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第四巻
しおりを挟む【第四巻ノ一】
《国運を賭けた日露戦争》
国運を賭けた日露戦争は、制海権を確保する為の戦いであったと言っても過言でもあるまい。
日露戦争の戦場は海を隔てた韓国と満州であったのだから。
日本国はロシアと戦端を開くにあたり、韓国や満州に陸軍部隊を送り出す必要があった。
その為には日本海と黄海からロシアの軍艦を駆逐しなければならなかったのである。
考えてみれば、日清戦争後、韓国は朝鮮という国名を大韓帝国と改めて日本の支配から逃れようとしたのだ。明治31年(一八九七)のことである。
韓国はロシアに急接近したのだ。
三国干渉を跳ね返すことが出来なかった日本を実力なしとして見限ったのである。
この韓国の動きに焦った日本政府は三浦梧楼公使が自ら先頭に立って当時の実力者閔妃を殺害して親日派政権を樹立しようとしたのである。
明治28年10月8日の出来事であった。
これは日本の驚くべき暴挙であった。
私はこの事件に対して憤りを覚えている。
日本政府の勝手な判断でしかも韓国の実力者とは言え女性である。なんとも、やるせない気持ちである。
閔妃は高宗の皇后であった。李氏朝鮮の第26代国王である。
韓国はこの事件をきっかけに日本から離れていくことになる。
この事件の首謀者は日本人だったからである。
一方北清事変で強化され、満州に居座ったロシア軍約10万は撤退しないどころか、鴨緑江を越えて河口近くの竜岩浦に兵営を建設した。
そして一帯の森林伐採を始めるとともに、|竜岩浦を租借してニコライ港と改名したのである。
私たちはこの租借という言葉の概念をよく知っておく必要がある。
おさらいになるが、私なりの見解を述べておこう。
租借とは、ある国が他国との合意に基づき、その国土の一部を一定期間借り受けることである。
借り受けた土地は租借地と呼ばれ、通常、借りた国がその土地の統治権を持つことになる。つまり占領されたのも同じと考えるべきだ。
租借は、国家間の合意によって領土の一部を貸し借りする行為であるが借りた国は、その土地の行政、警察、裁判などの統治権を持つことが出来る。つまり支配することになる。
租借には通常、25年から99年といった期間が定められる。
貸した国には潜在的な主権が残るが
租借期間中は借りた国が統治権を行使することになる。
占領と同じだ。
租借は、特に19世紀末から20世紀初頭の帝国主義時代に多く見られた。
日清戦争後の中国では、列強が弱体化した清国から多くの租借地を獲得した。
また、中国における租借地はドイツが膠州湾を99年間租借したのを皮切りに、ロシアが旅順・大連、イギリスが九竜半島・威海衛、フランスが広州湾などを租借した。
これらの租借地は、列強の経済的・軍事的拠点となったのだ。実質的な支配である。
我々はこのことをよく認識しておくべきである。
このことは今後も起こりうるであろう。
すでに北方四島はロシアに実行支配されているのだ。
北方領土問題は、日本とソビエト連邦及びその継承国となったロシア連邦との間の領土問題・国境紛争である。
北海道の根室半島と千島列島の得撫島との間にある択捉島、国後島、色丹島、そして歯舞群島をあわせた四島が、日本では北方領土と呼ばれる。また、四島が千島列島に含まれると考える立場からは南千島または南クリル諸島とも呼ばれる。
2025年時点、四島をロシア連邦が実効支配しており、ロシア政府は「四島はロシアの領土である」と主張している。
一方、日本国政府は「四島は日本の領土であり、日本に返還されるべき」と主張している。
【第四巻ノ二】
《日清戦争とは?》
私が何故、日露戦争について執筆したかという動機について、この章で述べたいと思う。
最近の若者、私からすれば今時の若者、あるいは若い世代とで言ってみよう。
この日露戦争のような現代史や近代史を教わることがないだろうと思ったからだ。
近代国家として出発した日本が明治時代に国家の命運を賭けて戦った日清、日露の戦い何ぞ詳しく知りはしまい。
大体80年前の太平洋戦争の存在すら知らない出会いが多いのだから全く驚かされる。
まあ、情け無いし、将来の日本は大丈夫か?
と思う。
今回は日露戦争の真実を題材にし執筆している。
そんな中やはり司馬遼太郎氏の『坂の上の雲』はその当時世界最強最大の軍事大国だった帝国ロシアを相手に戦い奇跡に近い勝利を収めた日本人たちを、心を打つ多くの逸話を重ねて描き、司馬遼太郎氏が描いた日露戦争での勝利そのものが人類史上歴史に残る傑作であったといえると思っている。
日清戦争に勝利した日本に対し三国干渉を仕掛けてきた、ロシア、フランス、ドイツが一緒に組んで日清戦争後の戦後処理を一方的に言い分を通してきたロシア。
いずれ日本に戦を仕掛けて来ることは自明でありまた、それを日本国民は予感し予知していたであろうから。
当時の日本人は全員肩を組み合って長く険しい坂を駆け上がって坂の上の雲を掴む為に日本人はいろんな工夫をして、また、我慢し、力を出し合ってついにあの奇跡的な勝利を掴んだのである。
これは日本人の誇りであると同時に、戦火で尊い命が犠牲になったことを、日本人はもちろんロシア人も決して忘れてはなるまい。
【第四巻ノ三】
《日露戦争前の時代》
私は何故、今回日露戦争を題材にしたかという動機について、読者の皆さんにお話しをしなければならないと思う。
何故なら、あの日露戦争の犠牲者があまりにも多かったと思うからだ。
しかも徴兵性により、20歳以上の若者がわけのわからないまま、ただ上官の命令により、無謀な戦いを挑み死に絶えた。
この悲惨な現実を私たちは決して忘れてはなるまい。
私の記憶では徴兵制度が始まったのは明治6年(一八七三)と記憶している。
この明治6年という年についてご説明すると明治6年には、明治政府の首脳が征韓論を巡って対立し、西郷隆盛らが辞職した「明治六年の政変」 が起こっている。
この政変はその後の自由民権運動にも繋がる重要な出来事であった。
この明治六年の政変というのは李氏朝鮮との国交樹立を巡る征韓論が原因で発生した。西郷隆盛、板垣退助、後藤象二郎、副島種臣、江藤新平らが征韓論を主張し、政府を辞職したのだ。
岩倉使節団は、明治維新期の明治4年11月12日(1871年12月23日)~明治6年(1873年)9月13日迄、日本からアメリカ合衆国、ヨーロッパ諸国の米欧12ヶ国に派遣された使節団である。岩倉具視を特命全権大使とし、首脳陣や留学生を含む総勢107名で構成された。当初の目的であった不平等条約改正の交渉は果たすことが出来なかったが日本近代化の原点となる旅として、明治政府の国家建設に大きな影響を与えた。
日本の歴史上でも遣唐使に比すべき意味をもつ使節だった。
ここで私は津田梅子についても触れておきたい。
津田梅子は開拓使に応募した。
これは梅子の父親津田仙の希望であった。
梅子は当時7歳であった。この時アメリカへ行ったのは梅子を含めた女子5名であった。この時5名は開拓使として応募。
政府は5名全員を官費女子留学生に推挙し、正院にて承認された。
出発に先立ち、女子留学生5人は士族の女子としては歴史上初めて皇后への拝謁を許され、明治4年11月(旧暦)に他の官費留学生とともに岩倉使節団に随行して渡米した。
新暦1871年12月23日(本節は以下新暦で記す)に横浜を出港し、1872年1月15日にサンフランシスコに入港。
同年1月31日にサンフランシスコを5両編成の貸切列車で出発し、大陸横断鉄道を経由してワシントンD.C. へ向かったが、40年ぶりとされる大雪により日程が遅れた。
ソルトレイクシティで18日間待機との記録がある。
2月25日にシカゴに到着、翌日の夜にはワシントンD.C.に向けて出発した。
5名の女子留学生はアメリカに到着後もなかなか洋服を買ってもらえずにいたが、岩倉具視に談判の末シカゴでようやく洋服を買い与えられたという。
シカゴで撮影した、洋装に着替えた5人の記念写真が残されている。
津田梅子7歳の時の写真である。
さて、明治6年(一八七三)の出来事を
列挙する。
一つ目は徴兵令の公布である。
1月10日には、満20歳の男子を対象とした徴兵令が公布された。
これにより、国民皆兵制度が導入された。
武士や平民の反発を招き、血税一揆などの暴動が発生した。
二つ目は地租改正条例の発布である。
7月28日には、地租改正条例が発布された。
これは、土地の所有者に地価の3%を現金で納めさせる制度で、税制の近代化を図る目的があった。
三つ目は内務省の設置である。
11月10日には、内務省が設置された。
内務省は、地方行政や警察、衛生などを管轄し、政府の国内統治を強化する役割を担った。初代内務卿は大久保利通であった。
四つ目は明治6年の暦である。
明治6年は西暦1873年にあたり、干支は癸酉(みずのととり)。
この年、日本は旧暦から新暦(グレゴリオ暦)に移行した。
さて、明治6年の徴兵令によって、17歳から40歳までの男子国民全員が国民軍名簿に登録されるようになり、20歳になると徴兵検査が行われて、その合格者の中から抽籤で3年間の兵役に服する人が選ばれた。
徴兵制が布かれたばかりの頃は、西日本を中心に各地でこれに反対する一揆が頻発した。
地租の確保のためもあって戸主や嗣子は免役とされたので形の上だけの養子縁組を行ったり、当初は徴兵制が未施行だった北海道や沖縄へ本籍を移したりするなど、法に触れない範囲での徴兵忌避も少なくなかった。
そこで明治22年の改正では免役の諸制度が撤廃され、高学歴者への猶予(1年間の予備役勤務のみでよい)を残し、国民皆兵の原則が貫かれていった。
岡山市域に保存されてきた歴史的公文書の中では、津高郡の白石村役場から当館へ移管された文書に、岡山県内で明治7年に始まった徴兵事務の実際をうかがい知ることのできる資料が含まれていたという。
今保、久米、白石、花尻の4村が明治22年に合併して成立した白石村は、昭和27年に岡山市へ編入された。
役場にあった書類の中から、非現用で、なおかつ歴史的価値が高いと考えられた文書が選別され図書館へ移されて、こんにちまで伝えられたのである。
さて、広瀬武夫の人物像に私は迫りたい。
彼は九州は大分の生まれであった。
攻玉社を経て海軍兵学校に進む。
日清戦争に従軍。
1897年に抜擢されてロシアに留学。
ロシア語を学ぶ。
ロシアの貴族社会と交流。
同国駐在武官となる。
ドイツ、フランス、イギリスを視察。
1904年、日露戦争に於いて、旅順港閉塞作戦に従事。
第2回旅順港閉塞作戦で行方不明の部下を探索中に避難ボート上で被弾し戦死。
死後中佐になり、軍神として国民的英雄になった。
享年36才。
生存は1868年~1904年。
もう少し広瀬武夫について触れておく。
広瀬は海軍少佐として日露戦争に従軍した。
旅順の軍港の入り口を閉鎖するという命懸けの任務を広瀬自ら発案指揮して壮烈な戦死を遂げた。
【第四巻ノ四】
《軍神 広瀬武夫》
広瀬武夫については前の章で触れているがもう一度、お浚いしておく。
広瀬は海軍少佐として旅順港の閉塞戦に従軍した。彼は旅順の軍港の入り口を閉鎖するという命掛けの作戦を自分で考え上官の許可を得て部下たちを指揮し、敵の砲台から発射された大きな砲弾が広瀬の頭部に直撃して、広瀬は呆気なく戦死した。
この時、広瀬武夫の肉片はあたり一面飛び散ったという。
考えて見ると戦争で死ぬということは、その時、その場面で如何なる武器や砲弾や、その時攻撃してきた兵器や銃器により、破壊力が違うということだ。
人間は何故、同じ人間を殺す恐ろしい兵器を製造するのであろうか?
世の中に何故、軍需産業があるのだろうか?
私はこの日露戦争を執筆するに当たり人間の愚かな争いをなくしたいと思ったのである。
さて、この日露戦争は陸軍、海軍とも数々の激戦が色んな書籍に綴られた巨大な戦争史であった。
しかし、それを象徴する二人の軍神が陸軍と海軍にそれぞれいた。
海軍では広瀬武夫中佐である。
陸軍では橘中佐である。
二人ともその武功で軍神として称えられたのである。
その二人を称える軍歌がある。
まあ、私は国民の愛唱歌と思うが。
橘中佐の歌は、その戦闘そのままの歌である。従って聞いていると陰惨でいかにも暗い。暗すぎる。
私が小さい時、祖父からよく聞かされた歌があった。
橘大隊長の率いる大隊は多数の敵の攻撃を受けて全滅している。
『かばのは積もりて 山を築き 血潮は流れて 川をなす 修羅の巷か 向陽寺 雲間をもるる
月青し 「みかたは大方 うたれたり しばらく此処を」と諌むれど「恥思えや つわものよ 死すべき時は 今なるぞ」』
これが橘大隊長率いた大隊の全滅を称えた歌なのだ。
この戦いで亡くなられた方々にご冥福をお祈りします。
この歌に比べて軍神広瀬中佐の歌は
『轟く砲音、飛来る弾丸。荒波洗うデッキの上に、闇を貫く 中佐の叫び。
「杉野は何処、杉野は居ずや」
船内隈なく 尋ぬる三度、呼べど答へず、探せど見へず(中略)
今はとボートに 移れる中佐、飛来る弾丸に、忽ち失せて、
旅順港外 恨みぞ深き、軍神広瀬と
その名のこれど」
広瀬が壮烈な戦死を遂げた旅順港の閉塞戦とは、外洋での海戦に敗れて旅順港に逃げ込んだロシアの東洋艦隊の残党が、近くの地点に援軍や戦闘物資を陸上げしようとして近づく日本の輸送船をその都度出てきては妨害する。援軍しようと日本艦隊が近づくと、港の背後の山の上にある旅順の要塞から大砲の砲弾が飛んでくる。
要塞に据えられた大砲の口径は大きく、それに撃ち出す相手の高さからして日本側の軍艦では太刀打ち出来なかったのである。
一方、陸上での戦闘もはかばかしくなく、旅順の要塞を攻撃している乃木大将の第三軍は苦戦に、苦戦を重ねていた。
乃木軍がこの場所で足踏み状態であれば
北へ進めない。北へ進めないと北の前線にいる他の日本軍が窮地に陥りかねない。
大体、旅順の要塞に関する日本側の認識が甘かったと私は思っている。
10年前の日清戦争の時には、旅順の城は簡単に落ちたということでかかったのだったが、ロシアはこの10年の間に旅順に侵略の拠点として、強大な近代要塞を構築してしまっていたのである。
私は広瀬武夫について、もう一度語りたい。
広瀬 武夫は日露戦争でのエピソードで知られており、特に戦前は軍神として神格化されている。
広瀬武夫にはロシア人の恋人がいた。彼女の名前はアリアヅナ(アリアヅナ・アナトリエヴナ・コワリスカヤ)である。
広瀬武夫と初めて知り会ったのは彼女が16歳の時であった。
彼女の面影を広瀬は義姉春江に宛てた絵葉書に書いている。彼女を異国の恋人として紹介している。
二人の恋は広瀬武夫の戦死という結末で実らなかったのだ。
アリアヅナにとっては悲しい恋の物語であった。
1868年、父広瀬重武、母トク(村田俊行の娘)として豊後竹田(後の大分県竹田市)に生まれる。幼少時に母親と死別し、祖母に育てられる。竹田の自宅が西南戦争により焼失し、一家で飛騨高山(後の岐阜県高山市)へ転居した。広瀬の父は岡藩権大属を退官した後、単身赴任で神奈川県などの裁判所を転々とし、飛騨高山の裁判所長になっている。
広瀬は飛騨高山の煥章小学校、後の高山市立東小学校を卒業し、小学校教師を務め、1885年に退職して攻玉社を経て江田島の海軍兵学校に入校した。
嘉納治五郎に講道館で柔道を学んだ。
1889年に卒業している。
入学時席次は19番、卒業時は80人中64番であったらしい。
兵学校卒業後、翌1890年(明治23年)2月まで軍艦「比叡」に乗船、二度にわたり遠洋航海をしている。
その間に少尉に任官になった。
半年だけ、測量艦「海門」の甲板士官となり、沿岸の測量、警備に従事している。
この時期、静岡県清水(後の静岡市清水区)に寄港し、清水次郎長の知遇を得る。
1894年(明治27年)の日清戦争に従軍し、1895年(明治28年)には大尉に昇進。1897年(明治30年)にロシアへ留学してロシア語などを学び、ロシア貴族社交界と交友する。旅順港などの軍事施設も見学している。
その後ロシア駐在武官となり、1900年(明治33年)に少佐に昇進した。
1902年(明治35年)に帰国。
1904年(明治37年)より始まった日露戦争において旅順港閉塞作戦に従事した。
3月27日、第2回の閉塞作戦において閉塞船福井丸を指揮していたが、敵駆逐艦の魚雷を受け被弾。船を撤退時に広瀬は、自爆用の爆薬に点火するため船倉に行った部下の杉野孫七上等兵曹(戦死後兵曹長に昇進)がそのまま戻ってこないことに気付いた。
広瀬は杉野を助けるため一人沈み行く福井丸に戻り、船内を3度も捜索したが、彼の姿は見つからなかった。やむを得ず救命ボートに乗り移ろうとした直後、頭部に旅順要塞から発射されたロシア軍砲弾の直撃を受け戦死した。35歳だった。即日中佐に昇進している。
5日後、広瀬の遺体は福井丸の船首付近に浮かんでいるところをロシア軍によって発見され、戦争中であったが、ロシア軍は栄誉礼をもって丁重な葬儀を行い、陸上の墓地に埋葬したのだ。
広瀬武夫の墓所は青山霊園に、兄の勝比古と並んで墓所がある。
日本で初めて「軍神」となり、出身地の大分県竹田市には1935年(昭和10年)に岡田啓介(当時の内閣総理大臣)らと地元の黒川健士ほか数百名の手により広瀬を祀る広瀬神社が創建された。また文部省唱歌の題材にもなっている。
また、直撃を受けた際、近くにいた部下兵のそばを飛び散った肉片がかすめていった。その痕跡がくっきりと残った部下兵の帽子が靖国神社遊就館に奉納されており、時折展示されているのだ。
また、広瀬が戦死した際に所持していた血染めの海図が、朝日の乗員から講道館に寄贈され、その後も講道館2階の柔道殿堂に展示されている。当時、嘉納治五郎は、広瀬の才能を高く評価していた。広瀬の戦死の報が伝えられた時、嘉納は人目もはばからず「男泣きに泣いた」という。
広瀬武夫像は大分県竹田市の広瀬神社に所在(2010年に竹田市歴史資料館に建立、2017年に広瀬神社に移設)。
ロシア駐在中に社交界ではロシア海軍省海事技術委員会であり、機雷敷設の専門家であったアナトリー・コワリスキー大佐の娘・アリアズナ・アナトーリエヴナ・コワリスカヤと知り合い、文通などを通じた交友があったことも知られている。
武夫の戦死を聞いた彼女は喪に服したと言う。
広瀬は漢詩人としても有名であった。
「正気歌」は、七生報国と至誠の情を熱く詠んだ七言古詩で、漢詩の選集にもよく採られている。広瀬がロシア滞在中、プーシキンの恋愛詩を漢詩に訳してアリアズナに贈った挿話も有名である。旅順港口閉塞作戦のとき「七生報国、一死心堅。再期成功、含笑上船」(七たび生まれて国に報ぜん。一死、心に堅し。再び成功を期し、笑みを含みて船に上る)という四言古詩を書き残したが、結局これが遺作となった。
広瀬は海軍兵学校時代、大運動会のマラソンで左足を骨膜炎に冒されながら完走した。一時は左足切断を宣告されたが、最終的には安静にすることで完治した。ただし、その後も時折左足の痛みには悩まされていたらしい。
日清戦争後、捕獲艦鎮遠の清掃活動で「一番汚い箇所からやるものだ」と便所掃除へ向かったという逸話がある。
躊躇する部下を尻目に、広瀬は爪で汚れを擦り落として部下に模範を示した。(爪を以て支那兵の枯糞を掻く)
柔道での得意技に豪快な俵返があった。彼が海軍軍人であったことから「大砲」と呼ばれていた。広瀬武夫の柔道はかなりの達人であったと言う。
講道館紅白戦で柔道の5人抜き(6人目で引き分け)により、二段に昇段している。
旅順閉塞戦で戦死すると、嘉納治五郎から忠勇を称えられ四段から六段へ昇段したのだ。講道館柔道殿堂入りも果たしている。
「駐在武官としてペテルブルク市に滞在時、ロシア軍の参謀本部の将校たち相手に柔道を教えたりもした。
後にモスクワ大使館に勤務した佐藤尚武によると、初めて下宿した家が偶然広瀬が元いた家族で、その家族は広瀬に対し、非常に尊敬と親愛の念を持っていたので、佐藤は広瀬が軍人として優れていただけでなく、人間的にも偉かったのだと考えたという。
ロシア駐在中にペテルブルク大学で日本語を教えていた黒野義文から頼まれたこともあり、後に海軍少将となる義文の二男・森電三の相談相手となり、格別の世話をしている。広瀬武夫は生涯独身であり、女性関係はあったものの極めて真面目で、遊廓に出入りすることも社交界で交際することも皆無だった。唯一の女性との関係はアリアヅナとの文通であったという。また女性とデートしても、部下への体面があるとして手を出さなかったという手紙が残っており、その手紙を石原慎太郎が所有している。
見習い士官だった頃、駿州の清水港に上陸する機会があった。この時、広瀬を含む50名程度の海軍軍人が名代の侠客清水次郎長を訪ねた。次郎長は座中一同を見渡し「いや、こう見たところで男らしい男は一匹もいねぇな」と言い放ったため、座中の中から広瀬が現れ「おうおう、そう言うなら、一つ手並みを見せてやるから、びっくりするな」と言って、いきなり鉄拳を固めて自分のみぞおちを50、60発続けざまに殴った。これには次郎長も「なるほど、お前は男らしい」と感心し、お互いに胸襟を開いて談話をしたという逸話が残されている。
兵学校で同期の財部彪に山本権兵衛の娘との縁談が持ち上がった際、「財部は将官間違いなしの優秀な男だが、閣下の娘を貰ったのではその縁で出世したかのように思われて財部のためにならないから、この縁談はやめてもらいたい」と山本に談じ込んだという。しかし、山本の妻・登喜子が「うちの娘は、権兵衛の娘であるがゆえに、いい人と結婚できないのでしょうか?」と泣きついたため広瀬も引き下がらざるを得ず、結局広瀬の死後にこの懸念は現実となった。
長い間、アリアヅナの父親はロシア海軍のコヴァレフスキー少将とされてきたが、2010年になって日露の研究者により、実際の父親は別の人物であったことが明らかとなっている。広瀬武夫は東京相撲(当時)の常陸山谷右エ門とは非常に親しく、義兄弟の関係を結んでいた。常陸山が横綱になった時、広瀬は日露戦争で戦地におり、常陸山の横綱姿を見られなかったため、土俵入りの写真を送って欲しいと手紙で常陸山に頼んでいた。
しかし、常陸山が送った写真が届く前に広瀬は戦死してしまい、「横綱常陸山」の姿を見ることはついに叶わなかったのだ。
このことは常陸山を非常に悲しませたが、これが元で後に広瀬は図らずも出羽ノ海一門全員の命の恩人となった。
『広瀬中佐』の歌を私は祖父から教えてもらったことがある。
その歌を皆様にご紹介しよう。
広瀬に関する歌は多数あるが最もよく知られているのは文部省唱歌『広瀬中佐』で、1912年(明治45年)『尋常小学唱歌 第四学年用』に初出。作詞作曲は不詳である。
「轟く砲音、飛来る弾丸、
荒波洗ふ デッキの上に、
闇を貫く 中佐の叫び。
「杉野は何処杉野は居ずや」。
船内隈なく 尋ぬる三度、
呼べど答へず、さがせど見えず、
船は次第に 波間に沈み、
敵弾いよいよあたりに繁し。
今はとボートに 移れる中佐、
飛来る弾丸に 忽ち失せて、
旅順港外 恨みぞ深き、
軍神広瀬と その名残れど」
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さて、今回のわたしが小説の題材にした『甲斐の虎•武田信玄と軍師•山本勘助』はこの甲斐国で殆どの戦国乱世の時代を生き抜いた。そして越後の雄•上杉謙信との死闘は武田信玄、山本勘助にとっては人生そのものであったことだろう。
そんな彼らにわたしはスポットライトを当て読者の皆さんに彼らの素顔を知って頂く為に物語として執筆したものである。
なお、この小説の執筆に当たり『甲陽軍鑑』を参考にしていることを申し述べておく。
それでは、わたしが執筆した小説を最後までお楽しみ下さい。
読者の皆さんの人生において、お役に立てれば幸いです。
無用庵隠居清左衛門
蔵屋
歴史・時代
前老中田沼意次から引き継いで老中となった松平定信は、厳しい倹約令として|寛政の改革《かんせいのかいかく》を実施した。
第8代将軍徳川吉宗によって実施された|享保の改革《きょうほうのかいかく》、|天保の改革《てんぽうのかいかく》と合わせて幕政改革の三大改革という。
松平定信は厳しい倹約令を実施したのだった。江戸幕府は町人たちを中心とした貨幣経済の発達に伴い|逼迫《ひっぱく》した幕府の財政で苦しんでいた。
幕府の財政再建を目的とした改革を実施する事は江戸幕府にとって緊急の課題であった。
この時期、各地方の諸藩に於いても藩政改革が行われていたのであった。
そんな中、徳川家直参旗本であった緒方清左衛門は、己の出世の事しか考えない同僚に嫌気がさしていた。
清左衛門は無欲の徳川家直参旗本であった。
俸禄も入らず、出世欲もなく、ただひたすら、女房の千歳と娘の弥生と、三人仲睦まじく暮らす平穏な日々であればよかったのである。
清左衛門は『あらゆる欲を捨て去り、何もこだわらぬ無の境地になって千歳と弥生の幸せだけを願い、最後は無欲で死にたい』と思っていたのだ。
ある日、清左衛門に理不尽な言いがかりが同僚立花右近からあったのだ。
清左衛門は右近の言いがかりを相手にせず、
無視したのであった。
そして、松平定信に対して、隠居願いを提出したのであった。
「おぬし、本当にそれで良いのだな」
「拙者、一向に構いません」
「分かった。好きにするがよい」
こうして、清左衛門は隠居生活に入ったのである。
四代目 豊臣秀勝
克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。
読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。
史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。
秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。
小牧長久手で秀吉は勝てるのか?
朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか?
朝鮮征伐は行われるのか?
秀頼は生まれるのか。
秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
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ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
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わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
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