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第八巻
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【第八巻ノ1】
《諜報活動に長けた明石元二郎陸軍大将》
日露戦争で、諜報活動や諜略に長けていた
明石 元二郎という人物を知っているであろうか?
明石元二郎は福岡の地に生まれた。
1864年9月1日にこの世に誕生した。
1919年〈大正8年〉10月26日に死んだ。
享年55才。
明石元二郎は、明治、大正期の日本の陸軍軍人である。
陸軍大将正三位勲一等功三級男爵。
第7代台湾総督であった。
任期は1918年から1919年迄。
明石元二郎はこの年にこの世を去った。
福岡藩出身である。
明石元二郎は大日本帝国陸軍に所属し、
軍歴は1889年 ~1919年まで、30年間。
最終階級は陸軍大将である。
明石元二郎の生い立ちについて、お話ししよう。
福岡藩士である明石助九郎貞儀の二男として元治元年(1864年)に福岡藩福岡城下の大名町に生まれた。
「オギャー、オギャー!」
「元気な男の子です」
「でかした!でかした!」
父親の助九郎貞儀は大層喜んだという。
明石家の家格は「大組」であり、1300石の大身であった。家柄は家老職並の重鎮である。
1877年(明治10年)6月に陸軍士官学校幼年生徒となる。
1883年(明治16年)12月25日、陸軍士官学校を卒業し(旧陸士6期)、同日、歩兵少尉に任じられる。
更に1889年(明治22年)に陸軍大学校(5期)を卒業すると参謀本部に奉職、海軍大学校教官を兼務する。
ドイツへ留学し仏印出張、米西戦争(1898年4月21日~8月13日)のマニラ観戦武官を経て、1901年(明治34年)にフランス公使館付陸軍武官となる。
1902年(明治35年)にロシア帝国公使館付陸軍武官に転任する。
のちに首相となる田中義一陸軍武官から業務を引き継いだ。
当時からロシア国内の情報を収集し、ロシアの反政府分子との接触を試みる工作活動が行われていた。
首都ペテルブルクのロシア公使館に着任後、日英同盟に基づいた情報協力により、イギリス秘密情報部のスパイであるシドニー・ライリーと知り合い、友人となった。
明石元二郎の依頼により、ライリーは1903年(明治36年)から建築用木材の取引業者に偽装すると、戦略的要衝である旅順に移住し材木貿易会社を開業、ロシア軍司令部の信頼を得て、ロシア軍の動向に関する情報や、旅順要塞の図面などをイギリスおよび日本にもたらしている。
明石元二郎は日露戦争での諜報活動に従事していたのだ。つまりスパイ活動である。
明治37年(1904年)、日露戦争が開戦すると駐ロシア公使館は中立国スウェーデンのストックホルムに移り、明石(当時の階級は大佐)は以後この地を本拠としてスパイ活動をした。
開戦直前の1月、参謀本部次長児玉源太郎は開戦後もロシア国内の情況を把握するため、明石元二郎に対し「ペテルブルク、モスクワ、オデッサに非ロシア人の外国人を情報提供者として2名ずつ配置」するよう指令電報を発した。
さらに明石元二郎は日露開戦と同時に参謀本部直属のヨーロッパ駐在参謀という臨時職に就き、ストックホルムに移った際にも児玉源太郎から「お前を信じているぞ」という趣旨の激励の電報が届いていた。
明石元二郎はロシア支配下にある国や地域の反ロシア運動を支援し、またロシア国内の反政府勢力と連絡を取ってロシアを内側から揺さぶるため、様々な人物と接触した。
私が図書館にある様々な書籍から次のことが分かった。
フィンランドの反ロシア抵抗運動指導者カストレーン、シリヤクス、スウェーデン陸軍将校アミノフ、ポーランド国民同盟ドモフスキ、バリツキ、社会革命党チャイコフスキー、グルジア党デカノージ、ポーランド社会党左右両派など、ロシア国内の社会主義政党指導者、民族独立運動指導者などである。
特に、当時、革命運動の主導権を握っていたコンニ・シリヤクス率いるフィンランド革命党などを通じ、様々な抵抗運動組織と連絡を取っては資金や銃火器を渡すと、デモやストライキ、鉄道破壊工作などのサボタージュが展開されていった。その内の鉄道破壊工作などは失敗するものの、デモ・ストライキは先鋭化し、ロシア軍はその鎮圧のために一定の兵力を割かねばならず、極東へ派遣しにくい状況が作られたのである。
明石元二郎の工作の目的は、ロシア国内の反乱分子の糾合や、革命政党エスエル(社会革命党)を率いるエヴノ・アゼフなどへの資金援助を通じ、ロシア国内の反戦、反政府運動の火に油を注ぎ、ロシアの対日戦争継続の意図を挫折させようとしたものであり、満州軍においては、欧州の明石工作をロシア将兵に檄文等で知らせて戦意を喪失させようと計ったり、また欧州情勢を受けてロシア軍の後方攪乱活動を盛んに行ったりした(満州義軍)。
また明治37年(1904年)5月、ポーランドの反ロシア民族主義者ロマン・ドモフスキが児玉源太郎と会談した。
満洲軍設置の激務の折に児玉源太郎がわざわざ時間を割いたのは、明石元二郎から情報を得て連携が取れていたためである。
日露戦争全般にわたり、ロシア国内の政情不安を画策してロシアの継戦を困難にし、日本の勝利に貢献しようと意図した明石元二郎の活動は、後に、明石自身が著した『落花流水』などを通じて巷にも日本陸軍最大の謀略戦と称えられるようになった。
参謀次長長岡外史は、「明石元二郎の諜略活躍は陸軍10個師団に相当する」と評し、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世も、「明石元二郎一人で、満州の日本軍20万人に匹敵する戦果を上げている。」と言って称えたと紹介する文献もあるくいだ。
成果の度合いやレーニンとの会談の有無については別にしても、これら明石元二郎の謀略活動の意図に関しては研究者の間でもほぼ見解は一致する。
なお、前述した自著『落花流水』や司馬遼太郎の筆による小説『坂の上の雲』は、以下のような粗筋をベースに描いている。
明治37年(1904年)、明石元二郎はジュネーヴにあったレーニン宅で会談し、レーニンが率いる社会主義運動に日本政府が資金援助することを申し出た。レーニンは、当初これは祖国を裏切る行為であると言って拒否したが、明石元二郎は「タタール人の君がタタールを支配しているロシア人の大首長であるロマノフ王朝を倒すのに日本の力を借りたからといって何が裏切りなのだ」といって説き伏せ、レーニンをロシアに送り込むことに成功した。その他にも内務大臣プレーヴェの暗殺、血の日曜日事件、戦艦ポチョムキンの叛乱等に関与した。これらの明石の工作が、後のロシア革命の成功へと繋がっていく。後にレーニンは次のように語っている。「日本の明石大佐には本当に感謝している。感謝状を出したいほどである。」と。
この件は歴史家から疑念を示されている。例えば稲葉千晴は、明石元二郎が拠点とした北欧の研究者と共同して工作したかどうか検証作業を進め、一方でレーニンと会談した事実も、レーニンが上記のような発言を行った事実も確認されず、現地でもそのような説は流布していないと示された上、他方、ロシア帝国の公安警察であるオフラナが明石の行動をチェックしており、明石元二郎が「血の日曜日事件」や「ポチョムキンの反乱」に直接、関与していた根拠は薄いとしている。
ただし稲葉は他方、日露戦争において欧州での日本の情報活動が組織的になされていたこと、その中で明石の収集した情報が量と質で優れていたことは評価している。
今井はレーニンと会談したという話を、日露戦争後に陸軍で傍流扱いされた明石元二郎の屈折した感情から出た言葉ではないかと推定している。また西原も、著書において「レーニンは明石元二郎の申し出を断った」と記している。
日本国内においては、日露戦争について明石元二郎の活動が評価されているが、対戦国であったロシア側は、明石元二郎の活動がロシアの対日警戒、対日諜報活動を促したとしている。ロシアの月刊誌『ロージナ』は2004年の日露戦争特集号で、日本の参謀本部や外務省は満州において中国人やモンゴル人を使って強力な情報網を構築したが、このことがロシア(ソビエト連邦時代)の対日情報工作の強化に繋がったこと、また日本が備えた防諜体制の甘さをも合わせて指摘している。
日本側もフランス人記者を使ったロシアの諜報工作に晒されていたのである。
日露戦争中、明石は一人で巨額の工作資金を消費した。それは当時の国家予算約2億3000万円の内、100万円程[注 4]であったが、参謀総長山縣有朋、同・最終階級長岡外史次長らの決断により参謀本部から支給され、ロシア革命支援工作などにも利用された。この点について評論家西部邁は以下のように述べている。
「日露戦争のときには、日本にも明石元二郎という立派なスパイがいました。彼が使った工作資金はいまの標準でいうと数百億円ですってね。1兆円という話も聞いたことがある。それで第一次ロシア革命を煽り立てるわけです。これにはさすがのツアーも参ってしまった。」。
日本の日露戦勝(1905年(明治38年)9月)の後においてドイツの皇帝ヴィルヘルム2世は「明石一人で日本軍20万人に匹敵する成果を挙げた」と語っていたと伝わる。
明治43年(1910年)7月、寺内正毅朝鮮統監の下で憲兵司令官と警務総長を兼務し朝鮮併合の過程で武断政治を推し進めた。
1911年、下関市ヘ旅行、翌年8月8日付の指令で東京に出張する。
ソウルに多くの報道関係者が詰めかけると、
明石警務総長が強化した検閲を「恐ろしい体制であるとドイツ新聞アルゲマイネ・ツァイトゥングは1910年、「わずかな違反行為でさえ、国内の新聞の弾圧、外国の新聞の報道記事の押収」に至ると報じられた]報じた。フランクフルター・ツァイトゥングはそれに対する意見をエルヴィン・フォン・ベルツ医師に求めた。ベルツは明治天皇の侍医(1902年-1905年)を務め伊藤博文の主治医であり、ドイツは軍事上、朝鮮と無関係の位置にあるからと前述の論評をいさめた。
大正3年(1914年)4月、参謀次長に着任するが、翌10月、熊本の第6師団長に転じる。問題なく職責を全うしていたにもかかわらず、わずか1年で師団長に転補させられた背景には、陸軍内における「スパイ蔑視」の風潮がある。児玉源太郎や山縣有朋はそのような風潮を深く認識していたが、同時に情報の重要性も理解していたため、明石や福島安正などの情報畑の人材を積極的に引き立てていた。だが依然、明石を警戒する空気は根強く、結果的に更迭された。明石自身、単独行動が多く、派閥行動や組織内遊泳に長ける環境になかったことから、情報将校が出世し辛い、ひいては情報を軽視する風潮につながった可能性が指摘されている。
同7年(1918年)7月に第7代台湾総督に就任、陸軍大将に進級する。総督在任中は社会基盤の整備に腐心した。台湾電力を設立し日月潭水力発電所を含む水力発電事業を推進したほか、高雄港の拡充、鉄道貨物輸送の停滞を消解するため新たに海岸線を敷設した。司法制度の改革にのぞみ、森林令による木材資源の涵養、台湾教育令を改正して日本人と台湾人が均等に教育を受けられるように図り[42]、台湾人にも帝国大学進学への道を開いた[注 5]。設立した華南銀行は、今日でも台湾最大級の金融機関である。
八田與一が嘉南平原の旱魃・洪水対策のために計画した嘉南大圳の建設を承認し、その建設予算を獲得することに尽力して台湾総督府の年間予算の3分の1以上に達する金額を工面した。大正8年(1919年)8月、台湾総督府から分離して独立の軍となった台湾軍の初代司令官を兼務する。 台湾総督の次は総理大臣にと周囲からは期待されていたようだが、現地の事情をつかもうと台湾全土を総督在任1年4か月で視察し終えて、大正8年(1919年)10月、公務のため日本へ一時帰国する洋上で病を得て、郷里の福岡に帰り着いた。石井光次郎は、台湾総督であった明石の秘書官を務めた人物である。亡くなる[1]直前の明石元二郎を見舞った時の様子を次のように記憶していた。
レーニン、トロッキーを使つたその時分の丁度ロシヤの革命の時だつたものだから、僕はあの時行つたら頻りに机の抽出しを引出しながら書類を散らかしてござる。「何ですか」と聞くと「レーニンとかトロッキーとかというのは、あいつ等は皆、俺が使つてやつたんだが妙なことになつたものだと思う。そいつ等が何か書いたものがいろいろあつたと思つて今、暇だから探していたんだ」といわれた。その時「どうですか、この革命は続きますか」ときいたら「やあ、暫くはいいだろうが続かん」というてござつたが、こいつあ見当違いだつた。
満55歳だった。死因は脳溢血説、肝硬変説などがある。生前、大酒飲みだったので肝硬変説は特に有力視されているが、最近では当時、世界的に流行していたインフルエンザの1種スペイン風邪に罹患したのではなかったかと言われている。
「余の死体はこのまま台湾に埋葬せよ。いまだ実行の方針を確立せずして、中途に斃れるは千載の恨事なり。余は死して護国の鬼となり、台民の鎮護たらざるべからず」
遺言によって、遺骸は福岡から台湾に移され、台北市の三板橋墓地(現・林森公園)に葬むられた。歴代19人の総督のうち台湾を永遠の地に選んだ唯一の人物であり、約10万人が棺を見送ったと伝わる。
その後、1999年に現地有志により台北県三芝郷(現・新北市三芝区)の福音山基督教墓地へ改葬されている。台北市で国際文化基金会主催の「明石元二郎総督の業績をたたえるシンポジウム」(2002年)が開催されるなど、台湾の人々の心に生き続けた。
墓前にあった鳥居は林森公園の整備中、二二八和平公園内に仮設され、2010年11月に再び元の地に戻された。
生誕地に近い勝立寺には遺髪と爪を収めた墓がある。
偉業が祖国で忘れられたと惜しむ福岡県郷友連盟ほか有志は、明石元二郎が生まれた福岡に顕彰碑を建立する企画を動かす。碑は福岡の筥崎宮に立ち、除幕式には能楽師の大倉正之助氏が囃子大倉流の大鼓を献納し、石原進は安倍晋三から届いた祝電を読み上げた。
明石元二郎には様々なエピソードがある。
陸軍幼年学校時代の明石元二郎は、稲荷神に供えられた赤飯の盗み食い常習犯であり、また夜中にボートに乗って転覆させたりなど悪戯を繰り返していたが、教師や先輩、友人などから嫌われたり憎まれたりすることはなかった。陸軍士官学校時代も、周りの同僚や先輩などから好かれており、何かにつけ明石のもとに集まったり、噂の対象になっていたという。
製図の授業の際、明石は鼻水を垂らしながらもそれを手で拭い、さらにその手で図面をいじっては真っ黒にしてしまっていた。
服装について無頓着であり、陸軍士官学校時代、制服のズボンが緩く、へそを出しながらズボンの裾を引きずって歩いていた。
陸大時代は下宿に猫を1匹飼っており、軍服に猫の毛を付けたまま講義に出席していたようである。ほとんど歯を磨く習慣がなく、それが晩年まで続いた[87]。ヨーロッパ赴任中、泥靴のまま公使館に入り、そのまま平気な顔をしていた。
協調性に欠けていて風采が上がらず、また運動音痴であったとされており、ロシア公使館付陸軍武官時代(1902年赴任)の上司にあたる駐露公使の栗野慎一郎でさえ、明石の能力を見抜けず開戦の直前に外務省に「優秀な間諜が欲しい」と要請したほどであった。栗野は明石と同じ 修猷館出身である。
明石元二郎は外国語と算術に長けていた。あるパーティでドイツとロシアの士官と同席した折に、ドイツの士官が明石にフランス語で「貴官はドイツ語ができますか」と聞いてきた。明石は「フランス語がやっとです」とわざと下手なフランス語で答えた。すると、そのドイツの士官は明石を無視して、ドイツ語でロシアの士官と重要な機密について話し始めた。しかし明石は実はドイツ語を完璧に理解し、その機密をすべて聞き取ったという。明石元二郎はフランス語、ロシア語、英語も完璧に理解し、流暢に会話することが出来たのだ。
諜報活動に長けていた。
正に『日本版007』である。
ロシアで名乗った偽名を、「アバズレーエフ」という。
製図書きにも優れており、ある外国人のパーティに出席した際、名刺を忘れた八代六郎のためにその場で器用に紙を裂き、まるで印刷してあったかのように文字を入れ、10枚ばかり即席の名刺を作成したというエピソードがある。
整理整頓に無頓着な明石元二郎は台湾総督時、官邸を一切掃除させず、身辺が荒れ放題となっていた。
絵葉書が好きで、玄関・応接間・寝室など家中に絵葉書を貼りつけたため、まるで7、8歳の子供部屋のようになっていたという。
正に『人間!明石元二郎である!』
明石元二郎は何かに熱中すると、ほかのことを完全に忘れてしまう性格でもあったという。
上原勇作の手引きで山縣有朋と対談した時、どんどん話にのめりこんでゆき、しまいには小便を垂れ流していることに気がつかずそのまま熱弁を振るうに至ってしまった。山縣もその熱意にほだされ、小便を気にしながら対談を続けざるを得なかったという。
日露戦争を経て高位高官に昇っても、明石元二郎は薄汚い布団で犬を抱きながら寝ていた。
日清戦争後の参謀本部勤務中に勃発した米西戦争では、観戦武官としてフィリピンに赴いた。この時、アメリカ軍は陸戦ではスペイン軍とは直接交戦せず、フィリピン独立運動の指導者アギナルドの率いる市民軍に武器を融通し資金を援助している。同市民軍が各地の戦いでスペイン軍を撃破し駆逐する様子を観た明石元二郎は、「敵の中の反対勢力を支援する」というヒントを得た。これを活かして明石元二郎の行ったロシア革命工作は、後に陸軍中野学校で諜報活動のモデルケースとして講義されている。
明石元二郎の私生活について、語るとしよう。
任務としてスパイ活動や憲兵政治など社会の暗部で活躍したが、私生活では極めて清廉であった。工作資金の残余27万円を長岡参謀次長に精算した。
長男の明石元長は、根本博と通訳の吉村是二を国共内戦での国民党軍事顧問とすべく、昭和24年(1949年)6月、日本から台湾に密入国させようと尽力した。
しかし、その首尾も帰国(1952年6月)も見届けることなく、元長は根本らの出国からわずか4日後に、激しい過労により42歳で急死する。2009年10月25日、台湾で古寧頭戦役60周年式典が行われ、招待を受けた元長の子孫は日本人軍事顧問団の遺族とともに歓待された。
【第八巻ノ2】
《黒溝台の戦いと秋山好古支隊の死闘》
黒溝台会戦は日露戦争中の1905年1月25日から1月29日までの5日間の戦いであった。
ロシア満洲軍の大攻勢により起きた日本陸軍とロシア陸軍の戦闘である。
ロシア側の奇襲により始まり、兵力で劣勢だった日本軍は緒戦こそ苦戦したものの、結果的には日本の辛勝に終わった。欧米陸軍では、ロシア陸軍の作戦目標が 沈旦堡であったことから沈旦堡付近の戦闘と言われた。
戦闘の行われた地域は黒溝台~沈旦堡~奉天西方迄の一帯であった。この戦いは日本軍の勝利で終わった。
私の調べたところによると交戦勢力や指揮官等は次の通りであった。
まず、大日本帝国の指揮官である。大山巌であった。
対するロシア軍の指揮官はグリッペンベルクである。
大日本帝国の戦力は約53,400人、対するロシア軍は約105,100人であった。
大日本帝国の死傷者9,316名である。
対するロシアの死傷者11,732名であった。
1904年2月10日に始まった日露戦争は、満洲において鴨緑江会戦、金州南山の戦い、遼陽会戦、沙河会戦を経た後に奉天の南側で長く対峙(沙河の対陣)する膠着状態が続いていた。日露両軍ともに補給を待つためと、異常な寒さと砲弾を避けるため、上部に掩体を施した塹壕を掘り、土の中にもぐったような状態で向かい合い膠着状態が続いていた。
当時日本陸軍は旅順攻略までの砲弾の大量消耗により極端な砲弾不足に陥っており、このままではロシア陸軍に打撃を与えるどころか次の会戦も実行できないような状態が続いていた。一方、ロシア陸軍も先の沙河会戦により兵員不足に陥っていた。主要補給手段のシベリア横断鉄道は当時まだ単線で、満洲に到着した貨車をヨーロッパ側に送り戻すためには線路を空ける必要があったがその余裕がなく、満洲についた貨車はそのまま放棄されたのだ。
このような努力にもかかわらずロシア軍の補給は劣悪で、兵員の糧食や被服などの輸送は追いつかない状態であった。この状態でもロシアは日本陸軍より多少兵員が多かったが、慎重なロシア満洲軍総司令官アレクセイ・クロパトキン大将は攻撃を行わなかった。
ロシア首脳部は、退却ばかりを行い一向に日本軍と決戦しようとしないクロパトキンに業を煮やし、満洲陸軍の部隊指揮にクロパトキンに加えてグリッペンベルク大将を送り込んだのである。
グリッペンベルク大将は派遣当初、満洲の陸軍部隊を2つに分け、その片方を率いるよう命じられる筈であった。しかし、クロパトキンが極東陸海軍総督という地位にあり、依然として満洲陸軍の全権を持っていたため、グリッペンベルク大将は3軍に分割した第2軍のみの司令官という立場であった。
しかし、グリッペンベルク大将はミシチェンコ中将が得た日本軍の弱点を知り、自らが指揮する第二満州軍を以て沈旦堡から黒溝台にかけてを強襲し左翼再端の牛居を騎兵部隊で包囲殲滅することで秋山支隊ら日本軍最左翼を片翼包囲し潰走させる計画を立案。当作戦を以て日本軍への大攻勢を企画したのだ。これが世に言う黒溝台会戦である。
グリッペンベルク大将は総勢10万人の大兵力を率いて攻勢を開始したが、満洲軍総司令部はこの時点でもまだ威力偵察程度に考えていた。1月22日鳥邦牛にて、騎兵第2旅団の将校斥候がロシア騎兵に遭遇し、ほぼ全滅に近い状況が起こってもなお威力偵察と考え、一応手当てとして立見尚文中将率いる第8師団を応援に送る程度であった。
第8師団は、師団外の兵力として後備歩兵旅団を付属しており、兵力的には2万人程度のものであるが、威力偵察と看做していた総司令部は、この戦力で対応できると思い込んでいたのだ。
しかしながら、当時乃木希典大将率いる第3軍はまだ旅順からの到着待ちであり、満洲の日本軍全体で戦力が枯渇しており、予備軍がこの第8師団しかないという状況であったため、このほかに出来ることはなかった。立見は1月24日総司令部より準備命令を受け、翌1月25日正午に「黒溝台を救え」という命令を受け取った。
黒溝台を必ず救うように!頼んだぞ。立見!」
このころ、黒溝台にはロシア軍が数多くの兵力を増員していた。秋山支隊の拠点はどこもロシア軍の銃砲火を使った攻撃を受けていた。
秋山少将ははじめロシア軍の重圧が韓山台あたりに大きくかかってきたため、三岳支隊がいる辺りがロシア軍の攻撃目標と見誤り、隣の沈旦堡の豊辺新作大佐に対し、三岳支隊に応援を出すように指令した。このため豊辺大佐は三岳支隊応援のため部隊を編成し、小池順中佐に指揮させ、応援に向かわせることにした。しかし、25日夜ごろから沈旦堡付近の方が戦況として激烈になり、豊辺大佐は後方にいた後備歩兵第31連隊の小原文平中佐に支援を請い、小原中佐は豊辺大佐支援のため2個中隊を派遣した。
このころ第8師団は総司令部の命令で黒溝台会戦を救援すべく戦線の遥か後方より零下30度近い寒気の中を前線へと駆けつけ、26日夜に大台まで駆けつけた。しかし極寒の環境下で第八師団がいた大藍旗から黒溝台まで駆けつけるには時間が掛かる為一旦中間にある物資集積地であった狼洞溝を目標とし、その手前の大新庄子で同じく救援として現地に向かっていた後備歩兵第八旅団と合流する手筈となった。
第8師団の由比光衛参謀長は第八師団及び後備歩兵第八旅団を一度狼洞溝で待機させ、救援すべき猛烈な攻撃を受け続けている黒溝台陣地を一旦放棄し、現地部隊を南東方面へ逃亡させることでロシア第二軍主力を狼洞溝等南東方面に誘引した。
これらが縦列を成して種田支隊らを追撃している隙に第八師団らで露軍縦列の横っ腹を攻撃して包囲し殲滅したのだ。
のち手薄の黒溝台を奪還するという作戦を考案し、秋山支隊の指揮下の部隊であったにも拘らず、総司令部の命令として黒溝台の種田支隊を退却させたのであった。
しかし、ロシア軍は奪った黒溝台陣地を僅か数時間で再構築し、拠点陣地として活用したのだ。そのうえ由比参謀長が企図した南東への誘引策にロシア軍は乗らず現地にとどまった為作戦は破綻した。
黒溝台一帯をむざむざ明け渡した挙句この撤退により孤軍奮闘していた沈旦堡の豊邉支隊はロシア軍の包囲下におかれ窮地に立たされた。
作戦の失敗を受けた第8師団は黒溝台奪還のために展開をはじめたが狼洞溝にて待機していた第八師団が速やかに善戦に展開できるはずもなく、終わる間もなくロシア軍が総力を挙げて襲い掛かってきたのだ。結果、第8師団は秋山支隊を救援するどころか窮地に陥ることになった。
その上二十六日にはミシチェンコ騎兵部隊が最左翼の牛居を攻撃して現地を奪取した。相手は騎馬戦の強者たち。あのコサック騎馬隊である。現地部隊は牛居の東、三尖泡に撤退してしまった。さらにこの事態を受けてようやく満州軍総司令部は露軍の目的が日本軍左翼の片翼包囲にあることを察知したのだ。これにひどく狼狽した参謀らは二転三転する命令を乱発して前線のさらなる混乱を招いてしまったのである。
兵力的にはロシア軍は負けるべくして負けたわけではない。日本軍の参加兵力は約5万3千人、死傷約9千3百余人であり、それに対してロシア軍の参加兵力は約10万人、死傷約1万人である。28日の時点で日本軍側は、たとえば第8師団が死傷5割程度で全滅に等しい状態であったのに対し、ロシア軍はまだ健全な兵力がおおよそ9万人もあり、退却する必要性はなかった。また、兵力で有利なロシア軍が、なぜ退却したのかは不明である。黒溝台会戦において主導的に戦闘を行いつつも、内部での不明瞭な決定によって戦闘を終了してしまったことは、日露戦争におけるロシア軍の体質的な問題の発露でもあるとの考察もある。
日本軍は神のご加護があったのだろうか。
兎に角ついていた。
しかし、有力な考察の一つとして、現地軍と総司令部間の不和に端を発するというものがある。当時クロパトキン将軍は幾度となく総司令部の意に反して独自に行動を起こしているとして、シタケリベルク中将を総司令部命令により指揮権剥奪の上更迭し、軍団長の職を解いていた。
これに対してグリッペンベルク大将は憤怒しクロパトキン将軍を批判した。
しまいには病と称し第二軍の総指揮権を第八軍団長のミロフ中将に委譲した上本国へ帰国の意をみせ、グリッペンベルク中将に忠誠を誓い団結していた将兵は総司令部への不信とグリッペンベルク中将の態度から戦意喪失の状態にあったことがこの撤退の理由ではないかと考えられている。
しかし、ロシア軍の作戦は、自ら日本軍の主力と考えていた乃木率いる第3軍が到着するまでに日本軍に大打撃を与え、あわよくば壊滅させる意図の元に立案されたものと考えられる。そのため日本軍の予想していない厳冬期に日本軍の最も脆弱な戦線に攻勢をかけ突破して他の日本軍陣地の兵站と連絡を絶つとともに後背より奇襲して大混乱に至らしめ、その混乱に乗じてロシア主力部隊が日本軍陣地の正面より攻勢をかけて挟撃撃滅するということになる。
よって、黒溝台こそ奪い取るも秋山支隊が守る戦線を短期間で突破できず膠着状態になった時点でロシア軍の作戦意図の半分は失われたことになる。
それでも早急に戦線を突破し日本軍陣地の後方に回り込んで攻撃することができれば奇襲の効果は無いにしろロシア軍に勝機は残っていた。 ロシア軍は冬将軍の利用に熟知していたので、陣地や兵営より出て戦うことは諸刃の剣であって短期に想定していた戦果を得られなかったらそのまま我が身に降りかかってくることになるのを知っていたのである。つまり、ロシア兵士といえど厳冬期の野営が続けば凍傷や衰弱や凍死により何もしないまま戦力が削られ勝機はどんどん遠のいていくことになるのだ。
ロシア軍が完全に勝機が潰えたと判断したのは、乃木率いる第3軍の北上がロシア軍の想定よりはるかに早かったからである。
旅順攻略の傷癒えぬまま休息もあらばこそと部隊編成を行い1月15日から次々と送り出した。ロシア軍がよほど無能で無いかぎり第3軍の動向は諜報機関などを通じて掌握に務めていた筈であり、第3軍北上の報に接したクロパトキンは乃木に心の内まで見透かされた思いに慄然としたであろう。
そして、攻勢をかけている戦線にロシア軍が想定していた兵力の第3軍が殺到すれば突破どころか大敗必至との判断でロシア軍は一旦兵を引かざるを得なかったのである。
乃木は満洲軍総司令部より「ゆっくりの北上で良い」と伝えられていたにもかかわらず兵にまともな休息も与えず寒さ厳しきなか北上させたが、軍人としての勘であればそれで、ロシアの過去の戦いを冷静に分析して冬期攻勢を予想したうえで急いだとすればそれで優れた判断であった。
ともあれ、日本はこの攻撃を打ち返し、ロシア軍の意図をくじいた。
ロシア軍自体もこの作戦での負けを認めたこととなり、これはロシア国内に蔓延していた厭戦気分に大きく影響することになった。また、これよりのちにロシア軍側が主導して大会戦を行うことはなく、後の奉天会戦に至っては単独進攻する乃木大将隷下の第3軍とそれを支援する奥大将隷下の第2軍による作戦行動に振り回され、公主嶺まで退却することとなった。このため、この会戦が日露戦争の流れを変える分水嶺になったともいえる。
この会戦にて、野戦で初めて本格的に機関銃が使われた。それまでの野戦は、小銃射撃と銃剣突撃を駆使した歩兵戦闘に加え、榴散弾による砲撃支援が主流だったのに対し、秋山旅団は己の不利な部分(旅団の規模、装備、練成等)を塹壕の構築、機関銃の集中使用によって補う方法を模索し、結果、黒溝台の塹壕構築と機関銃の大量使用につながった。これは塹壕戦の最たるものと言える。
機関銃を装備した塹壕陣地をロシア軍は5倍の兵力差があったにもかかわらず、結果として突破出来なかった。
これは、旅順要塞攻防戦、奉天会戦における塹壕と機関銃の大活躍と相まって「いかなる大軍と言えども、機関銃を装備した塹壕を突破する事は困難である」という戦訓を残した。欧米諸国は極東の一事例として当初この戦訓を真剣に受け止めなかったが、第一次世界大戦の西部戦線やガリポリの戦いでは双方が互いに塹壕を構築、対峙した上での大量消耗戦へと発展する。
この戦術が破られるのは、第一次世界大戦のブルシーロフ攻勢におけるロシア軍の攻撃を嚆矢とし、戦車の登場、リガ攻勢におけるドイツ軍での突撃隊の登場、第二次世界大戦におけるドイツ軍の電撃作戦にて完成を見た浸透戦術の誕生まで待つ事になるのであった。
《諜報活動に長けた明石元二郎陸軍大将》
日露戦争で、諜報活動や諜略に長けていた
明石 元二郎という人物を知っているであろうか?
明石元二郎は福岡の地に生まれた。
1864年9月1日にこの世に誕生した。
1919年〈大正8年〉10月26日に死んだ。
享年55才。
明石元二郎は、明治、大正期の日本の陸軍軍人である。
陸軍大将正三位勲一等功三級男爵。
第7代台湾総督であった。
任期は1918年から1919年迄。
明石元二郎はこの年にこの世を去った。
福岡藩出身である。
明石元二郎は大日本帝国陸軍に所属し、
軍歴は1889年 ~1919年まで、30年間。
最終階級は陸軍大将である。
明石元二郎の生い立ちについて、お話ししよう。
福岡藩士である明石助九郎貞儀の二男として元治元年(1864年)に福岡藩福岡城下の大名町に生まれた。
「オギャー、オギャー!」
「元気な男の子です」
「でかした!でかした!」
父親の助九郎貞儀は大層喜んだという。
明石家の家格は「大組」であり、1300石の大身であった。家柄は家老職並の重鎮である。
1877年(明治10年)6月に陸軍士官学校幼年生徒となる。
1883年(明治16年)12月25日、陸軍士官学校を卒業し(旧陸士6期)、同日、歩兵少尉に任じられる。
更に1889年(明治22年)に陸軍大学校(5期)を卒業すると参謀本部に奉職、海軍大学校教官を兼務する。
ドイツへ留学し仏印出張、米西戦争(1898年4月21日~8月13日)のマニラ観戦武官を経て、1901年(明治34年)にフランス公使館付陸軍武官となる。
1902年(明治35年)にロシア帝国公使館付陸軍武官に転任する。
のちに首相となる田中義一陸軍武官から業務を引き継いだ。
当時からロシア国内の情報を収集し、ロシアの反政府分子との接触を試みる工作活動が行われていた。
首都ペテルブルクのロシア公使館に着任後、日英同盟に基づいた情報協力により、イギリス秘密情報部のスパイであるシドニー・ライリーと知り合い、友人となった。
明石元二郎の依頼により、ライリーは1903年(明治36年)から建築用木材の取引業者に偽装すると、戦略的要衝である旅順に移住し材木貿易会社を開業、ロシア軍司令部の信頼を得て、ロシア軍の動向に関する情報や、旅順要塞の図面などをイギリスおよび日本にもたらしている。
明石元二郎は日露戦争での諜報活動に従事していたのだ。つまりスパイ活動である。
明治37年(1904年)、日露戦争が開戦すると駐ロシア公使館は中立国スウェーデンのストックホルムに移り、明石(当時の階級は大佐)は以後この地を本拠としてスパイ活動をした。
開戦直前の1月、参謀本部次長児玉源太郎は開戦後もロシア国内の情況を把握するため、明石元二郎に対し「ペテルブルク、モスクワ、オデッサに非ロシア人の外国人を情報提供者として2名ずつ配置」するよう指令電報を発した。
さらに明石元二郎は日露開戦と同時に参謀本部直属のヨーロッパ駐在参謀という臨時職に就き、ストックホルムに移った際にも児玉源太郎から「お前を信じているぞ」という趣旨の激励の電報が届いていた。
明石元二郎はロシア支配下にある国や地域の反ロシア運動を支援し、またロシア国内の反政府勢力と連絡を取ってロシアを内側から揺さぶるため、様々な人物と接触した。
私が図書館にある様々な書籍から次のことが分かった。
フィンランドの反ロシア抵抗運動指導者カストレーン、シリヤクス、スウェーデン陸軍将校アミノフ、ポーランド国民同盟ドモフスキ、バリツキ、社会革命党チャイコフスキー、グルジア党デカノージ、ポーランド社会党左右両派など、ロシア国内の社会主義政党指導者、民族独立運動指導者などである。
特に、当時、革命運動の主導権を握っていたコンニ・シリヤクス率いるフィンランド革命党などを通じ、様々な抵抗運動組織と連絡を取っては資金や銃火器を渡すと、デモやストライキ、鉄道破壊工作などのサボタージュが展開されていった。その内の鉄道破壊工作などは失敗するものの、デモ・ストライキは先鋭化し、ロシア軍はその鎮圧のために一定の兵力を割かねばならず、極東へ派遣しにくい状況が作られたのである。
明石元二郎の工作の目的は、ロシア国内の反乱分子の糾合や、革命政党エスエル(社会革命党)を率いるエヴノ・アゼフなどへの資金援助を通じ、ロシア国内の反戦、反政府運動の火に油を注ぎ、ロシアの対日戦争継続の意図を挫折させようとしたものであり、満州軍においては、欧州の明石工作をロシア将兵に檄文等で知らせて戦意を喪失させようと計ったり、また欧州情勢を受けてロシア軍の後方攪乱活動を盛んに行ったりした(満州義軍)。
また明治37年(1904年)5月、ポーランドの反ロシア民族主義者ロマン・ドモフスキが児玉源太郎と会談した。
満洲軍設置の激務の折に児玉源太郎がわざわざ時間を割いたのは、明石元二郎から情報を得て連携が取れていたためである。
日露戦争全般にわたり、ロシア国内の政情不安を画策してロシアの継戦を困難にし、日本の勝利に貢献しようと意図した明石元二郎の活動は、後に、明石自身が著した『落花流水』などを通じて巷にも日本陸軍最大の謀略戦と称えられるようになった。
参謀次長長岡外史は、「明石元二郎の諜略活躍は陸軍10個師団に相当する」と評し、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世も、「明石元二郎一人で、満州の日本軍20万人に匹敵する戦果を上げている。」と言って称えたと紹介する文献もあるくいだ。
成果の度合いやレーニンとの会談の有無については別にしても、これら明石元二郎の謀略活動の意図に関しては研究者の間でもほぼ見解は一致する。
なお、前述した自著『落花流水』や司馬遼太郎の筆による小説『坂の上の雲』は、以下のような粗筋をベースに描いている。
明治37年(1904年)、明石元二郎はジュネーヴにあったレーニン宅で会談し、レーニンが率いる社会主義運動に日本政府が資金援助することを申し出た。レーニンは、当初これは祖国を裏切る行為であると言って拒否したが、明石元二郎は「タタール人の君がタタールを支配しているロシア人の大首長であるロマノフ王朝を倒すのに日本の力を借りたからといって何が裏切りなのだ」といって説き伏せ、レーニンをロシアに送り込むことに成功した。その他にも内務大臣プレーヴェの暗殺、血の日曜日事件、戦艦ポチョムキンの叛乱等に関与した。これらの明石の工作が、後のロシア革命の成功へと繋がっていく。後にレーニンは次のように語っている。「日本の明石大佐には本当に感謝している。感謝状を出したいほどである。」と。
この件は歴史家から疑念を示されている。例えば稲葉千晴は、明石元二郎が拠点とした北欧の研究者と共同して工作したかどうか検証作業を進め、一方でレーニンと会談した事実も、レーニンが上記のような発言を行った事実も確認されず、現地でもそのような説は流布していないと示された上、他方、ロシア帝国の公安警察であるオフラナが明石の行動をチェックしており、明石元二郎が「血の日曜日事件」や「ポチョムキンの反乱」に直接、関与していた根拠は薄いとしている。
ただし稲葉は他方、日露戦争において欧州での日本の情報活動が組織的になされていたこと、その中で明石の収集した情報が量と質で優れていたことは評価している。
今井はレーニンと会談したという話を、日露戦争後に陸軍で傍流扱いされた明石元二郎の屈折した感情から出た言葉ではないかと推定している。また西原も、著書において「レーニンは明石元二郎の申し出を断った」と記している。
日本国内においては、日露戦争について明石元二郎の活動が評価されているが、対戦国であったロシア側は、明石元二郎の活動がロシアの対日警戒、対日諜報活動を促したとしている。ロシアの月刊誌『ロージナ』は2004年の日露戦争特集号で、日本の参謀本部や外務省は満州において中国人やモンゴル人を使って強力な情報網を構築したが、このことがロシア(ソビエト連邦時代)の対日情報工作の強化に繋がったこと、また日本が備えた防諜体制の甘さをも合わせて指摘している。
日本側もフランス人記者を使ったロシアの諜報工作に晒されていたのである。
日露戦争中、明石は一人で巨額の工作資金を消費した。それは当時の国家予算約2億3000万円の内、100万円程[注 4]であったが、参謀総長山縣有朋、同・最終階級長岡外史次長らの決断により参謀本部から支給され、ロシア革命支援工作などにも利用された。この点について評論家西部邁は以下のように述べている。
「日露戦争のときには、日本にも明石元二郎という立派なスパイがいました。彼が使った工作資金はいまの標準でいうと数百億円ですってね。1兆円という話も聞いたことがある。それで第一次ロシア革命を煽り立てるわけです。これにはさすがのツアーも参ってしまった。」。
日本の日露戦勝(1905年(明治38年)9月)の後においてドイツの皇帝ヴィルヘルム2世は「明石一人で日本軍20万人に匹敵する成果を挙げた」と語っていたと伝わる。
明治43年(1910年)7月、寺内正毅朝鮮統監の下で憲兵司令官と警務総長を兼務し朝鮮併合の過程で武断政治を推し進めた。
1911年、下関市ヘ旅行、翌年8月8日付の指令で東京に出張する。
ソウルに多くの報道関係者が詰めかけると、
明石警務総長が強化した検閲を「恐ろしい体制であるとドイツ新聞アルゲマイネ・ツァイトゥングは1910年、「わずかな違反行為でさえ、国内の新聞の弾圧、外国の新聞の報道記事の押収」に至ると報じられた]報じた。フランクフルター・ツァイトゥングはそれに対する意見をエルヴィン・フォン・ベルツ医師に求めた。ベルツは明治天皇の侍医(1902年-1905年)を務め伊藤博文の主治医であり、ドイツは軍事上、朝鮮と無関係の位置にあるからと前述の論評をいさめた。
大正3年(1914年)4月、参謀次長に着任するが、翌10月、熊本の第6師団長に転じる。問題なく職責を全うしていたにもかかわらず、わずか1年で師団長に転補させられた背景には、陸軍内における「スパイ蔑視」の風潮がある。児玉源太郎や山縣有朋はそのような風潮を深く認識していたが、同時に情報の重要性も理解していたため、明石や福島安正などの情報畑の人材を積極的に引き立てていた。だが依然、明石を警戒する空気は根強く、結果的に更迭された。明石自身、単独行動が多く、派閥行動や組織内遊泳に長ける環境になかったことから、情報将校が出世し辛い、ひいては情報を軽視する風潮につながった可能性が指摘されている。
同7年(1918年)7月に第7代台湾総督に就任、陸軍大将に進級する。総督在任中は社会基盤の整備に腐心した。台湾電力を設立し日月潭水力発電所を含む水力発電事業を推進したほか、高雄港の拡充、鉄道貨物輸送の停滞を消解するため新たに海岸線を敷設した。司法制度の改革にのぞみ、森林令による木材資源の涵養、台湾教育令を改正して日本人と台湾人が均等に教育を受けられるように図り[42]、台湾人にも帝国大学進学への道を開いた[注 5]。設立した華南銀行は、今日でも台湾最大級の金融機関である。
八田與一が嘉南平原の旱魃・洪水対策のために計画した嘉南大圳の建設を承認し、その建設予算を獲得することに尽力して台湾総督府の年間予算の3分の1以上に達する金額を工面した。大正8年(1919年)8月、台湾総督府から分離して独立の軍となった台湾軍の初代司令官を兼務する。 台湾総督の次は総理大臣にと周囲からは期待されていたようだが、現地の事情をつかもうと台湾全土を総督在任1年4か月で視察し終えて、大正8年(1919年)10月、公務のため日本へ一時帰国する洋上で病を得て、郷里の福岡に帰り着いた。石井光次郎は、台湾総督であった明石の秘書官を務めた人物である。亡くなる[1]直前の明石元二郎を見舞った時の様子を次のように記憶していた。
レーニン、トロッキーを使つたその時分の丁度ロシヤの革命の時だつたものだから、僕はあの時行つたら頻りに机の抽出しを引出しながら書類を散らかしてござる。「何ですか」と聞くと「レーニンとかトロッキーとかというのは、あいつ等は皆、俺が使つてやつたんだが妙なことになつたものだと思う。そいつ等が何か書いたものがいろいろあつたと思つて今、暇だから探していたんだ」といわれた。その時「どうですか、この革命は続きますか」ときいたら「やあ、暫くはいいだろうが続かん」というてござつたが、こいつあ見当違いだつた。
満55歳だった。死因は脳溢血説、肝硬変説などがある。生前、大酒飲みだったので肝硬変説は特に有力視されているが、最近では当時、世界的に流行していたインフルエンザの1種スペイン風邪に罹患したのではなかったかと言われている。
「余の死体はこのまま台湾に埋葬せよ。いまだ実行の方針を確立せずして、中途に斃れるは千載の恨事なり。余は死して護国の鬼となり、台民の鎮護たらざるべからず」
遺言によって、遺骸は福岡から台湾に移され、台北市の三板橋墓地(現・林森公園)に葬むられた。歴代19人の総督のうち台湾を永遠の地に選んだ唯一の人物であり、約10万人が棺を見送ったと伝わる。
その後、1999年に現地有志により台北県三芝郷(現・新北市三芝区)の福音山基督教墓地へ改葬されている。台北市で国際文化基金会主催の「明石元二郎総督の業績をたたえるシンポジウム」(2002年)が開催されるなど、台湾の人々の心に生き続けた。
墓前にあった鳥居は林森公園の整備中、二二八和平公園内に仮設され、2010年11月に再び元の地に戻された。
生誕地に近い勝立寺には遺髪と爪を収めた墓がある。
偉業が祖国で忘れられたと惜しむ福岡県郷友連盟ほか有志は、明石元二郎が生まれた福岡に顕彰碑を建立する企画を動かす。碑は福岡の筥崎宮に立ち、除幕式には能楽師の大倉正之助氏が囃子大倉流の大鼓を献納し、石原進は安倍晋三から届いた祝電を読み上げた。
明石元二郎には様々なエピソードがある。
陸軍幼年学校時代の明石元二郎は、稲荷神に供えられた赤飯の盗み食い常習犯であり、また夜中にボートに乗って転覆させたりなど悪戯を繰り返していたが、教師や先輩、友人などから嫌われたり憎まれたりすることはなかった。陸軍士官学校時代も、周りの同僚や先輩などから好かれており、何かにつけ明石のもとに集まったり、噂の対象になっていたという。
製図の授業の際、明石は鼻水を垂らしながらもそれを手で拭い、さらにその手で図面をいじっては真っ黒にしてしまっていた。
服装について無頓着であり、陸軍士官学校時代、制服のズボンが緩く、へそを出しながらズボンの裾を引きずって歩いていた。
陸大時代は下宿に猫を1匹飼っており、軍服に猫の毛を付けたまま講義に出席していたようである。ほとんど歯を磨く習慣がなく、それが晩年まで続いた[87]。ヨーロッパ赴任中、泥靴のまま公使館に入り、そのまま平気な顔をしていた。
協調性に欠けていて風采が上がらず、また運動音痴であったとされており、ロシア公使館付陸軍武官時代(1902年赴任)の上司にあたる駐露公使の栗野慎一郎でさえ、明石の能力を見抜けず開戦の直前に外務省に「優秀な間諜が欲しい」と要請したほどであった。栗野は明石と同じ 修猷館出身である。
明石元二郎は外国語と算術に長けていた。あるパーティでドイツとロシアの士官と同席した折に、ドイツの士官が明石にフランス語で「貴官はドイツ語ができますか」と聞いてきた。明石は「フランス語がやっとです」とわざと下手なフランス語で答えた。すると、そのドイツの士官は明石を無視して、ドイツ語でロシアの士官と重要な機密について話し始めた。しかし明石は実はドイツ語を完璧に理解し、その機密をすべて聞き取ったという。明石元二郎はフランス語、ロシア語、英語も完璧に理解し、流暢に会話することが出来たのだ。
諜報活動に長けていた。
正に『日本版007』である。
ロシアで名乗った偽名を、「アバズレーエフ」という。
製図書きにも優れており、ある外国人のパーティに出席した際、名刺を忘れた八代六郎のためにその場で器用に紙を裂き、まるで印刷してあったかのように文字を入れ、10枚ばかり即席の名刺を作成したというエピソードがある。
整理整頓に無頓着な明石元二郎は台湾総督時、官邸を一切掃除させず、身辺が荒れ放題となっていた。
絵葉書が好きで、玄関・応接間・寝室など家中に絵葉書を貼りつけたため、まるで7、8歳の子供部屋のようになっていたという。
正に『人間!明石元二郎である!』
明石元二郎は何かに熱中すると、ほかのことを完全に忘れてしまう性格でもあったという。
上原勇作の手引きで山縣有朋と対談した時、どんどん話にのめりこんでゆき、しまいには小便を垂れ流していることに気がつかずそのまま熱弁を振るうに至ってしまった。山縣もその熱意にほだされ、小便を気にしながら対談を続けざるを得なかったという。
日露戦争を経て高位高官に昇っても、明石元二郎は薄汚い布団で犬を抱きながら寝ていた。
日清戦争後の参謀本部勤務中に勃発した米西戦争では、観戦武官としてフィリピンに赴いた。この時、アメリカ軍は陸戦ではスペイン軍とは直接交戦せず、フィリピン独立運動の指導者アギナルドの率いる市民軍に武器を融通し資金を援助している。同市民軍が各地の戦いでスペイン軍を撃破し駆逐する様子を観た明石元二郎は、「敵の中の反対勢力を支援する」というヒントを得た。これを活かして明石元二郎の行ったロシア革命工作は、後に陸軍中野学校で諜報活動のモデルケースとして講義されている。
明石元二郎の私生活について、語るとしよう。
任務としてスパイ活動や憲兵政治など社会の暗部で活躍したが、私生活では極めて清廉であった。工作資金の残余27万円を長岡参謀次長に精算した。
長男の明石元長は、根本博と通訳の吉村是二を国共内戦での国民党軍事顧問とすべく、昭和24年(1949年)6月、日本から台湾に密入国させようと尽力した。
しかし、その首尾も帰国(1952年6月)も見届けることなく、元長は根本らの出国からわずか4日後に、激しい過労により42歳で急死する。2009年10月25日、台湾で古寧頭戦役60周年式典が行われ、招待を受けた元長の子孫は日本人軍事顧問団の遺族とともに歓待された。
【第八巻ノ2】
《黒溝台の戦いと秋山好古支隊の死闘》
黒溝台会戦は日露戦争中の1905年1月25日から1月29日までの5日間の戦いであった。
ロシア満洲軍の大攻勢により起きた日本陸軍とロシア陸軍の戦闘である。
ロシア側の奇襲により始まり、兵力で劣勢だった日本軍は緒戦こそ苦戦したものの、結果的には日本の辛勝に終わった。欧米陸軍では、ロシア陸軍の作戦目標が 沈旦堡であったことから沈旦堡付近の戦闘と言われた。
戦闘の行われた地域は黒溝台~沈旦堡~奉天西方迄の一帯であった。この戦いは日本軍の勝利で終わった。
私の調べたところによると交戦勢力や指揮官等は次の通りであった。
まず、大日本帝国の指揮官である。大山巌であった。
対するロシア軍の指揮官はグリッペンベルクである。
大日本帝国の戦力は約53,400人、対するロシア軍は約105,100人であった。
大日本帝国の死傷者9,316名である。
対するロシアの死傷者11,732名であった。
1904年2月10日に始まった日露戦争は、満洲において鴨緑江会戦、金州南山の戦い、遼陽会戦、沙河会戦を経た後に奉天の南側で長く対峙(沙河の対陣)する膠着状態が続いていた。日露両軍ともに補給を待つためと、異常な寒さと砲弾を避けるため、上部に掩体を施した塹壕を掘り、土の中にもぐったような状態で向かい合い膠着状態が続いていた。
当時日本陸軍は旅順攻略までの砲弾の大量消耗により極端な砲弾不足に陥っており、このままではロシア陸軍に打撃を与えるどころか次の会戦も実行できないような状態が続いていた。一方、ロシア陸軍も先の沙河会戦により兵員不足に陥っていた。主要補給手段のシベリア横断鉄道は当時まだ単線で、満洲に到着した貨車をヨーロッパ側に送り戻すためには線路を空ける必要があったがその余裕がなく、満洲についた貨車はそのまま放棄されたのだ。
このような努力にもかかわらずロシア軍の補給は劣悪で、兵員の糧食や被服などの輸送は追いつかない状態であった。この状態でもロシアは日本陸軍より多少兵員が多かったが、慎重なロシア満洲軍総司令官アレクセイ・クロパトキン大将は攻撃を行わなかった。
ロシア首脳部は、退却ばかりを行い一向に日本軍と決戦しようとしないクロパトキンに業を煮やし、満洲陸軍の部隊指揮にクロパトキンに加えてグリッペンベルク大将を送り込んだのである。
グリッペンベルク大将は派遣当初、満洲の陸軍部隊を2つに分け、その片方を率いるよう命じられる筈であった。しかし、クロパトキンが極東陸海軍総督という地位にあり、依然として満洲陸軍の全権を持っていたため、グリッペンベルク大将は3軍に分割した第2軍のみの司令官という立場であった。
しかし、グリッペンベルク大将はミシチェンコ中将が得た日本軍の弱点を知り、自らが指揮する第二満州軍を以て沈旦堡から黒溝台にかけてを強襲し左翼再端の牛居を騎兵部隊で包囲殲滅することで秋山支隊ら日本軍最左翼を片翼包囲し潰走させる計画を立案。当作戦を以て日本軍への大攻勢を企画したのだ。これが世に言う黒溝台会戦である。
グリッペンベルク大将は総勢10万人の大兵力を率いて攻勢を開始したが、満洲軍総司令部はこの時点でもまだ威力偵察程度に考えていた。1月22日鳥邦牛にて、騎兵第2旅団の将校斥候がロシア騎兵に遭遇し、ほぼ全滅に近い状況が起こってもなお威力偵察と考え、一応手当てとして立見尚文中将率いる第8師団を応援に送る程度であった。
第8師団は、師団外の兵力として後備歩兵旅団を付属しており、兵力的には2万人程度のものであるが、威力偵察と看做していた総司令部は、この戦力で対応できると思い込んでいたのだ。
しかしながら、当時乃木希典大将率いる第3軍はまだ旅順からの到着待ちであり、満洲の日本軍全体で戦力が枯渇しており、予備軍がこの第8師団しかないという状況であったため、このほかに出来ることはなかった。立見は1月24日総司令部より準備命令を受け、翌1月25日正午に「黒溝台を救え」という命令を受け取った。
黒溝台を必ず救うように!頼んだぞ。立見!」
このころ、黒溝台にはロシア軍が数多くの兵力を増員していた。秋山支隊の拠点はどこもロシア軍の銃砲火を使った攻撃を受けていた。
秋山少将ははじめロシア軍の重圧が韓山台あたりに大きくかかってきたため、三岳支隊がいる辺りがロシア軍の攻撃目標と見誤り、隣の沈旦堡の豊辺新作大佐に対し、三岳支隊に応援を出すように指令した。このため豊辺大佐は三岳支隊応援のため部隊を編成し、小池順中佐に指揮させ、応援に向かわせることにした。しかし、25日夜ごろから沈旦堡付近の方が戦況として激烈になり、豊辺大佐は後方にいた後備歩兵第31連隊の小原文平中佐に支援を請い、小原中佐は豊辺大佐支援のため2個中隊を派遣した。
このころ第8師団は総司令部の命令で黒溝台会戦を救援すべく戦線の遥か後方より零下30度近い寒気の中を前線へと駆けつけ、26日夜に大台まで駆けつけた。しかし極寒の環境下で第八師団がいた大藍旗から黒溝台まで駆けつけるには時間が掛かる為一旦中間にある物資集積地であった狼洞溝を目標とし、その手前の大新庄子で同じく救援として現地に向かっていた後備歩兵第八旅団と合流する手筈となった。
第8師団の由比光衛参謀長は第八師団及び後備歩兵第八旅団を一度狼洞溝で待機させ、救援すべき猛烈な攻撃を受け続けている黒溝台陣地を一旦放棄し、現地部隊を南東方面へ逃亡させることでロシア第二軍主力を狼洞溝等南東方面に誘引した。
これらが縦列を成して種田支隊らを追撃している隙に第八師団らで露軍縦列の横っ腹を攻撃して包囲し殲滅したのだ。
のち手薄の黒溝台を奪還するという作戦を考案し、秋山支隊の指揮下の部隊であったにも拘らず、総司令部の命令として黒溝台の種田支隊を退却させたのであった。
しかし、ロシア軍は奪った黒溝台陣地を僅か数時間で再構築し、拠点陣地として活用したのだ。そのうえ由比参謀長が企図した南東への誘引策にロシア軍は乗らず現地にとどまった為作戦は破綻した。
黒溝台一帯をむざむざ明け渡した挙句この撤退により孤軍奮闘していた沈旦堡の豊邉支隊はロシア軍の包囲下におかれ窮地に立たされた。
作戦の失敗を受けた第8師団は黒溝台奪還のために展開をはじめたが狼洞溝にて待機していた第八師団が速やかに善戦に展開できるはずもなく、終わる間もなくロシア軍が総力を挙げて襲い掛かってきたのだ。結果、第8師団は秋山支隊を救援するどころか窮地に陥ることになった。
その上二十六日にはミシチェンコ騎兵部隊が最左翼の牛居を攻撃して現地を奪取した。相手は騎馬戦の強者たち。あのコサック騎馬隊である。現地部隊は牛居の東、三尖泡に撤退してしまった。さらにこの事態を受けてようやく満州軍総司令部は露軍の目的が日本軍左翼の片翼包囲にあることを察知したのだ。これにひどく狼狽した参謀らは二転三転する命令を乱発して前線のさらなる混乱を招いてしまったのである。
兵力的にはロシア軍は負けるべくして負けたわけではない。日本軍の参加兵力は約5万3千人、死傷約9千3百余人であり、それに対してロシア軍の参加兵力は約10万人、死傷約1万人である。28日の時点で日本軍側は、たとえば第8師団が死傷5割程度で全滅に等しい状態であったのに対し、ロシア軍はまだ健全な兵力がおおよそ9万人もあり、退却する必要性はなかった。また、兵力で有利なロシア軍が、なぜ退却したのかは不明である。黒溝台会戦において主導的に戦闘を行いつつも、内部での不明瞭な決定によって戦闘を終了してしまったことは、日露戦争におけるロシア軍の体質的な問題の発露でもあるとの考察もある。
日本軍は神のご加護があったのだろうか。
兎に角ついていた。
しかし、有力な考察の一つとして、現地軍と総司令部間の不和に端を発するというものがある。当時クロパトキン将軍は幾度となく総司令部の意に反して独自に行動を起こしているとして、シタケリベルク中将を総司令部命令により指揮権剥奪の上更迭し、軍団長の職を解いていた。
これに対してグリッペンベルク大将は憤怒しクロパトキン将軍を批判した。
しまいには病と称し第二軍の総指揮権を第八軍団長のミロフ中将に委譲した上本国へ帰国の意をみせ、グリッペンベルク中将に忠誠を誓い団結していた将兵は総司令部への不信とグリッペンベルク中将の態度から戦意喪失の状態にあったことがこの撤退の理由ではないかと考えられている。
しかし、ロシア軍の作戦は、自ら日本軍の主力と考えていた乃木率いる第3軍が到着するまでに日本軍に大打撃を与え、あわよくば壊滅させる意図の元に立案されたものと考えられる。そのため日本軍の予想していない厳冬期に日本軍の最も脆弱な戦線に攻勢をかけ突破して他の日本軍陣地の兵站と連絡を絶つとともに後背より奇襲して大混乱に至らしめ、その混乱に乗じてロシア主力部隊が日本軍陣地の正面より攻勢をかけて挟撃撃滅するということになる。
よって、黒溝台こそ奪い取るも秋山支隊が守る戦線を短期間で突破できず膠着状態になった時点でロシア軍の作戦意図の半分は失われたことになる。
それでも早急に戦線を突破し日本軍陣地の後方に回り込んで攻撃することができれば奇襲の効果は無いにしろロシア軍に勝機は残っていた。 ロシア軍は冬将軍の利用に熟知していたので、陣地や兵営より出て戦うことは諸刃の剣であって短期に想定していた戦果を得られなかったらそのまま我が身に降りかかってくることになるのを知っていたのである。つまり、ロシア兵士といえど厳冬期の野営が続けば凍傷や衰弱や凍死により何もしないまま戦力が削られ勝機はどんどん遠のいていくことになるのだ。
ロシア軍が完全に勝機が潰えたと判断したのは、乃木率いる第3軍の北上がロシア軍の想定よりはるかに早かったからである。
旅順攻略の傷癒えぬまま休息もあらばこそと部隊編成を行い1月15日から次々と送り出した。ロシア軍がよほど無能で無いかぎり第3軍の動向は諜報機関などを通じて掌握に務めていた筈であり、第3軍北上の報に接したクロパトキンは乃木に心の内まで見透かされた思いに慄然としたであろう。
そして、攻勢をかけている戦線にロシア軍が想定していた兵力の第3軍が殺到すれば突破どころか大敗必至との判断でロシア軍は一旦兵を引かざるを得なかったのである。
乃木は満洲軍総司令部より「ゆっくりの北上で良い」と伝えられていたにもかかわらず兵にまともな休息も与えず寒さ厳しきなか北上させたが、軍人としての勘であればそれで、ロシアの過去の戦いを冷静に分析して冬期攻勢を予想したうえで急いだとすればそれで優れた判断であった。
ともあれ、日本はこの攻撃を打ち返し、ロシア軍の意図をくじいた。
ロシア軍自体もこの作戦での負けを認めたこととなり、これはロシア国内に蔓延していた厭戦気分に大きく影響することになった。また、これよりのちにロシア軍側が主導して大会戦を行うことはなく、後の奉天会戦に至っては単独進攻する乃木大将隷下の第3軍とそれを支援する奥大将隷下の第2軍による作戦行動に振り回され、公主嶺まで退却することとなった。このため、この会戦が日露戦争の流れを変える分水嶺になったともいえる。
この会戦にて、野戦で初めて本格的に機関銃が使われた。それまでの野戦は、小銃射撃と銃剣突撃を駆使した歩兵戦闘に加え、榴散弾による砲撃支援が主流だったのに対し、秋山旅団は己の不利な部分(旅団の規模、装備、練成等)を塹壕の構築、機関銃の集中使用によって補う方法を模索し、結果、黒溝台の塹壕構築と機関銃の大量使用につながった。これは塹壕戦の最たるものと言える。
機関銃を装備した塹壕陣地をロシア軍は5倍の兵力差があったにもかかわらず、結果として突破出来なかった。
これは、旅順要塞攻防戦、奉天会戦における塹壕と機関銃の大活躍と相まって「いかなる大軍と言えども、機関銃を装備した塹壕を突破する事は困難である」という戦訓を残した。欧米諸国は極東の一事例として当初この戦訓を真剣に受け止めなかったが、第一次世界大戦の西部戦線やガリポリの戦いでは双方が互いに塹壕を構築、対峙した上での大量消耗戦へと発展する。
この戦術が破られるのは、第一次世界大戦のブルシーロフ攻勢におけるロシア軍の攻撃を嚆矢とし、戦車の登場、リガ攻勢におけるドイツ軍での突撃隊の登場、第二次世界大戦におけるドイツ軍の電撃作戦にて完成を見た浸透戦術の誕生まで待つ事になるのであった。
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