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第七巻
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【第七巻ノ1】
《陸軍大将 児玉源太郎》
皆さんは児玉 源太郎という人物をご存知だろうか?
日露戦争を勝利に導いた人物である。
彼は1852年4月14日に誕生し、1906年〈明治39年〉7月23日)に死んでいる。
享年54歳である。
彼は明治時代の日本の陸軍軍人であり政治家でもあった。
児玉源太郎は日露戦争において満洲軍総参謀長を務め、勝利に貢献した。
階級は陸軍大将、栄典は正二位勲一等功一級子爵。
嘉永5年(1852年)閏2月25日、周防国都濃郡徳山の本丁で長州藩の支藩・徳山藩の上士(馬廻役、100石)。
児玉半九郎忠硯の長男として生まれる。当時、児玉家には長女の久子と次女の信子がいるのみで、児玉源太郎が初めての男子であったため、彼の誕生に家族一同は大いに喜んだ。児玉が生まれた時に父親の半九郎は向かいの家に住む友人で漢学者の島田蕃根の家に赴き、四、五人で詩文に興じていたが、家人が慌ただしくやって来て男子誕生を告げたため、半九郎は歓喜して直ちに島田家から帰宅し、祝杯を挙げたという。
幼名は百合若と名付けられ、長じて健、源太郎と改められた。
嘉永6年(1853年)6月の黒船来航により、徳山藩でも開国か、攘夷か、で政論が盛んに行われるようになると、父・半九郎は早くから尊王攘夷を唱えていたが、それが藩内の対立派閥に疎まれて蟄居閉門を命じられ、安政3年(1856年)10月19日に憂悶の内に死去した。
この時の児玉はまだ5歳であった。
幼かったため、浅見栄三郎の次男で半九郎の養子となっていた児玉次郎彦が児玉源太郎の姉である久子と婚姻し、婿養子として児玉家の家督を相続した。
児玉は義兄の次郎彦に養育されることとなり、万延元年(1860年)に藩校の興譲館に入学し、文学を桜井魁園と本城清に、撃剣を神道無念流の小田劫右衛門と一刀流の浅見栄三郎に、槍術を大島流の浅見安之丞に学び、武術の達人となったのである。
その他に父の友人の漢学者で教学院主を務めた島田蕃根にも師事している。
元治元年(1864年)8月12日、義兄である次郎彦が対幕恭順派によって暗殺され、児玉家は一人半扶持に格下げされたのであった。
更に同年12月には横本町の邸宅も没収され、家名断絶となったてしまったのである。
児玉家には13歳の児玉、母・元子、姉の久子と信子、次郎彦と久子の間の子で文太郎が残され、生活は困窮したのである。
しかし、児玉の母は家名を辱めないように努めつつ、児玉らの教育を怠らず、事あるごとに『曽我物語』を読み聞かせたという。
この『曽我物語』は、曽我十郎祐成と曽我五郎時致の兄弟が、父の仇である工藤祐経を討ち果たすまでの18年間の苦難を描いた軍記物語であった。
この仇討ちは、建久4年(1193年)に源頼朝が富士の裾野で行った巻狩りの最中に起こったのだ。この物語は史実である。
この物語の背景であるが、先ず仇討ちの原因である。物事の背景には必ず原因があり、結果がある。
さて、物語の発端は、伊豆の豪族である伊東一族内の領地争いから始まった。
工藤祐経は、叔父の伊東祐親に相続するはずの領地を騙し取られ、裁判にも敗訴しとしまう。
この恨みから、工藤祐経は伊東祐親の暗殺を企て、その嫡男である河津祐泰(曽我兄弟の父)を殺害したのだ。
この兄弟の生い立ちであるが、父を殺された曽我兄弟は、母が曽我祐信と再婚したため「曽我」を名乗ることになる。
兄弟は貧しい生活の中で、父の仇を討つことを誓い、18年間苦難に耐えながら成長したのだ。
ついに仇討ちの実行をする時が来た。
富士の巻狩りである。
建久4年(1193年)5月、源頼朝が富士の裾野で大規模な巻狩りを催し、工藤祐経もこれに参加したのだ。
兄弟はこの機会を狙い、仇討ちを決行したのである。
「おのれ!にっくき工藤め!待ってたぞ!
父の仇!死ねぇ!あぁー、やぁー」
してやったり。
工藤 祐経を討ち取ったり!」
工藤 祐経は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武士であり御家人であった。
5月28日の夜、曽我兄弟は工藤祐経を討ち果たした。
しかし、兄の十郎はその場で討ち取られ、弟の五郎は捕らえられ、後に処刑されてしまう。
この曽我物語は日本に於ける三大仇討ちと言われた。
曽我兄弟の仇討ちは、「赤穂義士伝」「伊賀の水月」とともに「日本三大仇討ち」の一つとされている。
また、日本芸能へも影響を与えている。
『曽我物語』は、能や人形浄瑠璃、歌舞伎など多くの芸能の題材となった。
特に歌舞伎では、毎年正月に「曽我狂言」として上演され、「曽我物」というジャンルを確立している。
さて、この小説の登場人物である児玉源太郎である。
やがて藩論が倒幕派に傾き、家名断絶の翌年の慶応元年(1865年)に藩主である毛利元蕃から家名再興を許され、児玉は中小姓として25石の禄を与えられた。
また、さらにその3ヶ月後には元々の馬廻役、禄100石へ戻されている。
明治元年(1868年)に徳山藩の献功隊に入隊した。
同年10月に半隊司令(小隊長)として秋田に出陣した後、明治2年(1869年)の箱館戦争に参加し初陣を飾る。同年5月18日に品川に凱旋し、8月には兵部省御雇として仕官し、陸軍に入隊することになる。
明治7年(1874年)の佐賀の乱には大尉として従軍し、戦傷を受けている。
熊本鎮台准参謀時の明治9年(1876年)には神風連の乱を鎮圧するという武功を立てた。
同鎮台参謀副長(少佐)時の明治10年(1877年)には西南戦争の熊本城籠城戦に参加し、西郷隆盛らの薩摩藩を中心とした不平士族を鎮圧している。
鎮台司令長官の谷干城少将をよく補佐し、薩摩軍の激しい攻撃から熊本城を護りきるったのである。
この経験で衛生問題や兵站問題に苦しんだことが後に日清戦争でに生かされることになった。
1885年(明治18年)9月30日から陸軍大学校の幹事を務め、1887年10月25日から1889年11月まで陸軍大学校の初代校長を務めた。
さて、児玉源太郎を始めとした桂太郎、川上操六らの「臨時陸軍制度審査委員会」が、ドイツからクレメンス・ヴィルヘルム・ヤーコプ・メッケルを陸軍大学校教官として招聘した。 1885年3月から1888年3月までの3年間、メッケルは陸軍大学校で講義を行い、陸軍大学校長であった児玉源太郎を始め様々な階級の軍人が熱心に彼の講義を聴講したのである。
台湾総督時代(1898年~1906年)には、日清戦争終了後の防疫事務で才能を見いだした後藤新平を台湾総督府民政局長(後に民政長官に改称)に任命し、全面的な信頼をよせて統治を委任したなだ。
後藤新平は台湾人を統治に服せしめるため植民地統治への抵抗は徹底して鎮圧しつつ、統治に従ったものには穏健な処遇を与えるという政策をとり、統治への抵抗運動をほぼ完全に抑えることに成功した。2人の統治により日本は台湾を完全に掌握することに成功したといえる。
明治36年(1903年)1月、故郷の生家跡地に私立図書館の児玉文庫を設立している。
この図書館は阿武郡立萩図書館つまり現在の萩市立図書館に次いで山口県で2番目の近代的図書館とされた。
児玉文庫は昭和20年(1945年)の徳山大空襲で焼失し、昭和23年(1948年)10月には公立図書館の徳山市立徳山図書館、現在の周南市立中央図書館が開館した。
平成31年(2019年)3月1日には周南市立中央図書館に「児玉文庫メモリアル」という愛称が付けられたのである。
日露戦争開戦前には台湾総督のまま内務大臣を務めていたが、明治36年(1903年)に対露戦計画を立案していた陸軍参謀本部次長の田村怡与造が急死したため、参謀総長の大山巌から特に請われ、内務大臣を辞して参謀本部次長に就任する。なお、関係者が降格人事とならないように児玉源太郎を台湾総督に留任させていた。
日露戦争のために新たに編成された満洲軍総参謀長をも引き続いて務めた。
満洲軍総参謀長として満洲に渡って以降は遼陽会戦、沙河会戦、黒溝台会戦、奉天会戦などで総司令の大山巌元帥を補佐した。
また12月初旬には旅順攻略戦中の第三軍を訪れている。
奉天会戦勝利後の明治38年(1905年)3月、児玉は、明治天皇へ奉天会戦の戦況報告を上奏することを名目に東京へ戻り、政府首脳の意見を早期戦争終結の方向にまとめる活動に着手した。この時、外交の進行手段をめぐって、政府(首相と外相)と元老との間で意見が分かれたが、児玉源太郎の調整と周旋でアメリカを仲介役として早期講和をはかることで意見がまとまったのである。
さらに、児玉源太郎は軍事作戦を手段として講和を促進するために、樺太や満洲で攻勢作戦をとることを主張し国家方針として認めさせるなどしている。
早期講和を目指す児玉源太郎の軍事戦略は、満洲での敵野戦軍撃破や韓国北部からロシア軍を撃退するのみならず、樺太、ウラジオストク方面へ攻勢をかけることにより、ロシアに痛撃を与えること出来た。
ロシアを講和のテーブルにつかせるというもので、近年では「政治攻勢の一端としての軍事攻勢」として高く評価されている。
ただし、児玉源太郎もハルビンやウラジオストク攻略は、①鉄道や道路といった兵站路線整備の困難、②初級将校の不足、③ハルビン攻略には三十七個師団が必要だがこのためには二十四個師団を増設する必要があり国家財政上難しい、ことを理由に事実上不可能と考えており、満洲奥地へ引きずり込まれることを警戒していたのだ。
日露戦争後、児玉源太郎は参謀総長に就任する。また南満洲鉄道創立委員長も兼務するが、委員長就任10日後の明治39年(1906年)7月23日、就寝中に脳溢血で急逝した。享年55。戒名は大観院殿藤園玄機大居士。当初は青山霊園に葬られていたが、昭和初期の区画整理により東京都府中市の多磨霊園に改葬された。また神奈川県藤沢市江の島および山口県周南市にある児玉神社に祭神として祀られている。
お分かりのように日露戦争で活躍し、日本国家に貢献した人物は、神社の祭神として祀られているのだ。
あの平安時代の菅原道真も天満大自在天神として没後の菅原道真を神格化し、神格化された道真を祀る太宰府天満宮や京都の北野天満宮に神として祀られている。天神信仰、天満宮の主神。祟り神で神仏習合した神。主に学問の神、雷神、仏法神、萬法神、天魔神として信仰されているのだ。
児玉源太郎は陸軍大将であり、日露戦争の英雄である。 日本史上、最高の軍師と称えられている。 身長は1メートル55センチにすぎない小男だったが、人間の器の大きさはずば抜けていた。 頭脳、見識、判断力、責任感、いずれも並はずれたものを持ち、それに人徳を備えていた
【第七巻ノ2】
《白襷隊の攻撃失敗と二〇三高地の死闘》
皆さんは日露戦争に於ける白襷隊を知っているだろうか?
これが白襷隊だ。
皆、死ぬ覚悟である。
この白襷隊は二〇三高地で死闘を繰り広げた結果、攻撃に失敗した。
二〇三高地への第三回攻撃の途中、主攻を二〇三高地に転換した為に攻撃を失敗したのだ。
明治37年11月末、乃木希典大将は第3回目の総攻撃を部下たちに命令し実施した。やはり正面攻撃は成功しなかった。
すると、乃木大将は、ただちに目標を二〇三高地に転換し二〇三高地の攻略を命令したのだ。
乃木大将には多くの期待が寄せられていた。
「必ず二〇三高地を攻略せよ!」
との強い熱望であった。
第三軍は第二回、総攻撃に於いて新たに投入した要塞砲は二十八センチ榴弾砲であった。これはかなりの巨砲であり、これを持って攻撃をしたが、ロシアの旅順要塞は破壊することができなかったのだ。
乃木希典大将は「これ以上はどうすべきであろうか?」
と、考えた。
それに対する明確な答えを見出せないまま、乃木希典大将率いる第三軍は次の総攻撃の準備を急いだのだ。
その間、海軍側は二〇三高地占領を急いで旅順艦隊を攻撃させるべきだと大本営に何度も何度も、要請をし続けたのである。
こうして海軍の意向を受けた山県有朋参謀総長は、大山巌満州軍総司令官に対して
「バルチック艦隊が来航する前に是が非でも旅順艦隊を撃滅しなければならない。そのためには二〇三高地を占領する必要があると思うがどうか?ご意見ご返電を請う」
と、電報をしたのだ。
明治37年11月9日のことである。
命令ではなく、あくまでも「意見を請う」となっているのは、山県有朋は、参謀総長と言うポストであっても、事実上の参謀総長は大山巌だったからである。
満州軍総司令部は、参謀本部がそっくり移動して組織されていた。
この時、明治天皇の側に参謀総長と言う最高幕僚がついていなければ、何かと都合が悪かろうとして、山県が形式上の参謀総長のポストに就いていた。
満州軍総司令部の児玉源太郎総参謀長も以前として、参謀本部次長の肩書きを外していなかった。
そういう次第だったからこそ、山県参謀総長といえども、大山巌総司令官に命令は出せなかったのである。この山県有朋のに対する大山の返電は「従来通り要塞正面を攻撃して旅順を陥落させる作戦の方が良い。と言うものだった。
大山巌の返電には、なお二十八榴に対する期待が述べられていた。明治37年11月19日の事である。
さて、この白襷隊である。
日露戦争の旅順攻略戦に於ける第3回総攻撃に於いて編成し投入された特別予備隊である。「白襷隊」とは、夜襲の際、味方を識別するために将士ともに白襷を掛けていたことに由来する名称であり、日露戦争後になってこう呼ばれるようになった。従って正式な部隊名ではない。
まず、読者の皆さんには、このことを知っておいて欲しい。
1904年(明治37年)11月23日、ロシア帝国陸軍の旅順要塞を攻囲していた大日本帝国陸軍第3軍は、第3回総攻撃の命令を下達した。この際に、後に「白襷隊」と呼ばれることになる、第3軍司令官直轄の特別予備隊(決死隊)が編成されたのだ。
特別予備隊は、中村覚少将(第1師団 歩兵第2旅団長)の強硬な意見具申を容れて編成されたものであり、第3軍の参謀の多くは反対していたが、乃木希典大将(第3軍司令官)の決断で編成が決まったのである。
発案者である中村少将自身が、特別予備隊の総指揮官となったのだ。
特別予備隊の編成は次の通りであった。
特別予備隊司令部(総指揮官:中村覚少将〈第1師団 歩兵第2旅団長〉。8名)
第1師団 混成連隊(指揮官:大久保直道歩兵中佐。832名)
第7師団 歩兵第25連隊(ただし第3大隊欠。指揮官:渡辺水哉歩兵大佐〈歩兵第25連隊長〉。1,565名)
第9師団 歩兵第35連隊 第2大隊(指揮官:田中武雄歩兵大尉。345名)
第11師団 歩兵第12連隊 第1大隊(指揮官:児玉象一郎歩兵少佐。332名)
第9師団 第9工兵大隊より1個小隊(31名)計 3,113名。
他に、蟻川五郎作歩兵少佐(特別予備隊参謀)、第7師団衛生隊。
第3回総攻撃は明治37年11月26日8時の砲兵部隊による準備射撃をもって開始され、同日13時に歩兵部隊の突撃が始まったのである。
同日17時、第3軍は特別予備隊に戦闘加入を命じた。
11月26日18時に前進を開始した特別予備隊は、水師営から松樹山北西麓に進み、26日21時頃に敵堡塁間近の第一線散兵濠に突入したが、地雷の爆発により潰乱し、味方識別のために掛けていた白襷がロシア軍の探照灯照射によって反射し目立ったため大損害を受けた。将校の多くが死傷し、総指揮官の中村少将も重傷を負ったのであった。状況を知った第3軍は、27日2時30分に退却命令を発し、死傷者を収容した。
特別予備隊は、夜明けまでの間に後退を終えたのである。
特別予備隊の損害は以下の通りであった。微傷在隊者〈将校4名、下士兵卒119名、計123名〉は含まず)。
戦死者:将校19名、下士兵卒53名、計72名。
戦傷者:将校43名、下士兵卒763名、計806名。
行方不明者:将校10名、下士兵卒498名、計508名。
戦死者・戦傷者・行方不明者の合計:将校72名、下士兵卒1,314名、計1,386名(総員3,113名の45%)。
このように白襷隊の敗北の報を受けた第3軍司令官の乃木希典大将は従来の方針を転換し、203高地の攻略を命じたのであった。
当時、桑原嶽(陸士52期、陸軍少佐〈帝国陸軍〉、陸将補〈陸上自衛隊〉)は
「約10年後の第一次世界大戦において、エーリヒ・ルーデンドルフが、旅順要塞と同じく「攻略不能」と評されていたリエージュ要塞を攻略するために採用した戦術(歩兵6個旅団による永久要塞への夜襲。旅団長と連隊長が次々に戦死する激戦であったが、作戦目標を達成した)は、白襷隊の戦術を拡大したものである。」
という趣旨を述べている。
いずれにしても、この白襷隊の攻撃の失敗は、後の日本軍にとって、多大な犠牲を払った上での教訓となったのである。
このような悲劇を人間はなぜ繰り返すのであろうか?
私はこの『日露戦争の真実』と言う小説を執筆しながら涙を流すのであった。
【第七巻ノ3】
《旅順総攻撃開始!第三軍司令官乃木希典》
明治37年(1904年 5月2日 留守近衛師団長•乃木希典中将が新設されたばかりの第三軍司令官に任命された。
留守近衛師団長とは、その師団が出征した為もともとの師団司令部を指揮する長の意味である。この時近衛師団第一軍に編入されて出征しており、鴨緑河渡河などを経て、満州の野に連戦中であった。そんな中、乃木希典師団長はその師団で出た死傷者の補充兵員を送り出したり、新たに入営した新兵を訓練したりする責任を負っていた。
その乃木希典中将が、第三軍の司令官となったのである。
しかしながら、第三軍そのものは、すぐにには編制されなかった。
実際に編制が完了したのは、一ヵ月近くも後の五月三十一日だった。
《第三軍、旅順要塞の正面攻撃へ向け準備》
当時、旅順要塞には万を超すロシア軍が要塞を守っていた。
ロシア軍の守備兵力 一万五千人
大砲 二百門
であると日本陸軍の当初の見積もりであった。
しかし、実際には
ロシア軍の守備兵力 四万ニ千人
大砲 六百四十六門あった。
日本海軍がたとえ旅順艦隊を撃滅したとしても、旅順の占領には相当な陸軍部隊が必要となる。
当時、日露戦争開戦前の陸海軍作戦協議会では、旅順要塞の陸上からの攻略については、論議されず、予定もされていなかった。
海軍側は三段構えの旅順艦隊対策を考慮し、秘密保持を重視して、陸軍側の旅順問題への容喙を避け、陸軍側では万一に備えた要塞攻撃腹案を持ちながらも、むしろ北進軍(注釈1)への兵力の集中を望みつつ開戦を迎えたのである。
(注釈1)
北進軍は遼陽を目指す部隊である。
ところが五月に入って風向きが変わった。
旅順口閉塞作戦が失敗し、三回目の失敗でこの作戦は打ち切りになったのである。
この旅順要塞総攻撃は大砲撃戦で始まった総攻撃であった。
総司令部の意向を受けて、第三軍の総攻撃は十日程早まり、八月十八日開始と予定された。
ところが、十三日から雨が降り続きで弾薬の輸送が予定通りにはかどらなかった。
道路がぬかるんでしまっていたからだ。
乃木希典軍司令官は予定を順延し、十九日開始とした。要塞を攻撃する為の弾薬がそろわないと、いくら装攻と 力んでも無駄である。
《総攻撃開始》
八月十九日午前六時、攻城特殊部隊による砲撃が開始された。
この部隊は重砲隊と海軍重砲隊を合わせた特殊部隊であった。旅団長は大迫尚道少将である。
ロシアの要塞軍からも応戦が始まった。
しばらくは日本軍とロシア軍の砲撃戦が続いた。
《陸軍大将 児玉源太郎》
皆さんは児玉 源太郎という人物をご存知だろうか?
日露戦争を勝利に導いた人物である。
彼は1852年4月14日に誕生し、1906年〈明治39年〉7月23日)に死んでいる。
享年54歳である。
彼は明治時代の日本の陸軍軍人であり政治家でもあった。
児玉源太郎は日露戦争において満洲軍総参謀長を務め、勝利に貢献した。
階級は陸軍大将、栄典は正二位勲一等功一級子爵。
嘉永5年(1852年)閏2月25日、周防国都濃郡徳山の本丁で長州藩の支藩・徳山藩の上士(馬廻役、100石)。
児玉半九郎忠硯の長男として生まれる。当時、児玉家には長女の久子と次女の信子がいるのみで、児玉源太郎が初めての男子であったため、彼の誕生に家族一同は大いに喜んだ。児玉が生まれた時に父親の半九郎は向かいの家に住む友人で漢学者の島田蕃根の家に赴き、四、五人で詩文に興じていたが、家人が慌ただしくやって来て男子誕生を告げたため、半九郎は歓喜して直ちに島田家から帰宅し、祝杯を挙げたという。
幼名は百合若と名付けられ、長じて健、源太郎と改められた。
嘉永6年(1853年)6月の黒船来航により、徳山藩でも開国か、攘夷か、で政論が盛んに行われるようになると、父・半九郎は早くから尊王攘夷を唱えていたが、それが藩内の対立派閥に疎まれて蟄居閉門を命じられ、安政3年(1856年)10月19日に憂悶の内に死去した。
この時の児玉はまだ5歳であった。
幼かったため、浅見栄三郎の次男で半九郎の養子となっていた児玉次郎彦が児玉源太郎の姉である久子と婚姻し、婿養子として児玉家の家督を相続した。
児玉は義兄の次郎彦に養育されることとなり、万延元年(1860年)に藩校の興譲館に入学し、文学を桜井魁園と本城清に、撃剣を神道無念流の小田劫右衛門と一刀流の浅見栄三郎に、槍術を大島流の浅見安之丞に学び、武術の達人となったのである。
その他に父の友人の漢学者で教学院主を務めた島田蕃根にも師事している。
元治元年(1864年)8月12日、義兄である次郎彦が対幕恭順派によって暗殺され、児玉家は一人半扶持に格下げされたのであった。
更に同年12月には横本町の邸宅も没収され、家名断絶となったてしまったのである。
児玉家には13歳の児玉、母・元子、姉の久子と信子、次郎彦と久子の間の子で文太郎が残され、生活は困窮したのである。
しかし、児玉の母は家名を辱めないように努めつつ、児玉らの教育を怠らず、事あるごとに『曽我物語』を読み聞かせたという。
この『曽我物語』は、曽我十郎祐成と曽我五郎時致の兄弟が、父の仇である工藤祐経を討ち果たすまでの18年間の苦難を描いた軍記物語であった。
この仇討ちは、建久4年(1193年)に源頼朝が富士の裾野で行った巻狩りの最中に起こったのだ。この物語は史実である。
この物語の背景であるが、先ず仇討ちの原因である。物事の背景には必ず原因があり、結果がある。
さて、物語の発端は、伊豆の豪族である伊東一族内の領地争いから始まった。
工藤祐経は、叔父の伊東祐親に相続するはずの領地を騙し取られ、裁判にも敗訴しとしまう。
この恨みから、工藤祐経は伊東祐親の暗殺を企て、その嫡男である河津祐泰(曽我兄弟の父)を殺害したのだ。
この兄弟の生い立ちであるが、父を殺された曽我兄弟は、母が曽我祐信と再婚したため「曽我」を名乗ることになる。
兄弟は貧しい生活の中で、父の仇を討つことを誓い、18年間苦難に耐えながら成長したのだ。
ついに仇討ちの実行をする時が来た。
富士の巻狩りである。
建久4年(1193年)5月、源頼朝が富士の裾野で大規模な巻狩りを催し、工藤祐経もこれに参加したのだ。
兄弟はこの機会を狙い、仇討ちを決行したのである。
「おのれ!にっくき工藤め!待ってたぞ!
父の仇!死ねぇ!あぁー、やぁー」
してやったり。
工藤 祐経を討ち取ったり!」
工藤 祐経は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武士であり御家人であった。
5月28日の夜、曽我兄弟は工藤祐経を討ち果たした。
しかし、兄の十郎はその場で討ち取られ、弟の五郎は捕らえられ、後に処刑されてしまう。
この曽我物語は日本に於ける三大仇討ちと言われた。
曽我兄弟の仇討ちは、「赤穂義士伝」「伊賀の水月」とともに「日本三大仇討ち」の一つとされている。
また、日本芸能へも影響を与えている。
『曽我物語』は、能や人形浄瑠璃、歌舞伎など多くの芸能の題材となった。
特に歌舞伎では、毎年正月に「曽我狂言」として上演され、「曽我物」というジャンルを確立している。
さて、この小説の登場人物である児玉源太郎である。
やがて藩論が倒幕派に傾き、家名断絶の翌年の慶応元年(1865年)に藩主である毛利元蕃から家名再興を許され、児玉は中小姓として25石の禄を与えられた。
また、さらにその3ヶ月後には元々の馬廻役、禄100石へ戻されている。
明治元年(1868年)に徳山藩の献功隊に入隊した。
同年10月に半隊司令(小隊長)として秋田に出陣した後、明治2年(1869年)の箱館戦争に参加し初陣を飾る。同年5月18日に品川に凱旋し、8月には兵部省御雇として仕官し、陸軍に入隊することになる。
明治7年(1874年)の佐賀の乱には大尉として従軍し、戦傷を受けている。
熊本鎮台准参謀時の明治9年(1876年)には神風連の乱を鎮圧するという武功を立てた。
同鎮台参謀副長(少佐)時の明治10年(1877年)には西南戦争の熊本城籠城戦に参加し、西郷隆盛らの薩摩藩を中心とした不平士族を鎮圧している。
鎮台司令長官の谷干城少将をよく補佐し、薩摩軍の激しい攻撃から熊本城を護りきるったのである。
この経験で衛生問題や兵站問題に苦しんだことが後に日清戦争でに生かされることになった。
1885年(明治18年)9月30日から陸軍大学校の幹事を務め、1887年10月25日から1889年11月まで陸軍大学校の初代校長を務めた。
さて、児玉源太郎を始めとした桂太郎、川上操六らの「臨時陸軍制度審査委員会」が、ドイツからクレメンス・ヴィルヘルム・ヤーコプ・メッケルを陸軍大学校教官として招聘した。 1885年3月から1888年3月までの3年間、メッケルは陸軍大学校で講義を行い、陸軍大学校長であった児玉源太郎を始め様々な階級の軍人が熱心に彼の講義を聴講したのである。
台湾総督時代(1898年~1906年)には、日清戦争終了後の防疫事務で才能を見いだした後藤新平を台湾総督府民政局長(後に民政長官に改称)に任命し、全面的な信頼をよせて統治を委任したなだ。
後藤新平は台湾人を統治に服せしめるため植民地統治への抵抗は徹底して鎮圧しつつ、統治に従ったものには穏健な処遇を与えるという政策をとり、統治への抵抗運動をほぼ完全に抑えることに成功した。2人の統治により日本は台湾を完全に掌握することに成功したといえる。
明治36年(1903年)1月、故郷の生家跡地に私立図書館の児玉文庫を設立している。
この図書館は阿武郡立萩図書館つまり現在の萩市立図書館に次いで山口県で2番目の近代的図書館とされた。
児玉文庫は昭和20年(1945年)の徳山大空襲で焼失し、昭和23年(1948年)10月には公立図書館の徳山市立徳山図書館、現在の周南市立中央図書館が開館した。
平成31年(2019年)3月1日には周南市立中央図書館に「児玉文庫メモリアル」という愛称が付けられたのである。
日露戦争開戦前には台湾総督のまま内務大臣を務めていたが、明治36年(1903年)に対露戦計画を立案していた陸軍参謀本部次長の田村怡与造が急死したため、参謀総長の大山巌から特に請われ、内務大臣を辞して参謀本部次長に就任する。なお、関係者が降格人事とならないように児玉源太郎を台湾総督に留任させていた。
日露戦争のために新たに編成された満洲軍総参謀長をも引き続いて務めた。
満洲軍総参謀長として満洲に渡って以降は遼陽会戦、沙河会戦、黒溝台会戦、奉天会戦などで総司令の大山巌元帥を補佐した。
また12月初旬には旅順攻略戦中の第三軍を訪れている。
奉天会戦勝利後の明治38年(1905年)3月、児玉は、明治天皇へ奉天会戦の戦況報告を上奏することを名目に東京へ戻り、政府首脳の意見を早期戦争終結の方向にまとめる活動に着手した。この時、外交の進行手段をめぐって、政府(首相と外相)と元老との間で意見が分かれたが、児玉源太郎の調整と周旋でアメリカを仲介役として早期講和をはかることで意見がまとまったのである。
さらに、児玉源太郎は軍事作戦を手段として講和を促進するために、樺太や満洲で攻勢作戦をとることを主張し国家方針として認めさせるなどしている。
早期講和を目指す児玉源太郎の軍事戦略は、満洲での敵野戦軍撃破や韓国北部からロシア軍を撃退するのみならず、樺太、ウラジオストク方面へ攻勢をかけることにより、ロシアに痛撃を与えること出来た。
ロシアを講和のテーブルにつかせるというもので、近年では「政治攻勢の一端としての軍事攻勢」として高く評価されている。
ただし、児玉源太郎もハルビンやウラジオストク攻略は、①鉄道や道路といった兵站路線整備の困難、②初級将校の不足、③ハルビン攻略には三十七個師団が必要だがこのためには二十四個師団を増設する必要があり国家財政上難しい、ことを理由に事実上不可能と考えており、満洲奥地へ引きずり込まれることを警戒していたのだ。
日露戦争後、児玉源太郎は参謀総長に就任する。また南満洲鉄道創立委員長も兼務するが、委員長就任10日後の明治39年(1906年)7月23日、就寝中に脳溢血で急逝した。享年55。戒名は大観院殿藤園玄機大居士。当初は青山霊園に葬られていたが、昭和初期の区画整理により東京都府中市の多磨霊園に改葬された。また神奈川県藤沢市江の島および山口県周南市にある児玉神社に祭神として祀られている。
お分かりのように日露戦争で活躍し、日本国家に貢献した人物は、神社の祭神として祀られているのだ。
あの平安時代の菅原道真も天満大自在天神として没後の菅原道真を神格化し、神格化された道真を祀る太宰府天満宮や京都の北野天満宮に神として祀られている。天神信仰、天満宮の主神。祟り神で神仏習合した神。主に学問の神、雷神、仏法神、萬法神、天魔神として信仰されているのだ。
児玉源太郎は陸軍大将であり、日露戦争の英雄である。 日本史上、最高の軍師と称えられている。 身長は1メートル55センチにすぎない小男だったが、人間の器の大きさはずば抜けていた。 頭脳、見識、判断力、責任感、いずれも並はずれたものを持ち、それに人徳を備えていた
【第七巻ノ2】
《白襷隊の攻撃失敗と二〇三高地の死闘》
皆さんは日露戦争に於ける白襷隊を知っているだろうか?
これが白襷隊だ。
皆、死ぬ覚悟である。
この白襷隊は二〇三高地で死闘を繰り広げた結果、攻撃に失敗した。
二〇三高地への第三回攻撃の途中、主攻を二〇三高地に転換した為に攻撃を失敗したのだ。
明治37年11月末、乃木希典大将は第3回目の総攻撃を部下たちに命令し実施した。やはり正面攻撃は成功しなかった。
すると、乃木大将は、ただちに目標を二〇三高地に転換し二〇三高地の攻略を命令したのだ。
乃木大将には多くの期待が寄せられていた。
「必ず二〇三高地を攻略せよ!」
との強い熱望であった。
第三軍は第二回、総攻撃に於いて新たに投入した要塞砲は二十八センチ榴弾砲であった。これはかなりの巨砲であり、これを持って攻撃をしたが、ロシアの旅順要塞は破壊することができなかったのだ。
乃木希典大将は「これ以上はどうすべきであろうか?」
と、考えた。
それに対する明確な答えを見出せないまま、乃木希典大将率いる第三軍は次の総攻撃の準備を急いだのだ。
その間、海軍側は二〇三高地占領を急いで旅順艦隊を攻撃させるべきだと大本営に何度も何度も、要請をし続けたのである。
こうして海軍の意向を受けた山県有朋参謀総長は、大山巌満州軍総司令官に対して
「バルチック艦隊が来航する前に是が非でも旅順艦隊を撃滅しなければならない。そのためには二〇三高地を占領する必要があると思うがどうか?ご意見ご返電を請う」
と、電報をしたのだ。
明治37年11月9日のことである。
命令ではなく、あくまでも「意見を請う」となっているのは、山県有朋は、参謀総長と言うポストであっても、事実上の参謀総長は大山巌だったからである。
満州軍総司令部は、参謀本部がそっくり移動して組織されていた。
この時、明治天皇の側に参謀総長と言う最高幕僚がついていなければ、何かと都合が悪かろうとして、山県が形式上の参謀総長のポストに就いていた。
満州軍総司令部の児玉源太郎総参謀長も以前として、参謀本部次長の肩書きを外していなかった。
そういう次第だったからこそ、山県参謀総長といえども、大山巌総司令官に命令は出せなかったのである。この山県有朋のに対する大山の返電は「従来通り要塞正面を攻撃して旅順を陥落させる作戦の方が良い。と言うものだった。
大山巌の返電には、なお二十八榴に対する期待が述べられていた。明治37年11月19日の事である。
さて、この白襷隊である。
日露戦争の旅順攻略戦に於ける第3回総攻撃に於いて編成し投入された特別予備隊である。「白襷隊」とは、夜襲の際、味方を識別するために将士ともに白襷を掛けていたことに由来する名称であり、日露戦争後になってこう呼ばれるようになった。従って正式な部隊名ではない。
まず、読者の皆さんには、このことを知っておいて欲しい。
1904年(明治37年)11月23日、ロシア帝国陸軍の旅順要塞を攻囲していた大日本帝国陸軍第3軍は、第3回総攻撃の命令を下達した。この際に、後に「白襷隊」と呼ばれることになる、第3軍司令官直轄の特別予備隊(決死隊)が編成されたのだ。
特別予備隊は、中村覚少将(第1師団 歩兵第2旅団長)の強硬な意見具申を容れて編成されたものであり、第3軍の参謀の多くは反対していたが、乃木希典大将(第3軍司令官)の決断で編成が決まったのである。
発案者である中村少将自身が、特別予備隊の総指揮官となったのだ。
特別予備隊の編成は次の通りであった。
特別予備隊司令部(総指揮官:中村覚少将〈第1師団 歩兵第2旅団長〉。8名)
第1師団 混成連隊(指揮官:大久保直道歩兵中佐。832名)
第7師団 歩兵第25連隊(ただし第3大隊欠。指揮官:渡辺水哉歩兵大佐〈歩兵第25連隊長〉。1,565名)
第9師団 歩兵第35連隊 第2大隊(指揮官:田中武雄歩兵大尉。345名)
第11師団 歩兵第12連隊 第1大隊(指揮官:児玉象一郎歩兵少佐。332名)
第9師団 第9工兵大隊より1個小隊(31名)計 3,113名。
他に、蟻川五郎作歩兵少佐(特別予備隊参謀)、第7師団衛生隊。
第3回総攻撃は明治37年11月26日8時の砲兵部隊による準備射撃をもって開始され、同日13時に歩兵部隊の突撃が始まったのである。
同日17時、第3軍は特別予備隊に戦闘加入を命じた。
11月26日18時に前進を開始した特別予備隊は、水師営から松樹山北西麓に進み、26日21時頃に敵堡塁間近の第一線散兵濠に突入したが、地雷の爆発により潰乱し、味方識別のために掛けていた白襷がロシア軍の探照灯照射によって反射し目立ったため大損害を受けた。将校の多くが死傷し、総指揮官の中村少将も重傷を負ったのであった。状況を知った第3軍は、27日2時30分に退却命令を発し、死傷者を収容した。
特別予備隊は、夜明けまでの間に後退を終えたのである。
特別予備隊の損害は以下の通りであった。微傷在隊者〈将校4名、下士兵卒119名、計123名〉は含まず)。
戦死者:将校19名、下士兵卒53名、計72名。
戦傷者:将校43名、下士兵卒763名、計806名。
行方不明者:将校10名、下士兵卒498名、計508名。
戦死者・戦傷者・行方不明者の合計:将校72名、下士兵卒1,314名、計1,386名(総員3,113名の45%)。
このように白襷隊の敗北の報を受けた第3軍司令官の乃木希典大将は従来の方針を転換し、203高地の攻略を命じたのであった。
当時、桑原嶽(陸士52期、陸軍少佐〈帝国陸軍〉、陸将補〈陸上自衛隊〉)は
「約10年後の第一次世界大戦において、エーリヒ・ルーデンドルフが、旅順要塞と同じく「攻略不能」と評されていたリエージュ要塞を攻略するために採用した戦術(歩兵6個旅団による永久要塞への夜襲。旅団長と連隊長が次々に戦死する激戦であったが、作戦目標を達成した)は、白襷隊の戦術を拡大したものである。」
という趣旨を述べている。
いずれにしても、この白襷隊の攻撃の失敗は、後の日本軍にとって、多大な犠牲を払った上での教訓となったのである。
このような悲劇を人間はなぜ繰り返すのであろうか?
私はこの『日露戦争の真実』と言う小説を執筆しながら涙を流すのであった。
【第七巻ノ3】
《旅順総攻撃開始!第三軍司令官乃木希典》
明治37年(1904年 5月2日 留守近衛師団長•乃木希典中将が新設されたばかりの第三軍司令官に任命された。
留守近衛師団長とは、その師団が出征した為もともとの師団司令部を指揮する長の意味である。この時近衛師団第一軍に編入されて出征しており、鴨緑河渡河などを経て、満州の野に連戦中であった。そんな中、乃木希典師団長はその師団で出た死傷者の補充兵員を送り出したり、新たに入営した新兵を訓練したりする責任を負っていた。
その乃木希典中将が、第三軍の司令官となったのである。
しかしながら、第三軍そのものは、すぐにには編制されなかった。
実際に編制が完了したのは、一ヵ月近くも後の五月三十一日だった。
《第三軍、旅順要塞の正面攻撃へ向け準備》
当時、旅順要塞には万を超すロシア軍が要塞を守っていた。
ロシア軍の守備兵力 一万五千人
大砲 二百門
であると日本陸軍の当初の見積もりであった。
しかし、実際には
ロシア軍の守備兵力 四万ニ千人
大砲 六百四十六門あった。
日本海軍がたとえ旅順艦隊を撃滅したとしても、旅順の占領には相当な陸軍部隊が必要となる。
当時、日露戦争開戦前の陸海軍作戦協議会では、旅順要塞の陸上からの攻略については、論議されず、予定もされていなかった。
海軍側は三段構えの旅順艦隊対策を考慮し、秘密保持を重視して、陸軍側の旅順問題への容喙を避け、陸軍側では万一に備えた要塞攻撃腹案を持ちながらも、むしろ北進軍(注釈1)への兵力の集中を望みつつ開戦を迎えたのである。
(注釈1)
北進軍は遼陽を目指す部隊である。
ところが五月に入って風向きが変わった。
旅順口閉塞作戦が失敗し、三回目の失敗でこの作戦は打ち切りになったのである。
この旅順要塞総攻撃は大砲撃戦で始まった総攻撃であった。
総司令部の意向を受けて、第三軍の総攻撃は十日程早まり、八月十八日開始と予定された。
ところが、十三日から雨が降り続きで弾薬の輸送が予定通りにはかどらなかった。
道路がぬかるんでしまっていたからだ。
乃木希典軍司令官は予定を順延し、十九日開始とした。要塞を攻撃する為の弾薬がそろわないと、いくら装攻と 力んでも無駄である。
《総攻撃開始》
八月十九日午前六時、攻城特殊部隊による砲撃が開始された。
この部隊は重砲隊と海軍重砲隊を合わせた特殊部隊であった。旅団長は大迫尚道少将である。
ロシアの要塞軍からも応戦が始まった。
しばらくは日本軍とロシア軍の砲撃戦が続いた。
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