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第六巻
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【第六巻ノ1】
《人間 秋山好古》
私は今でも秋山好古のことが好きだ。
好古の家は貧しかった。
当時、士族と言えども食べていくのがやっとだった。
こんな逸話がある。好古に待望の弟が出来た。しかし家は貧しかった。弟の真之が生まれた際、生活苦から寺へ出そうかと話が持ち上がる。
「お父さん、赤ん坊をお寺へやっちゃ厭ぞな。おっつけうちが勉強してな、お豆腐ほどのお金をこしらえてあげるがな」と両親へ懇願した。
フランス留学中、腸チフスに罹るが、医師の診察を受けずに自力で治癒した。しかし一時的に頭髪が全て抜け、禿げ頭になったという逸話がある。頭髪は後に復活した。
非常に質素な生活を送り、贅沢を嫌った。
食事の際のおかずは沢庵漬けのみ。真之が
居候をしたときも食器は1つで使いまわす、足袋を履かせない、他の兄から貰った縮緬の帯を使わせない、千切れた下駄の鼻緒を直そうとしている真之を見て「暇があるなら裸足で行け」と叱責したなど、私生活においては簡素な行動を重んじたと伝えられている。
今の現代人はあまりにも贅沢過ぎる。
欲の無い人物として知られ、凱旋した際に給料や品の多くは部下に与えていたため、目録や明細書ばかりカバンに入っていたらしい。好古は無欲だった。
第2回万国平和会議に参加したことがかる。その時の話しである。
各国委員会による演説が行われても鼾をかいて居眠りをしていた。一緒に参加していた都筑馨六から注意されると「演説の要領は分かりましたよ」と応えたという。
好古はフランスに騎兵留学中、当時の陸軍の最高位にあった山縣有朋にフランス軍内の高級軍人へのお使いを頼まれたことがあったが、使いの途中の電車内において酒を飲みすぎ、居眠りした揚句、置き引きにあっている。
陸軍大学校で、学生たちに騎兵の特徴つまり、高い攻撃力と皆無に等しい防御力について、を説明する際、素手で窓ガラスを粉砕したという。
血まみれの拳を見せ、「騎兵とはこれだ」と示した。
如何に、騎兵は腕と握り拳を使うかということを教えたのだ。人間秋山好古である。
好古は福沢諭吉を尊敬し、自分の子供はみんな慶應義塾に入れたのである。
「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」である。
しかし、この言葉は最後の言葉が抜けている。
「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず、と言えり」どある。
『天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず』という一文を、福沢諭吉が平等をうたった言葉、と解釈している人は少なくない。
しかし、本当のことが見えていない。
実はこの一文、最期の締めまで達していない、ぶつ切り状態のものが、世に知れ渡っているのだ。
正しい全文は
『天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず、と言へり。』である。福沢諭吉が、アメリカの独立宣言の序文『すべての人間は、生まれながらにして平等である』を和訳して引用した上で、「と言われている」と伝聞で締めているのだ。「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」は、福沢の考えですらなかったのだ。
そしてその後には、まったく逆の意味の主張が続く。
いささか長いので意味だけをお伝えする。「しかしながら実際には賢い人と愚かな人、貧しい人と富んだ人、身分の高い人と低い人がいて、雲泥の差がついている」という意図の文章が続くのだ。
これこそが、諭吉の意図した主張で、「だからこそ、その不平等な差を埋めるため、生まないために、勉強して自分を磨くことをお勧めする」と説いているのだ。
人間は勉強しなければダメだ。
落第者になる。
勝ち組になることだ。
だからこそ、勉強するのだ。
もっと、もっと勉強することだ。
私は70才の今でも勉強している。
特に化学、宇宙物理学、科学技術、環境、薬学、栄養学などである。
私の中学時代は全科目10段階評価でオール10であった。何故ならすべての教科に興味があったからだ。
さて、秋山好古の話しである。
好古は晩婚主義者で、36歳で結婚した時も「結婚が早すぎた」と漏らすほどであったという。
結婚に踏み切ったのは、女中による盗難事件を興して母に苦労をかけたことがきっかけであった。婚約者に選んだのは12歳年下の旧旗本の佐久間家三女の多美で、母親が一番気に入った女性であった。元々、上京して佐久間家に居候していた好古は、多美に「狆とあだ名を付けるなど面識があったのだ。
まあ、好古が多美を好いていたということだ。
狆は日本原産の愛玩犬種である。
【第六ノ2】
《旅順要塞》
嗚呼!旅順要塞!」
もし、旅順のロシア艦隊が日本海を制圧すれば、日本軍は大陸への兵や物資の輸送が不可能になる。
日本の敗北は間違いあるまい。
もう日本には後がなかった。
日露戦争に敗北するか。
それとも旅順艦隊の殲滅を目指すか!
日本軍は生命線となる大陸への輸送路を確保するために旅順艦隊の殲滅を決断したのである。
しかし、深い入り江に守られた旅順港とその沿岸に設置された強力なロシア軍の砲台の為、日本の連合艦隊は何度も攻撃に失敗。
逆に港を封鎖する為の海上待機を余儀なくされたのどある。
さらにロシア軍はヨーロッパに配備したパルチック艦隊を、日本海へ派遣する準備を始めたのである。
そうなれば、日本連合艦隊は挟み撃ちに合い壊滅する。
パルチック艦隊到着までに、なんとしてもロシアの旅順艦隊を壊滅しなければならなかったのである。
追い詰められた日本海軍は、ついに日本陸軍に陸上からの旅順艦隊攻撃を要請したのであった。
これを受けて、明治37年6月6日、ロシア艦隊月面と旅順要塞攻略を目的とする日本陸軍第3軍が、中国塩大墺に上陸したのである。
軍司令部は、乃木希典であった。
乃木は10年前の日清戦争の時に清国の旅順要塞を1日で陥落させた実績があったのだ。
このことが旅順要塞攻略で、悲劇的な損害を日本軍を受けたのである。
当初、日本陸軍は、ロシアの旅順要塞の現状を分析していたが、その分析は非常に甘い考え方であった。
設備は清国の時代の旧式の陣地に壕を多少増築させるのみ。
「永久的な地上ではないと思う」
乃木希典ら軍参謀本部はそのように考えたのであった。
この判断をもとに、陸軍は、旅順要塞総攻撃を決定し、50,000の兵員を旅順に派遣したのである。
ところが、総攻撃予定の2週間前に、中国チーフーに潜伏していた日本の諜報員から陸軍参謀本部に驚くべき情報が入ってきたのである。
「ドンチーグアン山とアルロン山の間には12個の砲台があり、各砲台は塹壕で連絡し、前面には幅5間の深い水壕がある」
との報告であった。
ロシアの旅順要塞が、近代的な設備を持った巨大な要塞に増強されていると言うのである。
もし、この情報が本当ならば、日本軍の旅順要塞総攻撃は多大な犠牲を出すことになる。
日本軍の得た情報は、果たして正しかったのかどうか?
この旅順要塞総攻撃は、日本軍の、いや、日本国の命運をかけた戦いであるのだ。
絶対に、ロシア旅順艦隊を撃破するためには、このロシア軍の巨大な旅順要塞を攻略しなければならないのである。
果たして、日本の命運や、如何に?
今、まさに、ロシア軍と日本軍の陸上における旅順要塞攻略戦が始まろうとしていたのである。
【第六ノ3】
《子規はベースボール好き》
皆さんは子規が野球好きであったと、いうことを知っているであろうか?
子規は日本に野球が導入された最初の頃の熱心な選手でもあった。
1889年(明治22年)に喀血してやめるまで続けていた。
ポジションは捕手であった。
子規の最良の理解者であった河東碧梧桐ですら、彼が他のスポーツには全く関心を示さなかったのに、ベースボールに限って夢中になったことについては理解できないという風に「変態現象」と呼んだほどであったのだ。
1890年5月17日の一高ベースボール会対明治学院白金倶楽部によるベースボールの試合で「インブリー事件」が起こった際の観客の一人でもあった。
0-6と一高が大差をつけられた6回に事件が起こり、試合は中止となった事件である。
同年5月の『筆まかせ・第三のまき』に一高の負け方が見苦しい、と書き記している。
「十八日学校と明治学院とのベースボール・マッチありと聞きて往きて観る。
第四イニングの終りに学校は巳二十余程まけたり。其まけかた見苦しき至り也。折柄明治学院の教師、インブリー氏学校の垣をこえて入り来りしかば、校生大に怒り之を打擲し負傷せしめたり。明治学院のチャンピオンにも負傷ありければマッチは中止となりたり」
自身の幼名である「升(のぼる)」に因んで、「野球(のぼーる)」という雅号を用いたこともある。
これは、中馬庚がベースボールを野球(やきゅう)と翻訳する4年前の1890年(明治23年)のことで、読み方こそ異なるが「野球」という表記を最初に用いた人物となる。
ただしこれはベースボールに対する訳語ではなく、あくまで自身の雅号として使っていたものであった。
実際1896年(明治29年)7月27日付で新聞『日本』に掲載された随筆記事によると、
「ベースボール未だ曽て訳語あらず、今こゝに揚げたる訳語は吾の創意に係る。訳語妥当ならざるは自ら之を知るといえども匆卒の際改竄するに由なし。君子幸に正を賜え」
とあり、「バッター」「ランナー」「フォアボール」「ストレート」「フライボール」「ショートストップ」などの外来語に対して、「打者」「走者」「四球」「直球」「飛球」「短遮(中馬庚が遊撃手と表現する前の呼び名)」という翻訳案を創作して提示しているが、ベースボールに対する訳語は提示されていない。
その他「まり投げて見たき広場や春の草」「九つの人九つの場をしめてベースボールの始まらんとす」など野球を題材とした句や歌を詠んだり、新海非風との連作で、日本初の野球小説と目される『山吹の一枝』を執筆するなど、文学を通じて野球の普及に貢献した。これらの功績が評価され、子規は2002年(平成14年)、野球殿堂入りを果たしている。
ちなみに子規の出身地である愛媛県には、子規の野球好きに因んで、野球資料館「の・ボールミュージアム」がオープンしている。
さて、正岡 子規1867年10月14日に誕生し、1902年〈明治35年〉9月19日)に死亡。享年34才。
日本の俳人、歌人、国語学研究家。
子規は筆名で、本名は正岡 常規。
幼名を處之助といい、後に升と改めている。
正岡子規は俳句、短歌、新体詩、小説、評論、随筆など多方面にわたり創作活動を行い、日本の近代文学に多大な影響を及ぼした、明治を代表する文学者の一人である。
伊予国温泉郡藤原新町、現在の愛媛県松山市花園町に生まれた。
同地は伊予松山藩領で、父は藩士の正岡隼太常尚。
母の八重は藩儒大原観山の長女。子規は長男であった。
正岡子規は1872年(明治5年)、幼くして父が没したために家督を相続し、大原家と叔父の加藤恒忠(拓川)の後見を受けた。外祖父である観山の私塾に通って漢書の素読を習い、翌年には末広小学校に入学し、のちに勝山学校に転校。少年時代は漢詩や戯作、軍談、書画などに親しみ、友人と回覧雑誌を作り、試作会を開いた。また自由民権運動の影響を受け、政談にも関心を持ち熱中したという。
1880年(明治13年)、旧制松山中学、現在の愛媛県立松山東高等学校)に入学。1883年(明治16年)、同校を中退して上京し、漢文を学ぶため赤坂丹後町の須田学舎や、受験英語のために共立学校、現在の開成中学校・高等学校)に入学。翌年、旧藩主家の給費生となり、東大予備門(のち一高、現在の東大教養学部)に入学し、常盤会寄宿舎に入った。1890年(明治23年)、帝国大学哲学科に進学したものの、文学に興味を持ち、翌年には国文科に転科した。この頃から「子規」と号して句作を行っている。
松山中と共立学校で同級だった秋山真之(後に日露戦争時の連合艦隊参謀)とは、松山在住時からの友人であり、また共通の友人として勝田主計がいた。東大予備門では夏目漱石、南方熊楠、山田美妙らと同窓だった。
大学中退後、叔父・加藤拓川の紹介で1892年(明治25年)に新聞『日本』の記者となり、家族を呼び寄せて文芸活動の拠点とした。1893年(明治26年)に「獺祭書屋俳話」を連載し、俳句の革新運動を開始した。1894年(明治27年)夏に日清戦争が勃発すると、翌1895年(明治28年)4月、近衛師団つきの従軍記者として遼東半島に渡ったものの、上陸した2日後に下関条約が調印されたため、同年5月、第2軍兵站部軍医部長の森林太郎(鴎外)らに挨拶をして帰国の途についている。
その船中で喀血して重態に陥り、神戸病院に入院。7月、須磨保養院で療養したのち、松山に帰郷した。喀血した(血を吐いた)ことから、「鳴いて血を吐く」と言われているホトトギスと自分を重ね合わせ、ホトトギスの漢字表記の「子規」を自分の俳号とした。俳句分類や与謝蕪村などを研究し、俳句の世界に大きく貢献した。漱石の下宿に同宿して過ごし、俳句会などを開いた。
短歌(和歌)においても、「歌よみに与ふる書」を新聞『日本』に連載。『古今集』を否定して『万葉集』を高く評価して、江戸時代までの形式にとらわれた和歌を非難しつつ、根岸短歌会を主催して短歌の革新に努めた。根岸短歌会は、のちに伊藤左千夫、長塚節、岡麓らにより短歌結社『アララギ』へと発展していくことになった。
やがて病に臥しつつ『病牀六尺』を書いた。
これは少しの感傷も暗い影もなく、死に臨んだ自身の肉体と精神を客観視し写生した優れた人生記録として、現在まで読まれている。同時期に病床で書かれた日記『仰臥漫録』の原本は、兵庫県芦屋市の虚子記念文学館に収蔵されている。
1902年(明治35年)9月19日午前1時頃に息を引き取った。
21日の葬儀には150名以上が参列し、生前に弟子へ遺言していた「静かな寺に葬ってほしい」という願いに合わせて、田端の大龍寺に埋葬され、現在も墓所がある。
戒名は子規居士。
子規は英語が苦手だった。試験の際にカンニングをしたことがある。"judicature" の意味が分からなかった子規が隣の男に意味を聞いたところ、「ほうかん」と言われた。
本当は「法官」という意味だったが、「幇間」だと思って解答用紙に書いてしまった。ちなみに、子規はこの試験に合格したが、その「隣の男」は不合格になったという。
松山に漱石がいたときに鰻丼を奢ると言って、その代金を漱石に払わせたという逸話がある。
大食漢だったとされ、小説家の山田風太郎は「迫りくる死に抵抗するもので、献立を見るとB級グルメの見本のようだ」と評している。
子規が東京帝国大学入学後に哲学専攻を辞めたのには理由がある。夏目漱石の親友に米山保三郎がおり、会話をして驚嘆して諦めたという。「哲学というのはわけがわかんらんぞなもし。わしには手に負えん」と言ったという。
本来、毎月や月ごとなどを意味する「月並み」という言葉が、「陳腐、平凡」という意味も含んだのは、正岡子規がありふれた俳句や短歌を「月並み調」と批判したことが始まりとされる。当時、和歌や発句は「月並み句会」と呼ばれる月例の句会で詠み合わせをすることが多かったのだ。
同郷の言語学者・小川尚義は、松山中学、一高、帝大の後輩にあたり、一高時代から交友があった。小川が帝大を卒業した1896年7月に一時帰省する際、「十年の汗を道後のゆに洗へ」の句を贈った(道後温泉「椿の湯」湯釜にも刻印されているが、そこでは「ゆ」が「温泉」となっている)。
「柿くへば…」の名句は、療養生活の世話や奈良旅行を工面してくれた漱石作「鐘つけば 銀杏ちるなり建長寺」の句への返礼の句である。なお、病床においてもいくつも食べるほど柿好きであり、夏目漱石に「柿」というあだ名をつけたこともある。
プレイヤー1899年にこの写真を見ながら、「球と球をうつ木を手握りてシャツ着し見ればその時思ほぬ」との短歌をつけた。
子規は日本に野球が導入された最初の頃の熱心な選手でもあり、1889年(明治22年)に喀血してやめるまで続けていた。ポジションは捕手であった。
1890年5月17日の一高ベースボール会対明治学院白金倶楽部によるベースボールの試合で「インブリー事件」が起こった際の観客の一人でもあった。0-6と一高が大差をつけられた6回に事件が起こり、試合は中止となった。同年5月の『筆まかせ・第三のまき』に一高の負け方が見苦しい、と書き記している(注:十八日は誤記。十余程というのは実際の得点を意味しない)。
十八日学校と明治学院とのベースボール・マッチありと聞きて往きて観る。第四イニングの終りに学校は巳二十余程まけたり。其まけかた見苦しき至り也。折柄明治学院の教師、インブリー氏学校の垣をこえて入り来りしかば、校生大に怒り之を打擲し負傷せしめたり。明治学院のチャンピオンにも負傷ありければマッチは中止となりたり。
自身の幼名である「升(のぼる)」に因んで、「野球(のぼーる)」という雅号を用いたこともある[22]。これは、中馬庚がベースボールを野球(やきゅう)と翻訳する4年前の1890年(明治23年)のことで、読み方こそ異なるが「野球」という表記を最初に用いた人物となる。ただしこれはベースボールに対する訳語ではなく、あくまで自身の雅号として使っていたものである。実際1896年(明治29年)7月27日付で新聞『日本』に掲載された随筆記事によると。
「ベースボール未だ曽て訳語あらず。」
《人間 秋山好古》
私は今でも秋山好古のことが好きだ。
好古の家は貧しかった。
当時、士族と言えども食べていくのがやっとだった。
こんな逸話がある。好古に待望の弟が出来た。しかし家は貧しかった。弟の真之が生まれた際、生活苦から寺へ出そうかと話が持ち上がる。
「お父さん、赤ん坊をお寺へやっちゃ厭ぞな。おっつけうちが勉強してな、お豆腐ほどのお金をこしらえてあげるがな」と両親へ懇願した。
フランス留学中、腸チフスに罹るが、医師の診察を受けずに自力で治癒した。しかし一時的に頭髪が全て抜け、禿げ頭になったという逸話がある。頭髪は後に復活した。
非常に質素な生活を送り、贅沢を嫌った。
食事の際のおかずは沢庵漬けのみ。真之が
居候をしたときも食器は1つで使いまわす、足袋を履かせない、他の兄から貰った縮緬の帯を使わせない、千切れた下駄の鼻緒を直そうとしている真之を見て「暇があるなら裸足で行け」と叱責したなど、私生活においては簡素な行動を重んじたと伝えられている。
今の現代人はあまりにも贅沢過ぎる。
欲の無い人物として知られ、凱旋した際に給料や品の多くは部下に与えていたため、目録や明細書ばかりカバンに入っていたらしい。好古は無欲だった。
第2回万国平和会議に参加したことがかる。その時の話しである。
各国委員会による演説が行われても鼾をかいて居眠りをしていた。一緒に参加していた都筑馨六から注意されると「演説の要領は分かりましたよ」と応えたという。
好古はフランスに騎兵留学中、当時の陸軍の最高位にあった山縣有朋にフランス軍内の高級軍人へのお使いを頼まれたことがあったが、使いの途中の電車内において酒を飲みすぎ、居眠りした揚句、置き引きにあっている。
陸軍大学校で、学生たちに騎兵の特徴つまり、高い攻撃力と皆無に等しい防御力について、を説明する際、素手で窓ガラスを粉砕したという。
血まみれの拳を見せ、「騎兵とはこれだ」と示した。
如何に、騎兵は腕と握り拳を使うかということを教えたのだ。人間秋山好古である。
好古は福沢諭吉を尊敬し、自分の子供はみんな慶應義塾に入れたのである。
「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」である。
しかし、この言葉は最後の言葉が抜けている。
「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず、と言えり」どある。
『天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず』という一文を、福沢諭吉が平等をうたった言葉、と解釈している人は少なくない。
しかし、本当のことが見えていない。
実はこの一文、最期の締めまで達していない、ぶつ切り状態のものが、世に知れ渡っているのだ。
正しい全文は
『天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず、と言へり。』である。福沢諭吉が、アメリカの独立宣言の序文『すべての人間は、生まれながらにして平等である』を和訳して引用した上で、「と言われている」と伝聞で締めているのだ。「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」は、福沢の考えですらなかったのだ。
そしてその後には、まったく逆の意味の主張が続く。
いささか長いので意味だけをお伝えする。「しかしながら実際には賢い人と愚かな人、貧しい人と富んだ人、身分の高い人と低い人がいて、雲泥の差がついている」という意図の文章が続くのだ。
これこそが、諭吉の意図した主張で、「だからこそ、その不平等な差を埋めるため、生まないために、勉強して自分を磨くことをお勧めする」と説いているのだ。
人間は勉強しなければダメだ。
落第者になる。
勝ち組になることだ。
だからこそ、勉強するのだ。
もっと、もっと勉強することだ。
私は70才の今でも勉強している。
特に化学、宇宙物理学、科学技術、環境、薬学、栄養学などである。
私の中学時代は全科目10段階評価でオール10であった。何故ならすべての教科に興味があったからだ。
さて、秋山好古の話しである。
好古は晩婚主義者で、36歳で結婚した時も「結婚が早すぎた」と漏らすほどであったという。
結婚に踏み切ったのは、女中による盗難事件を興して母に苦労をかけたことがきっかけであった。婚約者に選んだのは12歳年下の旧旗本の佐久間家三女の多美で、母親が一番気に入った女性であった。元々、上京して佐久間家に居候していた好古は、多美に「狆とあだ名を付けるなど面識があったのだ。
まあ、好古が多美を好いていたということだ。
狆は日本原産の愛玩犬種である。
【第六ノ2】
《旅順要塞》
嗚呼!旅順要塞!」
もし、旅順のロシア艦隊が日本海を制圧すれば、日本軍は大陸への兵や物資の輸送が不可能になる。
日本の敗北は間違いあるまい。
もう日本には後がなかった。
日露戦争に敗北するか。
それとも旅順艦隊の殲滅を目指すか!
日本軍は生命線となる大陸への輸送路を確保するために旅順艦隊の殲滅を決断したのである。
しかし、深い入り江に守られた旅順港とその沿岸に設置された強力なロシア軍の砲台の為、日本の連合艦隊は何度も攻撃に失敗。
逆に港を封鎖する為の海上待機を余儀なくされたのどある。
さらにロシア軍はヨーロッパに配備したパルチック艦隊を、日本海へ派遣する準備を始めたのである。
そうなれば、日本連合艦隊は挟み撃ちに合い壊滅する。
パルチック艦隊到着までに、なんとしてもロシアの旅順艦隊を壊滅しなければならなかったのである。
追い詰められた日本海軍は、ついに日本陸軍に陸上からの旅順艦隊攻撃を要請したのであった。
これを受けて、明治37年6月6日、ロシア艦隊月面と旅順要塞攻略を目的とする日本陸軍第3軍が、中国塩大墺に上陸したのである。
軍司令部は、乃木希典であった。
乃木は10年前の日清戦争の時に清国の旅順要塞を1日で陥落させた実績があったのだ。
このことが旅順要塞攻略で、悲劇的な損害を日本軍を受けたのである。
当初、日本陸軍は、ロシアの旅順要塞の現状を分析していたが、その分析は非常に甘い考え方であった。
設備は清国の時代の旧式の陣地に壕を多少増築させるのみ。
「永久的な地上ではないと思う」
乃木希典ら軍参謀本部はそのように考えたのであった。
この判断をもとに、陸軍は、旅順要塞総攻撃を決定し、50,000の兵員を旅順に派遣したのである。
ところが、総攻撃予定の2週間前に、中国チーフーに潜伏していた日本の諜報員から陸軍参謀本部に驚くべき情報が入ってきたのである。
「ドンチーグアン山とアルロン山の間には12個の砲台があり、各砲台は塹壕で連絡し、前面には幅5間の深い水壕がある」
との報告であった。
ロシアの旅順要塞が、近代的な設備を持った巨大な要塞に増強されていると言うのである。
もし、この情報が本当ならば、日本軍の旅順要塞総攻撃は多大な犠牲を出すことになる。
日本軍の得た情報は、果たして正しかったのかどうか?
この旅順要塞総攻撃は、日本軍の、いや、日本国の命運をかけた戦いであるのだ。
絶対に、ロシア旅順艦隊を撃破するためには、このロシア軍の巨大な旅順要塞を攻略しなければならないのである。
果たして、日本の命運や、如何に?
今、まさに、ロシア軍と日本軍の陸上における旅順要塞攻略戦が始まろうとしていたのである。
【第六ノ3】
《子規はベースボール好き》
皆さんは子規が野球好きであったと、いうことを知っているであろうか?
子規は日本に野球が導入された最初の頃の熱心な選手でもあった。
1889年(明治22年)に喀血してやめるまで続けていた。
ポジションは捕手であった。
子規の最良の理解者であった河東碧梧桐ですら、彼が他のスポーツには全く関心を示さなかったのに、ベースボールに限って夢中になったことについては理解できないという風に「変態現象」と呼んだほどであったのだ。
1890年5月17日の一高ベースボール会対明治学院白金倶楽部によるベースボールの試合で「インブリー事件」が起こった際の観客の一人でもあった。
0-6と一高が大差をつけられた6回に事件が起こり、試合は中止となった事件である。
同年5月の『筆まかせ・第三のまき』に一高の負け方が見苦しい、と書き記している。
「十八日学校と明治学院とのベースボール・マッチありと聞きて往きて観る。
第四イニングの終りに学校は巳二十余程まけたり。其まけかた見苦しき至り也。折柄明治学院の教師、インブリー氏学校の垣をこえて入り来りしかば、校生大に怒り之を打擲し負傷せしめたり。明治学院のチャンピオンにも負傷ありければマッチは中止となりたり」
自身の幼名である「升(のぼる)」に因んで、「野球(のぼーる)」という雅号を用いたこともある。
これは、中馬庚がベースボールを野球(やきゅう)と翻訳する4年前の1890年(明治23年)のことで、読み方こそ異なるが「野球」という表記を最初に用いた人物となる。
ただしこれはベースボールに対する訳語ではなく、あくまで自身の雅号として使っていたものであった。
実際1896年(明治29年)7月27日付で新聞『日本』に掲載された随筆記事によると、
「ベースボール未だ曽て訳語あらず、今こゝに揚げたる訳語は吾の創意に係る。訳語妥当ならざるは自ら之を知るといえども匆卒の際改竄するに由なし。君子幸に正を賜え」
とあり、「バッター」「ランナー」「フォアボール」「ストレート」「フライボール」「ショートストップ」などの外来語に対して、「打者」「走者」「四球」「直球」「飛球」「短遮(中馬庚が遊撃手と表現する前の呼び名)」という翻訳案を創作して提示しているが、ベースボールに対する訳語は提示されていない。
その他「まり投げて見たき広場や春の草」「九つの人九つの場をしめてベースボールの始まらんとす」など野球を題材とした句や歌を詠んだり、新海非風との連作で、日本初の野球小説と目される『山吹の一枝』を執筆するなど、文学を通じて野球の普及に貢献した。これらの功績が評価され、子規は2002年(平成14年)、野球殿堂入りを果たしている。
ちなみに子規の出身地である愛媛県には、子規の野球好きに因んで、野球資料館「の・ボールミュージアム」がオープンしている。
さて、正岡 子規1867年10月14日に誕生し、1902年〈明治35年〉9月19日)に死亡。享年34才。
日本の俳人、歌人、国語学研究家。
子規は筆名で、本名は正岡 常規。
幼名を處之助といい、後に升と改めている。
正岡子規は俳句、短歌、新体詩、小説、評論、随筆など多方面にわたり創作活動を行い、日本の近代文学に多大な影響を及ぼした、明治を代表する文学者の一人である。
伊予国温泉郡藤原新町、現在の愛媛県松山市花園町に生まれた。
同地は伊予松山藩領で、父は藩士の正岡隼太常尚。
母の八重は藩儒大原観山の長女。子規は長男であった。
正岡子規は1872年(明治5年)、幼くして父が没したために家督を相続し、大原家と叔父の加藤恒忠(拓川)の後見を受けた。外祖父である観山の私塾に通って漢書の素読を習い、翌年には末広小学校に入学し、のちに勝山学校に転校。少年時代は漢詩や戯作、軍談、書画などに親しみ、友人と回覧雑誌を作り、試作会を開いた。また自由民権運動の影響を受け、政談にも関心を持ち熱中したという。
1880年(明治13年)、旧制松山中学、現在の愛媛県立松山東高等学校)に入学。1883年(明治16年)、同校を中退して上京し、漢文を学ぶため赤坂丹後町の須田学舎や、受験英語のために共立学校、現在の開成中学校・高等学校)に入学。翌年、旧藩主家の給費生となり、東大予備門(のち一高、現在の東大教養学部)に入学し、常盤会寄宿舎に入った。1890年(明治23年)、帝国大学哲学科に進学したものの、文学に興味を持ち、翌年には国文科に転科した。この頃から「子規」と号して句作を行っている。
松山中と共立学校で同級だった秋山真之(後に日露戦争時の連合艦隊参謀)とは、松山在住時からの友人であり、また共通の友人として勝田主計がいた。東大予備門では夏目漱石、南方熊楠、山田美妙らと同窓だった。
大学中退後、叔父・加藤拓川の紹介で1892年(明治25年)に新聞『日本』の記者となり、家族を呼び寄せて文芸活動の拠点とした。1893年(明治26年)に「獺祭書屋俳話」を連載し、俳句の革新運動を開始した。1894年(明治27年)夏に日清戦争が勃発すると、翌1895年(明治28年)4月、近衛師団つきの従軍記者として遼東半島に渡ったものの、上陸した2日後に下関条約が調印されたため、同年5月、第2軍兵站部軍医部長の森林太郎(鴎外)らに挨拶をして帰国の途についている。
その船中で喀血して重態に陥り、神戸病院に入院。7月、須磨保養院で療養したのち、松山に帰郷した。喀血した(血を吐いた)ことから、「鳴いて血を吐く」と言われているホトトギスと自分を重ね合わせ、ホトトギスの漢字表記の「子規」を自分の俳号とした。俳句分類や与謝蕪村などを研究し、俳句の世界に大きく貢献した。漱石の下宿に同宿して過ごし、俳句会などを開いた。
短歌(和歌)においても、「歌よみに与ふる書」を新聞『日本』に連載。『古今集』を否定して『万葉集』を高く評価して、江戸時代までの形式にとらわれた和歌を非難しつつ、根岸短歌会を主催して短歌の革新に努めた。根岸短歌会は、のちに伊藤左千夫、長塚節、岡麓らにより短歌結社『アララギ』へと発展していくことになった。
やがて病に臥しつつ『病牀六尺』を書いた。
これは少しの感傷も暗い影もなく、死に臨んだ自身の肉体と精神を客観視し写生した優れた人生記録として、現在まで読まれている。同時期に病床で書かれた日記『仰臥漫録』の原本は、兵庫県芦屋市の虚子記念文学館に収蔵されている。
1902年(明治35年)9月19日午前1時頃に息を引き取った。
21日の葬儀には150名以上が参列し、生前に弟子へ遺言していた「静かな寺に葬ってほしい」という願いに合わせて、田端の大龍寺に埋葬され、現在も墓所がある。
戒名は子規居士。
子規は英語が苦手だった。試験の際にカンニングをしたことがある。"judicature" の意味が分からなかった子規が隣の男に意味を聞いたところ、「ほうかん」と言われた。
本当は「法官」という意味だったが、「幇間」だと思って解答用紙に書いてしまった。ちなみに、子規はこの試験に合格したが、その「隣の男」は不合格になったという。
松山に漱石がいたときに鰻丼を奢ると言って、その代金を漱石に払わせたという逸話がある。
大食漢だったとされ、小説家の山田風太郎は「迫りくる死に抵抗するもので、献立を見るとB級グルメの見本のようだ」と評している。
子規が東京帝国大学入学後に哲学専攻を辞めたのには理由がある。夏目漱石の親友に米山保三郎がおり、会話をして驚嘆して諦めたという。「哲学というのはわけがわかんらんぞなもし。わしには手に負えん」と言ったという。
本来、毎月や月ごとなどを意味する「月並み」という言葉が、「陳腐、平凡」という意味も含んだのは、正岡子規がありふれた俳句や短歌を「月並み調」と批判したことが始まりとされる。当時、和歌や発句は「月並み句会」と呼ばれる月例の句会で詠み合わせをすることが多かったのだ。
同郷の言語学者・小川尚義は、松山中学、一高、帝大の後輩にあたり、一高時代から交友があった。小川が帝大を卒業した1896年7月に一時帰省する際、「十年の汗を道後のゆに洗へ」の句を贈った(道後温泉「椿の湯」湯釜にも刻印されているが、そこでは「ゆ」が「温泉」となっている)。
「柿くへば…」の名句は、療養生活の世話や奈良旅行を工面してくれた漱石作「鐘つけば 銀杏ちるなり建長寺」の句への返礼の句である。なお、病床においてもいくつも食べるほど柿好きであり、夏目漱石に「柿」というあだ名をつけたこともある。
プレイヤー1899年にこの写真を見ながら、「球と球をうつ木を手握りてシャツ着し見ればその時思ほぬ」との短歌をつけた。
子規は日本に野球が導入された最初の頃の熱心な選手でもあり、1889年(明治22年)に喀血してやめるまで続けていた。ポジションは捕手であった。
1890年5月17日の一高ベースボール会対明治学院白金倶楽部によるベースボールの試合で「インブリー事件」が起こった際の観客の一人でもあった。0-6と一高が大差をつけられた6回に事件が起こり、試合は中止となった。同年5月の『筆まかせ・第三のまき』に一高の負け方が見苦しい、と書き記している(注:十八日は誤記。十余程というのは実際の得点を意味しない)。
十八日学校と明治学院とのベースボール・マッチありと聞きて往きて観る。第四イニングの終りに学校は巳二十余程まけたり。其まけかた見苦しき至り也。折柄明治学院の教師、インブリー氏学校の垣をこえて入り来りしかば、校生大に怒り之を打擲し負傷せしめたり。明治学院のチャンピオンにも負傷ありければマッチは中止となりたり。
自身の幼名である「升(のぼる)」に因んで、「野球(のぼーる)」という雅号を用いたこともある[22]。これは、中馬庚がベースボールを野球(やきゅう)と翻訳する4年前の1890年(明治23年)のことで、読み方こそ異なるが「野球」という表記を最初に用いた人物となる。ただしこれはベースボールに対する訳語ではなく、あくまで自身の雅号として使っていたものである。実際1896年(明治29年)7月27日付で新聞『日本』に掲載された随筆記事によると。
「ベースボール未だ曽て訳語あらず。」
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