13 / 33
第十三巻
しおりを挟む
【十三巻ノ1】
日本海海戦に勝利した日本は最早、戦うお金が無くなっていた。国民の生活は疲弊していた。また、多くの人命を失っていた。そんな中、一日も、早く日露戦争の終結を急いでいた。アメリカのルーズベルト大統領に斡旋を頼んだのだ。結局、ロシアは日本との講和会議に臨むことになったのである。そのお話しである。
ポーツマス条約は、アメリカ合衆国大統領セオドア・ルーズベルトの斡旋によって、日本とロシアの間で結ばれた日露戦争の講和条約である。日露講和条約とも言われる。
西暦1905年(明治38年)9月4日(日本時間では9月5日15時47分)、アメリカ・ニューハンプシャー州ポーツマス近郊のポーツマス海軍造船所において、日本全権小村寿太郎(外務大臣)とロシア全権セルゲイ・ウィッテの間で調印された条約である。
また、条約内容を交渉した会議(同年8月10日 -)のことをポーツマス会議、 日露講和会議、ポーツマス講和会議などと呼んでいる。私が教科書で学んだのはポーツマス講和会議であった。
講和会議に臨んだ日本人は、小村寿太郎と高平小五郎、随員2名および米国人外交顧問ヘンリー・ウィラード・デニソン。
日露戦争において終始優勢を保っていた日本は、日本海海戦戦勝後の1905年(明治38年)6月、これ以上の戦争継続が国力の面で限界であったことから、当時英仏列強に肩を並べるまでに成長し国際的権威を高めようとしていたアメリカ合衆国に対し「中立の友誼的斡旋」(外交文書)を申し入れた。米国に斡旋を依頼したのは、陸奥国一関藩(岩手県)出身の駐米公使高平小五郎であり、以後、和平交渉の動きが加速化したのである。
講和会議は1905年8月に開かれた。当初ロシアは強硬姿勢を貫き「たかだか小さな戦闘において敗れただけであり、ロシアは負けてはいない。まだまだ継戦も辞さない」と主張していたため、交渉は暗礁に乗り上げていたが日本としてはこれ以上の戦争の継続は不可能であると判断しており、またこの調停を成功させたい米国はロシアに働きかけることで事態の収拾を図った。結局、ロシアは満洲および朝鮮からは撤兵し日本に樺太の南部を割譲するものの、戦争賠償金には一切応じないというロシア側の最低条件で交渉は締結した。半面、日本は困難な外交的取引を通じて辛うじて勝者としての体面を勝ち取った。
この条約によって日本は、樺太島(サハリン島)の南半分、満洲南部の鉄道及び領地の租借権、大韓帝国に対する排他的指導権などを獲得したものの、軍事費として投じてきた国家予算4年分にあたる20億円を埋め合わせるための戦争賠償金を獲得することができなかった。そのため、条約締結直後には、戦時中の増税による耐乏生活を強いられてきた国民によって日比谷焼打事件などの暴動が起こった。
樺太はサハリンとも呼ばれる。樺太は、ユーラシア東方、オホーツク海の南西部にある島である。南北約948 km、東西約160 kmで南北に細長く、面積は約76,400 km2で、北海道(78,073 km2)よりやや小さい。樺太島、サハリン島ともいう。日本が実効支配していた頃は樺太という名称以外ではサガレンが一般的に用いられていた。
樺太は、北部と南部でそれぞれ異なる沿革を経たため、ここでは北緯50度線以北を「北樺太」(または「北サハリン」)、以南を「南樺太」というのが通例である。
近世以前、樺太にはアイヌ民族、ウィルタ民族、ニヴフ民族などの先住民が居住しており、主権国家の支配は及んでいなかった。
近代以降、樺太の南に隣接する日本と、北西に隣接するロシアとが競って樺太への領土拡張を求めて植民を進め、多くの日本人とロシア人が樺太へ移住するようになった。
1855年(安政2年)の日露和親条約では樺太には明確な国境が設けられず、日本とロシアとが混住する土地のままとされた。
1875年(明治8年)の樺太千島交換条約によって、以前から日本領であった北方領土に加えてて千島列島(得撫島から占守島)を日本領とする代わりに、樺太の全土がロシア領と定められた。
日露戦争に於いて締結されたポーツマス条約で日本は樺太の南半分を領有した。1905年のことである。
1905年(明治38年)から1945年(昭和20年)までは、北緯50度線を境に、樺太の南半分(南樺太)を樺太(カラフト)として日本が、北半分(北樺太、北サハリン)を「サハリンとしてロシア及びソビエト連邦が領有していた。日本領有下においては、南樺太およびその付属島嶼を指す行政区画名として「樺太庁」が使用された。日本本土の食糧確保のために農業移民が指向され、とくに1928年から1940年は集団移民制度が実施された。その他、製紙・パルプ業、石炭業が主要産業となった。1940年には人口40万人となる。
第二次世界大戦末期、沖縄県における沖縄戦に続いて、日本本土(内地)最後の市街戦が行われた地である(1945年8月の樺太の戦い)。
戦後はソビエト連邦及びロシア連邦が樺太南部も実効支配している。人口約50万人で最大都市はサハリン州の州都でもあるユジノサハリンスク(人口約20万人。日本名: 豊原)。現在、サハリンプロジェクトが進められている。
【十三巻ノ2】
《ポーツマス条約 日本とロシア》
日露戦争に於いて、1905年3月、日本軍はロシア軍を破って奉天を占領したものの、継戦能力はすでに限界を超え、特に長期間の専門的教育を必要とする上に、常に部隊の先頭に欠かせない尉官クラスの士官の損耗が甚大で払底しつつあり、なおかつ、武器や弾薬の調達の目途も立たなくなっていた。一方のロシアでは同年1月の血の日曜日事件などにみられる国内情勢の混乱とロシア第一革命の広がり、ロシア軍の相次ぐ敗北とそれに伴う弱体化、さらに日本の強大化に対する列強の怖れなどもあって、日露講和を求める国際世論が強まっていた。
駐米公使高平小五郎はこの日露戦争終結に向けて動き出した。
1905年5月27日から28日にかけての日本海海戦での完全勝利は、日本にとって講和への絶好の機会となった。5月31日、小村寿太郎外務大臣は、高平小五郎駐米公使に宛てて訓電を発し、中立国アメリカのセオドア・ルーズベルト大統領に「直接かつ全然一己の発意により」日露両国間の講和を斡旋するよう求め、命を受けた高平は翌日「中立の友誼的斡旋」を大統領に申し入れた。ルーズベルト大統領は日露開戦の当初から、アメリカは日本を支持するとロシアに警告し、「日本はアメリカのために戦っている」と公言しており、また全米ユダヤ人協会会長で銀行家のヤコブ・シフと鉄道王のエドワード・ヘンリー・ハリマンが先頭に立って日本の国債を買い支えるなど、アメリカは満洲、蒙古、シベリア、沿海州、朝鮮への権益介入のために日本を支援していた。
米大統領の仲介を得た高平は、小村外相に対し、ポーツマスは合衆国政府の直轄地で近郊にポーツマス海軍造船所があり、宿舎となるホテルもあって、日露両国の全権委員は互いに離れて起居できることを伝えていた。
パリ(ロシア案)、芝罘またはワシントンD.C.(日本の当初案)、ハーグ(米英案)を押さえての開催地決定であった。ポーツマスは、ニューヨークの北方約400キロメートル地点に立地し、軍港であると同時に別荘の建ち並ぶ閑静な避暑地でもあり、警備がきわめて容易なことから公式会場に選定されたのである。
「テディ」として親しまれたアメリカ第26代大統領セオドア・ルーズベルトは日本にとっては大切な親日派であった。
また、米国内の開催には、セオドア・ルーズベルトの「日本にとって予の努力が最も利益になるというのなら、いかなる時にでもその労を執る」(外交文書)という発言に象徴される親日的な性格に加え、講和の調停工作を利用し、米国をして国際社会の主役たらしめ、従来ロシアの強い影響下にあった東アジアにおいて、日・米も含めんだ勢力均衡の実現を図るという思惑があった。
中国の門戸開放を願うアメリカとしては、日本とロシアのいずれかが圧倒的な勝利を収めて満洲を独占することは避けなければならなかったのであり、このアメリカの立場と、国内の革命運動抑圧のため戦争終結を望むロシア、戦力の限界点を超えて勝利を確実にしたい日本のそれぞれの思惑が一致したのである。ドイツ・フランス両国からも、「ロシアの内訌がフランス革命の時のように隣国に容易ならざる影響を及ぼす虞がある」(外交文書)として講和が打診されていた。ルーズベルトの仲介はこれを踏まえたものであったが、その背景には、米国がその長期戦略において、従来「モンロー主義」と称されてきた伝統的な孤立主義からの脱却を図ろうとする思潮の変化があった。
ルーズベルト大統領は、駐露アメリカ大使のジョージ・マイヤーにロシア皇帝への説得を命じたあと、1905年6月9日、日露両国に対し、講和交渉の開催を正式に提案した。この提案を受諾したのは、日本が提案のあった翌日の6月10日、ロシアが6月12日であった。なお、ルーズベルトは交渉を有利に進めるために日本は樺太(サハリン)に軍を派遣して同地を占領すべきだと意見を示唆している。
日本の国内において、首相桂太郎が日本の全権代表として最初に打診したのは、外相小村寿太郎ではなく元老伊藤博文であった。桂政権(第1次桂内閣)は、講和条件が日本国民に受け入れ難いものになることを当初から予見し、それまで4度首相を務めた伊藤であれば国民の不満を和らげることが出来るのではないかと期待したのであった。伊藤ははじめは引き受けてもよいという姿勢を示したのに対し、彼の側近は、戦勝の栄誉は桂が担い、講和によって生じる国民の反感を伊藤が一手に引き受けるのは馬鹿げているとして猛反対し、最終的には伊藤博文も全権大使への就任を辞退した。
結局、日向国飫肥藩(宮崎県)の下級藩士出身で、第1次桂内閣(1901年-1906年)の外務大臣として日英同盟の締結に功のあった小村壽太郎が全権代表に選ばれた。小村は、身長150センチメートルに満たぬ小男で、当時50歳になる直前であった。伊藤博文もまた交渉の容易でないことをよく知っており、小村に対しては「君の帰朝の時には、他人はどうあろうとも、吾輩だけは必ず出迎えにゆく」と語り、励ましたと言う。
小村壽太郎が全権代表に対するロシア全権代表セルゲイ・ウィッテ(元蔵相)は、当時56歳で身長180センチメートルを越す大男であった。戦前は財政事情等から日露開戦に反対していたものの、彼の和平論は対日強硬派により退けられ、戦争中はロシア帝国の政権中枢より遠ざけられていた。ロシア国内では、全権としてウィッテが最適任であることは衆目の一致するところであったが、皇帝ニコライ2世は彼を好まなかった。ウラジーミル・ラムスドルフ外相は駐仏大使のアレクサンドル・ネリードフを首席全権とする案が有力だったが、本人から一身上の都合により断られた。その後、駐日公使の経験をもつデンマーク駐在大使のアレクサンドル・イズヴォリスキー(のち外相)らの名も挙がったが、結局ウィッテが首席全権に選ばれたのだ。イズヴォリスキーはウィッテの名を挙げてラムスドルフ外相に献策したと言われている。失脚していたウィッテが首席全権に選ばれたのは、日本が伊藤博文を全権として任命することをロシア側が期待したためでもあった。ウィッテは、皇帝より「一にぎりの土地も、一ルーブルの金も日本に与えてはいけない」という厳命を受けていた。そのためウィッテは、ポーツマス到着以来まるで戦勝国の代表のように振る舞い、ロシアは必ずしも講和を欲しておらず、いつでも戦争を続ける準備があるという姿勢をくずさなかったのだ。次席全権のロマン・ローゼン駐米大使は開戦時の日本公使であり、彼自身は戦争回避の立場に立っていたとされ、また、西徳二郎外相との間で1898年に西・ローゼン協定を結んだ経歴のある人物であった。
すべての戦力においてロシアより劣勢であった日本は、開戦当初より、戦争の期間を約1年に想定し、先制攻撃を行って戦況が優勢なうちに講和に持ち込もうとしていたのである。開戦後、日本軍が連戦連勝を続けてきたのはむしろ奇跡的ともいえたが、3月の奉天会戦の勝利以後は武器・弾薬の補給も途絶えた。そのため、日本軍は決してロシア軍に対し決戦を挑むことなく、ひたすら講和の機会をうかがったのだ。5月末の日本海海戦でロシアバルチック艦隊を撃滅したことは、その絶好の機会だったのであった。すでに日本はこの戦争に約180万の将兵を動員し、死傷者は約20万人、戦費は約20億円に達していた。満洲軍総参謀長の児玉源太郎は、1年間の戦争継続を想定した場合、さらに25万人の兵と15億円の戦費を要するとして、続行は不可能と結論づけていたのだ。特に専門的教育に年月を要する下級将校クラスが勇敢に前線を率いて戦死した結果、既にその補充は容易でなくなっていたのだ。一方、ロシアは、海軍は失ったもののシベリア鉄道を利用して陸軍を増強することが可能であり、新たに増援部隊が加わって、日本軍を圧倒する兵力を集めつつあった。ロシア軍はいつでも戦える準備があったのだ。
6月30日、桂内閣は閣議において小村・高平両全権に対して与える訓令案を決定した。その内容は、(1)韓国を日本の自由処分に委ねること、(2)日露両軍の満洲撤兵、(3)遼東半島租借権とハルビン・旅順間の鉄道の譲渡の3点が「甲・絶対的必要条件」、(1)軍費の賠償、(2)中立港に逃げ込んだロシア艦艇の引渡し、(3)樺太および付属諸島の割譲、(4)沿海州沿岸の漁業権獲得の4点が「乙・比較的必要条件」であり、他に「丙・付加条件」があった。それは、(1)ロシア海軍力の制限、(2)ウラジオストク港の武装解除であった。
外交官時代「ネズミ公使」と渾名された日本全権小村寿太郎は首席特命全権大使に選ばれた。こうした複雑な事情をすべて知悉したうえで会議に臨んだのである。小村の一行は1905年7月8日、渡米のため横浜港に向かうために新橋停車場を出発したが、そのとき新橋駅には大勢の人が集まり、大歓声で万歳三唱し、小村を盛大に見送った。小村は桂首相に対し「新橋駅頭の人気は、帰るときはまるで反対になっているでしょう」と呟くように告げたと伝わっている。井上馨はこのとき、小村に対し涙を流して「君は実に気の毒な境遇に立った。今までの名誉も今度で台なしになるかもしれない」と語ったと言われる。小村一行は、シアトルには7月20日に到着し、一週間後ワシントンでルーズベルト大統領に表敬訪問を行い仲介を引き受けてくれたことに謝意を表明したのだ。児玉源太郎は、日本が講和条件として掲げた対露要求12条のなかに賠償金の一条があることを知り、「桂の馬鹿が償金をとる気になっている」と語ったという。日露開戦前に小村外相に「七博士意見書」を提出した七博士の代表格として知られる戸水寛人は、講和の最低条件として「償金30億円、樺太・カムチャッカ半島・沿海州全部の割譲」を主張し、新聞もまた戸水博士の主張を挙げるなどして国民の期待感を煽り、国民もまた戦勝気分に浮かれていた。黒龍会が1905年6月に刊行した『和局私案』では、韓国を完全に勢力圏におき、東三省(満洲)からのロシアの駆逐、ポシェト湾の割譲、樺太回復、カムチャッカ半島の領有が必要だと論じられた。陸羯南の『日本』でも、賠償金30億円は「諸氏の一致せる最小限度の条件」のひとつに位置づけられていたのだ。日清戦争後の下関条約では、台湾の割譲のほか賠償金も得たため、日本国民の多くは大国ロシアならばそれに見合った賠償金を支払うことができると信じ、巷間では「30億円」「50億円」などの数字が一人歩きしていたのだ。日本国内に於いては、政府の思惑と国民の期待の間に大きな隔たりがあり、一方、日本とロシアとの間では、「賠償金と領土割譲」の2条件に関して最後の最後まで議論が対立した。
ロシア全権大使ウィッテは、7月19日、サンクト・ペテルブルクを出発し、8月2日にニューヨークに到着した。ただちに記者会見を試み、ジャーナリストに対しては愛想良く対応して、洗練された話術とユーモアにより、米国世論を巧みに味方につけていった。ウィッテは、当初から日本の講和条件が賠償金・領土割譲を要求する厳しいものであることを想定して、そこを強調すれば米国民がロシアに対して同情心を持つようになるだろうと考えたのである。実際に「日本は多額の賠償金を得るためには、戦争を続けることも辞さないらしい」という日本批判の報道もなされ、一部では日本は金銭のために戦争をしているのかという好ましからざる風評も現れた。
それに対して小村は、外国の新聞記者にコメントを求められた際「われわれはポーツマスへ新聞の種をつくるために来たのではない。談判をするために来たのである」とそっけなく答え、中には激怒した記者もいたという。小村はまた、マスメディアに対し秘密主義を採ったため、現地の新聞にはロシア側が提供した情報のみが掲載されることとなった。明らかに小村はマスメディアの重要性を認識していなかった。
ポーツマス会議にはロシア側はコロストウェツ、ナボコフ、ウィッテ、ローゼン、ブランソン、日本側は安達、落合、小村、高平、佐藤で臨んだ。
会議で使われたテーブルは、愛知県の博物館明治村にて展示されている。
講和会議の公式会場はメイン州キタリーに所在するポーツマス海軍工廠86号棟であった。海軍工廠(ポーツマス海軍造船所)はピスカタカ川の中洲にあり、水路の対岸がニューハンプシャー州ポーツマス市[注釈 11]である。日本とロシアの代表団は、ポーツマス市に隣接するニューカッスルのホテルに宿泊し、そこから船で工廠に赴いて交渉を行っのである。
交渉参加者は以下の通りである。
日本側全権委員:小村寿太郎(外務大臣)、高平小五郎(駐米公使)随員:佐藤愛麿(駐メキシコ弁理公使)、山座円次郎(外務省政務局長)、安達峰一郎(外務省参事官)、本多熊太郎(外務大臣秘書官)、落合謙太郎(外務省二等書記官)、小西孝太郎(外交官補)、立花小一郎陸軍大佐(駐米公使館付陸軍武官)、竹下勇海軍中佐(駐米公使館付海軍武官)、ヘンリー・デニソン(外務省顧問)
ロシア側全権委員:セルゲイ・ウィッテ(元蔵相・伯爵)、ロマン・ローゼン(駐米大使、開戦時の駐日公使)。随員:ゲオルギー・プランソン(ロシア語版)(外務省条約局長)、フョードル・フョードロヴィチ(ペテルブルク大学国際法学者・外務省顧問)、イワン・シポフ(ロシア語版)(大蔵省理財局長)、ニコライ・エルモロフ(ロシア語版)陸軍少将(駐英陸軍武官)、ウラジーミル・サモイロフ陸軍大佐(元駐日公使館付陸軍武官)、イリヤ・コロストウェツ(ロシア語版)(ウィッテ秘書、後に駐清公使)、コンスタンチン・ナボコフ(ロシア語版)(外務省書記官)
さて、講和会議は、1905年8月1日より17回にわたって行われた。8月10日からは本会議が始まった。また、非公式にはホテルで交渉することもあった。
8月10日の第一回本会議冒頭において小村は、まず日本側の条件を提示し、逐条それを審議する旨を提案してウィッテの了解を得た。小村がウィッテに示した講和条件は次の12箇条である。
ロシアは韓国(大韓帝国)における日本の政治上・軍事上および経済上の日本の利益を認め、日本の韓国に対する指導、保護および監督に対し、干渉しないこと。
ロシア軍の満洲よりの全面撤退、満洲におけるロシアの権益のうち清国の主権を侵害するもの、または機会均等主義に反するものはこれをすべて放棄すること。
満洲のうち日本の占領した地域は改革および善政の保障を条件として一切を清国に還付すること。ただし、遼東半島租借条約に包含される地域は除く。
日露両国は、清国が満洲の商工業発達のため、列国に共通する一般的な措置の執行にあたり、これを阻害しないことを互いに約束すること。
ロシアは、樺太および附属島、一切の公共営造物・財産を日本に譲与すること。
旅順、大連およびその周囲の租借権・該租借権に関連してロシアが清国より獲得した一切の権益・財産を日本に移転交附すること。
ハルビン・旅順間鉄道とその支線およびこれに附属する一切の権益・財産、鉄道に所属する炭坑をロシアより日本に移転交附すること。
満洲横貫鉄道(東清鉄道本線)は、その敷設にともなう特許条件に従いまた単に商工業上の目的にのみ使用することを条件としてロシアが保有運転すること。
ロシアは、日本が戦争遂行に要した実費を払い戻すこと。払い戻しの金額、時期、方法は別途協議すること。
戦闘中損害を受けた結果、中立港に逃げ隠れしたり抑留させられたロシア軍艦をすべて合法の戦利品として日本に引き渡すこと。
ロシアは極東方面において海軍力を増強しないこと。
ロシアは日本海、オホーツク海およびベーリング海におけるロシア領土の沿岸、港湾、入江、河川において漁業権を日本国民に許与すること。
ロシア側の次席全権、ロマン・ローゼン
それに対してウィッテは、8月12日午前の第二回本会議において、2.3.4.6.8.については同意または基本的に同意、7.については「主義においては承諾するが、日本軍に占領されていない部分は放棄できない」、11.については「屈辱的約款には応じられないが、太平洋上に著大な海軍力を置くつもりはないと宣言できる」、12.に対しては「同意するが、入江や河川にまで漁業権は与えられない」と返答する一方、5.9.10については、不同意の意を示した。この日は、第1条の韓国問題についてさらに踏み込んだ交渉がなされた。ウィッテは、日露両国の盟約によって一独立国を滅ぼしては他の列強からの誹りを受けるとして、これに反対した。しかし、強気の小村はこれに対し、今後、日本の行為によって列国から何を言われようと、それは日本の問題であると述べ、国際的批判は意に介せずとの姿勢を示した。ウィッテも譲らず、交渉は初手から難航した。これをみてとったロマン・ローゼンは、この議論を議事録にとどめ、ロシアが日本に抵抗した記録を残し、韓国の同意を得たならば、日本の保護権確立を進めてもよいのではないかという妥協案をウィッテに示した。小村もまた、韓国は日本の承諾がなければ、他国と条約を結ぶことができない状態であり、すでに韓国の主権は完全なものではないと述べた。ウィッテは小村の主張を聞いて、ローゼンの妥協案を受け入れたのである。こうして、1.についても同意が得られたのだ。
8月14日の第3回本会議では第2条・第3条について話し合われ、難航したものの最終的に妥結した。15日の第4回本会議では第4条の満洲開放問題が日本案通りに確定され、第5条の樺太割譲問題は両者対立のまま先送りされた。16日の第5回本会議では第7条・第8条が討議され、第7条は原則的な、第8条は完全な合意成立に至ったのだ。
8月17日の第6回本会議、18日の第7回本会議では償金問題を討議したが、成果が上がらず、小村全権の依頼によって、かねてより渡米し日本の広報外交を担っていた金子堅太郎がルーズベルト大統領と会見して、その援助を求めた[12]。ルーズベルトは8月21日、ニコライ2世あてに善処を求める親電を送った。
8月23日の第8回本会議では、ウィッテは小村に対し「もしロシアがサハリン全島を日本にゆずる気があるならば、これを条件として、日本は金銭上の要求を撤回する気があるか」という質問をなげかけた。ロシアとしては、これをもし日本が拒否したならば、日本は金銭のために戦争をおこなおうとする反人道的な国家であるという印象を世界がいだくであろうと期待しての問いであった。それに対し、小村は樺太はすでに占領しており、日本国民は領土と償金の両方を望んでいると応答した。ルーズベルトは日本に巨大な償金の要求をやめよと声をかけた。
ルーズベルトは再び斡旋に乗りだしたが、ニコライ2世から講和を勧める2度目の親書の返書を受け取ったとき「ロシアにはまったく匙を投げた。講和会議が決裂したら、ラムスドルフ外相とウィッテは自殺して世界にその非を詫びなければならぬ」と口荒く語ったといわれている。8月26日午前の秘密会議も午後の第9回本会議も成果なく終わった。しかし、このとき高平との非公式面談の席上、ロシアは「サハリン南半分の譲渡」を示唆したといわれる。しかし、小村らはロシアは毫も妥協を示さないとして、談判打ち切りの意を日本政府に打電したのだ。
政府は緊急に元老および閣僚による会議を開き、8月28日の御前会議を経て、領土・償金の要求を両方を放棄してでも講和を成立させるべし、と応答した。全権事務所にいた随員も日本から派遣された特派記者もこれには一同大変な衝撃を受けたと言われる。これに前後して、ニコライ2世が樺太の南半分は割譲してもよいという譲歩をみせたという情報が同盟国イギリスから東京に伝えられたため、8月29日午前の秘密会議、午後の第10回本会議では交渉が進展し、南樺太割譲にロシア側が同意することで講和が事実上成立した。これに先だち、ウィッテはすでに南樺太の割譲で合意することを決心していた。第10回会議場から別室に戻ったウィッテは「平和だ、日本は全部譲歩した」とささやき、随員の抱擁と接吻を喜んで受けたといわれている。
アメリカやヨーロッパの新聞は、さかんに日本が「人道国家」であることを賞賛し、日本政府は開戦の目的を達したとの記事を掲載した。皇帝ニコライ2世は、ウィッテの報告を聞いて合意の成立した翌日の日記に「一日中頭がくらくらした」とその落胆ぶりを書き記しているが、結局のところ、ウィッテの決断を受け入れる他はなかったのだ。9月1日、両国の間で休戦条約が結ばれた。以上のような紆余曲折を経て、1905年9月5日(露暦8月23日)、ポーツマス海軍工廠内で日露講和条約の調印がなされた。ロシア軍部には強い不満が残り、ロシアの勝利を期待していた大韓帝国の皇帝高宗は絶望したという。
【第十三巻ノ2】
《日露戦争に 纏わる日米友好の証》
読者の皆さんは在外公館に於ける大使や総領事の方々の駐在先の国々で友好の為のレセプションが行われていることをご存知であろうか?
今年2025年9月5日にニューハンプシャー州議会による対日友好宣言発出及びポーツマスにおけるベルリンギングセレモニーが
行われた。
9月5日、髙橋総領事は、日露戦争の講和条約であるポーツマス条約締結120周年の機会にニューハンプシャーNH州議会により発出された、対日友好宣言を記念するシャーマン・パッカードNH州下院議長主催の式典(於:コンコードの州会議事堂)に出席しした。同行事には、ケリー・エイヨットNH州知事、シャロン・カーソンNH州上院議長、デグラン・マッカーケルン・ポーツマス市長等が参加。
髙橋総領事からは、我が国近代史における歴史的意義、米国の仲介、市民外交が持つ現代的意義を指摘しつつ、日本とNH州の友情及び協力を確認する対日友好宣言が史上初めて発出されたことに謝意を述べたのだ。
続いて、髙橋総領事は、チャールズ・ドレアックNH日米協会会長、ジーン・シャヒーン連邦上院議員、ケリー・エイヨット州知事、シャーマン・パッカード州下院議長、マッカーケルン・ポーツマス市長、ポーツマス市民の皆様と共に、ポーツマスで開催されたベルリンギングセレモニーに参加した。
いずれの行事にも当地訪問中で、ポーツマス市の姉妹都市である日南市の髙橋透市長、北川浩一郎市議会議長他日南市の代表団が参加し、日本とニューハンプシャー関係の一層の強化を確認する機会となった。このように日露戦争の終戦に向けてアメリカ大統領ルーズベルト大統領の仲裁によりポーツマス条約が締結されたことを決して忘れてはならない。
さて、ニューハンプシャー州のポーツマスは、大西洋に面した港町である。日露戦争の講和会議が行われ、ポーツマス条約が結ばれた場所として日本でよく知られている。ボストンから車で約1時間の距離にあり、歴史的な街並みが特徴といえる。
ポーツマスはニューハンプシャー州側に位置し、ポーツマス海軍工廠はメイン州側で州を挟んでいる。
現在、アメリカでは、ポーツマス講和会議にかかわる歴史遺産の保全活動が進められている。
当時、日本全権が宿舎としたウェントワース臨海ホテルは1981年に閉鎖されたままとなっており、老朽化が著しく、雨漏りや傷みも酷かった。そこで、ポーツマス日米協会が窓口となって「ウェントワース友の会」が設立され、ホテルの再建計画が立てられ復元作業がなされたのだ。
公式会場となったポーツマス海軍工廠では、1994年3月、会議当時の写真や資料を展示する常設の「ポーツマス条約記念館」が開設された。
2005年、老朽化のため(注釈1)海軍工廠を閉鎖するとの政府決定が発表されたが、ポーツマスではそれに対する反対運動が起こり、その結果、閉鎖は撤回されている。
(注釈1)海軍工廠は海軍の軍需工場のこと。
武器・弾薬をはじめとする軍需品を開発・製造・修理・貯蔵・支給するための施設。
また、現地では、日米露3国の専門家による「ポーツマス講和条約フォーラム」が幾度か開催されており、2010年にはニューハンプシャー州で9月5日を州の記念日にする条例が成立した。
当時、モンテネグロ公国を巡り日本に参戦したのか、どうか?と、論議されたことがあった。
モンテネグロ公国は日露戦争に際してロシア側に立ち、日本に対して宣戦布告したという説がある。これについては、2006年(平成18年)2月14日に鈴木宗男議員が、「一九〇四年にモンテネグロ王国が日本に対して宣戦を布告したという事実はあるか。ポーツマス講和会議にモンテネグロ王国の代表は招かれたか。日本とモンテネグロ王国の戦争状態はどのような手続きをとって終了したか」との内容の質問主意書を提出。これに対し日本政府は、「政府としては、千九百四年にモンテネグロ国が我が国に対して宣戦を布告したことを示す根拠があるとは承知していない。モンテネグロ国の全権委員は、御指摘のポーツマスにおいて行われた講和会議に参加していない」との答弁書を出している。
ロシアの公文書を調査したところ、ロシア帝国がモンテネグロの参戦打診を断っていたことが明らかとなり、独立しても戦争状態にならないことが確認された。
私たちは、日露戦争については、二国間だけの問題ではなく、国際社会を巻き込んでいることを知らなくてはならない。
日本海海戦に勝利した日本は最早、戦うお金が無くなっていた。国民の生活は疲弊していた。また、多くの人命を失っていた。そんな中、一日も、早く日露戦争の終結を急いでいた。アメリカのルーズベルト大統領に斡旋を頼んだのだ。結局、ロシアは日本との講和会議に臨むことになったのである。そのお話しである。
ポーツマス条約は、アメリカ合衆国大統領セオドア・ルーズベルトの斡旋によって、日本とロシアの間で結ばれた日露戦争の講和条約である。日露講和条約とも言われる。
西暦1905年(明治38年)9月4日(日本時間では9月5日15時47分)、アメリカ・ニューハンプシャー州ポーツマス近郊のポーツマス海軍造船所において、日本全権小村寿太郎(外務大臣)とロシア全権セルゲイ・ウィッテの間で調印された条約である。
また、条約内容を交渉した会議(同年8月10日 -)のことをポーツマス会議、 日露講和会議、ポーツマス講和会議などと呼んでいる。私が教科書で学んだのはポーツマス講和会議であった。
講和会議に臨んだ日本人は、小村寿太郎と高平小五郎、随員2名および米国人外交顧問ヘンリー・ウィラード・デニソン。
日露戦争において終始優勢を保っていた日本は、日本海海戦戦勝後の1905年(明治38年)6月、これ以上の戦争継続が国力の面で限界であったことから、当時英仏列強に肩を並べるまでに成長し国際的権威を高めようとしていたアメリカ合衆国に対し「中立の友誼的斡旋」(外交文書)を申し入れた。米国に斡旋を依頼したのは、陸奥国一関藩(岩手県)出身の駐米公使高平小五郎であり、以後、和平交渉の動きが加速化したのである。
講和会議は1905年8月に開かれた。当初ロシアは強硬姿勢を貫き「たかだか小さな戦闘において敗れただけであり、ロシアは負けてはいない。まだまだ継戦も辞さない」と主張していたため、交渉は暗礁に乗り上げていたが日本としてはこれ以上の戦争の継続は不可能であると判断しており、またこの調停を成功させたい米国はロシアに働きかけることで事態の収拾を図った。結局、ロシアは満洲および朝鮮からは撤兵し日本に樺太の南部を割譲するものの、戦争賠償金には一切応じないというロシア側の最低条件で交渉は締結した。半面、日本は困難な外交的取引を通じて辛うじて勝者としての体面を勝ち取った。
この条約によって日本は、樺太島(サハリン島)の南半分、満洲南部の鉄道及び領地の租借権、大韓帝国に対する排他的指導権などを獲得したものの、軍事費として投じてきた国家予算4年分にあたる20億円を埋め合わせるための戦争賠償金を獲得することができなかった。そのため、条約締結直後には、戦時中の増税による耐乏生活を強いられてきた国民によって日比谷焼打事件などの暴動が起こった。
樺太はサハリンとも呼ばれる。樺太は、ユーラシア東方、オホーツク海の南西部にある島である。南北約948 km、東西約160 kmで南北に細長く、面積は約76,400 km2で、北海道(78,073 km2)よりやや小さい。樺太島、サハリン島ともいう。日本が実効支配していた頃は樺太という名称以外ではサガレンが一般的に用いられていた。
樺太は、北部と南部でそれぞれ異なる沿革を経たため、ここでは北緯50度線以北を「北樺太」(または「北サハリン」)、以南を「南樺太」というのが通例である。
近世以前、樺太にはアイヌ民族、ウィルタ民族、ニヴフ民族などの先住民が居住しており、主権国家の支配は及んでいなかった。
近代以降、樺太の南に隣接する日本と、北西に隣接するロシアとが競って樺太への領土拡張を求めて植民を進め、多くの日本人とロシア人が樺太へ移住するようになった。
1855年(安政2年)の日露和親条約では樺太には明確な国境が設けられず、日本とロシアとが混住する土地のままとされた。
1875年(明治8年)の樺太千島交換条約によって、以前から日本領であった北方領土に加えてて千島列島(得撫島から占守島)を日本領とする代わりに、樺太の全土がロシア領と定められた。
日露戦争に於いて締結されたポーツマス条約で日本は樺太の南半分を領有した。1905年のことである。
1905年(明治38年)から1945年(昭和20年)までは、北緯50度線を境に、樺太の南半分(南樺太)を樺太(カラフト)として日本が、北半分(北樺太、北サハリン)を「サハリンとしてロシア及びソビエト連邦が領有していた。日本領有下においては、南樺太およびその付属島嶼を指す行政区画名として「樺太庁」が使用された。日本本土の食糧確保のために農業移民が指向され、とくに1928年から1940年は集団移民制度が実施された。その他、製紙・パルプ業、石炭業が主要産業となった。1940年には人口40万人となる。
第二次世界大戦末期、沖縄県における沖縄戦に続いて、日本本土(内地)最後の市街戦が行われた地である(1945年8月の樺太の戦い)。
戦後はソビエト連邦及びロシア連邦が樺太南部も実効支配している。人口約50万人で最大都市はサハリン州の州都でもあるユジノサハリンスク(人口約20万人。日本名: 豊原)。現在、サハリンプロジェクトが進められている。
【十三巻ノ2】
《ポーツマス条約 日本とロシア》
日露戦争に於いて、1905年3月、日本軍はロシア軍を破って奉天を占領したものの、継戦能力はすでに限界を超え、特に長期間の専門的教育を必要とする上に、常に部隊の先頭に欠かせない尉官クラスの士官の損耗が甚大で払底しつつあり、なおかつ、武器や弾薬の調達の目途も立たなくなっていた。一方のロシアでは同年1月の血の日曜日事件などにみられる国内情勢の混乱とロシア第一革命の広がり、ロシア軍の相次ぐ敗北とそれに伴う弱体化、さらに日本の強大化に対する列強の怖れなどもあって、日露講和を求める国際世論が強まっていた。
駐米公使高平小五郎はこの日露戦争終結に向けて動き出した。
1905年5月27日から28日にかけての日本海海戦での完全勝利は、日本にとって講和への絶好の機会となった。5月31日、小村寿太郎外務大臣は、高平小五郎駐米公使に宛てて訓電を発し、中立国アメリカのセオドア・ルーズベルト大統領に「直接かつ全然一己の発意により」日露両国間の講和を斡旋するよう求め、命を受けた高平は翌日「中立の友誼的斡旋」を大統領に申し入れた。ルーズベルト大統領は日露開戦の当初から、アメリカは日本を支持するとロシアに警告し、「日本はアメリカのために戦っている」と公言しており、また全米ユダヤ人協会会長で銀行家のヤコブ・シフと鉄道王のエドワード・ヘンリー・ハリマンが先頭に立って日本の国債を買い支えるなど、アメリカは満洲、蒙古、シベリア、沿海州、朝鮮への権益介入のために日本を支援していた。
米大統領の仲介を得た高平は、小村外相に対し、ポーツマスは合衆国政府の直轄地で近郊にポーツマス海軍造船所があり、宿舎となるホテルもあって、日露両国の全権委員は互いに離れて起居できることを伝えていた。
パリ(ロシア案)、芝罘またはワシントンD.C.(日本の当初案)、ハーグ(米英案)を押さえての開催地決定であった。ポーツマスは、ニューヨークの北方約400キロメートル地点に立地し、軍港であると同時に別荘の建ち並ぶ閑静な避暑地でもあり、警備がきわめて容易なことから公式会場に選定されたのである。
「テディ」として親しまれたアメリカ第26代大統領セオドア・ルーズベルトは日本にとっては大切な親日派であった。
また、米国内の開催には、セオドア・ルーズベルトの「日本にとって予の努力が最も利益になるというのなら、いかなる時にでもその労を執る」(外交文書)という発言に象徴される親日的な性格に加え、講和の調停工作を利用し、米国をして国際社会の主役たらしめ、従来ロシアの強い影響下にあった東アジアにおいて、日・米も含めんだ勢力均衡の実現を図るという思惑があった。
中国の門戸開放を願うアメリカとしては、日本とロシアのいずれかが圧倒的な勝利を収めて満洲を独占することは避けなければならなかったのであり、このアメリカの立場と、国内の革命運動抑圧のため戦争終結を望むロシア、戦力の限界点を超えて勝利を確実にしたい日本のそれぞれの思惑が一致したのである。ドイツ・フランス両国からも、「ロシアの内訌がフランス革命の時のように隣国に容易ならざる影響を及ぼす虞がある」(外交文書)として講和が打診されていた。ルーズベルトの仲介はこれを踏まえたものであったが、その背景には、米国がその長期戦略において、従来「モンロー主義」と称されてきた伝統的な孤立主義からの脱却を図ろうとする思潮の変化があった。
ルーズベルト大統領は、駐露アメリカ大使のジョージ・マイヤーにロシア皇帝への説得を命じたあと、1905年6月9日、日露両国に対し、講和交渉の開催を正式に提案した。この提案を受諾したのは、日本が提案のあった翌日の6月10日、ロシアが6月12日であった。なお、ルーズベルトは交渉を有利に進めるために日本は樺太(サハリン)に軍を派遣して同地を占領すべきだと意見を示唆している。
日本の国内において、首相桂太郎が日本の全権代表として最初に打診したのは、外相小村寿太郎ではなく元老伊藤博文であった。桂政権(第1次桂内閣)は、講和条件が日本国民に受け入れ難いものになることを当初から予見し、それまで4度首相を務めた伊藤であれば国民の不満を和らげることが出来るのではないかと期待したのであった。伊藤ははじめは引き受けてもよいという姿勢を示したのに対し、彼の側近は、戦勝の栄誉は桂が担い、講和によって生じる国民の反感を伊藤が一手に引き受けるのは馬鹿げているとして猛反対し、最終的には伊藤博文も全権大使への就任を辞退した。
結局、日向国飫肥藩(宮崎県)の下級藩士出身で、第1次桂内閣(1901年-1906年)の外務大臣として日英同盟の締結に功のあった小村壽太郎が全権代表に選ばれた。小村は、身長150センチメートルに満たぬ小男で、当時50歳になる直前であった。伊藤博文もまた交渉の容易でないことをよく知っており、小村に対しては「君の帰朝の時には、他人はどうあろうとも、吾輩だけは必ず出迎えにゆく」と語り、励ましたと言う。
小村壽太郎が全権代表に対するロシア全権代表セルゲイ・ウィッテ(元蔵相)は、当時56歳で身長180センチメートルを越す大男であった。戦前は財政事情等から日露開戦に反対していたものの、彼の和平論は対日強硬派により退けられ、戦争中はロシア帝国の政権中枢より遠ざけられていた。ロシア国内では、全権としてウィッテが最適任であることは衆目の一致するところであったが、皇帝ニコライ2世は彼を好まなかった。ウラジーミル・ラムスドルフ外相は駐仏大使のアレクサンドル・ネリードフを首席全権とする案が有力だったが、本人から一身上の都合により断られた。その後、駐日公使の経験をもつデンマーク駐在大使のアレクサンドル・イズヴォリスキー(のち外相)らの名も挙がったが、結局ウィッテが首席全権に選ばれたのだ。イズヴォリスキーはウィッテの名を挙げてラムスドルフ外相に献策したと言われている。失脚していたウィッテが首席全権に選ばれたのは、日本が伊藤博文を全権として任命することをロシア側が期待したためでもあった。ウィッテは、皇帝より「一にぎりの土地も、一ルーブルの金も日本に与えてはいけない」という厳命を受けていた。そのためウィッテは、ポーツマス到着以来まるで戦勝国の代表のように振る舞い、ロシアは必ずしも講和を欲しておらず、いつでも戦争を続ける準備があるという姿勢をくずさなかったのだ。次席全権のロマン・ローゼン駐米大使は開戦時の日本公使であり、彼自身は戦争回避の立場に立っていたとされ、また、西徳二郎外相との間で1898年に西・ローゼン協定を結んだ経歴のある人物であった。
すべての戦力においてロシアより劣勢であった日本は、開戦当初より、戦争の期間を約1年に想定し、先制攻撃を行って戦況が優勢なうちに講和に持ち込もうとしていたのである。開戦後、日本軍が連戦連勝を続けてきたのはむしろ奇跡的ともいえたが、3月の奉天会戦の勝利以後は武器・弾薬の補給も途絶えた。そのため、日本軍は決してロシア軍に対し決戦を挑むことなく、ひたすら講和の機会をうかがったのだ。5月末の日本海海戦でロシアバルチック艦隊を撃滅したことは、その絶好の機会だったのであった。すでに日本はこの戦争に約180万の将兵を動員し、死傷者は約20万人、戦費は約20億円に達していた。満洲軍総参謀長の児玉源太郎は、1年間の戦争継続を想定した場合、さらに25万人の兵と15億円の戦費を要するとして、続行は不可能と結論づけていたのだ。特に専門的教育に年月を要する下級将校クラスが勇敢に前線を率いて戦死した結果、既にその補充は容易でなくなっていたのだ。一方、ロシアは、海軍は失ったもののシベリア鉄道を利用して陸軍を増強することが可能であり、新たに増援部隊が加わって、日本軍を圧倒する兵力を集めつつあった。ロシア軍はいつでも戦える準備があったのだ。
6月30日、桂内閣は閣議において小村・高平両全権に対して与える訓令案を決定した。その内容は、(1)韓国を日本の自由処分に委ねること、(2)日露両軍の満洲撤兵、(3)遼東半島租借権とハルビン・旅順間の鉄道の譲渡の3点が「甲・絶対的必要条件」、(1)軍費の賠償、(2)中立港に逃げ込んだロシア艦艇の引渡し、(3)樺太および付属諸島の割譲、(4)沿海州沿岸の漁業権獲得の4点が「乙・比較的必要条件」であり、他に「丙・付加条件」があった。それは、(1)ロシア海軍力の制限、(2)ウラジオストク港の武装解除であった。
外交官時代「ネズミ公使」と渾名された日本全権小村寿太郎は首席特命全権大使に選ばれた。こうした複雑な事情をすべて知悉したうえで会議に臨んだのである。小村の一行は1905年7月8日、渡米のため横浜港に向かうために新橋停車場を出発したが、そのとき新橋駅には大勢の人が集まり、大歓声で万歳三唱し、小村を盛大に見送った。小村は桂首相に対し「新橋駅頭の人気は、帰るときはまるで反対になっているでしょう」と呟くように告げたと伝わっている。井上馨はこのとき、小村に対し涙を流して「君は実に気の毒な境遇に立った。今までの名誉も今度で台なしになるかもしれない」と語ったと言われる。小村一行は、シアトルには7月20日に到着し、一週間後ワシントンでルーズベルト大統領に表敬訪問を行い仲介を引き受けてくれたことに謝意を表明したのだ。児玉源太郎は、日本が講和条件として掲げた対露要求12条のなかに賠償金の一条があることを知り、「桂の馬鹿が償金をとる気になっている」と語ったという。日露開戦前に小村外相に「七博士意見書」を提出した七博士の代表格として知られる戸水寛人は、講和の最低条件として「償金30億円、樺太・カムチャッカ半島・沿海州全部の割譲」を主張し、新聞もまた戸水博士の主張を挙げるなどして国民の期待感を煽り、国民もまた戦勝気分に浮かれていた。黒龍会が1905年6月に刊行した『和局私案』では、韓国を完全に勢力圏におき、東三省(満洲)からのロシアの駆逐、ポシェト湾の割譲、樺太回復、カムチャッカ半島の領有が必要だと論じられた。陸羯南の『日本』でも、賠償金30億円は「諸氏の一致せる最小限度の条件」のひとつに位置づけられていたのだ。日清戦争後の下関条約では、台湾の割譲のほか賠償金も得たため、日本国民の多くは大国ロシアならばそれに見合った賠償金を支払うことができると信じ、巷間では「30億円」「50億円」などの数字が一人歩きしていたのだ。日本国内に於いては、政府の思惑と国民の期待の間に大きな隔たりがあり、一方、日本とロシアとの間では、「賠償金と領土割譲」の2条件に関して最後の最後まで議論が対立した。
ロシア全権大使ウィッテは、7月19日、サンクト・ペテルブルクを出発し、8月2日にニューヨークに到着した。ただちに記者会見を試み、ジャーナリストに対しては愛想良く対応して、洗練された話術とユーモアにより、米国世論を巧みに味方につけていった。ウィッテは、当初から日本の講和条件が賠償金・領土割譲を要求する厳しいものであることを想定して、そこを強調すれば米国民がロシアに対して同情心を持つようになるだろうと考えたのである。実際に「日本は多額の賠償金を得るためには、戦争を続けることも辞さないらしい」という日本批判の報道もなされ、一部では日本は金銭のために戦争をしているのかという好ましからざる風評も現れた。
それに対して小村は、外国の新聞記者にコメントを求められた際「われわれはポーツマスへ新聞の種をつくるために来たのではない。談判をするために来たのである」とそっけなく答え、中には激怒した記者もいたという。小村はまた、マスメディアに対し秘密主義を採ったため、現地の新聞にはロシア側が提供した情報のみが掲載されることとなった。明らかに小村はマスメディアの重要性を認識していなかった。
ポーツマス会議にはロシア側はコロストウェツ、ナボコフ、ウィッテ、ローゼン、ブランソン、日本側は安達、落合、小村、高平、佐藤で臨んだ。
会議で使われたテーブルは、愛知県の博物館明治村にて展示されている。
講和会議の公式会場はメイン州キタリーに所在するポーツマス海軍工廠86号棟であった。海軍工廠(ポーツマス海軍造船所)はピスカタカ川の中洲にあり、水路の対岸がニューハンプシャー州ポーツマス市[注釈 11]である。日本とロシアの代表団は、ポーツマス市に隣接するニューカッスルのホテルに宿泊し、そこから船で工廠に赴いて交渉を行っのである。
交渉参加者は以下の通りである。
日本側全権委員:小村寿太郎(外務大臣)、高平小五郎(駐米公使)随員:佐藤愛麿(駐メキシコ弁理公使)、山座円次郎(外務省政務局長)、安達峰一郎(外務省参事官)、本多熊太郎(外務大臣秘書官)、落合謙太郎(外務省二等書記官)、小西孝太郎(外交官補)、立花小一郎陸軍大佐(駐米公使館付陸軍武官)、竹下勇海軍中佐(駐米公使館付海軍武官)、ヘンリー・デニソン(外務省顧問)
ロシア側全権委員:セルゲイ・ウィッテ(元蔵相・伯爵)、ロマン・ローゼン(駐米大使、開戦時の駐日公使)。随員:ゲオルギー・プランソン(ロシア語版)(外務省条約局長)、フョードル・フョードロヴィチ(ペテルブルク大学国際法学者・外務省顧問)、イワン・シポフ(ロシア語版)(大蔵省理財局長)、ニコライ・エルモロフ(ロシア語版)陸軍少将(駐英陸軍武官)、ウラジーミル・サモイロフ陸軍大佐(元駐日公使館付陸軍武官)、イリヤ・コロストウェツ(ロシア語版)(ウィッテ秘書、後に駐清公使)、コンスタンチン・ナボコフ(ロシア語版)(外務省書記官)
さて、講和会議は、1905年8月1日より17回にわたって行われた。8月10日からは本会議が始まった。また、非公式にはホテルで交渉することもあった。
8月10日の第一回本会議冒頭において小村は、まず日本側の条件を提示し、逐条それを審議する旨を提案してウィッテの了解を得た。小村がウィッテに示した講和条件は次の12箇条である。
ロシアは韓国(大韓帝国)における日本の政治上・軍事上および経済上の日本の利益を認め、日本の韓国に対する指導、保護および監督に対し、干渉しないこと。
ロシア軍の満洲よりの全面撤退、満洲におけるロシアの権益のうち清国の主権を侵害するもの、または機会均等主義に反するものはこれをすべて放棄すること。
満洲のうち日本の占領した地域は改革および善政の保障を条件として一切を清国に還付すること。ただし、遼東半島租借条約に包含される地域は除く。
日露両国は、清国が満洲の商工業発達のため、列国に共通する一般的な措置の執行にあたり、これを阻害しないことを互いに約束すること。
ロシアは、樺太および附属島、一切の公共営造物・財産を日本に譲与すること。
旅順、大連およびその周囲の租借権・該租借権に関連してロシアが清国より獲得した一切の権益・財産を日本に移転交附すること。
ハルビン・旅順間鉄道とその支線およびこれに附属する一切の権益・財産、鉄道に所属する炭坑をロシアより日本に移転交附すること。
満洲横貫鉄道(東清鉄道本線)は、その敷設にともなう特許条件に従いまた単に商工業上の目的にのみ使用することを条件としてロシアが保有運転すること。
ロシアは、日本が戦争遂行に要した実費を払い戻すこと。払い戻しの金額、時期、方法は別途協議すること。
戦闘中損害を受けた結果、中立港に逃げ隠れしたり抑留させられたロシア軍艦をすべて合法の戦利品として日本に引き渡すこと。
ロシアは極東方面において海軍力を増強しないこと。
ロシアは日本海、オホーツク海およびベーリング海におけるロシア領土の沿岸、港湾、入江、河川において漁業権を日本国民に許与すること。
ロシア側の次席全権、ロマン・ローゼン
それに対してウィッテは、8月12日午前の第二回本会議において、2.3.4.6.8.については同意または基本的に同意、7.については「主義においては承諾するが、日本軍に占領されていない部分は放棄できない」、11.については「屈辱的約款には応じられないが、太平洋上に著大な海軍力を置くつもりはないと宣言できる」、12.に対しては「同意するが、入江や河川にまで漁業権は与えられない」と返答する一方、5.9.10については、不同意の意を示した。この日は、第1条の韓国問題についてさらに踏み込んだ交渉がなされた。ウィッテは、日露両国の盟約によって一独立国を滅ぼしては他の列強からの誹りを受けるとして、これに反対した。しかし、強気の小村はこれに対し、今後、日本の行為によって列国から何を言われようと、それは日本の問題であると述べ、国際的批判は意に介せずとの姿勢を示した。ウィッテも譲らず、交渉は初手から難航した。これをみてとったロマン・ローゼンは、この議論を議事録にとどめ、ロシアが日本に抵抗した記録を残し、韓国の同意を得たならば、日本の保護権確立を進めてもよいのではないかという妥協案をウィッテに示した。小村もまた、韓国は日本の承諾がなければ、他国と条約を結ぶことができない状態であり、すでに韓国の主権は完全なものではないと述べた。ウィッテは小村の主張を聞いて、ローゼンの妥協案を受け入れたのである。こうして、1.についても同意が得られたのだ。
8月14日の第3回本会議では第2条・第3条について話し合われ、難航したものの最終的に妥結した。15日の第4回本会議では第4条の満洲開放問題が日本案通りに確定され、第5条の樺太割譲問題は両者対立のまま先送りされた。16日の第5回本会議では第7条・第8条が討議され、第7条は原則的な、第8条は完全な合意成立に至ったのだ。
8月17日の第6回本会議、18日の第7回本会議では償金問題を討議したが、成果が上がらず、小村全権の依頼によって、かねてより渡米し日本の広報外交を担っていた金子堅太郎がルーズベルト大統領と会見して、その援助を求めた[12]。ルーズベルトは8月21日、ニコライ2世あてに善処を求める親電を送った。
8月23日の第8回本会議では、ウィッテは小村に対し「もしロシアがサハリン全島を日本にゆずる気があるならば、これを条件として、日本は金銭上の要求を撤回する気があるか」という質問をなげかけた。ロシアとしては、これをもし日本が拒否したならば、日本は金銭のために戦争をおこなおうとする反人道的な国家であるという印象を世界がいだくであろうと期待しての問いであった。それに対し、小村は樺太はすでに占領しており、日本国民は領土と償金の両方を望んでいると応答した。ルーズベルトは日本に巨大な償金の要求をやめよと声をかけた。
ルーズベルトは再び斡旋に乗りだしたが、ニコライ2世から講和を勧める2度目の親書の返書を受け取ったとき「ロシアにはまったく匙を投げた。講和会議が決裂したら、ラムスドルフ外相とウィッテは自殺して世界にその非を詫びなければならぬ」と口荒く語ったといわれている。8月26日午前の秘密会議も午後の第9回本会議も成果なく終わった。しかし、このとき高平との非公式面談の席上、ロシアは「サハリン南半分の譲渡」を示唆したといわれる。しかし、小村らはロシアは毫も妥協を示さないとして、談判打ち切りの意を日本政府に打電したのだ。
政府は緊急に元老および閣僚による会議を開き、8月28日の御前会議を経て、領土・償金の要求を両方を放棄してでも講和を成立させるべし、と応答した。全権事務所にいた随員も日本から派遣された特派記者もこれには一同大変な衝撃を受けたと言われる。これに前後して、ニコライ2世が樺太の南半分は割譲してもよいという譲歩をみせたという情報が同盟国イギリスから東京に伝えられたため、8月29日午前の秘密会議、午後の第10回本会議では交渉が進展し、南樺太割譲にロシア側が同意することで講和が事実上成立した。これに先だち、ウィッテはすでに南樺太の割譲で合意することを決心していた。第10回会議場から別室に戻ったウィッテは「平和だ、日本は全部譲歩した」とささやき、随員の抱擁と接吻を喜んで受けたといわれている。
アメリカやヨーロッパの新聞は、さかんに日本が「人道国家」であることを賞賛し、日本政府は開戦の目的を達したとの記事を掲載した。皇帝ニコライ2世は、ウィッテの報告を聞いて合意の成立した翌日の日記に「一日中頭がくらくらした」とその落胆ぶりを書き記しているが、結局のところ、ウィッテの決断を受け入れる他はなかったのだ。9月1日、両国の間で休戦条約が結ばれた。以上のような紆余曲折を経て、1905年9月5日(露暦8月23日)、ポーツマス海軍工廠内で日露講和条約の調印がなされた。ロシア軍部には強い不満が残り、ロシアの勝利を期待していた大韓帝国の皇帝高宗は絶望したという。
【第十三巻ノ2】
《日露戦争に 纏わる日米友好の証》
読者の皆さんは在外公館に於ける大使や総領事の方々の駐在先の国々で友好の為のレセプションが行われていることをご存知であろうか?
今年2025年9月5日にニューハンプシャー州議会による対日友好宣言発出及びポーツマスにおけるベルリンギングセレモニーが
行われた。
9月5日、髙橋総領事は、日露戦争の講和条約であるポーツマス条約締結120周年の機会にニューハンプシャーNH州議会により発出された、対日友好宣言を記念するシャーマン・パッカードNH州下院議長主催の式典(於:コンコードの州会議事堂)に出席しした。同行事には、ケリー・エイヨットNH州知事、シャロン・カーソンNH州上院議長、デグラン・マッカーケルン・ポーツマス市長等が参加。
髙橋総領事からは、我が国近代史における歴史的意義、米国の仲介、市民外交が持つ現代的意義を指摘しつつ、日本とNH州の友情及び協力を確認する対日友好宣言が史上初めて発出されたことに謝意を述べたのだ。
続いて、髙橋総領事は、チャールズ・ドレアックNH日米協会会長、ジーン・シャヒーン連邦上院議員、ケリー・エイヨット州知事、シャーマン・パッカード州下院議長、マッカーケルン・ポーツマス市長、ポーツマス市民の皆様と共に、ポーツマスで開催されたベルリンギングセレモニーに参加した。
いずれの行事にも当地訪問中で、ポーツマス市の姉妹都市である日南市の髙橋透市長、北川浩一郎市議会議長他日南市の代表団が参加し、日本とニューハンプシャー関係の一層の強化を確認する機会となった。このように日露戦争の終戦に向けてアメリカ大統領ルーズベルト大統領の仲裁によりポーツマス条約が締結されたことを決して忘れてはならない。
さて、ニューハンプシャー州のポーツマスは、大西洋に面した港町である。日露戦争の講和会議が行われ、ポーツマス条約が結ばれた場所として日本でよく知られている。ボストンから車で約1時間の距離にあり、歴史的な街並みが特徴といえる。
ポーツマスはニューハンプシャー州側に位置し、ポーツマス海軍工廠はメイン州側で州を挟んでいる。
現在、アメリカでは、ポーツマス講和会議にかかわる歴史遺産の保全活動が進められている。
当時、日本全権が宿舎としたウェントワース臨海ホテルは1981年に閉鎖されたままとなっており、老朽化が著しく、雨漏りや傷みも酷かった。そこで、ポーツマス日米協会が窓口となって「ウェントワース友の会」が設立され、ホテルの再建計画が立てられ復元作業がなされたのだ。
公式会場となったポーツマス海軍工廠では、1994年3月、会議当時の写真や資料を展示する常設の「ポーツマス条約記念館」が開設された。
2005年、老朽化のため(注釈1)海軍工廠を閉鎖するとの政府決定が発表されたが、ポーツマスではそれに対する反対運動が起こり、その結果、閉鎖は撤回されている。
(注釈1)海軍工廠は海軍の軍需工場のこと。
武器・弾薬をはじめとする軍需品を開発・製造・修理・貯蔵・支給するための施設。
また、現地では、日米露3国の専門家による「ポーツマス講和条約フォーラム」が幾度か開催されており、2010年にはニューハンプシャー州で9月5日を州の記念日にする条例が成立した。
当時、モンテネグロ公国を巡り日本に参戦したのか、どうか?と、論議されたことがあった。
モンテネグロ公国は日露戦争に際してロシア側に立ち、日本に対して宣戦布告したという説がある。これについては、2006年(平成18年)2月14日に鈴木宗男議員が、「一九〇四年にモンテネグロ王国が日本に対して宣戦を布告したという事実はあるか。ポーツマス講和会議にモンテネグロ王国の代表は招かれたか。日本とモンテネグロ王国の戦争状態はどのような手続きをとって終了したか」との内容の質問主意書を提出。これに対し日本政府は、「政府としては、千九百四年にモンテネグロ国が我が国に対して宣戦を布告したことを示す根拠があるとは承知していない。モンテネグロ国の全権委員は、御指摘のポーツマスにおいて行われた講和会議に参加していない」との答弁書を出している。
ロシアの公文書を調査したところ、ロシア帝国がモンテネグロの参戦打診を断っていたことが明らかとなり、独立しても戦争状態にならないことが確認された。
私たちは、日露戦争については、二国間だけの問題ではなく、国際社会を巻き込んでいることを知らなくてはならない。
10
あなたにおすすめの小説
世界はあるべき姿へ戻される 第二次世界大戦if戦記
颯野秋乃
歴史・時代
1929年に起きた、世界を巻き込んだ大恐慌。世界の大国たちはそれからの脱却を目指し、躍起になっていた。第一次世界大戦の敗戦国となったドイツ第三帝国は多額の賠償金に加えて襲いかかる恐慌に国の存続の危機に陥っていた。援助の約束をしたアメリカは恐慌を理由に賠償金の支援を破棄。フランスは、自らを救うために支払いの延期は認めない姿勢を貫く。
ドイツ第三帝国は自らの存続のために、世界に隠しながら軍備の拡張に奔走することになる。
また、極東の国大日本帝国。関係の悪化の一途を辿る日米関係によって受ける経済的打撃に苦しんでいた。
その解決法として提案された大東亜共栄圏。東南アジア諸国及び中国を含めた大経済圏、生存圏の構築に力を注ごうとしていた。
この小説は、ドイツ第三帝国と大日本帝国の2視点で進んでいく。現代では有り得なかった様々なイフが含まれる。それを楽しんで貰えたらと思う。
またこの小説はいかなる思想を賛美、賞賛するものでは無い。
この小説は現代とは似て非なるもの。登場人物は史実には沿わないので悪しからず…
大日本帝国視点は都合上休止中です。気分により再開するらもしれません。
【重要】
不定期更新。超絶不定期更新です。
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
【戦国時代小説】 甲斐の虎•武田信玄と軍師•山本勘助
蔵屋
歴史・時代
わたしは、以前、甲斐国を観光旅行したことがある。
何故、甲斐国なのか?
それは、日本を象徴する富士山があるからだ。
さて、今回のわたしが小説の題材にした『甲斐の虎•武田信玄と軍師•山本勘助』はこの甲斐国で殆どの戦国乱世の時代を生き抜いた。そして越後の雄•上杉謙信との死闘は武田信玄、山本勘助にとっては人生そのものであったことだろう。
そんな彼らにわたしはスポットライトを当て読者の皆さんに彼らの素顔を知って頂く為に物語として執筆したものである。
なお、この小説の執筆に当たり『甲陽軍鑑』を参考にしていることを申し述べておく。
それでは、わたしが執筆した小説を最後までお楽しみ下さい。
読者の皆さんの人生において、お役に立てれば幸いです。
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
神典日月神示 真実の物語
蔵屋
歴史・時代
私は二人の方々の神憑りについて、今から25年前にその真実を知りました。
この方たちのお名前は
大本開祖•出口なお(でぐちなお)、
神典研究家で画家でもあった岡本天明(おかもとてんめい)です。
この日月神示(ひつきしんじ)または日尽神示(ひつくしんじ)は、神典研究家で画家でもあった岡本天明(おかもとてんめい)に「国常立尊(国之常立神)という高級神霊からの神示を自動書記によって記述したとされる書物のことです。
昭和19年から27年(昭和23・26年も無し)に一連の神示が降り、6年後の昭和33、34年に補巻とする1巻、さらに2年後に8巻の神示が降りたとされています。
その神示を纏めた書類です。
私はこの日月神示(ひつきしんじ)に出会い、研究し始めてもう25年になります。
日月神示が降ろされた場所は麻賀多神社(まかたじんじゃ)です。日月神示の最初の第一帖と第二帖は第二次世界大戦中の昭和19年6月10日に、この神社の社務所で岡本天明が神憑りに合い自動書記さされたのです。
殆どが漢数字、独特の記号、若干のかな文字が混じった文体で構成され、抽象的な絵のみで書記されている「巻」もあります。
本巻38巻と補巻1巻の計39巻が既に発表されているが、他にも、神霊より発表を禁じられている「巻」が13巻あり、天明はこの未発表のものについて昭和36年に「或る時期が来れば発表を許されるものか、許されないのか、現在の所では不明であります」と語っています。
日月神示は、その難解さから、書記した天明自身も当初は、ほとんど読むことが出来なかったが、仲間の神典研究家や霊能者達の協力などで少しずつ解読が進み、天明亡き後も妻である岡本三典(1917年〈大正6年〉11月9日 ~2009年〈平成21年〉6月23日)の努力により、現在では一部を除きかなりの部分が解読されたと言われているます。しかし、一方では神示の中に「この筆示は8通りに読めるのであるぞ」と書かれていることもあり、解読法の一つに成功したという認識が関係者の間では一般的です。
そのために、仮訳という副題を添えての発表もありました。
なお、原文を解読して漢字仮名交じり文に書き直されたものは、特に「ひふみ神示」または「一二三神示」と呼ばれています。
縄文人の祝詞に「ひふみ祝詞(のりと)」という祝詞の歌があります。
日月神示はその登場以来、関係者や一部専門家を除きほとんど知られていなかったが、1990年代の初め頃より神典研究家で翻訳家の中矢伸一の著作などにより広く一般にも知られるようになってきたと言われています。
この小説は真実の物語です。
「神典日月神示(しんてんひつきしんじ)真実の物語」
どうぞ、お楽しみ下さい。
『神知りて 人の幸せ 願うのみ
神のつたへし 愛善の道』
歌人 蔵屋日唱
滝川家の人びと
卯花月影
歴史・時代
勝利のために走るのではない。
生きるために走る者は、
傷を負いながらも、歩みを止めない。
戦国という時代の只中で、
彼らは何を失い、
走り続けたのか。
滝川一益と、その郎党。
これは、勝者の物語ではない。
生き延びた者たちの記録である。
【完結】電を逐う如し(いなづまをおうごとし)――磯野丹波守員昌伝
糸冬
歴史・時代
浅井賢政(のちの長政)の初陣となった野良田の合戦で先陣をつとめた磯野員昌。
その後の働きで浅井家きっての猛将としての地位を確固としていく員昌であるが、浅井家が一度は手を携えた織田信長と手切れとなり、前途には様々な困難が立ちはだかることとなる……。
姉川の合戦において、織田軍十三段構えの陣のうち実に十一段までを突破する「十一段崩し」で勇名を馳せた武将の一代記。
日本の運命を変えた天才少年-日本が世界一の帝国になる日-
ましゅまろ
歴史・時代
――もしも、日本の運命を変える“少年”が現れたなら。
1941年、戦争の影が世界を覆うなか、日本に突如として現れた一人の少年――蒼月レイ。
わずか13歳の彼は、天才的な頭脳で、戦争そのものを再設計し、歴史を変え、英米独ソをも巻き込みながら、日本を敗戦の未来から救い出す。
だがその歩みは、同時に多くの敵を生み、命を狙われることも――。
これは、一人の少年の手で、世界一の帝国へと昇りつめた日本の物語。
希望と混乱の20世紀を超え、未来に語り継がれる“蒼き伝説”が、いま始まる。
※アルファポリス限定投稿
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる