽から北京に遷都した。
19世紀になると欧米資本主義勢力が侵入し
辛亥革命により、1912年に滅亡した。
中国の歴史を語る上で私たち日本人はこの革命について知る必要がある。
殆どの読者はこの革命のことを知らないだろう。
だから私が後世の語り部になる。
さて、この革命のお話しである。
辛亥革命は、1911年に中国で起こった革命である。
約2000年続いた皇帝による支配を終わらせ、中華民国を樹立したのだ。
この革命により、アジアで初めての共和制国家が誕生したと言える。
この辛亥革命の概要について語ることにする。
辛亥革命は、1911年から1912年にかけて清朝を倒し、中華民国を成立させた共和革命である。まずこの事実を我々は知らなければならない。
革命が勃発した1911年が干支で「辛亥」に当たるためこの名がつけられた。
ものごとの出来事には必ずその背景と原因がある。
このような思考回路のない人間は幸せになることが出来ない。
読者の皆さんは私と同じ思考回路を持っていると私は思っている。
さて、この革命の背景と原因について語ることにする。
清朝が衰退するたと国民の不満が吹き出した。
清朝末期、中国は外国からの侵略や内部の腐敗により国力が衰え、民衆の不満が高まっていたのだ。
特に、アヘン戦争以降の不平等条約は中国の主権を損ない、経済的・社会的に大きな打撃を与えていた。国民は貧困であった。
そして鉄道国有化政策が起こる。
清朝が外国から資金を借りて民間鉄道を国有化しようとしたことが、漢民族の怒りを爆発させる直接的なきっかけとなったのだ。
この革命の目的と指導者についてだが、
三民主義を唱える孫文が現れる。
この革命の目的は、国民が主役となる共和制国家を築くことだと。孫文(そんぶん)が提唱した「三民主義」がその理念であった。
では、一体三民主義とはどのような主義であるかというと、次のように私は説明する。
一つ目は民族主義である。
外国の支配を排除し、中国人の手で国を治めるという考え方である。当たり前の考え方である。
二つ目は民権主義である。
国民一人ひとりが政治に参加できるような仕組みにする。
これも当然な考え方である。
三つ目は民生主義である。
国民の生活を豊かにするための制度を整える。つまり全国民の平等社会の構築である。
さて、この革命が起こる前はどのような経過を辿り辛亥革命に至ったのであろうか?
最初に武昌蜂起があった。
1911年10月、湖北省武昌で革命軍が蜂起したのだ。
この武昌蜂起が辛亥革命の始まりである。
中華民国が成立した。
武昌蜂起後、各省が次々と清朝からの独立を宣言し、革命の動きは全国に拡大した。
1912年1月1日、孫文が臨時大総統に就任し、南京で中華民国臨時政府が樹立されたのだ。
清朝は滅亡した。
清朝は革命軍の鎮圧に失敗し、1912年2月12日に宣統帝が退位し、清朝は滅亡した。
では、辛亥革命は後にどのような影響を与えたのであろうか?
辛亥革命により、中国は清朝から中華民国へと政体が変わり、アジアで初めての共和制国家が誕生したのだ。
しかし、革命後も混乱や争いが続き、袁世凱の独裁や軍閥の台頭など、新たな課題に直面してしまった。
ここに中国の悲劇があった。
まとまりのない国は他国から侵略されるのだ。
日本国も国家内でまとまりが無ければ、当時の中国のようになるということだ。
日本国の国政選挙には必ず投票に行き、自分の目で、正しい政党と政治家を選ぶべきである。
【第五巻ノ2】
《旅順攻略戦と二〇三高地》
皆さんはこの日露戦争に於ける二〇三高地の悲劇という話しを聞いたことがないだろうか?
今から私はこの二〇三高地の悲劇のお話しをしようと思う。
極東ロシア軍の最重要拠点を日本軍が陥落させ、日露戦争の大きな分水嶺となった旅順攻略戦。
日本軍15万人の内、8万人が死傷するという未曾有の大激戦であった。
その最大の激戦地が二〇三高地であった。
平成15年(2003年)、ロシア公文書館から、旅順の攻防をロシア側から記録した写真群が見つかったのだ。
この時、日露戦争の新たな実像が浮かびあがったのである。
「二〇三高地攻略の主要な目的は「旅順港のロシア艦隊の撃破は破壊状況の目視」
であったが、実は二〇三高地攻略のはるか以前にすでにロシア艦隊が日本軍の砲撃によって壊滅的打撃を受けていたことが明らかになったのである。
では何故、歴史上最大の犠牲者を出した二〇三高地攻略戦は決行されなければならなかったのであろうか?私は松永の図書館に行き、この二〇三高地攻略戦のことを調べたのです。調べた結果、ロシア側で新たに見つかった記録写真を私は目にしたのです。
また、日本国大本営と陸軍、海軍の間で、交わされた極秘電報の内容を知ったのでした。
二〇三高地攻略戦を巡り、連合艦隊司令長官東郷平八郎大将は、わざわざ参謀土屋中佐を派遣して、日本陸軍第三軍首脳と会い、
「真に希求する攻撃目的は要塞攻略にあらず、港内の旅順艦隊の撃滅にあり」と。
このことを、懇切丁寧に説明させていたのである。同時に大本営にも切々としてこれを要求している。
そう考えると、この11月27日の乃木の決断が、安堵するものであったことがよく分かる。
作家司馬遼太郎氏の小説「坂の上の雲」を読んでいると、乃木司令部はまことに 空前絶後の愚かな作戦をよくもまあ続けていたのものである。
あの乃木にして、どうしたものか?
当時、乃木 希典は53歳という年齢であった。
1849年12月25日〈嘉永2年11月11日〉に誕生し1912年〈大正元年〉9月13日に逝去。享年63歳。
日本国陸軍の軍人。最終階級は陸軍大将。栄典は贈正二位勲一等功一級伯爵。明治天皇より第10代学習院長に任じられ、迪宮裕仁親王(昭和天皇)の教育係であった。
まあ、明治天皇の信頼が厚かったということだ。
このように二〇三高地攻略戦に対する攻撃が始まった。
11月29日から30日にかけて二〇三高地攻略戦はかつてないほど悲惨な惨状であった。
この惨劇の様を私は言葉で表現することが出来なかったのだ。
その理由はこのように酷い惨状、惨たらしい戦死した兵士を写真やテレビの映像でみたことがなかったからだ。
その悲惨な惨劇を正確に伝える言葉を私は思い出すことが出来なかったのである。
千人が十人になるのに、十五分を必要としないほどの激戦であった。機銃や大砲により、瞬時に死んでいく。
それは正に悪魔の所業であった。
それでもなお、二〇三高地の西南の一角にいた日本兵の死骸の山の中に生存者がいた。
その生存者たちは砲弾の炸裂の中でなお銃を掴み槓桿を操作し、撃鉄を引き小銃弾を敵のコンクリートで固めたベトンに向けて発射し続けたのである。
その激越この上ない戦闘の続行中に書かれた生々しい手紙をご紹介しよう。
当時日本陸軍第三軍に連合艦隊から派遣されていた参謀岩村団次郎中佐に宛に、連合艦隊作戦参謀の秋山真之中佐が書き送った書面である。
《手紙の原文》
11月31日付。
「実に二〇三高地の占領如何は、大局より打算して、帝国の存亡に関係し候えば是非決行を望む。察するに敵が斯く迄も頑固に死守するだけ彼等にとりて旅順の価値が貴重にして、敵にも旅順の存亡が国家の存亡に関するものにて、バルチック艦隊来るも旅順艦隊あらざる時は、我に対し勝算ある攻撃を取ること能わざればなり。之を以って観るときは、旅順の攻撃に四、五万の勇士を損するも左程大なる犠牲にあらず。」
上記の内容の書面を日本陸軍第三軍参謀岩村団次郎中佐宛に連合艦隊作戦参謀秋山真之
【第五巻ノ3】
《二〇三高地攻略戦》ら
私の先祖粟村克三郎は日露戦争の奉天の戦いで戦死しました。
この戦いは日露開戦から1年余、明治38年3月1日に始まったのです。
この戦いは日露両軍の総力戦と言われる奉天の戦いでした。
日本は、国運を賭けて最後の決戦へ挑みました。
当時、満州軍総司令官•大山巌総司令官は奉天攻略の総攻撃を命じたのです。
もしこの決戦に日本が敗退したら、日本にはもう後がありません。文字通りの国運を賭けた決戦でした。
この奉天会戦には日本軍は24万9800名で歩兵246大隊、騎兵57•5中隊、砲992門、工兵43中隊でした。
対するロシア軍は総兵力36万7200名、歩兵379大隊、騎兵151中隊、砲1219門、工兵43•5中隊でした。
このロシア軍と日本軍の兵力を単純に計算しただけで、ロシア軍は日本軍の1.5倍であり、戦力ではロシア軍が圧倒的に有利でした。
明治38年(1905)2月、奉天(現在の瀋陽南方の沙河をはさんで、日本軍とロシア軍が対峙していました。
両軍とも数ヶ月前より兵力が増強されていたのです。
日本軍(満州軍)は旅順を陥落させた第三軍と、新たに編成された鴨緑江軍が加わりました。
鴨緑江軍はもともと朝鮮の防衛の為に編成された大本営が直轄していましたが、満州国に全面的に協力することになりました。
日本陸は東から鴨緑江軍、第一軍、第四軍、第ニ軍、第三軍と布陣したのです。
東西の戦線は約100kmでした。
総兵力は24万9800名でした。
奉天に向かうためには沙河を越えて渾河を渡り、必要なら遼河を渡河して迂回しなければなりません。
極寒期は過ぎようとしていましたが、河の氷が溶けないうちに氷上を徒歩で渡りたい。
それには2月末から三月初めにかけて作戦を行う必要がありました。
2月22日、最初に行動を起こしたのは最右翼の鴨緑江軍でした。
一帯は数百メートルの山々が連なっています。
隠密に前進し、ロシア軍の左翼を奇襲しました。
ロシア軍の主力がそこへ集中する間際を突いて、最左翼の第三軍が大きく迂回して、ロシア軍の最右翼を攻撃する作戦です。
ロシア軍はまんまとこの作戦にはまったのでした。
鴨緑江軍の進撃を、第三軍の進撃と間違えて大部隊を東側に移したのです。しかも、日本の第二軍正面に対して攻撃していたロシア第二軍は攻撃を中止したのでした、
2月27日のことでした。日本軍が攻撃を開始して6日目のことでした。
ロシア軍が大急ぎで東側に動かした大部隊にはシベリア第一軍団、総予備隊だったのです。
大慌てで兵力を移動させるほど、司令官のクロバトキンは乃木希典大将が指揮する第三軍(実は鴨緑江軍)を恐れていたのです。
何故でしょうか?
ロシア軍が永久要塞と自信を持っていた旅順要塞をたった5ケ月で陥落させていたからでした。
ロシア軍はこの事実を知っていた為に『日本軍の兵士は死を恐れない勇猛果敢な集団』であるとの印象があまりにも強烈過ぎたのでした。
日本軍兵士たちは、ロシア軍が揺動作戦に乗ってくれたお陰で満州軍総司令部では日本軍兵士全員が快哉を叫び
痛快で気持ちの良い戦いであったことに対して、兵士たちは思わず喜びの声を上げ、心が晴れやかになり、歓声を上げたのでした。
「わぁ!わぁ!わぁ!わぁ!わぁ!わぁ!」
第三軍に出撃命令が出された2月27日、同軍は太子河を渡り、奉天西方への迂回進軍を開始しました。
偵察を兼ねてその先頭に立つのは秋山好古少将率いる騎兵第二旅団でした。
その迂回進軍を敵国ロシアに悟られないように、奉天正面の東から順番に第一軍、第四軍、第二軍は万宝山、塔山、荒山など奉天市街地前面にそびえる天然のロシア軍陣地へ砲撃を開始したのです。
その砲撃は真正面から突っ込んでやる、という意思表示を敵国ロシア軍に見せかけるためでした。
もちろん戦闘の時機がくれば、突撃してやるというつもりでした。
秋山好古少将は後の回顧録にそのように書いています。
二〇三高地攻略戦を振り返りますと、
二〇三高地攻略戦を巡り、連合艦隊司令長官東郷平八郎大将は、わざわざ参謀土屋中佐を派遣して、日本陸軍第三軍首脳と会い、
「真に希求する攻撃目的は要塞攻略にあらず、港内の旅順艦隊の撃滅にあり」と。
このことを、懇切丁寧に説明させていたことを思えば、また、同時に大本営にも切々としてこれを要求していと考えると、この11月27日の乃木の決断が、安堵するものであった伺い知ることが出来るのである。
乃木希典は真に 空前絶後の愚かな作戦をよくもまあ続けていたのものであると私は思う。
当時、乃木 希典は53歳という年齢であった。乃木希典は長州藩藩士の出身であった。
新政府では第二次長州征伐に従軍。
福岡県の不平士族が起こした秋月の乱を鎮圧。
薩摩藩の不平士族たちの反乱に加担した西郷隆盛に、率いる薩摩軍と西南、戦争が勃発したときには、乃木希典はこの戦いにも従軍していた。
話しは前後になるが、乃木希典の生涯は激動の波瀾万丈の人生であった。
乃木希典は、1849年12月25日〈嘉永2年11月11日〉に誕生し1912年〈大正元年〉9月13日に逝去。享年63歳。
日本国陸軍の軍人。最終階級は陸軍大将。栄典は贈正二位勲一等功一級伯爵。明治天皇より第10代学習院長に任じられ、迪宮裕仁親王(昭和天皇)の教育係であった。
まあ、明治天皇の信頼が厚かったということだ。
このように二〇三高地攻略戦に対する攻撃が始まった。
11月29日から30日にかけて二〇三高地攻略戦はかつてないほど悲惨な惨状であった。
この惨劇の様を私は言葉で表現することが出来なかったのだ。
その理由はこのように酷い惨状、惨たらしい戦死した兵士を写真やテレビの映像でみたことがなかったからだ。
その悲惨な惨劇を正確に伝える言葉を私は思い出すことが出来なかったのである。
千人が十人になるのに、十五分を必要としないほどの激戦であった。機銃や大砲により、瞬時に死んでいく。
それは正に悪魔の所業であった。
それでもなお、二〇三高地の西南の一角にいた日本兵の死骸の山の中に生存者がいた。
その生存者たちは砲弾の炸裂の中でなお銃を掴み槓桿を操作し、撃鉄を引き小銃弾を敵のコンクリートで固めたベトンに向けて発射し続けたのである。
その激越この上ない戦闘の続行中に書かれた生々しい手紙をご紹介しよう。
当時日本陸軍第三軍に連合艦隊から派遣されていた参謀岩村団次郎中佐に宛に、連合艦隊作戦参謀の秋山真之中佐が書き送った書面である。
【手紙の原文】
11月31日付。
「実に二〇三高地の占領如何は、大局より打算して、帝国の存亡に関係し候えば是非決行を望む。察するに敵が斯く迄も頑固に死守するだけ彼等にとりて旅順の価値が貴重にして、敵にも旅順の存亡が国家の存亡に関するものにて、バルチック艦隊来るも旅順艦隊あらざる時は、我に対し勝算ある攻撃を取ること能わざればなり。之を以って観るときは、旅順の攻撃に四、五万の勇士を損するも左程大なる犠牲にあらず。」
上記の内容の書面を日本陸軍第三軍参謀岩村団次郎中佐宛に連合艦隊作戦参謀秋山真之中佐が書き送っている。
【第五巻ノ3】
《四国伊予の三人の若者》
日露戦争の起きる前の話しを皆さんにしたい。
この物語には、三人の若者がいた。
四国伊予出身の若者たちである。
この三人について、私は先ず語りたいと思う。
この三人とは、秋山好古と秋山真之兄弟、
そして松岡子規である。
この三人は10代で東京へ出ていった。
秋山好古は大阪、名古屋で教職に就く。
私は秋山真之という人物が好きである。
真之の幼名は淳五郎である。
本名の真之は、後漢の文人張衡の『思玄賦』からの一節「何道真之淳粋兮」に基づくと言われている。
幼少の頃は腕白なガキ大将だった。
多くの子供を引き連れては戦争ごっこにあけくれだという。
また、真之は本を参考に花火を作って打ち上げたりするほど頭が良かった。
あまりにも腕白がすぎるため、貞は「お前も殺して私も死ぬ」と言って涙を見せるほど手を焼いた。他に絵や水泳、かけっこが得意であった。一方で和歌を得意とする一面もあったという。
朝厠に行くのを面倒がって窓から放尿した際には「雪の日に北の窓あけシシすればあまりの寒さにちんこちぢまる」と詠んだ。
海軍兵学校時代、同校で野球チームを編成し、海軍野球の創始者となった。
同じく海軍候補生時代、後輩から「猛勉強しているわけではないのになぜいつも成績がトップなのか」と聞かれた真之は「過去の試験問題を参考にすることと、教官のクセを見抜くことだと答えたという。
また必要な箇所は何回も説明することから試験問題を推測できる」と答えた。
煎り豆が好物で、ポケットに忍ばせて分からないようによく食べていた。
この豆の種類であるが、1904年(明治37年)11月23日付の母宛て手紙に「何か幸便あれば豌豆及び空豆二ないし三斗計りイリテ御送被下度候」とあり、エンドウマメとソラマメの2種を好んで食した。
軍服の袖で鼻水を拭いたり、作戦を練り始めると入浴せずに数日過ごすなど、身なりを全く気にしない性格であったと伝えられる。また人前で放屁や放尿をすることもあったという。
これらについて、秋山の参謀を務めていた飯田久恒少佐は「この人は頭がいいから名参謀だが、普通だったら変人だ」と思ったそうである。
アメリカからの帰国中、賭博詐欺にあった。イカサマだと気づいた真之は、リーダーの男を部屋に連れ込み「黙ってやらせておけばいい気になりおって。このままでは侍の名折れだ、金を返せ」と、語気鋭く短刀の鞘を払った。怯えた男は金を返して逃げ出したという。
日本海海戦で勝利を治めた後も冷静に国力を分析して、潜水艦と空軍の強化、アメリカへの非戦を唱えていた。
真之はアメリカと戦えば日本は必ず負けることを知っていた。
真之は子供の名前を決める時「一字名」「覚えやすく、書きやすい物」「シンメトリー」というルールを決めたという。
日露戦争後は、日露双方の犠牲者を目の当たりにして、出家を願うようになったが、友人に止められ断念した。代わりに長男の大に僧侶になるよう教育を施した。
晩年は大本教に入信するなど、様々な宗教団体に関わり、精神的に不安定であったのだ。
しかし、長男の秋山大は「父は宗教に否定的であった」との言を残している。
《日露戦争とは?》
私たちが日露戦争を語る上で大切なことがあります。
私は以下のことを皆さんと一緒に考えてみたいと思います。
1.日露戦争はどのような戦いであったのか?
2.帝政ロシアはどのような国であったのか?
3.清国はどのような国になっていたのか?
4.日本連合艦隊は当時、どのような状況であったのか?
5.旅順とはどんな地理的位置にあったのか?
6.当時日本が考えていた制海権とは、どのようなものであったのか?
7.ロシアのバルチック艦隊は当時、どのような艦隊であったのか?
8.当時の日本陸軍第三軍とはどのような軍隊だったのか?
この8項目をまず、一緒に考えてみたい。
最初のテーマは日露戦争についてだ。
朝鮮・中国東北部の支配権をめぐる日本国とロシア国の戦争であった。
1904年開戦。
日本海海戦で日本が勝利した。
翌年9月アメリカ大統領セオドア・ルーズヴェルトの仲介で日本国はポーツマス講和条約に調印した。
2番目は帝政ロシアである。
当時、ロシアのロマノフ王朝の別称である、
1613年イヴァン四世の血統を引くミハイル・ロマノフがツァーリに選出されて以来、1917年のロシア革命でニコライ2世が退位するまで、ロシアを約300年間統治した政治体制であった。
3番目は清国である。
中国最後の統一王朝である。
1616年、中国東北の女性貴族がヌルハチによって統一され後金を建国した。
1636年2代目ホンタイジにより国号を清に改称した。
1644年明を征服。
瀋陽から北京に遷都した。
19世紀になると欧米資本主義勢力が侵入し
辛亥革命により、1912年に滅亡した。
中国の歴史を語る上で私たち日本人はこの革命について知る必要がある。
殆どの読者はこの革命のことを知らないだろう。
だから私が後世の語り部になる。
さて、この革命のお話しである。
辛亥革命は、1911年に中国で起こった革命である。
約2000年続いた皇帝による支配を終わらせ、中華民国を樹立したのだ。
この革命により、アジアで初めての共和制国家が誕生したと言える。
この辛亥革命の概要について語ることにする。
辛亥革命は、1911年から1912年にかけて清朝を倒し、中華民国を成立させた共和革命である。まずこの事実を我々は知らなければならない。
革命が勃発した1911年が干支で「辛亥」に当たるためこの名がつけられた。
ものごとの出来事には必ずその背景と原因がある。
このような思考回路のない人間は幸せになることが出来ない。
読者の皆さんは私と同じ思考回路を持っていると私は思っている。
さて、この革命の背景と原因について語ることにする。
清朝が衰退するたと国民の不満が吹き出した。
清朝末期、中国は外国からの侵略や内部の腐敗により国力が衰え、民衆の不満が高まっていたのだ。
特に、アヘン戦争以降の不平等条約は中国の主権を損ない、経済的・社会的に大きな打撃を与えていた。国民は貧困であった。
そして鉄道国有化政策が起こる。
清朝が外国から資金を借りて民間鉄道を国有化しようとしたことが、漢民族の怒りを爆発させる直接的なきっかけとなったのだ。
この革命の目的と指導者についてだが、
三民主義を唱える孫文が現れる。
この革命の目的は、国民が主役となる共和制国家を築くことだと。孫文(そんぶん)が提唱した「三民主義」がその理念であった。
では、一体三民主義とはどのような主義であるかというと、次のように私は説明する。
一つ目は民族主義である。
外国の支配を排除し、中国人の手で国を治めるという考え方である。当たり前の考え方である。
二つ目は民権主義である。
国民一人ひとりが政治に参加できるような仕組みにする。
これも当然な考え方である。
三つ目は民生主義である。
国民の生活を豊かにするための制度を整える。つまり全国民の平等社会の構築である。
さて、この革命が起こる前はどのような経過を辿り辛亥革命に至ったのであろうか?
最初に武昌蜂起があった。
1911年10月、湖北省武昌で革命軍が蜂起したのだ。
この武昌蜂起が辛亥革命の始まりである。
中華民国が成立した。
武昌蜂起後、各省が次々と清朝からの独立を宣言し、革命の動きは全国に拡大した。
1912年1月1日、孫文が臨時大総統に就任し、南京で中華民国臨時政府が樹立されたのだ。
清朝は滅亡した。
清朝は革命軍の鎮圧に失敗し、1912年2月12日に宣統帝が退位し、清朝は滅亡した。
では、辛亥革命は後にどのような影響を与えたのであろうか?
辛亥革命により、中国は清朝から中華民国へと政体が変わり、アジアで初めての共和制国家が誕生したのだ。
しかし、革命後も混乱や争いが続き、袁世凱の独裁や軍閥の台頭など、新たな課題に直面してしまった。
ここに中国の悲劇があった。
まとまりのない国は他国から侵略されるのだ。
日本国も国家内でまとまりが無ければ、当時の中国のようになるということだ。
日本国の国政選挙には必ず投票に行き、自分の目で、正しい政党と政治家を選ぶべきである。
【第五巻ノ2】
《旅順攻略戦と二〇三高地》
皆さんはこの日露戦争に於ける二〇三高地の悲劇という話しを聞いたことがないだろうか?
今から私はこの二〇三高地の悲劇のお話しをしようと思う。
極東ロシア軍の最重要拠点を日本軍が陥落させ、日露戦争の大きな分水嶺となった旅順攻略戦。
日本軍15万人の内、8万人が死傷するという未曾有の大激戦であった。
その最大の激戦地が二〇三高地であった。
平成15年(2003年)、ロシア公文書館から、旅順の攻防をロシア側から記録した写真群が見つかったのだ。
この時、日露戦争の新たな実像が浮かびあがったのである。
「二〇三高地攻略の主要な目的は「旅順港のロシア艦隊の撃破は破壊状況の目視」
であったが、実は二〇三高地攻略のはるか以前にすでにロシア艦隊が日本軍の砲撃によって壊滅的打撃を受けていたことが明らかになったのである。
では何故、歴史上最大の犠牲者を出した二〇三高地攻略戦は決行されなければならなかったのであろうか?私は松永の図書館に行き、この二〇三高地攻略戦のことを調べたのです。調べた結果、ロシア側で新たに見つかった記録写真を私は目にしたのです。
また、日本国大本営と陸軍、海軍の間で、交わされた極秘電報の内容を知ったのでした。
二〇三高地攻略戦を巡り、連合艦隊司令長官東郷平八郎大将は、わざわざ参謀土屋中佐を派遣して、日本陸軍第三軍首脳と会い、
「真に希求する攻撃目的は要塞攻略にあらず、港内の旅順艦隊の撃滅にあり」と。
このことを、懇切丁寧に説明させていたのである。同時に大本営にも切々としてこれを要求している。
そう考えると、この11月27日の乃木の決断が、安堵するものであったことがよく分かる。
作家司馬遼太郎氏の小説「坂の上の雲」を読んでいると、乃木司令部はまことに 空前絶後の愚かな作戦をよくもまあ続けていたのものである。
あの乃木にして、どうしたものか?
当時、乃木 希典は53歳という年齢であった。
1849年12月25日〈嘉永2年11月11日〉に誕生し1912年〈大正元年〉9月13日に逝去。享年63歳。
日本国陸軍の軍人。最終階級は陸軍大将。栄典は贈正二位勲一等功一級伯爵。明治天皇より第10代学習院長に任じられ、迪宮裕仁親王(昭和天皇)の教育係であった。
まあ、明治天皇の信頼が厚かったということだ。
このように二〇三高地攻略戦に対する攻撃が始まった。
11月29日から30日にかけて二〇三高地攻略戦はかつてないほど悲惨な惨状であった。
この惨劇の様を私は言葉で表現することが出来なかったのだ。
その理由はこのように酷い惨状、惨たらしい戦死した兵士を写真やテレビの映像でみたことがなかったからだ。
その悲惨な惨劇を正確に伝える言葉を私は思い出すことが出来なかったのである。
千人が十人になるのに、十五分を必要としないほどの激戦であった。機銃や大砲により、瞬時に死んでいく。
それは正に悪魔の所業であった。
それでもなお、二〇三高地の西南の一角にいた日本兵の死骸の山の中に生存者がいた。
その生存者たちは砲弾の炸裂の中でなお銃を掴み槓桿を操作し、撃鉄を引き小銃弾を敵のコンクリートで固めたベトンに向けて発射し続けたのである。
その激越この上ない戦闘の続行中に書かれた生々しい手紙をご紹介しよう。
当時日本陸軍第三軍に連合艦隊から派遣されていた参謀岩村団次郎中佐に宛に、連合艦隊作戦参謀の秋山真之中佐が書き送った書面である。
《手紙の原文》
11月31日付。
「実に二〇三高地の占領如何は、大局より打算して、帝国の存亡に関係し候えば是非決行を望む。察するに敵が斯く迄も頑固に死守するだけ彼等にとりて旅順の価値が貴重にして、敵にも旅順の存亡が国家の存亡に関するものにて、バルチック艦隊来るも旅順艦隊あらざる時は、我に対し勝算ある攻撃を取ること能わざればなり。之を以って観るときは、旅順の攻撃に四、五万の勇士を損するも左程大なる犠牲にあらず。」
上記の内容の書面を日本陸軍第三軍参謀岩村団次郎中佐宛に連合艦隊作戦参謀秋山真之
【第五巻ノ3】
《二〇三高地攻略戦》ら
私の先祖粟村克三郎は日露戦争の奉天の戦いで戦死しました。
この戦いは日露開戦から1年余、明治38年3月1日に始まったのです。
この戦いは日露両軍の総力戦と言われる奉天の戦いでした。
日本は、国運を賭けて最後の決戦へ挑みました。
当時、満州軍総司令官•大山巌総司令官は奉天攻略の総攻撃を命じたのです。
もしこの決戦に日本が敗退したら、日本にはもう後がありません。文字通りの国運を賭けた決戦でした。
この奉天会戦には日本軍は24万9800名で歩兵246大隊、騎兵57•5中隊、砲992門、工兵43中隊でした。
対するロシア軍は総兵力36万7200名、歩兵379大隊、騎兵151中隊、砲1219門、工兵43•5中隊でした。
このロシア軍と日本軍の兵力を単純に計算しただけで、ロシア軍は日本軍の1.5倍であり、戦力ではロシア軍が圧倒的に有利でした。
明治38年(1905)2月、奉天(現在の瀋陽南方の沙河をはさんで、日本軍とロシア軍が対峙していました。
両軍とも数ヶ月前より兵力が増強されていたのです。
日本軍(満州軍)は旅順を陥落させた第三軍と、新たに編成された鴨緑江軍が加わりました。
鴨緑江軍はもともと朝鮮の防衛の為に編成された大本営が直轄していましたが、満州国に全面的に協力することになりました。
日本陸は東から鴨緑江軍、第一軍、第四軍、第ニ軍、第三軍と布陣したのです。
東西の戦線は約100kmでした。
総兵力は24万9800名でした。
奉天に向かうためには沙河を越えて渾河を渡り、必要なら遼河を渡河して迂回しなければなりません。
極寒期は過ぎようとしていましたが、河の氷が溶けないうちに氷上を徒歩で渡りたい。
それには2月末から三月初めにかけて作戦を行う必要がありました。
2月22日、最初に行動を起こしたのは最右翼の鴨緑江軍でした。
一帯は数百メートルの山々が連なっています。
隠密に前進し、ロシア軍の左翼を奇襲しました。
ロシア軍の主力がそこへ集中する間際を突いて、最左翼の第三軍が大きく迂回して、ロシア軍の最右翼を攻撃する作戦です。
ロシア軍はまんまとこの作戦にはまったのでした。
鴨緑江軍の進撃を、第三軍の進撃と間違えて大部隊を東側に移したのです。しかも、日本の第二軍正面に対して攻撃していたロシア第二軍は攻撃を中止したのでした、
2月27日のことでした。日本軍が攻撃を開始して6日目のことでした。
ロシア軍が大急ぎで東側に動かした大部隊にはシベリア第一軍団、総予備隊だったのです。
大慌てで兵力を移動させるほど、司令官のクロバトキンは乃木希典大将が指揮する第三軍(実は鴨緑江軍)を恐れていたのです。
何故でしょうか?
ロシア軍が永久要塞と自信を持っていた旅順要塞をたった5ケ月で陥落させていたからでした。
ロシア軍はこの事実を知っていた為に『日本軍の兵士は死を恐れない勇猛果敢な集団』であるとの印象があまりにも強烈過ぎたのでした。
日本軍兵士たちは、ロシア軍が揺動作戦に乗ってくれたお陰で満州軍総司令部では日本軍兵士全員が快哉を叫び
痛快で気持ちの良い戦いであったことに対して、兵士たちは思わず喜びの声を上げ、心が晴れやかになり、歓声を上げたのでした。
「わぁ!わぁ!わぁ!わぁ!わぁ!わぁ!」
第三軍に出撃命令が出された2月27日、同軍は太子河を渡り、奉天西方への迂回進軍を開始しました。
偵察を兼ねてその先頭に立つのは秋山好古少将率いる騎兵第二旅団でした。
その迂回進軍を敵国ロシアに悟られないように、奉天正面の東から順番に第一軍、第四軍、第二軍は万宝山、塔山、荒山など奉天市街地前面にそびえる天然のロシア軍陣地へ砲撃を開始したのです。
その砲撃は真正面から突っ込んでやる、という意思表示を敵国ロシア軍に見せかけるためでした。
もちろん戦闘の時機がくれば、突撃してやるというつもりでした。
秋山好古少将は後の回顧録にそのように書いています。
二〇三高地攻略戦を振り返りますと、
二〇三高地攻略戦を巡り、連合艦隊司令長官東郷平八郎大将は、わざわざ参謀土屋中佐を派遣して、日本陸軍第三軍首脳と会い、
「真に希求する攻撃目的は要塞攻略にあらず、港内の旅順艦隊の撃滅にあり」と。
このことを、懇切丁寧に説明させていたことを思えば、また、同時に大本営にも切々としてこれを要求していと考えると、この11月27日の乃木の決断が、安堵するものであった伺い知ることが出来るのである。
乃木希典は真に 空前絶後の愚かな作戦をよくもまあ続けていたのものであると私は思う。
当時、乃木 希典は53歳という年齢であった。乃木希典は長州藩藩士の出身であった。
新政府では第二次長州征伐に従軍。
福岡県の不平士族が起こした秋月の乱を鎮圧。
薩摩藩の不平士族たちの反乱に加担した西郷隆盛に、率いる薩摩軍と西南、戦争が勃発したときには、乃木希典はこの戦いにも従軍していた。
話しは前後になるが、乃木希典の生涯は激動の波瀾万丈の人生であった。
乃木希典は、1849年12月25日〈嘉永2年11月11日〉に誕生し1912年〈大正元年〉9月13日に逝去。享年63歳。
日本国陸軍の軍人。最終階級は陸軍大将。栄典は贈正二位勲一等功一級伯爵。明治天皇より第10代学習院長に任じられ、迪宮裕仁親王(昭和天皇)の教育係であった。
まあ、明治天皇の信頼が厚かったということだ。
このように二〇三高地攻略戦に対する攻撃が始まった。
11月29日から30日にかけて二〇三高地攻略戦はかつてないほど悲惨な惨状であった。
この惨劇の様を私は言葉で表現することが出来なかったのだ。
その理由はこのように酷い惨状、惨たらしい戦死した兵士を写真やテレビの映像でみたことがなかったからだ。
その悲惨な惨劇を正確に伝える言葉を私は思い出すことが出来なかったのである。
千人が十人になるのに、十五分を必要としないほどの激戦であった。機銃や大砲により、瞬時に死んでいく。
それは正に悪魔の所業であった。
それでもなお、二〇三高地の西南の一角にいた日本兵の死骸の山の中に生存者がいた。
その生存者たちは砲弾の炸裂の中でなお銃を掴み槓桿を操作し、撃鉄を引き小銃弾を敵のコンクリートで固めたベトンに向けて発射し続けたのである。
その激越この上ない戦闘の続行中に書かれた生々しい手紙をご紹介しよう。
当時日本陸軍第三軍に連合艦隊から派遣されていた参謀岩村団次郎中佐に宛に、連合艦隊作戦参謀の秋山真之中佐が書き送った書面である。
【手紙の原文】
11月31日付。
「実に二〇三高地の占領如何は、大局より打算して、帝国の存亡に関係し候えば是非決行を望む。察するに敵が斯く迄も頑固に死守するだけ彼等にとりて旅順の価値が貴重にして、敵にも旅順の存亡が国家の存亡に関するものにて、バルチック艦隊来るも旅順艦隊あらざる時は、我に対し勝算ある攻撃を取ること能わざればなり。之を以って観るときは、旅順の攻撃に四、五万の勇士を損するも左程大なる犠牲にあらず。」
上記の内容の書面を日本陸軍第三軍参謀岩村団次郎中佐宛に連合艦隊作戦参謀秋山真之中佐が書き送っている。
【第五巻ノ3】
《四国伊予の三人の若者》
日露戦争の起きる前の話しを皆さんにしたい。
この物語には、三人の若者がいた。
四国伊予出身の若者たちである。
この三人について、私は先ず語りたいと思う。
この三人とは、秋山好古と秋山真之兄弟、
そして松岡子規である。
この三人は10代で東京へ出ていった。
秋山好古は大阪、名古屋で教職に就く。
私は秋山真之という人物が好きである。
真之の幼名は淳五郎である。
本名の真之は、後漢の文人張衡の『思玄賦』からの一節「何道真之淳粋兮」に基づくと言われている。
幼少の頃は腕白なガキ大将だった。
多くの子供を引き連れては戦争ごっこにあけくれだという。
また、真之は本を参考に花火を作って打ち上げたりするほど頭が良かった。
あまりにも腕白がすぎるため、貞は「お前も殺して私も死ぬ」と言って涙を見せるほど手を焼いた。他に絵や水泳、かけっこが得意であった。一方で和歌を得意とする一面もあったという。
朝厠に行くのを面倒がって窓から放尿した際には「雪の日に北の窓あけシシすればあまりの寒さにちんこちぢまる」と詠んだ。
海軍兵学校時代、同校で野球チームを編成し、海軍野球の創始者となった。
同じく海軍候補生時代、後輩から「猛勉強しているわけではないのになぜいつも成績がトップなのか」と聞かれた真之は「過去の試験問題を参考にすることと、教官のクセを見抜くことだと答えたという。
また必要な箇所は何回も説明することから試験問題を推測できる」と答えた。
煎り豆が好物で、ポケットに忍ばせて分からないようによく食べていた。
この豆の種類であるが、1904年(明治37年)11月23日付の母宛て手紙に「何か幸便あれば豌豆及び空豆二ないし三斗計りイリテ御送被下度候」とあり、エンドウマメとソラマメの2種を好んで食した。
軍服の袖で鼻水を拭いたり、作戦を練り始めると入浴せずに数日過ごすなど、身なりを全く気にしない性格であったと伝えられる。また人前で放屁や放尿をすることもあったという。
これらについて、秋山の参謀を務めていた飯田久恒少佐は「この人は頭がいいから名参謀だが、普通だったら変人だ」と思ったそうである。
アメリカからの帰国中、賭博詐欺にあった。イカサマだと気づいた真之は、リーダーの男を部屋に連れ込み「黙ってやらせておけばいい気になりおって。このままでは侍の名折れだ、金を返せ」と、語気鋭く短刀の鞘を払った。怯えた男は金を返して逃げ出したという。
日本海海戦で勝利を治めた後も冷静に国力を分析して、潜水艦と空軍の強化、アメリカへの非戦を唱えていた。
真之はアメリカと戦えば日本は必ず負けることを知っていた。
真之は子供の名前を決める時「一字名」「覚えやすく、書きやすい物」「シンメトリー」というルールを決めたという。
日露戦争後は、日露双方の犠牲者を目の当たりにして、出家を願うようになったが、友人に止められ断念した。代わりに長男の大に僧侶になるよう教育を施した。
晩年は大本教に入信するなど、様々な宗教団体に関わり、精神的に不安定であったのだ。
しかし、長男の秋山大は「父は宗教に否定的であった」との言を残している。
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