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第十四巻
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【第十四巻ノ1】
《金州•南山の激闘》
黒木第一軍と鴨緑江渡河作戦はじまる。
ソウルと平壌を占領し、鴨緑江を渡河!
日露戦争は、韓国と満州からロシア軍を駆逐して、日本による韓国支配を確実にするための戦いであった。当時、韓国内には、ロシア軍はそれほどいなかった。
少なくともソウルまでは進出していない。
しかし、平壌付近には小部隊が進出していた。
日本は、ロシアとの国交断絶とともにまず第一軍を編成して、最初に進出して抑えたのが首都漢城であった。先遣隊に続いて第十二師団本隊も仁川に上陸し、漢城に入ったのである。
ここからとりあえず平壌へ向けて進撃したのである。
第一軍の近衛師団と第二師団は、大同江の河口•鎮南浦のに上陸して平壌に入った。三月十九日から二十九日まで、平壌にとどまった。
当時の一個師団戦時の編成の定員は一万八千名であった。
定員いっぱいには充足はされなかったが、 兵站(注釈1)関係の部隊などを含めた第1軍の兵力は約四万二千名であった。それから鴨緑江を目指したのである。
鴨緑江を越えると清国領土である。
当時、日本ではその地域を満州と呼んだ。
満州は万里の長城北以北の地域を刺した。
そこは、ロシア軍が布陣しており、第1軍は、鴨緑江を渡ってから、ロシア軍と戦い、駆逐する作戦であった。
現在、北朝鮮に属する義州の対岸は丹東と呼ばれている。
丹東~義州間は鉄橋があり、トラックによって中国からの貨物が連日運び込まれていることが、テレビや新聞などで時々紹介されていた。丹東は当時は、安東と呼ばれていた。その安東県城は九連城から約八キロほど東にあった。
ロシア軍はその九連城を根拠地として、岸辺や山中に陣地を築き、要所要所に砲台を設けていた。
鴨緑江対岸のロシア軍は東部支隊と呼ばれ、ザスリッチ中将に率いられた約一万六千名ほどであった。
第一軍は、義州すごいね北方の九連城のほぼ正面に近衛師団、その右翼に第十二師団、左翼に第二師団を配置した。
この日本語が展開しているのは、約10キロの長さだったが、ロシア軍は。河岸二百七十五キロにわたって兵力を分散配備した。
どこから日本軍が、渡ろうとしても、小部隊で阻止することができると考えたからである。
そんな馬鹿みたいな発想が生まれたのも、東洋の小国•日本なんぞにヨーロッパの陸軍大国である。ロシアが負けるはずがないと、ほとんど無意識に思っていたからである。彼らは、日本軍がヨーロッパ式の訓練を受け、ヨーロッパ式の装備をしているとは思いもよらなかったのである。
知識として知ってはいても、自分たちと似たような軍隊に本当に育っているとはどうしても思えなかったのである。
5月1日、第1軍は九連城を占領した。
もともと、ロシア軍は九連城を摂取するつもりはなかった。
ザスリッチ中将はロシア満州軍総司令官から次のような命令を受けていた。
「優秀な敵との不利な戦いは避けて、敵の編成、配備及び前進方向を確かめながら退却して、敵との接触を保て」
だから九連城の次に、ロシア軍が根拠地と考えていた鳳凰城もほとんど戦闘らしい戦闘もなく、日本軍は、5月6日に占領した。
なかには鳳凰城退却のロシア軍第十二連隊のように野砲八門、機関銃七挺で必死の逆襲を成す部隊もあり、それと戦った第十二師団、第二十四連隊は一人の中隊長が戦死するなど大きな損害を被った。
最も、そのロシア軍も、全滅に近い損害を代償として払ったのである。
こうして第一軍の鴨緑江渡河作戦は成功した。
この時の第一軍の損害は次の通りである。
戦死者は二百二十三名。
負傷者は八百十六名。
死傷者合計は千三十九名であった。
ロシア軍の損害は次の通りである。
日本軍が埋葬した戦死者が千三百六十三名、負傷者を含めた捕虜が六百十三名であった。
緒戦でもあり、第一軍には敵戦死者を埋葬する余裕があったのだ。
いよいよ、第一軍は、ロシア軍を追撃し、激闘を交わしつつ北上したのである。
第一軍が九連城を占領し、鳳凰堂に迫った頃、連合艦隊は、第三回目の旅順口閉塞作戦を実施した。その直後の5月5日、第2軍が遼東半島の塩大澳に上陸した。この軍も三個師団編成であるが第一軍と違うところは独立した砲兵旅団を思っていたことである。
上陸した塩大澳は大連の北方である。大連には、まだ直接上陸することはできなかった。
さて、戦いながら、退却するロシア軍を追って、第1軍もロシア軍を追撃した。
ロシア軍は奉天、今の瀋陽の南南西六十キロを目指していた。
ロシア軍は遼陽に兵力を集中させて、日本軍にここを攻めさせて、返り討ちにしようとする戦略を実行しつつあった。
日本軍の第二軍、さらに六月三〇日に編成された第四軍も大狐山に上陸して、やはり遼陽を目指していた。
遼陽に至るまでに、第一軍は摩天嶺、楡樹林子、様子嶺で激しい戦闘を行った。
摩天楼の戦いは七月四日から七月十七日にかけて行われたもので、一万九百名が、ロシア軍は二万六千六百名が戦闘に加わった。結果は、第一軍は三百五十五名の死傷者を出し、ロシア軍は千二百十三名の死傷者を出して終わり、ロシア軍は退却したのである。
楡樹林子、様子嶺は互いに近くにある。
だから、戦闘も七月三十一日から八月一日と同日であった。
この戦いの十日前に橋頭で先頭があった。七月十八日、十九日の二日間にわたり、第十二師団が攻撃し、互いに六百名近くの死傷者を出したのである。
ロシア軍がこの橋頭の奪還を目指して起こったのが楡樹林子、様子嶺の戦闘であった。
第1部は、ロシア軍の動きをキャッチして反撃をしたのだが、楡樹林子などではある高地の山頂をめぐって、ロシアと日本の兵士が、わずか十数歩の距離で撃ち合うという壮烈な戦いもあった。
楡樹林子の戦いは第一軍が二万千名参加して死傷者四百七十八名を出し、ロシア軍は二万九千八百名参加して二千六十八名の死傷者を出したのである。
楡樹林子の戦いでは日本軍は二万二千二百名が参加して、死傷者五百九名を出し、ロシア軍は一万四千四百名参加して三百三十名の死傷者を出したのである。
(注釈1)
軍事学上、戦闘地帯から見て後方の軍の諸活動・機関・諸施設を総称したもの。
戦争において作戦を行う部隊の移動と支援を計画し、また、実施する活動を指す用語でもあり、例えば兵站には物資の配給や整備、兵員の展開や衛生、施設の構築や維持などが含まれる。
《金州•南山の激闘》
ロシア軍の堅固な南山陣地に突進した第二軍の将兵たちは、決死の覚悟であった。
五月五日から大連に近い
南山の戦いにおいて、日本軍は壊滅的な打撃を受けた。
塩大澳に上陸した第二軍の兵力は三個師団と野戦砲兵第一旅団•騎兵第一旅団であった。総員約四万二千名だが、すべてが戦闘員ではない。
第二軍の目指すところは、近く、ロシア軍と大会戦が予想される遼陽であった。
しかし、第二軍は、すぐには遼陽へ進撃できなかった。
というのは、上陸地点の近くに金州城とその南にある標高百十五メートルにある南山に優勢なロシア軍が陣地をしていたのである。
まず、その軍勢を撃滅することが必要であった。
なぜなら、これを放置して、うっかりして遼陽を目指せば、そのロシア軍が陣地から出てきて、背後から攻撃するかもしれない。
遼陽にあるロシア軍の主力と旅順のロシア軍との連絡路遮断しなければ、日本軍は苦戦に陥ることが目に見えていたのだ。
金州城と南山は遼東半島の最も狭い地域にあった。大連港とその反対側にある金州湾との距離はわずかに五キロほどしかなかった。
金州•南山のロシア軍を撃破すれば敗残部隊は南方の旅順に退却するしかなく、そうなってこそ、第二軍は安心して遼陽に新劇できるのだった。
とは言え、ロシア軍も二万八千名をそこに貼り付けていた。
簡単には済みそうもなかった。
第二軍は、北方から忍び寄って攻撃を開始した。
最初の攻撃地点は金州の北西六キロの十三里台子のロシア軍陣地であった。五月十六日早朝に攻撃を開始して、午後一時過ぎにようやく占領した。
五月二十三日。正面に第一師団、右翼に、第四師団、左翼に、第三師団、後方に野戦砲兵第一旅団が配置され、金州•南山攻略が始まった。手強いのは南山のロシア軍である。
金州攻略は第四師団の一部が振り分けられた。
金州城の攻略は二十五日夜半から始まった。
折からの豪雨の中、城内への砲撃を行い、それが終わって午前五時、歩兵部隊が東門を爆破した。部隊が城内へ突撃すると、ロシア軍約三百名は城外に出て南山陣地へ退却した。攻略開始時は城壁の上から射撃されるという不利な戦闘であったので日本側には数百名の死傷者が出た。
金州に比べて南山の攻略は難儀した。
陣地は二重に張り巡らされた散兵壕があり鉄条網にガードされた山麗があり、
鉄条網に付近には地雷が埋設されていた。
第二軍は砲約二百門を集中して、約三時間にわたる射撃を行った。南山陣地からも盛んに応戦してきた。約五十門だったが、上からの砲撃だから、ロシア軍が有利だった。
しかしながら、午前八時、ついに南山陣地の砲撃も途絶えた。ようやく歩兵部隊の進撃となった。
日本軍は犠牲者を続出しながら、南山への突撃を開始した。
南山の大砲こそ沈黙したが、ロシア軍の守備隊は健在であった。
第二軍最右翼の第四師団は突撃の際に身を隠す。障壁がほとんどなく、突撃のたびに散兵壕から放たれるロシア兵の猛射を浴びて、ほとんど前進できなかったのである。
正面の第一師団はロシア軍陣地の五.六百メートル手前で釘付けとなった。
それだけロシア軍の応戦が激しかった訳である。
あまりにも多い死傷者数に大本営ははじめは信じなかったと言う。
その辺りの事情を先の鈴木少佐は、次のように回顧している。
「最初の報告は、三千、翌日になって正確調べてみると、四千五百ということがわかった。
後で聞くと、大本営では『三千は三百の間違いだろう。第一軍があの有名な鴨緑江を渡って攻撃しても、千にも満たないのに、三千は電報の〇が一つ多いのだろう、これは三百だろう』と言うように思っていたという。
その後に四千五百と言う報告が行ったので、『これはいよいよ本当だ!これは軍司令官の責任問題だ!』と言うくらいまで言う者が、若干あったと言うことを聞いている。」
正式には日本軍の死傷者数は、戦闘参加者三万六千四百名のうちの十二%にあたる四千三百八十七名に達した。
対するロシア軍の死傷者は三万五百名のうち三•七%にあたる千百三十七名だったという。
ここに日本陸軍の戦歴を記載する。
第1軍の戦歴
2月5日
第1軍を編成。
軍司令官•黒木 為楨。
西暦1844年5月3日〈天保15年3月16日〉~西暦1923年〈大正12年〉2月3日まで生存。
享年78歳。
日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大将。伯爵。通称は七左衛門。
2月9日
第12師団先遣隊、仁川上陸。
4月~ 主力が鎮南浦に上陸。
4月26日
鴨緑江渡河作戦開始
5月1日
九連城を占領
7月17日
摩天嶺を占領
7月19日
橋頭の占領
私は黒木大将の人物像について、読者の皆さんにご紹介したい。素晴らしい人物であったからだ。
天保15年3月16日(1844年5月3日)、薩摩藩士・帖佐為右衛門の三男として薩摩国鹿児島城下加治屋町猫之薬師小路(下加治屋町方限)に生まれる。のち、黒木万左衛門為善の養子となり黒木姓を名乗る。
戊辰戦争に4番隊半隊長として従軍。鳥羽・伏見の戦いでは、薩摩藩の小銃隊を指揮して幕府歩兵を集中射撃により敗走させ、宇都宮城攻防戦では城壁に突進して取り付くなど奮戦し、勝利の契機をつくった。明治2年(1869年)2月、1番大隊小隊長となる。
明治4年(1871年)4月に上京し、同年7月、陸軍大尉任官、御親兵1番大隊に配属。明治5年(1872年)8月、陸軍少佐に昇進し近衛歩兵第1大隊長に就任。近衛歩兵第2大隊長を経て、1875年(明治8年)2月、陸軍中佐に進級し広島鎮台歩兵第12連隊長となる。1877年(明治10年)3月、西南戦争に出征し、同年10月まで従軍。1878年(明治11年)11月、陸軍大佐に昇進。1879年(明治12年)1月、近衛歩兵第2連隊長に転じ、中部監軍部参謀、参謀本部管東局長を歴任。1885年(明治18年)5月、陸軍少将に進級し歩兵第5旅団長に就任し、次いで近衛歩兵第2旅団長を務めた。
1893年(明治26年)11月、陸軍中将に進み第6師団長に就任。1895年(明治28年)1月、日清戦争に出征し威海衛の攻撃に参加する。同年8月、軍功により男爵を叙爵し華族となる。1896年(明治29年)10月、近衛師団長に親補され、西部都督に転じた。1903年(明治36年)11月、陸軍大将に進む。
1904年(明治37年)1月、軍事参議官に就任。同年2月、第1軍司令官となり、翌月、日露戦争開戦に伴い出征。
鴨緑江から奉天会戦まで連戦し、ロシア軍からは、「クロキンスキー」と恐れられた。欧州では、ニコライ2世 (ロシア皇帝)が「猿のような」と評した日本人が単独で大国ロシアに勝てるわけがないと思われて、指揮した黒木は長年ロシアに苦しめられてきたポーランド人と報道した新聞もあったという。
1906年(明治39年)1月、再び軍事参議官となり、1907年(明治40年)4月から6月までアメリカに出張。同年9月、軍功により伯爵を叙爵。1909年(明治42年)3月、後備役に編入、1914年(大正3年)4月1日に退役した。1917年(大正6年)4月から1923年(大正12年)2月まで枢密顧問官を務めた。
1923年(大正12年)2月3日午後10時、神経痛で療養の処、流行性感冒となり、肺炎を併発して東京市青山の自邸(港区立青南小学校向い。現在の王子ホームズ青山)に於いて薨去。享年満78歳。
薩摩武士らしい豪傑肌の性格で、論理よりも経験を重んじる猪突猛進型の軍人であった。それを証明するかの様に、面白半分に相撲の相手を挑んできた明治天皇を容赦なく投げ飛ばし叩き付けたという逸話が残っている。
野戦指揮官としての長年の経験と勘を生かした優れた采配を見せ、日露開戦直後の日本軍の快進撃は黒木の手腕によるところが大きいと言える。
しかし、その猪突猛進型の性格が災いし、総司令部の意思に反した突出を見せることが多々あり、奉天会戦時には余りの突出ぶりに満州軍総司令部より再三「進撃中止」の命令を出されている。
日露開戦後、全軍に対する訓示に於いて
「忠誠を尽くし、武勇を振るい、速やかに平和を克服せざるべからず」
と述べたとされる。
日露戦後は他の軍司令官が元帥位に登る中、黒木と乃木希典は大将で軍歴を終えている。軍歴や功績を考慮すれば元帥に任命されてもおかしくはないのだが、黒木本人がお飾りだけの名誉職としての元帥位を嫌い、最後まで現場の指揮官としての地位を好んだという。同僚に書いた手紙の中に、そのような内容が記されている。
その剛直で荒々しい性格が軍中央で好まれなかったというのが理由であるとされている。
乃木希典にも元帥打診の話があったが、本人が固辞したという。
さて、南山の激闘である。
5月26日午後6時過ぎ
第四師団の歩兵第三十七、歩兵第八の各連隊は全滅覚悟で一斉に突撃を開始した。
丁度その頃、金州湾に進出した海軍の軍艦が南山への砲撃を始め、地上部隊を援護した
この海からの砲撃は、ロシア軍を大きく動揺させたのである。
最前線のロシア軍が退却を始め、それを追って、日本陸軍歩兵部隊が突撃する。
こうしてついに南山砲台の司令塔を占領できたのである。
時刻は午後七時三〇分であった。
ここまで来たら騎虎の勢いであった。
各前線で、一斉に猛攻突撃を開始し、全軍一丸となって南山頂上に殺到した。
ロシア軍は恐れをなし、南方に総退却し、午後八時第二軍の勝利が確定したのである。
私はこの南山の戦いで、第二軍が打ち込んだ砲弾の数がどのぐらい使用されたか、興味が湧いて、図書館に行って、実際に調べた。砲弾の数は約三千五百発、小銃弾は約二百三十三万三千発と記録されていた。
これは遼陽会戦までの主な戦場としては最大の消費量であった。
ただし、旅順攻略戦を除く。
《金州•南山の激闘》
黒木第一軍と鴨緑江渡河作戦はじまる。
ソウルと平壌を占領し、鴨緑江を渡河!
日露戦争は、韓国と満州からロシア軍を駆逐して、日本による韓国支配を確実にするための戦いであった。当時、韓国内には、ロシア軍はそれほどいなかった。
少なくともソウルまでは進出していない。
しかし、平壌付近には小部隊が進出していた。
日本は、ロシアとの国交断絶とともにまず第一軍を編成して、最初に進出して抑えたのが首都漢城であった。先遣隊に続いて第十二師団本隊も仁川に上陸し、漢城に入ったのである。
ここからとりあえず平壌へ向けて進撃したのである。
第一軍の近衛師団と第二師団は、大同江の河口•鎮南浦のに上陸して平壌に入った。三月十九日から二十九日まで、平壌にとどまった。
当時の一個師団戦時の編成の定員は一万八千名であった。
定員いっぱいには充足はされなかったが、 兵站(注釈1)関係の部隊などを含めた第1軍の兵力は約四万二千名であった。それから鴨緑江を目指したのである。
鴨緑江を越えると清国領土である。
当時、日本ではその地域を満州と呼んだ。
満州は万里の長城北以北の地域を刺した。
そこは、ロシア軍が布陣しており、第1軍は、鴨緑江を渡ってから、ロシア軍と戦い、駆逐する作戦であった。
現在、北朝鮮に属する義州の対岸は丹東と呼ばれている。
丹東~義州間は鉄橋があり、トラックによって中国からの貨物が連日運び込まれていることが、テレビや新聞などで時々紹介されていた。丹東は当時は、安東と呼ばれていた。その安東県城は九連城から約八キロほど東にあった。
ロシア軍はその九連城を根拠地として、岸辺や山中に陣地を築き、要所要所に砲台を設けていた。
鴨緑江対岸のロシア軍は東部支隊と呼ばれ、ザスリッチ中将に率いられた約一万六千名ほどであった。
第一軍は、義州すごいね北方の九連城のほぼ正面に近衛師団、その右翼に第十二師団、左翼に第二師団を配置した。
この日本語が展開しているのは、約10キロの長さだったが、ロシア軍は。河岸二百七十五キロにわたって兵力を分散配備した。
どこから日本軍が、渡ろうとしても、小部隊で阻止することができると考えたからである。
そんな馬鹿みたいな発想が生まれたのも、東洋の小国•日本なんぞにヨーロッパの陸軍大国である。ロシアが負けるはずがないと、ほとんど無意識に思っていたからである。彼らは、日本軍がヨーロッパ式の訓練を受け、ヨーロッパ式の装備をしているとは思いもよらなかったのである。
知識として知ってはいても、自分たちと似たような軍隊に本当に育っているとはどうしても思えなかったのである。
5月1日、第1軍は九連城を占領した。
もともと、ロシア軍は九連城を摂取するつもりはなかった。
ザスリッチ中将はロシア満州軍総司令官から次のような命令を受けていた。
「優秀な敵との不利な戦いは避けて、敵の編成、配備及び前進方向を確かめながら退却して、敵との接触を保て」
だから九連城の次に、ロシア軍が根拠地と考えていた鳳凰城もほとんど戦闘らしい戦闘もなく、日本軍は、5月6日に占領した。
なかには鳳凰城退却のロシア軍第十二連隊のように野砲八門、機関銃七挺で必死の逆襲を成す部隊もあり、それと戦った第十二師団、第二十四連隊は一人の中隊長が戦死するなど大きな損害を被った。
最も、そのロシア軍も、全滅に近い損害を代償として払ったのである。
こうして第一軍の鴨緑江渡河作戦は成功した。
この時の第一軍の損害は次の通りである。
戦死者は二百二十三名。
負傷者は八百十六名。
死傷者合計は千三十九名であった。
ロシア軍の損害は次の通りである。
日本軍が埋葬した戦死者が千三百六十三名、負傷者を含めた捕虜が六百十三名であった。
緒戦でもあり、第一軍には敵戦死者を埋葬する余裕があったのだ。
いよいよ、第一軍は、ロシア軍を追撃し、激闘を交わしつつ北上したのである。
第一軍が九連城を占領し、鳳凰堂に迫った頃、連合艦隊は、第三回目の旅順口閉塞作戦を実施した。その直後の5月5日、第2軍が遼東半島の塩大澳に上陸した。この軍も三個師団編成であるが第一軍と違うところは独立した砲兵旅団を思っていたことである。
上陸した塩大澳は大連の北方である。大連には、まだ直接上陸することはできなかった。
さて、戦いながら、退却するロシア軍を追って、第1軍もロシア軍を追撃した。
ロシア軍は奉天、今の瀋陽の南南西六十キロを目指していた。
ロシア軍は遼陽に兵力を集中させて、日本軍にここを攻めさせて、返り討ちにしようとする戦略を実行しつつあった。
日本軍の第二軍、さらに六月三〇日に編成された第四軍も大狐山に上陸して、やはり遼陽を目指していた。
遼陽に至るまでに、第一軍は摩天嶺、楡樹林子、様子嶺で激しい戦闘を行った。
摩天楼の戦いは七月四日から七月十七日にかけて行われたもので、一万九百名が、ロシア軍は二万六千六百名が戦闘に加わった。結果は、第一軍は三百五十五名の死傷者を出し、ロシア軍は千二百十三名の死傷者を出して終わり、ロシア軍は退却したのである。
楡樹林子、様子嶺は互いに近くにある。
だから、戦闘も七月三十一日から八月一日と同日であった。
この戦いの十日前に橋頭で先頭があった。七月十八日、十九日の二日間にわたり、第十二師団が攻撃し、互いに六百名近くの死傷者を出したのである。
ロシア軍がこの橋頭の奪還を目指して起こったのが楡樹林子、様子嶺の戦闘であった。
第1部は、ロシア軍の動きをキャッチして反撃をしたのだが、楡樹林子などではある高地の山頂をめぐって、ロシアと日本の兵士が、わずか十数歩の距離で撃ち合うという壮烈な戦いもあった。
楡樹林子の戦いは第一軍が二万千名参加して死傷者四百七十八名を出し、ロシア軍は二万九千八百名参加して二千六十八名の死傷者を出したのである。
楡樹林子の戦いでは日本軍は二万二千二百名が参加して、死傷者五百九名を出し、ロシア軍は一万四千四百名参加して三百三十名の死傷者を出したのである。
(注釈1)
軍事学上、戦闘地帯から見て後方の軍の諸活動・機関・諸施設を総称したもの。
戦争において作戦を行う部隊の移動と支援を計画し、また、実施する活動を指す用語でもあり、例えば兵站には物資の配給や整備、兵員の展開や衛生、施設の構築や維持などが含まれる。
《金州•南山の激闘》
ロシア軍の堅固な南山陣地に突進した第二軍の将兵たちは、決死の覚悟であった。
五月五日から大連に近い
南山の戦いにおいて、日本軍は壊滅的な打撃を受けた。
塩大澳に上陸した第二軍の兵力は三個師団と野戦砲兵第一旅団•騎兵第一旅団であった。総員約四万二千名だが、すべてが戦闘員ではない。
第二軍の目指すところは、近く、ロシア軍と大会戦が予想される遼陽であった。
しかし、第二軍は、すぐには遼陽へ進撃できなかった。
というのは、上陸地点の近くに金州城とその南にある標高百十五メートルにある南山に優勢なロシア軍が陣地をしていたのである。
まず、その軍勢を撃滅することが必要であった。
なぜなら、これを放置して、うっかりして遼陽を目指せば、そのロシア軍が陣地から出てきて、背後から攻撃するかもしれない。
遼陽にあるロシア軍の主力と旅順のロシア軍との連絡路遮断しなければ、日本軍は苦戦に陥ることが目に見えていたのだ。
金州城と南山は遼東半島の最も狭い地域にあった。大連港とその反対側にある金州湾との距離はわずかに五キロほどしかなかった。
金州•南山のロシア軍を撃破すれば敗残部隊は南方の旅順に退却するしかなく、そうなってこそ、第二軍は安心して遼陽に新劇できるのだった。
とは言え、ロシア軍も二万八千名をそこに貼り付けていた。
簡単には済みそうもなかった。
第二軍は、北方から忍び寄って攻撃を開始した。
最初の攻撃地点は金州の北西六キロの十三里台子のロシア軍陣地であった。五月十六日早朝に攻撃を開始して、午後一時過ぎにようやく占領した。
五月二十三日。正面に第一師団、右翼に、第四師団、左翼に、第三師団、後方に野戦砲兵第一旅団が配置され、金州•南山攻略が始まった。手強いのは南山のロシア軍である。
金州攻略は第四師団の一部が振り分けられた。
金州城の攻略は二十五日夜半から始まった。
折からの豪雨の中、城内への砲撃を行い、それが終わって午前五時、歩兵部隊が東門を爆破した。部隊が城内へ突撃すると、ロシア軍約三百名は城外に出て南山陣地へ退却した。攻略開始時は城壁の上から射撃されるという不利な戦闘であったので日本側には数百名の死傷者が出た。
金州に比べて南山の攻略は難儀した。
陣地は二重に張り巡らされた散兵壕があり鉄条網にガードされた山麗があり、
鉄条網に付近には地雷が埋設されていた。
第二軍は砲約二百門を集中して、約三時間にわたる射撃を行った。南山陣地からも盛んに応戦してきた。約五十門だったが、上からの砲撃だから、ロシア軍が有利だった。
しかしながら、午前八時、ついに南山陣地の砲撃も途絶えた。ようやく歩兵部隊の進撃となった。
日本軍は犠牲者を続出しながら、南山への突撃を開始した。
南山の大砲こそ沈黙したが、ロシア軍の守備隊は健在であった。
第二軍最右翼の第四師団は突撃の際に身を隠す。障壁がほとんどなく、突撃のたびに散兵壕から放たれるロシア兵の猛射を浴びて、ほとんど前進できなかったのである。
正面の第一師団はロシア軍陣地の五.六百メートル手前で釘付けとなった。
それだけロシア軍の応戦が激しかった訳である。
あまりにも多い死傷者数に大本営ははじめは信じなかったと言う。
その辺りの事情を先の鈴木少佐は、次のように回顧している。
「最初の報告は、三千、翌日になって正確調べてみると、四千五百ということがわかった。
後で聞くと、大本営では『三千は三百の間違いだろう。第一軍があの有名な鴨緑江を渡って攻撃しても、千にも満たないのに、三千は電報の〇が一つ多いのだろう、これは三百だろう』と言うように思っていたという。
その後に四千五百と言う報告が行ったので、『これはいよいよ本当だ!これは軍司令官の責任問題だ!』と言うくらいまで言う者が、若干あったと言うことを聞いている。」
正式には日本軍の死傷者数は、戦闘参加者三万六千四百名のうちの十二%にあたる四千三百八十七名に達した。
対するロシア軍の死傷者は三万五百名のうち三•七%にあたる千百三十七名だったという。
ここに日本陸軍の戦歴を記載する。
第1軍の戦歴
2月5日
第1軍を編成。
軍司令官•黒木 為楨。
西暦1844年5月3日〈天保15年3月16日〉~西暦1923年〈大正12年〉2月3日まで生存。
享年78歳。
日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大将。伯爵。通称は七左衛門。
2月9日
第12師団先遣隊、仁川上陸。
4月~ 主力が鎮南浦に上陸。
4月26日
鴨緑江渡河作戦開始
5月1日
九連城を占領
7月17日
摩天嶺を占領
7月19日
橋頭の占領
私は黒木大将の人物像について、読者の皆さんにご紹介したい。素晴らしい人物であったからだ。
天保15年3月16日(1844年5月3日)、薩摩藩士・帖佐為右衛門の三男として薩摩国鹿児島城下加治屋町猫之薬師小路(下加治屋町方限)に生まれる。のち、黒木万左衛門為善の養子となり黒木姓を名乗る。
戊辰戦争に4番隊半隊長として従軍。鳥羽・伏見の戦いでは、薩摩藩の小銃隊を指揮して幕府歩兵を集中射撃により敗走させ、宇都宮城攻防戦では城壁に突進して取り付くなど奮戦し、勝利の契機をつくった。明治2年(1869年)2月、1番大隊小隊長となる。
明治4年(1871年)4月に上京し、同年7月、陸軍大尉任官、御親兵1番大隊に配属。明治5年(1872年)8月、陸軍少佐に昇進し近衛歩兵第1大隊長に就任。近衛歩兵第2大隊長を経て、1875年(明治8年)2月、陸軍中佐に進級し広島鎮台歩兵第12連隊長となる。1877年(明治10年)3月、西南戦争に出征し、同年10月まで従軍。1878年(明治11年)11月、陸軍大佐に昇進。1879年(明治12年)1月、近衛歩兵第2連隊長に転じ、中部監軍部参謀、参謀本部管東局長を歴任。1885年(明治18年)5月、陸軍少将に進級し歩兵第5旅団長に就任し、次いで近衛歩兵第2旅団長を務めた。
1893年(明治26年)11月、陸軍中将に進み第6師団長に就任。1895年(明治28年)1月、日清戦争に出征し威海衛の攻撃に参加する。同年8月、軍功により男爵を叙爵し華族となる。1896年(明治29年)10月、近衛師団長に親補され、西部都督に転じた。1903年(明治36年)11月、陸軍大将に進む。
1904年(明治37年)1月、軍事参議官に就任。同年2月、第1軍司令官となり、翌月、日露戦争開戦に伴い出征。
鴨緑江から奉天会戦まで連戦し、ロシア軍からは、「クロキンスキー」と恐れられた。欧州では、ニコライ2世 (ロシア皇帝)が「猿のような」と評した日本人が単独で大国ロシアに勝てるわけがないと思われて、指揮した黒木は長年ロシアに苦しめられてきたポーランド人と報道した新聞もあったという。
1906年(明治39年)1月、再び軍事参議官となり、1907年(明治40年)4月から6月までアメリカに出張。同年9月、軍功により伯爵を叙爵。1909年(明治42年)3月、後備役に編入、1914年(大正3年)4月1日に退役した。1917年(大正6年)4月から1923年(大正12年)2月まで枢密顧問官を務めた。
1923年(大正12年)2月3日午後10時、神経痛で療養の処、流行性感冒となり、肺炎を併発して東京市青山の自邸(港区立青南小学校向い。現在の王子ホームズ青山)に於いて薨去。享年満78歳。
薩摩武士らしい豪傑肌の性格で、論理よりも経験を重んじる猪突猛進型の軍人であった。それを証明するかの様に、面白半分に相撲の相手を挑んできた明治天皇を容赦なく投げ飛ばし叩き付けたという逸話が残っている。
野戦指揮官としての長年の経験と勘を生かした優れた采配を見せ、日露開戦直後の日本軍の快進撃は黒木の手腕によるところが大きいと言える。
しかし、その猪突猛進型の性格が災いし、総司令部の意思に反した突出を見せることが多々あり、奉天会戦時には余りの突出ぶりに満州軍総司令部より再三「進撃中止」の命令を出されている。
日露開戦後、全軍に対する訓示に於いて
「忠誠を尽くし、武勇を振るい、速やかに平和を克服せざるべからず」
と述べたとされる。
日露戦後は他の軍司令官が元帥位に登る中、黒木と乃木希典は大将で軍歴を終えている。軍歴や功績を考慮すれば元帥に任命されてもおかしくはないのだが、黒木本人がお飾りだけの名誉職としての元帥位を嫌い、最後まで現場の指揮官としての地位を好んだという。同僚に書いた手紙の中に、そのような内容が記されている。
その剛直で荒々しい性格が軍中央で好まれなかったというのが理由であるとされている。
乃木希典にも元帥打診の話があったが、本人が固辞したという。
さて、南山の激闘である。
5月26日午後6時過ぎ
第四師団の歩兵第三十七、歩兵第八の各連隊は全滅覚悟で一斉に突撃を開始した。
丁度その頃、金州湾に進出した海軍の軍艦が南山への砲撃を始め、地上部隊を援護した
この海からの砲撃は、ロシア軍を大きく動揺させたのである。
最前線のロシア軍が退却を始め、それを追って、日本陸軍歩兵部隊が突撃する。
こうしてついに南山砲台の司令塔を占領できたのである。
時刻は午後七時三〇分であった。
ここまで来たら騎虎の勢いであった。
各前線で、一斉に猛攻突撃を開始し、全軍一丸となって南山頂上に殺到した。
ロシア軍は恐れをなし、南方に総退却し、午後八時第二軍の勝利が確定したのである。
私はこの南山の戦いで、第二軍が打ち込んだ砲弾の数がどのぐらい使用されたか、興味が湧いて、図書館に行って、実際に調べた。砲弾の数は約三千五百発、小銃弾は約二百三十三万三千発と記録されていた。
これは遼陽会戦までの主な戦場としては最大の消費量であった。
ただし、旅順攻略戦を除く。
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