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第三巻
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【第三巻ノ一】
作家 司馬遼太郎と日露戦争
正岡子規が上京したのは明治十六年(一八八三)であった。
正岡子規は四国松山の三津浜から汽船で出帆し、東京までの直通便がないため神戸で乗り換え横浜へ向かったのだ。
横浜からは明治五年に開通した鉄道で終点の新橋まで行くことができたのだ。
日本橋にあった旧松山藩主•久松家の屋敷に到着した。
正岡子規は当時の東京の第一印象を次のように評している。
「◯東京へ初旅
去年六月十四日余は始めて東京新橋停車場につきぬ
人力にて日本橋区浜町久松邸まで行くに
銀座の裏を通りしかば東京はこんなにきたなき処かと思へり」(『筆まかせ』岩波文庫)
その後、先に東京に出て来ていた友人の柳原極堂を訪ねて本郷へ向かうたのであった。
さて、あの日露戦争で当時世界最強と謳れたロシアのコサック騎兵と戦った秋山好古、また、同じく日露戦争で連合艦隊の作戦参謀として日本海海戦で当時世界最強のロシア帝国バルチック艦隊を壊滅させた秋山真之兄弟、そして俳句、短歌といった日本の古い短詩型を改革した正岡子規の三人はいみじくも同じ四国松山の地で生まれ育ったのであった。私はこの三人を主人公としてあの素晴らしい小説を執筆した司馬遼太郎に畏敬の念を抱いたのであった。
私が社会人になって三年目の二十五歳の時に彼の小説「坂の上の雲」を書店で手に取り初めて読んだのだ。以来、司馬遼太郎のファンというより、虜になったのだ。
彼の代表作を挙げなさいと、もし言われたならば、次の七作品を挙げるであろう。
『梟の城』(1959年執筆)
『竜馬がゆく』(1962年ー1966年執筆)
『燃えよ剣』(1964年執筆)
『国盗り物語』(1965年執筆)
『坂の上の雲』(1968年執筆)
『街道をゆく』(1971年 ー1996年執筆紀行文)
『翔ぶが如く』(1976年執筆)
私は彼の歴史小説から多くのことを学んだ。
太閤秀吉と伊賀忍者、石川五右衛門、
坂本龍馬、
新撰組副長 土方歳三の生涯、
斎藤道三、明智光秀、織田信長、秀吉、徳川家康などの人物像を学んだ。
そして、明治維新へと。
西郷隆盛、大久保利通の人物像を学んだ。
坂の上の雲では日本がロシアの南下政策に対抗する為に、旅順港攻略、奉天の戦いと、
日露戦争の凄まじさを描いた。
彼は戦前生まれ、私は戦後生まれである。
私なんぞ、司馬遼太郎の足元にも及ばない。
しかし、時代は変わった。
変わって行く。変化して行く。
人間は毎日、朝目が覚めると、一日の活動を当たり前のようにしていく。
生きる為である。
私達を取り巻く大自然も、地球上のすべての生き物も毎日、何らかの活動をする。
誰も教えていないのに、生きるためにお腹が空いたら食物を食べる。
喉が乾けば水を飲む。眠くなれば寝る。
生理的欲求が有れば、その欲求を果たす。
排便、排尿、射精もそうだ。
赤ちゃんはまだ、言葉を喋ることが出来ないだから大きな声で泣く。
母親は赤ちゃんの泣くというシグナルで
母乳をあげる。
母乳が欲しくないなら、オムツを確認する。
それでも泣いている。
熱がないのか?
お腹が痛いのか?と考える。
そうして最後に小児科医院へ連れて行く。
そう、赤ちゃんも、みんな人間は生きている。
地球上の凡ゆるもの、太陽系の凡ゆるもの、銀河系の凡ゆるもの、そうして大宇宙も生きている。
皆さん、考えてみて下さい。
世の中のすべての物質は、118種類の元素で出来ているのです。
もちろん、宇宙も例外ではありません。
同じように元素によって構成されているのです。
宇宙は約137億年前にビックバンで生まれたものです。
その約38万年後に最初の元素である水素原子が出来ました。
その次がヘリウムです。
やがて、時間の経過とともに、より重い原子が生まれてくるのです。
では、今、宇宙を作っているのはどんな元素なのでしょうか?
最も多いのは構造が簡単な水素「H」です。
宇宙全体の約71% を占めます。
次にヘリウムが27%存在しています。
2元素を足すだけでも、すでに98%にも達しているんですよ。
宇宙は様々な元素で作り上げられていますがほとんど水素「H」とヘリウム「He」の2元素でできているのです。
残り2%の中には酸素「O」炭素「C」窒素「N」ネオンなどがあります。
さらに、細かく見ていきますとマグネシウム、ケイ素、硫黄、アルゴンなどが発見できるのです。
《太陽の構成元素》
太陽の元素の構成ですが、92%以上が水素です。
次にヘリウムが続き、酸素、炭素、窒素、
ネオンがほんの少し含まれています。
その構成比については、多少の差はあっても、宇宙とよく似ているのです。
《地球の成分》
では、地球の地面や大気などはどんな成分なのでしょうか?
地球を作る元素の割合は、半分程度は酸素で作られています。
ケイ素、アルミニウムが続きます。
他にはナトリウムやカリウムやマグネシウムやチタンや水素やリンなど多彩な元素が含まれています。
酸素は46.6%を占めております。
ケイ素は27.7%を占めております。
アルミニウムが8.13%占めています。
鉄が5% 、カルシウムが3.63% 、他8.94%で
これらが地殻の構造です。
地球(地殻)や大気(乾燥空気)
海水などもそれぞれ元素でできています。
地球はどんな元素でできているのでしょうか?
地球を調べてといっても、どこを調べて、地球とみなすのかは難しい問題です。
特に地球内部にあるコアやマントルは直接調査することが出来ません。
私が皆さんに申しあげたいのは大宇宙のすべてのものが生きて活動を続けているということ、このことだけを知って欲しいのです。
また、横道にそれましたね。
この小説についてのお話しです。
四国の松山出身の秋山兄弟、正岡子規は
其々の能力を活かして、明治という時代を強く、逞しく、生き抜くことになるのです。
【第三巻ノ二】
《秋山好古の人物像》
秋山兄弟の兄は好古は一八五九年に伊予松山藩士秋山久敬三男として生まれた。
弟の真之は一八六八年秋山家の五男として生まれる。
兄の好古とは九つ違いである。
真之が生まれた年に明治維新が起こった。
日本の激動の時代の始まりであった。
私はこの明治維新には強い関心を持っている。
何故ならあの偉人と言われた西郷隆盛、大久保利通ら薩摩藩士の若き血潮のあの新政府に対する熱き思い、私など到底かれらの足元にも及ぶまい。
彼らの活躍と犠牲があったからこそ、今の日本という国が存在しているのだと、
私は思っているからだ。
当時新政府の日本はアメリカやフランス、ドイツ、イギリス、ロシアという外国に常に干渉されていた。到底、日本人の考えた武器だけではあの明治維新という偉業はなしえなかったであろう。軍備の面では圧倒的に外国の方が優れていたのだから。
しかし、人材という面では日本人は優っていたと思っている。
特に西郷隆盛は一貫して征韓論を主張していた。
明治維新の結果、武士は刀を捨てて俸禄という身分も捨てた。殆どの武士は生活に困り、窮するようになる。
明治維新という大きな畝りの中で彷徨い歩く一人間として生きていく。やがてその不満は明治維新を成し遂げた大久保利通や新政府の要人に向けられいく。
そんな中、不平士族達に人気のあったのが情に厚い西郷隆盛であった。
西郷は不平士族達の怒りを新政府に向けさせない為に征韓論という立場をとり、韓国に向けさせようとしたのだから。
最終的にには薩摩藩士と一緒になり、新政府軍と戦って死んでいく、あの西南戦争で西郷隆盛は自分の死に場所を見つけたのだから。
これは日本人にとって忘れてはならない悲劇であり、無駄死にであった。
やがて大久保利通も不平士族により、脳天を日本刀で斬られて死んでいく。
一体何人の尊い命が失われていったのだろうか?
私はこの明治維新という大きな畝りの中に飲み込まれ死んでいった人々にご冥福をお祈りしたい。
今の私たちの生活があるのは貴方達のお陰ですと。
私の征韓論に対する考え方を皆さんにお話ししたい。ご承知の通り征韓論は、もともと幕末期に圧力の強くなった西欧諸国の植民地政策に対抗する策として考えられていたものであった。
幕末の思想家「吉田松陰は、西欧諸国に武力で対抗するには、日本だけの力では無理であり、李氏朝鮮と清は17~20世紀初頭の中国王朝である。
この清にまで打って出て、東アジアを統一した勢力にすることが必要だという意見を持っていた。
これは吉田松陰だけでなく、幕末の思想家佐久間象山や
福井藩士橋本左内、
薩摩藩主島津斉彬なども、アジアの統一こそが唯一の対抗策だと認識していた。
そのあと、明治政府が誕生し、日本は中央集権国家の成立に成功した。
しかし明治政府内には、やはり日本だけの国力では、西欧諸国に太刀打ちできないという思いを強く抱く人達がいた。
島津斉彬の弟子とも言える西郷隆盛などは、王政復古の大号令で
第122代明治天皇の命による明治政府の成立宣言の段階から李氏朝鮮との国交を模索していたのだ。
しかし朝鮮は日本の使節を排除した。
李氏朝鮮との間では、明治政府が政権樹立と同時に旧対馬藩は現在の長崎県対馬市である。藩を通して国交のための使節を派遣するが江戸幕府の書状の書式と異なるとして拒否されるなど、交渉がうまくいかない状態が続いた。
それは当時、李氏朝鮮が鎖国攘夷諸外国と接触せず追い払う方針の政策を採っていたことも大きな一因であった。
一八七〇年(明治3年)に、明治政府は再び使節を派遣し、開国を促したがこれも拒否された。
追い返されるように帰国した使節団のひとり佐田白茅は、明治天皇に征韓つまり李氏朝鮮への侵攻を建白した。
しかし具体的な動きはなかった。
そのあとも、明治政府がたびたび使節団を派遣するも進展はなく、硬直状態が続いた。
明治政府内の征韓論の経緯を説明すると
欧米諸国へ出向いた岩倉使節団と留守政府
一八七一年(明治4年)11月から約1年10ヵ月にわたり岩倉使節団が西欧諸国に追いつく近代国家へ生まれ変わるひとつの施策として、アメリカ・ヨーロッパへ派遣した。
右大臣岩倉具視を特命全権大使とし、木戸孝允大久保利通
伊藤博文山口尚芳といった明治政府の首脳と呼べる面々に率いられた、総勢107名もの大使節団であった。この時津田梅子ら女性五、六名も加わっていた。
そして、この留守を預かったのが、太政大臣三条実美を首班とする、西郷隆盛」、
板垣退助大隈重信、
江藤新平井上馨といった政府高官達であった。
この留守政府と呼ばれた彼らが、わずか2年の間に四民平等
つまり士農工商身分の平等化の実現や
徴兵令
一定期間国民を兵士として勤務させる制度)や学制の施行や裁判所の整備、太陽暦への改暦など、様々な大改革を実行した。
また留守政府は、そういった国政とともに、清国や李氏朝鮮やロシア帝国などの近隣諸国との国交樹立、国境画定のための交渉にも精力的に取り組んだ。
そんな中留守政府内で沸騰した征韓論議論という厄介な問題があった。
清国との間では、まだ岩倉使節団が出発していない一八七一年(明治4年)9月に日清修好条規を締結。これは、日本が外国と初めて対等な立場で結んだ条約で、欧米列強と締結した不平等条約とは内容を異にするものでった。
一方、李氏朝鮮との間では進展がない状態が続く最中、あるできごとが発生する
一八七二年(明治5年)に李氏朝鮮の中枢にいた王族大院君が、日本は夷狄と化してしまった。
我が国において日本人とかかわる者は、死刑に処すという布告を出したのだ。
夷狄とは、古代中国で東方の未開国を夷、北方のそれを狄といったところからついた名称で、日本を野蛮な民族とみなすとの意味である。
日本からの外交官がこれを目にすることとなり、留守政府内部で一気に征韓論が沸騰していったのだ。
李氏朝鮮の説得にあたろうとした西郷隆盛や板垣退助は、軍勢を派遣して李氏朝鮮を討伐することを強く主張した。
これはある意味不平士族の矛先を新政府から李氏朝鮮に向けさせる意図があった。
西郷隆盛は己れの死に場所を求めていたのだから。
私は西郷隆盛という偉大な人物が大好きてある。
しかし西郷隆盛は、いきなり軍隊を送ることには反対の立場を取り、「自身が李氏朝鮮に赴いて説得にあたる」と強固な立場を見せました。私はこれは隆盛のパフォーマンスであると思っている。
西郷隆盛の意見に後藤象二郎、江藤新平、副島種臣らが賛成したという。
さらには、留守政府のトップであった三条実美も、西郷隆盛の案に賛成の意を表した。
一八七三年(明治6年)に西郷隆盛を李氏朝鮮へ派遣して開国を迫ることが決定された。
しかし、内治優先という立場をとる大久保利通らに敗れてしまう。征韓論はやぶれた。
しかし、時を同じくして、岩倉使節団より先に帰国した大久保利通、木戸孝允によって、内治優先が主張される。
西郷隆盛派遣の上奏は
明治天皇へ意見を申し上げることを受けていた明治天皇も、いったんはその決定を認めるが西郷隆盛が斬られる恐れもあるため、結果的には岩倉具視が帰国するまで熟慮を重ねよと派遣を保留したのである。
そして、一八七三年(明治6年)9月に岩倉具視をはじめとする岩倉使節団が帰国。岩倉具視は「内務の充実に邁進すべき時期に外征を企てるとは何事だ」と征韓論に反対した。
さらに、大久保利通、海軍卿海軍大臣勝海舟までも、岩倉具視と同じ立場を示したのだ。
勝海舟の場合は、今の日本の海軍力では李氏朝鮮へ渡ってまで戦争を維持できないと考えていたからだ。
結果的に、征韓論に肯定的だった三条実美が過労で倒れ、代わって太政大臣になった岩倉具視は征韓論の封じ込めに動き、そして、一八七三年(明治6年)10月24日、明治天皇の聖断つまり決断を得る形で、西郷隆盛の朝鮮派遣は見送られた。
この銅像は上野公園にあります。
このことにより、西郷隆盛、板垣退助、後藤象二郎、副島種臣、江藤新平など、多くの明治政府首脳がいっせいに辞職した。
それぞれの故郷に帰ることになる。
これがのちに「明治六年の政変」と呼ばれ、やがて西南戦争へと発展するのである。
【第三巻ノ三】
《秋山好古の人物像2》
私は秋山 好古という人物を知ったのは、司馬遼太郎の『坂の上の雲』という小説を読んだ時であった。
私は例えば興味を持った人物、あるいは私となんらかの関係を持った人物がいたとすれば必ずと言っていいほど、その人物の経歴を調べるのだ。その理由はその人物像について、私自身が判断することができるからだ。
所詮、同じ人間である。そこには人間としての差はないのだ。
朝目覚めて、洗顔し歯を磨き、水をコップ一杯飲む。
小便に行く。ご飯を食べる。便を催しトイレで今度は大便をする。
幼少期、小学生、中学生、高校生、大学生、就職したら会社へと、やるべきことをやる。
すべて生きる為である。
結婚していれば、妻を責任を持って養い、子供が出来ると育児や子育ても妻にだけまかすことなく、仕事の責任を果たして、また、一家の家長としての責任人を果たす。
秋山好古もきっと私と同じことをしていたはずだ。
しかし、私と秋山好古とは生きている時代が違っていた。
そこには私と秋山好古との決定的な違いがある。
私は秋山好古の足元にも及ばないのだから。
私はこの『日露戦争の真実』として、この秋山好古、秋山真之、正岡子規、三人の偉業を読者の皆さんに知って欲しいと思い、この小説を執筆したのだから。
さて、秋山好古のお話しの続きです。
秋山好古にこんな逸話がある。これは私がおそらく25才前後にある書籍を読んだことがあった。その書籍がどんな本だったか?
覚えていない。
その書籍を読んだ私の記憶の一コマである。
あるフランスの軍人が日本の陸軍騎兵学校を参観に来たことがあったらしい。
その時の話しである。
「秋山好古の生涯の意味は、満州の野で世界最強の騎兵集団を破るというただ一点に尽きている」と賞されたということであったらしい。
秋山好古は以来、日本騎兵の父とも呼ばれるようになったという。
秋山好古には9才年下の実の弟がいた。
秋山真之である。
彼は連合艦隊先任参謀として日本海海戦の勝利に貢献した人物であった。
日露戦争前後の秋山好古について私はある書籍で読んだ記憶がある。
安政6年1月7日(1859年2月9日)に伊予松山城下、現在の愛媛県松山市歩行町に松山藩士の秋山久敬、貞の三男として生まれた。
名前の由来は論語の一節「信而好古」より。秋山家は足軽よりも一階級上の位で家禄10石程の下級武士だった。
松山藩校の明教館は現在の愛媛県立松山東高等学校に入学し、家計を支えつつ学んだという。
この頃天保銭一枚に相当て、銭湯の水汲み、釜焚き、番台の管理をやっていたと、その書籍に記載されていた。
当時秋山は明治8年(1875年)に納金不要で月に8円の学費を支給されていたとの記載もあった。
その後官立大阪師範学校に入学する。
明治9年(1876年)7月に官立大阪師範学校を卒業する。
第三大学区十八中学区堺県河内国第五十八番小学校、現在の寝屋川市立南小学校を経て愛知県師範学校附属小学校、現在の愛知教育大学附属名古屋小学校に勤務することになる。
明治10年(1877年)5月に教職を辞した。そして陸軍士官学校(旧3期)へ入校する。
明治12年(1879年)12月23日に陸軍士官学校を卒業する。
任陸軍騎兵少尉となり東京鎮台に配属された。
明治13年(1880年)2月28日には東京鎮台騎兵第1大隊付となる。
3月22日に秋山家の家督を相続した。
病床の長男である兄の則久の代替であったのだ。
好古は6月5日に正八位に叙位された。
7月2日には東京鎮台騎兵第1大隊小隊長に異動となる。
明治16年(1883年)2月28日に任陸軍騎兵中尉となる。
同年3月16日に陸軍士官学校騎兵科教官に異動する。
同年4月7日に従七位に昇叙となる。
同年4月9日に陸軍大学校(1期)に入校する。
明治18年(1885年)12月28日に陸軍大学校を卒業し参謀本部に勤務となる。
明治19年(1886年)4月12日に東京鎮台参謀に異動となる。
同年6月2日に任陸軍騎兵大尉となる。
明治20年(1887年)7月25日にサン・シール陸軍士官学校に留学した久松定謨の補導役としてフランスへ渡り、騎兵戦術の習得に努めたのである。
明治23年(1890年)12月19日に父久敬が松山で死去した。
明治24年(1891年)12月13日に秋山好古はフランスから帰国した。
同年12月26日に騎兵第1大隊中隊長に異動となる。
明治25年(1892年)4月27日に陸軍士官学校馬術教官に異動する。
同年11月1日に任陸軍騎兵少佐となる。
明治26年(1893年)1月11日に従六位に昇叙となる。
同年4月2日に佐久間多美と婚姻する。
同年5月5日に騎兵第1大隊長に異動する。
明治27年(1894年)に日清戦争に従軍。
明治28年(1895年)5月10日に任陸軍騎兵中佐となる。
明治29年(1896年)3月24日に正六位に昇叙となる。
同年8月15日に陸軍乗馬学校長に異動。
明治30年(1897年)10月11日に任陸軍騎兵大佐となる。
同年10月30日に従五位に昇叙となる。
明治31年(1898年)10月1日に陸軍騎兵実施学校長に異動する。
明治32年(1899年)10月28日に陸軍獣医学校長を兼務した。
明治33年(1900年)7月17日に第5師団兵站監に異動となる。
明治34年(1901年)5月30日に軍司令官・山根武亮少将の清国駐屯軍参謀長に異動となる。
同年7月4日に清国駐屯軍守備司令官に異動する。
明治35年(1902年)6月21日に陸軍少将に昇任した。
同年10月20日に正五位に昇叙となる。
明治36年(1903年)4月2日に騎兵第1旅団に異動する。
明治37年(1904年)に日露戦争において、騎兵第1旅団長として出征し、第2軍に属して、沙河会戦、黒溝台会戦、奉天会戦などで騎兵戦術を駆使してロシア軍と戦った。
また秋山支隊からロシア軍の後方攪乱のために派遣された永沼挺進隊の活躍は、小説『敵中横断三百里』によって有名となっている。
その後秋山好古は『日本騎兵の父』とも呼ばれるようになる。
第13師団長官舎(新潟県上越市)にて
明治38年(1905年)6月19日に母・貞死去する。
明治39年(1906年)2月6日に騎兵監になる。
同年4月に金鵄勲章功2級受章する。
明治40年(1907年)11月11日に従四位に昇叙となる。
明治42年(1909年)8月1日に任陸軍中将。
大正元年(1912年)12月28日に正四位に昇叙となる。
大正2年(1913年)1月15日に第13師団長に異動する。
大正4年(1915年)2月15日に近衛師団長に異となる。
大正5年(1916年)1月31日に従三位に昇叙となる。
同年8月18日に朝鮮駐剳軍司令官に異動する。
同年11月16日に任陸軍大将となる。
大正6年(1917年)8月6日に軍事参議官に異動する。
大正8年(1919年)3月10日に正三位に昇叙となる。
同年5月12日に馬政委員会委員長に異動となる。
大正9年(1920年)12月28日に教育総監となり、陸軍三長官の内の一人となる。
また、軍事参議官を併任となる。
大正12年(1923年)3月31日に予備役に編入する。
元帥位叙任の話もあったが本人が固辞したのである。
同年4月30日に特旨をもって従二位に叙位となった。
大正13年(1924年)4月に私立北予中学校、現在の愛媛県立松山北高等学校の校長に就任する。
大正15年(1926年)地元愛媛県教師、井上吉利らとともに、手嶋俊郎遺著『大陸ローマンス』を出版した。
松山高校で起きた学校騒動の調停に一役買うことになる。
昭和5年(1930年)4月9日に老いに勝てなくなったことや、同郷の後進である白川義則陸軍大臣などの心配もあり、校長を辞任した。
その後も学校理事として松山に住んだ。
同年7月、帯広の牧畜事業を視察する為松山を発つも、東京で左足の痛みが酷くなり動けなくなる。
秋山好古はこの時、糖尿病と壊疽の初期段階と診察されたのである。
同年11月1日に左足を切断する手術を行なったが、既に腐敗菌が左足以外の細胞にもまわり、手遅れとなった。
同年11月4日に士官学校同期の本郷房太郎が見舞い、言葉を交わす。これが最後の好古と言葉とされる。
午後7時10分、糖尿病による心筋梗塞により入院先の東京の陸軍軍医学校に於いて薨去。享年72(満71歳没)であった。
同年11月10日に葬儀が青山斎場で執り行われた。
日本赤十字社社長である徳川宗家16代当主公爵徳川家達が参列し、「本社は日本赤十字社東京支部特別社員陸軍大将従二位勲一等功二級秋山好古君の薨去を聞き哀悼の情に堪えずここに社員253万7千余人に代わり弔詞を贈る」と弔辞を述べた。この話しは
有名な話しである。
秋山好古の墓所は東京港区の青山霊園1-イ-19-2-1にある。
なお、有志により松山市の鷺谷墓地にも分骨されているのだ。
【第三巻ノ四】
《正岡子規と秋山兄弟》
私は正岡子規と秋山兄弟の生き様が好きだ。
しかし、もっと好きなのは彼らの人間としての当たり前の考え方であり、更に言うならば彼らの人物像であろう。
私は彼らをこう呼ぶであろう。
人間!正岡子規!
人間!秋山好古!
人間!秋山真之!
さて、この章では秋山真之について、お話ししたい。
秋山真之は日露戦争で連合艦隊の参謀として活躍した人物である。
私は彼の名言が好きである。
その一つに次の名言がある。
「人間の頭に上下などはない」
という言葉である。
この言葉こそ、秋山真之の考え方であり、
真之の人物像でもあるのだ。
彼は「身分や役職に関わらず、誰もが平等に意見を言うべきだという」考え方を常に持っていた。
彼には「所詮人間なんぞ、そんなに大差ない」と思っていたに違いない。
さて、秋山真之は、1868年に現在の愛媛県松山市に生まれた。
真之は日清戦争、日露戦争で参謀として活躍。
特に日露戦争では、連合艦隊作戦参謀として日本海海戦の勝利に大きく貢献している。
作戦立案能力に長けていただけでなく、語学にも堪能であったという。
国際情勢にも精通していたらしい。
真之は名言を数多く残している。
その名言は彼が経験した数々の苦難や、深い思索の中から生まれたものばかりだ。
ここに私は「人間!秋山真之!」
という人物像を思い描くのである。
日露戦争という国家の存亡をかけた戦いにおいて、彼は常に冷静沈着な判断を下し、勝利に導いたのだ。
その戦略の中で生まれた言葉には、現代社会、とりわけ企業人としての読者の皆さんにも通用するリーダーシップや決断力、
また人間性など普遍的な価値観が込められているのだ。
私が冒頭でお話しした秋山真之の人物像である。
その人物像を読み解く上で重要なキーワードは、「戦略」と「思考」ではなかろうかと
私は思っている。
彼は、常に戦略的な視点から物事を捉えて本質を見抜く力に長けていたのだ。
皆さんもよくご存知だと思う。
真之の次の名言である。
「成敗は天に在りといえども
人事を尽くさずして天、天と言うなかれ』
この意味をご説明すると次のようになる。
『運命や結果を天に任せるだけではなくて、
自分自身の努力が重要である』
と、我々に教えているのだ。
作家 司馬遼太郎と日露戦争
正岡子規が上京したのは明治十六年(一八八三)であった。
正岡子規は四国松山の三津浜から汽船で出帆し、東京までの直通便がないため神戸で乗り換え横浜へ向かったのだ。
横浜からは明治五年に開通した鉄道で終点の新橋まで行くことができたのだ。
日本橋にあった旧松山藩主•久松家の屋敷に到着した。
正岡子規は当時の東京の第一印象を次のように評している。
「◯東京へ初旅
去年六月十四日余は始めて東京新橋停車場につきぬ
人力にて日本橋区浜町久松邸まで行くに
銀座の裏を通りしかば東京はこんなにきたなき処かと思へり」(『筆まかせ』岩波文庫)
その後、先に東京に出て来ていた友人の柳原極堂を訪ねて本郷へ向かうたのであった。
さて、あの日露戦争で当時世界最強と謳れたロシアのコサック騎兵と戦った秋山好古、また、同じく日露戦争で連合艦隊の作戦参謀として日本海海戦で当時世界最強のロシア帝国バルチック艦隊を壊滅させた秋山真之兄弟、そして俳句、短歌といった日本の古い短詩型を改革した正岡子規の三人はいみじくも同じ四国松山の地で生まれ育ったのであった。私はこの三人を主人公としてあの素晴らしい小説を執筆した司馬遼太郎に畏敬の念を抱いたのであった。
私が社会人になって三年目の二十五歳の時に彼の小説「坂の上の雲」を書店で手に取り初めて読んだのだ。以来、司馬遼太郎のファンというより、虜になったのだ。
彼の代表作を挙げなさいと、もし言われたならば、次の七作品を挙げるであろう。
『梟の城』(1959年執筆)
『竜馬がゆく』(1962年ー1966年執筆)
『燃えよ剣』(1964年執筆)
『国盗り物語』(1965年執筆)
『坂の上の雲』(1968年執筆)
『街道をゆく』(1971年 ー1996年執筆紀行文)
『翔ぶが如く』(1976年執筆)
私は彼の歴史小説から多くのことを学んだ。
太閤秀吉と伊賀忍者、石川五右衛門、
坂本龍馬、
新撰組副長 土方歳三の生涯、
斎藤道三、明智光秀、織田信長、秀吉、徳川家康などの人物像を学んだ。
そして、明治維新へと。
西郷隆盛、大久保利通の人物像を学んだ。
坂の上の雲では日本がロシアの南下政策に対抗する為に、旅順港攻略、奉天の戦いと、
日露戦争の凄まじさを描いた。
彼は戦前生まれ、私は戦後生まれである。
私なんぞ、司馬遼太郎の足元にも及ばない。
しかし、時代は変わった。
変わって行く。変化して行く。
人間は毎日、朝目が覚めると、一日の活動を当たり前のようにしていく。
生きる為である。
私達を取り巻く大自然も、地球上のすべての生き物も毎日、何らかの活動をする。
誰も教えていないのに、生きるためにお腹が空いたら食物を食べる。
喉が乾けば水を飲む。眠くなれば寝る。
生理的欲求が有れば、その欲求を果たす。
排便、排尿、射精もそうだ。
赤ちゃんはまだ、言葉を喋ることが出来ないだから大きな声で泣く。
母親は赤ちゃんの泣くというシグナルで
母乳をあげる。
母乳が欲しくないなら、オムツを確認する。
それでも泣いている。
熱がないのか?
お腹が痛いのか?と考える。
そうして最後に小児科医院へ連れて行く。
そう、赤ちゃんも、みんな人間は生きている。
地球上の凡ゆるもの、太陽系の凡ゆるもの、銀河系の凡ゆるもの、そうして大宇宙も生きている。
皆さん、考えてみて下さい。
世の中のすべての物質は、118種類の元素で出来ているのです。
もちろん、宇宙も例外ではありません。
同じように元素によって構成されているのです。
宇宙は約137億年前にビックバンで生まれたものです。
その約38万年後に最初の元素である水素原子が出来ました。
その次がヘリウムです。
やがて、時間の経過とともに、より重い原子が生まれてくるのです。
では、今、宇宙を作っているのはどんな元素なのでしょうか?
最も多いのは構造が簡単な水素「H」です。
宇宙全体の約71% を占めます。
次にヘリウムが27%存在しています。
2元素を足すだけでも、すでに98%にも達しているんですよ。
宇宙は様々な元素で作り上げられていますがほとんど水素「H」とヘリウム「He」の2元素でできているのです。
残り2%の中には酸素「O」炭素「C」窒素「N」ネオンなどがあります。
さらに、細かく見ていきますとマグネシウム、ケイ素、硫黄、アルゴンなどが発見できるのです。
《太陽の構成元素》
太陽の元素の構成ですが、92%以上が水素です。
次にヘリウムが続き、酸素、炭素、窒素、
ネオンがほんの少し含まれています。
その構成比については、多少の差はあっても、宇宙とよく似ているのです。
《地球の成分》
では、地球の地面や大気などはどんな成分なのでしょうか?
地球を作る元素の割合は、半分程度は酸素で作られています。
ケイ素、アルミニウムが続きます。
他にはナトリウムやカリウムやマグネシウムやチタンや水素やリンなど多彩な元素が含まれています。
酸素は46.6%を占めております。
ケイ素は27.7%を占めております。
アルミニウムが8.13%占めています。
鉄が5% 、カルシウムが3.63% 、他8.94%で
これらが地殻の構造です。
地球(地殻)や大気(乾燥空気)
海水などもそれぞれ元素でできています。
地球はどんな元素でできているのでしょうか?
地球を調べてといっても、どこを調べて、地球とみなすのかは難しい問題です。
特に地球内部にあるコアやマントルは直接調査することが出来ません。
私が皆さんに申しあげたいのは大宇宙のすべてのものが生きて活動を続けているということ、このことだけを知って欲しいのです。
また、横道にそれましたね。
この小説についてのお話しです。
四国の松山出身の秋山兄弟、正岡子規は
其々の能力を活かして、明治という時代を強く、逞しく、生き抜くことになるのです。
【第三巻ノ二】
《秋山好古の人物像》
秋山兄弟の兄は好古は一八五九年に伊予松山藩士秋山久敬三男として生まれた。
弟の真之は一八六八年秋山家の五男として生まれる。
兄の好古とは九つ違いである。
真之が生まれた年に明治維新が起こった。
日本の激動の時代の始まりであった。
私はこの明治維新には強い関心を持っている。
何故ならあの偉人と言われた西郷隆盛、大久保利通ら薩摩藩士の若き血潮のあの新政府に対する熱き思い、私など到底かれらの足元にも及ぶまい。
彼らの活躍と犠牲があったからこそ、今の日本という国が存在しているのだと、
私は思っているからだ。
当時新政府の日本はアメリカやフランス、ドイツ、イギリス、ロシアという外国に常に干渉されていた。到底、日本人の考えた武器だけではあの明治維新という偉業はなしえなかったであろう。軍備の面では圧倒的に外国の方が優れていたのだから。
しかし、人材という面では日本人は優っていたと思っている。
特に西郷隆盛は一貫して征韓論を主張していた。
明治維新の結果、武士は刀を捨てて俸禄という身分も捨てた。殆どの武士は生活に困り、窮するようになる。
明治維新という大きな畝りの中で彷徨い歩く一人間として生きていく。やがてその不満は明治維新を成し遂げた大久保利通や新政府の要人に向けられいく。
そんな中、不平士族達に人気のあったのが情に厚い西郷隆盛であった。
西郷は不平士族達の怒りを新政府に向けさせない為に征韓論という立場をとり、韓国に向けさせようとしたのだから。
最終的にには薩摩藩士と一緒になり、新政府軍と戦って死んでいく、あの西南戦争で西郷隆盛は自分の死に場所を見つけたのだから。
これは日本人にとって忘れてはならない悲劇であり、無駄死にであった。
やがて大久保利通も不平士族により、脳天を日本刀で斬られて死んでいく。
一体何人の尊い命が失われていったのだろうか?
私はこの明治維新という大きな畝りの中に飲み込まれ死んでいった人々にご冥福をお祈りしたい。
今の私たちの生活があるのは貴方達のお陰ですと。
私の征韓論に対する考え方を皆さんにお話ししたい。ご承知の通り征韓論は、もともと幕末期に圧力の強くなった西欧諸国の植民地政策に対抗する策として考えられていたものであった。
幕末の思想家「吉田松陰は、西欧諸国に武力で対抗するには、日本だけの力では無理であり、李氏朝鮮と清は17~20世紀初頭の中国王朝である。
この清にまで打って出て、東アジアを統一した勢力にすることが必要だという意見を持っていた。
これは吉田松陰だけでなく、幕末の思想家佐久間象山や
福井藩士橋本左内、
薩摩藩主島津斉彬なども、アジアの統一こそが唯一の対抗策だと認識していた。
そのあと、明治政府が誕生し、日本は中央集権国家の成立に成功した。
しかし明治政府内には、やはり日本だけの国力では、西欧諸国に太刀打ちできないという思いを強く抱く人達がいた。
島津斉彬の弟子とも言える西郷隆盛などは、王政復古の大号令で
第122代明治天皇の命による明治政府の成立宣言の段階から李氏朝鮮との国交を模索していたのだ。
しかし朝鮮は日本の使節を排除した。
李氏朝鮮との間では、明治政府が政権樹立と同時に旧対馬藩は現在の長崎県対馬市である。藩を通して国交のための使節を派遣するが江戸幕府の書状の書式と異なるとして拒否されるなど、交渉がうまくいかない状態が続いた。
それは当時、李氏朝鮮が鎖国攘夷諸外国と接触せず追い払う方針の政策を採っていたことも大きな一因であった。
一八七〇年(明治3年)に、明治政府は再び使節を派遣し、開国を促したがこれも拒否された。
追い返されるように帰国した使節団のひとり佐田白茅は、明治天皇に征韓つまり李氏朝鮮への侵攻を建白した。
しかし具体的な動きはなかった。
そのあとも、明治政府がたびたび使節団を派遣するも進展はなく、硬直状態が続いた。
明治政府内の征韓論の経緯を説明すると
欧米諸国へ出向いた岩倉使節団と留守政府
一八七一年(明治4年)11月から約1年10ヵ月にわたり岩倉使節団が西欧諸国に追いつく近代国家へ生まれ変わるひとつの施策として、アメリカ・ヨーロッパへ派遣した。
右大臣岩倉具視を特命全権大使とし、木戸孝允大久保利通
伊藤博文山口尚芳といった明治政府の首脳と呼べる面々に率いられた、総勢107名もの大使節団であった。この時津田梅子ら女性五、六名も加わっていた。
そして、この留守を預かったのが、太政大臣三条実美を首班とする、西郷隆盛」、
板垣退助大隈重信、
江藤新平井上馨といった政府高官達であった。
この留守政府と呼ばれた彼らが、わずか2年の間に四民平等
つまり士農工商身分の平等化の実現や
徴兵令
一定期間国民を兵士として勤務させる制度)や学制の施行や裁判所の整備、太陽暦への改暦など、様々な大改革を実行した。
また留守政府は、そういった国政とともに、清国や李氏朝鮮やロシア帝国などの近隣諸国との国交樹立、国境画定のための交渉にも精力的に取り組んだ。
そんな中留守政府内で沸騰した征韓論議論という厄介な問題があった。
清国との間では、まだ岩倉使節団が出発していない一八七一年(明治4年)9月に日清修好条規を締結。これは、日本が外国と初めて対等な立場で結んだ条約で、欧米列強と締結した不平等条約とは内容を異にするものでった。
一方、李氏朝鮮との間では進展がない状態が続く最中、あるできごとが発生する
一八七二年(明治5年)に李氏朝鮮の中枢にいた王族大院君が、日本は夷狄と化してしまった。
我が国において日本人とかかわる者は、死刑に処すという布告を出したのだ。
夷狄とは、古代中国で東方の未開国を夷、北方のそれを狄といったところからついた名称で、日本を野蛮な民族とみなすとの意味である。
日本からの外交官がこれを目にすることとなり、留守政府内部で一気に征韓論が沸騰していったのだ。
李氏朝鮮の説得にあたろうとした西郷隆盛や板垣退助は、軍勢を派遣して李氏朝鮮を討伐することを強く主張した。
これはある意味不平士族の矛先を新政府から李氏朝鮮に向けさせる意図があった。
西郷隆盛は己れの死に場所を求めていたのだから。
私は西郷隆盛という偉大な人物が大好きてある。
しかし西郷隆盛は、いきなり軍隊を送ることには反対の立場を取り、「自身が李氏朝鮮に赴いて説得にあたる」と強固な立場を見せました。私はこれは隆盛のパフォーマンスであると思っている。
西郷隆盛の意見に後藤象二郎、江藤新平、副島種臣らが賛成したという。
さらには、留守政府のトップであった三条実美も、西郷隆盛の案に賛成の意を表した。
一八七三年(明治6年)に西郷隆盛を李氏朝鮮へ派遣して開国を迫ることが決定された。
しかし、内治優先という立場をとる大久保利通らに敗れてしまう。征韓論はやぶれた。
しかし、時を同じくして、岩倉使節団より先に帰国した大久保利通、木戸孝允によって、内治優先が主張される。
西郷隆盛派遣の上奏は
明治天皇へ意見を申し上げることを受けていた明治天皇も、いったんはその決定を認めるが西郷隆盛が斬られる恐れもあるため、結果的には岩倉具視が帰国するまで熟慮を重ねよと派遣を保留したのである。
そして、一八七三年(明治6年)9月に岩倉具視をはじめとする岩倉使節団が帰国。岩倉具視は「内務の充実に邁進すべき時期に外征を企てるとは何事だ」と征韓論に反対した。
さらに、大久保利通、海軍卿海軍大臣勝海舟までも、岩倉具視と同じ立場を示したのだ。
勝海舟の場合は、今の日本の海軍力では李氏朝鮮へ渡ってまで戦争を維持できないと考えていたからだ。
結果的に、征韓論に肯定的だった三条実美が過労で倒れ、代わって太政大臣になった岩倉具視は征韓論の封じ込めに動き、そして、一八七三年(明治6年)10月24日、明治天皇の聖断つまり決断を得る形で、西郷隆盛の朝鮮派遣は見送られた。
この銅像は上野公園にあります。
このことにより、西郷隆盛、板垣退助、後藤象二郎、副島種臣、江藤新平など、多くの明治政府首脳がいっせいに辞職した。
それぞれの故郷に帰ることになる。
これがのちに「明治六年の政変」と呼ばれ、やがて西南戦争へと発展するのである。
【第三巻ノ三】
《秋山好古の人物像2》
私は秋山 好古という人物を知ったのは、司馬遼太郎の『坂の上の雲』という小説を読んだ時であった。
私は例えば興味を持った人物、あるいは私となんらかの関係を持った人物がいたとすれば必ずと言っていいほど、その人物の経歴を調べるのだ。その理由はその人物像について、私自身が判断することができるからだ。
所詮、同じ人間である。そこには人間としての差はないのだ。
朝目覚めて、洗顔し歯を磨き、水をコップ一杯飲む。
小便に行く。ご飯を食べる。便を催しトイレで今度は大便をする。
幼少期、小学生、中学生、高校生、大学生、就職したら会社へと、やるべきことをやる。
すべて生きる為である。
結婚していれば、妻を責任を持って養い、子供が出来ると育児や子育ても妻にだけまかすことなく、仕事の責任を果たして、また、一家の家長としての責任人を果たす。
秋山好古もきっと私と同じことをしていたはずだ。
しかし、私と秋山好古とは生きている時代が違っていた。
そこには私と秋山好古との決定的な違いがある。
私は秋山好古の足元にも及ばないのだから。
私はこの『日露戦争の真実』として、この秋山好古、秋山真之、正岡子規、三人の偉業を読者の皆さんに知って欲しいと思い、この小説を執筆したのだから。
さて、秋山好古のお話しの続きです。
秋山好古にこんな逸話がある。これは私がおそらく25才前後にある書籍を読んだことがあった。その書籍がどんな本だったか?
覚えていない。
その書籍を読んだ私の記憶の一コマである。
あるフランスの軍人が日本の陸軍騎兵学校を参観に来たことがあったらしい。
その時の話しである。
「秋山好古の生涯の意味は、満州の野で世界最強の騎兵集団を破るというただ一点に尽きている」と賞されたということであったらしい。
秋山好古は以来、日本騎兵の父とも呼ばれるようになったという。
秋山好古には9才年下の実の弟がいた。
秋山真之である。
彼は連合艦隊先任参謀として日本海海戦の勝利に貢献した人物であった。
日露戦争前後の秋山好古について私はある書籍で読んだ記憶がある。
安政6年1月7日(1859年2月9日)に伊予松山城下、現在の愛媛県松山市歩行町に松山藩士の秋山久敬、貞の三男として生まれた。
名前の由来は論語の一節「信而好古」より。秋山家は足軽よりも一階級上の位で家禄10石程の下級武士だった。
松山藩校の明教館は現在の愛媛県立松山東高等学校に入学し、家計を支えつつ学んだという。
この頃天保銭一枚に相当て、銭湯の水汲み、釜焚き、番台の管理をやっていたと、その書籍に記載されていた。
当時秋山は明治8年(1875年)に納金不要で月に8円の学費を支給されていたとの記載もあった。
その後官立大阪師範学校に入学する。
明治9年(1876年)7月に官立大阪師範学校を卒業する。
第三大学区十八中学区堺県河内国第五十八番小学校、現在の寝屋川市立南小学校を経て愛知県師範学校附属小学校、現在の愛知教育大学附属名古屋小学校に勤務することになる。
明治10年(1877年)5月に教職を辞した。そして陸軍士官学校(旧3期)へ入校する。
明治12年(1879年)12月23日に陸軍士官学校を卒業する。
任陸軍騎兵少尉となり東京鎮台に配属された。
明治13年(1880年)2月28日には東京鎮台騎兵第1大隊付となる。
3月22日に秋山家の家督を相続した。
病床の長男である兄の則久の代替であったのだ。
好古は6月5日に正八位に叙位された。
7月2日には東京鎮台騎兵第1大隊小隊長に異動となる。
明治16年(1883年)2月28日に任陸軍騎兵中尉となる。
同年3月16日に陸軍士官学校騎兵科教官に異動する。
同年4月7日に従七位に昇叙となる。
同年4月9日に陸軍大学校(1期)に入校する。
明治18年(1885年)12月28日に陸軍大学校を卒業し参謀本部に勤務となる。
明治19年(1886年)4月12日に東京鎮台参謀に異動となる。
同年6月2日に任陸軍騎兵大尉となる。
明治20年(1887年)7月25日にサン・シール陸軍士官学校に留学した久松定謨の補導役としてフランスへ渡り、騎兵戦術の習得に努めたのである。
明治23年(1890年)12月19日に父久敬が松山で死去した。
明治24年(1891年)12月13日に秋山好古はフランスから帰国した。
同年12月26日に騎兵第1大隊中隊長に異動となる。
明治25年(1892年)4月27日に陸軍士官学校馬術教官に異動する。
同年11月1日に任陸軍騎兵少佐となる。
明治26年(1893年)1月11日に従六位に昇叙となる。
同年4月2日に佐久間多美と婚姻する。
同年5月5日に騎兵第1大隊長に異動する。
明治27年(1894年)に日清戦争に従軍。
明治28年(1895年)5月10日に任陸軍騎兵中佐となる。
明治29年(1896年)3月24日に正六位に昇叙となる。
同年8月15日に陸軍乗馬学校長に異動。
明治30年(1897年)10月11日に任陸軍騎兵大佐となる。
同年10月30日に従五位に昇叙となる。
明治31年(1898年)10月1日に陸軍騎兵実施学校長に異動する。
明治32年(1899年)10月28日に陸軍獣医学校長を兼務した。
明治33年(1900年)7月17日に第5師団兵站監に異動となる。
明治34年(1901年)5月30日に軍司令官・山根武亮少将の清国駐屯軍参謀長に異動となる。
同年7月4日に清国駐屯軍守備司令官に異動する。
明治35年(1902年)6月21日に陸軍少将に昇任した。
同年10月20日に正五位に昇叙となる。
明治36年(1903年)4月2日に騎兵第1旅団に異動する。
明治37年(1904年)に日露戦争において、騎兵第1旅団長として出征し、第2軍に属して、沙河会戦、黒溝台会戦、奉天会戦などで騎兵戦術を駆使してロシア軍と戦った。
また秋山支隊からロシア軍の後方攪乱のために派遣された永沼挺進隊の活躍は、小説『敵中横断三百里』によって有名となっている。
その後秋山好古は『日本騎兵の父』とも呼ばれるようになる。
第13師団長官舎(新潟県上越市)にて
明治38年(1905年)6月19日に母・貞死去する。
明治39年(1906年)2月6日に騎兵監になる。
同年4月に金鵄勲章功2級受章する。
明治40年(1907年)11月11日に従四位に昇叙となる。
明治42年(1909年)8月1日に任陸軍中将。
大正元年(1912年)12月28日に正四位に昇叙となる。
大正2年(1913年)1月15日に第13師団長に異動する。
大正4年(1915年)2月15日に近衛師団長に異となる。
大正5年(1916年)1月31日に従三位に昇叙となる。
同年8月18日に朝鮮駐剳軍司令官に異動する。
同年11月16日に任陸軍大将となる。
大正6年(1917年)8月6日に軍事参議官に異動する。
大正8年(1919年)3月10日に正三位に昇叙となる。
同年5月12日に馬政委員会委員長に異動となる。
大正9年(1920年)12月28日に教育総監となり、陸軍三長官の内の一人となる。
また、軍事参議官を併任となる。
大正12年(1923年)3月31日に予備役に編入する。
元帥位叙任の話もあったが本人が固辞したのである。
同年4月30日に特旨をもって従二位に叙位となった。
大正13年(1924年)4月に私立北予中学校、現在の愛媛県立松山北高等学校の校長に就任する。
大正15年(1926年)地元愛媛県教師、井上吉利らとともに、手嶋俊郎遺著『大陸ローマンス』を出版した。
松山高校で起きた学校騒動の調停に一役買うことになる。
昭和5年(1930年)4月9日に老いに勝てなくなったことや、同郷の後進である白川義則陸軍大臣などの心配もあり、校長を辞任した。
その後も学校理事として松山に住んだ。
同年7月、帯広の牧畜事業を視察する為松山を発つも、東京で左足の痛みが酷くなり動けなくなる。
秋山好古はこの時、糖尿病と壊疽の初期段階と診察されたのである。
同年11月1日に左足を切断する手術を行なったが、既に腐敗菌が左足以外の細胞にもまわり、手遅れとなった。
同年11月4日に士官学校同期の本郷房太郎が見舞い、言葉を交わす。これが最後の好古と言葉とされる。
午後7時10分、糖尿病による心筋梗塞により入院先の東京の陸軍軍医学校に於いて薨去。享年72(満71歳没)であった。
同年11月10日に葬儀が青山斎場で執り行われた。
日本赤十字社社長である徳川宗家16代当主公爵徳川家達が参列し、「本社は日本赤十字社東京支部特別社員陸軍大将従二位勲一等功二級秋山好古君の薨去を聞き哀悼の情に堪えずここに社員253万7千余人に代わり弔詞を贈る」と弔辞を述べた。この話しは
有名な話しである。
秋山好古の墓所は東京港区の青山霊園1-イ-19-2-1にある。
なお、有志により松山市の鷺谷墓地にも分骨されているのだ。
【第三巻ノ四】
《正岡子規と秋山兄弟》
私は正岡子規と秋山兄弟の生き様が好きだ。
しかし、もっと好きなのは彼らの人間としての当たり前の考え方であり、更に言うならば彼らの人物像であろう。
私は彼らをこう呼ぶであろう。
人間!正岡子規!
人間!秋山好古!
人間!秋山真之!
さて、この章では秋山真之について、お話ししたい。
秋山真之は日露戦争で連合艦隊の参謀として活躍した人物である。
私は彼の名言が好きである。
その一つに次の名言がある。
「人間の頭に上下などはない」
という言葉である。
この言葉こそ、秋山真之の考え方であり、
真之の人物像でもあるのだ。
彼は「身分や役職に関わらず、誰もが平等に意見を言うべきだという」考え方を常に持っていた。
彼には「所詮人間なんぞ、そんなに大差ない」と思っていたに違いない。
さて、秋山真之は、1868年に現在の愛媛県松山市に生まれた。
真之は日清戦争、日露戦争で参謀として活躍。
特に日露戦争では、連合艦隊作戦参謀として日本海海戦の勝利に大きく貢献している。
作戦立案能力に長けていただけでなく、語学にも堪能であったという。
国際情勢にも精通していたらしい。
真之は名言を数多く残している。
その名言は彼が経験した数々の苦難や、深い思索の中から生まれたものばかりだ。
ここに私は「人間!秋山真之!」
という人物像を思い描くのである。
日露戦争という国家の存亡をかけた戦いにおいて、彼は常に冷静沈着な判断を下し、勝利に導いたのだ。
その戦略の中で生まれた言葉には、現代社会、とりわけ企業人としての読者の皆さんにも通用するリーダーシップや決断力、
また人間性など普遍的な価値観が込められているのだ。
私が冒頭でお話しした秋山真之の人物像である。
その人物像を読み解く上で重要なキーワードは、「戦略」と「思考」ではなかろうかと
私は思っている。
彼は、常に戦略的な視点から物事を捉えて本質を見抜く力に長けていたのだ。
皆さんもよくご存知だと思う。
真之の次の名言である。
「成敗は天に在りといえども
人事を尽くさずして天、天と言うなかれ』
この意味をご説明すると次のようになる。
『運命や結果を天に任せるだけではなくて、
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『神知りて 人の幸せ 祈るのみ
神の伝えし 愛善の道』
【戦国時代小説】 甲斐の虎•武田信玄と軍師•山本勘助
蔵屋
歴史・時代
わたしは、以前、甲斐国を観光旅行したことがある。
何故、甲斐国なのか?
それは、日本を象徴する富士山があるからだ。
さて、今回のわたしが小説の題材にした『甲斐の虎•武田信玄と軍師•山本勘助』はこの甲斐国で殆どの戦国乱世の時代を生き抜いた。そして越後の雄•上杉謙信との死闘は武田信玄、山本勘助にとっては人生そのものであったことだろう。
そんな彼らにわたしはスポットライトを当て読者の皆さんに彼らの素顔を知って頂く為に物語として執筆したものである。
なお、この小説の執筆に当たり『甲陽軍鑑』を参考にしていることを申し述べておく。
それでは、わたしが執筆した小説を最後までお楽しみ下さい。
読者の皆さんの人生において、お役に立てれば幸いです。
無用庵隠居清左衛門
蔵屋
歴史・時代
前老中田沼意次から引き継いで老中となった松平定信は、厳しい倹約令として|寛政の改革《かんせいのかいかく》を実施した。
第8代将軍徳川吉宗によって実施された|享保の改革《きょうほうのかいかく》、|天保の改革《てんぽうのかいかく》と合わせて幕政改革の三大改革という。
松平定信は厳しい倹約令を実施したのだった。江戸幕府は町人たちを中心とした貨幣経済の発達に伴い|逼迫《ひっぱく》した幕府の財政で苦しんでいた。
幕府の財政再建を目的とした改革を実施する事は江戸幕府にとって緊急の課題であった。
この時期、各地方の諸藩に於いても藩政改革が行われていたのであった。
そんな中、徳川家直参旗本であった緒方清左衛門は、己の出世の事しか考えない同僚に嫌気がさしていた。
清左衛門は無欲の徳川家直参旗本であった。
俸禄も入らず、出世欲もなく、ただひたすら、女房の千歳と娘の弥生と、三人仲睦まじく暮らす平穏な日々であればよかったのである。
清左衛門は『あらゆる欲を捨て去り、何もこだわらぬ無の境地になって千歳と弥生の幸せだけを願い、最後は無欲で死にたい』と思っていたのだ。
ある日、清左衛門に理不尽な言いがかりが同僚立花右近からあったのだ。
清左衛門は右近の言いがかりを相手にせず、
無視したのであった。
そして、松平定信に対して、隠居願いを提出したのであった。
「おぬし、本当にそれで良いのだな」
「拙者、一向に構いません」
「分かった。好きにするがよい」
こうして、清左衛門は隠居生活に入ったのである。
四代目 豊臣秀勝
克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。
読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。
史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。
秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。
小牧長久手で秀吉は勝てるのか?
朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか?
朝鮮征伐は行われるのか?
秀頼は生まれるのか。
秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?
百合ランジェリーカフェにようこそ!
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青春
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ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
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