日露戦争の真実

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第十五巻

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【第十五巻ノ1】

 《日露戦争の真実 旅順攻略から日本海海戦勝利迄一挙公開》

日露戦争にちろせんそうは、1904年

(明治37年)2月から1905年(明治38年)9月にかけて大日本帝国とロシア帝国との間で行われた戦争である。

 戦闘場所は満洲南部、遼東半島、黄海、日本海であった。

 日露戦争は日本の勝利に終わった。
勝利した日本はポーツマス条約をロシアと締結し朝鮮半島からロシアの影響力を排除することができた。

 重複するが日本とロシアの戦闘時の指導者や指揮官などについて、記載する。

 日露戦争に於いて大切な事項であると私が考える為である。

 指導者は明治天皇である。

 指揮者は桂太郎、大山巌、児玉源太郎、黒木為楨、奥保鞏、乃木希典、野津道貫、川村景明、東郷平八郎、島村速雄、上村彦之丞、片岡七郎 合計12名である。

 対するロシアである。
指導者はニコライ2世である。

 指揮者はアレクセイ・クロパトキン、ニコライ・リネウィッチ、アレクサンドル・カウリバルス、アレクサンドル・ビルデルリング、オスカル・フェルディナント・グリッペンベルク、ロマン・コンドラチェンコ 
 アナトーリイ・ステッセリ、ステパン・マカロフ 、ジノヴィー・ロジェストヴェンスキー、エヴゲーニイ・アレクセーエフ
合計9名である。

 日露戦争時の戦力比較である。

 日本対ロシアである。

 日本:108万人
    (うち49万人が戦地勤務)、

 ロシア:136万5000人。

日本とロシアの損害の比較である。

(日本)
戦没8万8429人,
うち戦死戦傷死は 5万5655人。
病死2万7192人
負傷者15万3584人
捕虜1800人。

(ロシア)
戦没8万1210人、
うち戦死戦傷死は 5万2623人
病死2万人
負傷14万6032人
捕虜7万9000人。

日露戦争に於ける戦闘の場所である。

旅順口 仁川沖 旅順閉塞 鴨緑江 南山 得利寺 黄海 蔚山沖 宗谷沖 旅順攻囲 摩天嶺 大石橋 析木城 遼陽 沙河 黒溝台 奉天 日本海 樺太
である。19箇所ある。

 この日露戦争は三国干渉後、満洲(中国東北部)と朝鮮半島の支配権を巡る争いが原因となって引き起こされた。

(陸戦)
 陸戦では満洲南部の遼東半島や奉天が主な戦場となった。

(海戦)
 海戦では日本近海にて大規模な艦隊戦が繰り広げられた。

(戦後処理)
 最終的に両国はアメリカ合衆国政府の斡旋の下で、講和条約としてポーツマス条約を締結した。

 講和条約の中で日本の朝鮮半島における権益をロシアが認め、ロシア領であった樺太の南半分が日本に割譲された。また日本はロシアが清国から受領していた大連と旅順の租借権、東清鉄道の旅順 - 長春間支線の租借権も獲得した。しかし賠償金を獲得するには至らず、戦後に外務省に対する不満が軍人や民間人などから高まった。
日本はロシアから賠償金を獲得することが出来なかった。

 大日本帝国の動機としては当時、
大日本帝国はロシア帝国の南下政策による勢力圏拡大を防ぎ朝鮮半島や満洲における利権を守ることで大日本帝国の安全保障や利益を確保し、進んでは満洲、樺太、沿海州等における日本の勢力拡大ないしロシア側からの利権奪取を主な目的としていた。

 また、後の講和時の日本側代表による交渉姿勢や日本国民の反応からは、勝ち戦となった以上は賠償金取得を期待していたことが窺える。

 開戦後に明治天皇の名により公布された『露国ニ対スル宣戦ノ詔勅』では、満洲での勢力拡大により大韓帝国の保全が脅かされることが日本の安全保障上と極東平和への脅威となったことを戦争動機に挙げている。他方、2月10日の開戦の詔勅に続くはずだったとみられる詔勅草案もあり、ここでは信教の自由を強調し開戦の不幸を強調していると言える。

「朕先に、憲法の条章に由り、信教の自由を保明せり。汝有衆、各々自らその信依する所を選み、之に案ずるを得ると共に、また、よく他の言依する所を尊重し、互いに相犯すなきを要す。
此の次、不幸にして露国と釁端を開けり。朕が平素の志に違い、戦を宣するに至りたるの事由は、朕既に業に之を示せり。事少しも宗教と相関せず、朕が信教に対する一視同仁は、更に平時に薄ることあるなし。汝有衆、よく朕が意を体し、信仰帰依の如何を問わず、互いに相親み相愛し協力同心以て、朕が意を空うするなきを期せよ」


 一方ロシア帝国の動機はどうであったかのだろうか。

 ロシア帝国は満洲および関東州の租借権と鉄道敷設権などの利権の確保、満洲還付条約不履行の維持(満洲に軍を駐留)、朝鮮半島での利権拡大における半島支配と日本による抵抗の排除、直接的には日本側からの攻撃と宣戦布告を戦争理由とした。

 この戦争の性格はどのようなものであったろうか。

 日露戦争は20世紀初の近代総力戦の要素を含んでおり、またニ国間のみならず帝国主義各国の外交関係が関与したグローバルといえる規模の戦争であった。
この戦争を世界第0次戦争と呼んでいた軍事専門家もいるぐらいだ。

 この戦争で日本軍が105万発とされる砲弾を消費するのに1年半以上かかっている一方でマルヌ会戦 (1914年9月6日~12日) でフランス軍が消費したとされる砲弾数が1週間で90万発、その後のソンム会戦 (1916年7月1日~11月18日)では英仏両軍合わせて4ケ月足らずで3,400万発の砲弾が消費されたとされる。

 日露戦争と第一次世界大戦の砲弾消費量の差は、近代戦における工業力の重要性を示し、日露戦争が近代戦の初期段階であったことが窺えるのである。

 日本側とロシア側の戦争であった。
つまり大日本帝国とロシア帝国の戦闘であった。モンテネグロ公国(ただし宣戦布告はしたが、戦闘には参加せず)の存在もあった。

 大韓帝国(高宗をはじめとする支配者階級(王族と両班)とロシア利権を持つ親露派)
はロシアの支持国であった。


 同盟国と支援国の存在により、この日露戦争は日本に有利に働いている。
 当時、日本はイギリス帝国と同盟関係にあった。日英同盟である。

 大韓帝国は日韓議定書を締結していた。

 大清帝国は日本に協力していた。もともと厳正中立を宣言していたが、ロシアの事実上の植民地となっている東三省を回復する為に日本に暗に協力したとの説がある。袁世凱は配下の北洋軍閥を用いて諜報や馬賊隊編成などで日本に協力した。諜報将校を日本軍の特別任務班に派遣したりした。

  フランスはロシアに味方した。露仏同盟である。

 大清帝国(露清密約、開戦後同年5月18日に破棄した。
張作霖など一部の馬賊はロシアに協力した。

 ドイツ帝国皇帝ヴィルヘルム2世は黄禍論者であったことからロシア寄りであったが、ロシアがドイツと対立を続けているフランスの同盟国ということもあり、国家としては具体的な行動は行っていない。後に皇帝同士で結んだ「ビヨルケの密約」は、戦争の勝敗が決定的になった後に結ばれているのだ。

 勝敗の分からない日露戦争を慎重に見ていたのである。
 日本第一軍司令部と観戦武官についての記録である。

 日露両陣営には欧米と南米諸国から数多くの観戦武官が派遣されていた。日本側には13か国から合計70名以上が来訪しており、その国籍はイギリス、アメリカ合衆国、ドイツ、オーストリア、スペイン、イタリア、スイス、スウェーデン、ブラジル、チリ、アルゼンチン、オスマン=トルコであった。同盟国であるイギリスからが最多で、エイルマー・ホールデン(英語版)をはじめ33名を数えた。アメリカからはダグラス・マッカーサーの父親であるアーサー・マッカーサー・Jrが赴任していた。
このようにこの日露戦争は世界の注目の的だった。従って日露両国の勝者が世界に物申す国になる筈であった。
しかし、日本はこの日露戦争に勝ったにも関わらず、日本の思惑通りにはいかなかったのだ。 

 それは必ず勝者の思い通りにはしないというアメリカやイギリスを主導とする世界秩序の始まりであった。

 今でもこの世界秩序のルールはアメリカとイギリスの主導である。
この事実は我々はよく認識しなければならない。

 この世界秩序のルールは未来永劫、変わることはない。いや、変えられないのだ。
アメリカとイギリス主導という世界秩序のルールを!
  
少し話しが脱線した。 

 さて、大韓帝国は清の冊封体制を日清戦争後日本によって解かれたが、満洲を勢力下に置いたロシアが朝鮮半島に持つ利権を手がかりに南下政策を取りつつあった。ロシアは高宗を通じ、売り払われた鍾城と慶源の鉱山採掘権や朝鮮北部の森林伐採権、関税権などの財政基盤を取得し朝鮮半島での影響力を増大し、着実に勢力拡大をしていった。ロシアの南下政策に危機感(1861年(文久元年)を持ちロシア軍艦対馬占領事件があったため)を持っていた日本がこれらを大韓帝国の代わりに買い戻し、回復させた。

 当初、日本は外交努力で衝突を回避しようと努力したが、ロシアは強大な軍事力を背景に日本への圧力を増していった。1904年(明治37年)2月23日、開戦前に「局外中立宣言」をした大韓帝国における軍事行動を可能にするため日韓議定書を締結し、開戦後8月には第一次日韓協約を締結した。
大韓帝国の財政、外交に顧問を置き条約締結に日本政府との協議をすることとした。大韓帝国内でも李氏朝鮮による旧体制が維持されている状況では、国の近代化や独自改革が困難であると主張する進歩会は、日韓合邦を目指すために鉄道敷設工事などに5万人ともいわれる大量の人員を派遣するなど、日露戦争において日本への協力を惜しまなかったのであった。

 一方、高宗や両班などの旧李朝支配者層は近代化の名目で彼らの利権をなくし、自国利権と支配力の強化を図る日本の影響力をあくまでも排除しようと試み、日露戦争中においてもロシアに密書を送るなどの外交を展開していったのだ。
戦争中に密使が日本軍艦により海上にて発見され、大韓帝国は条約違反を犯すという失敗に終わったのである。

 当時ロシア帝国は、不凍港を求めて南下政策を採用し、露土戦争などの勝利によってバルカン半島における大きな地歩を獲得した。ロシアの影響力の増大を警戒するドイツ帝国の宰相ビスマルクは列強の代表を集めてベルリン会議を主催し、露土戦争の講和条約であるサン・ステファノ条約の破棄とベルリン条約の締結に成功した。これにより、ロシアはバルカン半島での南下政策を断念し、進出の矛先を極東地域に向けることになったのである。やがてこのロシアの政策変更が日本との日露戦争に発展することになるのだ。 

 近代国家の建設を急ぐ日本国内では、ロシアに対する安全保障上の理由から、朝鮮半島を自国の勢力下に置く必要があるとの意見が大勢を占めていた。朝鮮を属国としていた清国との日清戦争に勝利し、朝鮮半島への影響力を排除したものの、中国への進出を目論むロシアやフランスやドイツからの三国干渉によって、下関条約で割譲を受けた遼東半島は清国に返還された。日本は戦勝国でありながら列強に屈したのであった。日本国内では日本政府首脳に対し、弱腰日本政府と、批判したのであった。
世論においてはロシアとの戦争も辞さずという強硬な意見も出たが、当時の日本には列強諸国と戦えるだけの力はなく、政府内では伊藤博文ら戦争回避派が主流を占めた。ところがロシアは露清密約を結び、東清鉄道を敷設し、日本が手放した遼東半島の南端に位置する旅順や大連を1898年(明治31年)に租借し(旅順大連租借条約)、旅順に太平洋艦隊の基地を作るなど、満洲への進出を押し進めていったのだ。

 1900年(明治33年)、ロシアは清国で発生した義和団の乱(義和団事変、義和団事件)の混乱収拾という論理を展開、満洲へ侵攻、全土を侵略した。ロシアは満洲の植民地化を既定事実化しようとしたが、日英米がこれに抗議しロシアは撤兵を約束した。
ところがロシアは履行期限を過ぎても撤退を行わず、駐留軍の増強を図ったのである。
ボーア戦争を終了させるのに戦費を調達したため、国力が低下してアジアに大きな国力を注げない状況であったイギリスは、ロシアの南下が自国の権益と衝突すると危機感を募らせ、1902年(明治35年)に長年墨守していた孤立政策(栄光ある孤立)を捨て、日本との同盟に踏み切った(日英同盟)。なおこの同盟は、ロシアでは反ロシア条約と呼ばれた。この条約により日本が2国以上と戦うときは、イギリスの参戦を義務づける条約となっていたことから、露清密約による清国の参戦は阻止された。その上この同盟は太平洋海域において日本がロシアより排水量比で大きな海軍力を持つことを義務づけている。日英同盟によってロシア帝国は満洲から撤兵を開始したが、大日本帝国を軽視し全兵力の撤兵は行わなかった。ロシアは日本を恐れていたのだ。

 日本政府内では小村寿太郎、桂太郎、山縣有朋らの対露主戦派と、伊藤博文、井上馨ら戦争回避派との論争が続き、1903年(明治36年)4月21日に京都にあった山縣の別荘である無鄰菴で伊藤、山縣、桂、小村による「無鄰庵会議」が行われたのである。

 桂は、「満洲問題に対しては、我に於て露國の優越権を認め、之を機として朝鮮問題を根本的に解決すること」「此の目的を貫徹せんと欲せば、戦争をも辞せざる覚悟無かる可からず」という対露交渉方針について伊藤と山縣の同意を得た。桂はのちにこの会談で日露開戦の覚悟が定まったと書いているが、実際の記録類ではむしろ伊藤の慎重論が優勢であったようで、のちの日露交渉に反映されることになったのである。

 同じく4月、ロシア系企業の「朝鮮木商会社」が韓国側に鴨緑江山林事業の開始を通告した。
5月になってロシア軍は鴨緑江河口の龍岩浦(竜巌浦)に軍事拠点を築きはじめた。世にいう龍岩浦事件である。

 日本とロシアの緊張関係が高まるなか、メディアや言論界でも盛んに論争が行われるようになった。

 6月12日、アレクセイ・クロパトキン陸軍大臣が訪日し、国賓として迎えられた。訪日の目的は外遊だったため、軍高官との交流はあったものの正式に行われた交渉はひとつもなかった。新聞各紙はクロパトキン訪日が関係好転の契機となることに期待し、当初は好意的にさまざまな臆測を報じたが、実質的な成果がないことに失望したのである。

 また、同時期にベッサラビアで行われたユダヤ人に対するポグロムの情報が日本に入り、ロシア不信の論調が高まるようになっていった。
 6月10日、戸水寛人や国際法学者など7名の博士が、日露開戦を唱える意見書を桂内閣に提出した。これがかの有名な七博士建白事件である。 
 6月24日にはその全文が新聞紙上に掲載された。万朝報紙上で非戦論の論陣を張っていた幸徳秋水は「社会が学者を養っているのは開戦の建白を提出させるためではない」と批判したのだ。
 実際、この時点では開戦論にまで言及する言論は少数派だったが、ロシアによる7月に成立した龍岩浦租借条約によってロシア南下の危機感は現実的なものとなったのだ。
さらに、非戦論のよりどころとなっていたロシア側の満洲撤兵論者セルゲイ・ヴィッテ大臣が失脚し、南下政策の撤回に希望が持てなくなった。非戦派の万朝報が社説で「最後の期限」とした第三次撤兵期限が履行されなかった10月8日を境に、日本の新聞各紙の論調は開戦論一辺倒となったのである。
 私はこの当時のロシアと日本両国について、松永図書館に行き書庫から関係図書を
引っ張り出して調べた。この数値は間違いないことを私は断言する。それでは私が調べた数値を公表しよう。
開戦時の戦力比較に露国と日本国の比較である。
(ロシア)歩兵66万人対(日本)13万人、
騎兵13万人対1万人、
砲撃支援部隊16万人対1万5千人、
工兵と後方支援部隊4万4千人対1万5千人
予備部隊400万人対46万人。

 1903年8月からの日露交渉において、「日本側は朝鮮半島を日本、満洲をロシアの支配下に置く」という妥協案、いわゆる満韓交換論をロシア側へ提案した。しかし、積極的な主戦論を主張していたロシア海軍や関東州総督のエヴゲーニイ・アレクセーエフらは、朝鮮半島でも増えつつあったロシアの利権を妨害される恐れのある妥協案に興味を示さなかった。さらにニコライ2世やクロパトキンも主戦論に同調した。常識的に考えれば、強大なロシアが日本との戦争を恐れる理由は何もなかった。ロシアの重臣の中でもセルゲイ・ヴィッテ財務大臣は、戦争によって負けることはないにせよ、ロシアが疲弊することを恐れて戦争回避論を展開したが、この当時何の実権もなかった大臣会議議長(のちの十月詔書で首相相当になるポスト)に左遷された。ロシアは日本側への返答として、朝鮮半島の北緯39度以北を中立地帯とし、軍事目的での利用を禁ずるという提案を行った。

 日本側では、この提案では日本海に突き出た朝鮮半島が事実上ロシアの支配下となり、日本の独立も危機的な状況になりかねないと判断した。またシベリア鉄道が全線開通すると、ヨーロッパに配備されているロシア軍の極東方面への派遣が容易となるため、その前の対露開戦へと国論が傾いた。そして1904年2月6日、日本の外務大臣小村寿太郎は当時のロシアのローゼン公使を外務省に呼び、国交断絶を言い渡した。同日、駐露公使栗野慎一郎は、ラムスドルフ外相に国交断絶を通知した。

 ここで、読者の皆さんに関心を持って欲しいことがある。それは戦争をするのにはお金がかかるということだ。お金がなければ戦争は出来ないのだ。 

 お金がない国はお金のある国に支配される。
これは史実であり当然の理屈である。
この史実は未来永劫、変わらない。
この事を我々はよく知っておくことである。

 この物語が中断した。
話しをこの物語に戻す。

 さて、戦争遂行には膨大な物資の輸入が不可欠であり、日本銀行副総裁高橋是清は日本の勝算を低く見積もる当時の国際世論の下で外貨調達に非常に苦心した人物である。

 私はこの高橋是清に頭が下がる思いだ。
日露戦争に勝つ事が出来たのはこの高橋是清がいたらば、こそである。

 軍人だけが表舞台にいて目立つが高橋是清のような裏方に目を向ける人物になって欲しいものだ。

 当時、政府の戦費見積もりは4億5,000万円であった。日清戦争の経験で戦費の3分の1が海外に流失したため、今回は1億5,000万円の外貨調達が必要であった。この時点で日銀の保有正貨は5,200万円であり、約1億円を外貨で調達しなければならなかった。外国公債の募集には担保として関税収入を充てることとし、発行額1億円、期間10年据え置きで最長45年、金利5パーセント以下との条件で、高橋是清(外債発行団主席)は桂総理と曾禰蔵相から委任状と命令書を受け取った。

 開戦とともに日本の既発の外債は暴落しており、初回に計画された1,000万ポンドの外債発行もまったく引き受け手が現れない状況であった。これは、当時の世界中の投資家が、日本が敗北して資金が回収できないと判断したためである。特にフランス系の投資家はロシアとの同盟露仏同盟の手前もあり、当初は非常に冷淡であった。またドイツ系の銀行団も慎重であった。アメリカでも同様であったが、ハーバード留学時代にセオドア・ルーズベルトと面識があった金子堅太郎は再度渡米して直接説明したほか、全米各地で講演を開き日本の立場を訴えた。また金子と伊沢修二は留学中にアレクサンダー・グラハム・ベルの元に出向いて電話の通話体験していたが、ベルも要人らに日本の実情を説明し募債に協力した。この金子も伊沢も高橋同様裏方であった。

 是清は4月にイギリスで、額面100ポンドに対して発行価格を93.5ポンドまで値下げし、日本の関税収入を抵当とする好条件で、イギリスの銀行家たちと1か月以上交渉の末、ようやくロンドンでの500万ポンドの外債発行の成算を得た。当時の香港上海銀行ロンドン支店長ユーウェン・キャメロンはのちのイギリス首相デーヴィッド・キャメロンの高祖父であり、高橋が戦費調達のためイギリスを訪れた際には、この支店長から助力を得たというエピソードがある。またロンドンに滞在中であり、帝政ロシアを敵視するアメリカのドイツ系ユダヤ人銀行家ジェイコブ・シフの知遇を得て、ニューヨークの金融街から残額500万ポンドの外債引き受けおよび追加融資を獲得したのだ。

 第1回は1904年5月2日に仮調印に漕ぎ着けた。結果、当初の調達金利を上回る6パーセントでの調達(割引発行であるため実質金利は7年償還で約7パーセント)となったが、応募状況はロンドンが大盛況で募集額の約26倍、ニューヨークで3倍となり大成功の発行となった。1904年5月に鴨緑江会戦でロシアを圧倒して日本が勝利すると国際市場で日本外債は安定し、第2回の1904年11月の6.0パーセント(償還7年で実質約7.4パーセント)を底として、1905年3月の第3回ではドイツ系の銀行団(M・M・ヴァールブルク&COなど[28])も参加し、4.5パーセントでの借り換え調達[注釈 5]に成功した。この3月および続く7月の募集でパンミュア・ゴードンが引受に参加している。11月の第5回には公開市場で募集、利率を4パーセントに下げ、無担保で消化できた。このときから是清はロスチャイルドへ根回しをしていた。好条件はベアリング家の貢献もあった。

 終戦後、1907年の第6回ではN・M・ロスチャイルド&サンズとロチルド・フレールも参加している。後者は1910年新たに4億5,000万フラン貸したが、1951年9月末で4億3,432万8,700フランが未償還であった。

 結局日本は、1904年から1907年にかけ合計6次の外債発行により、借り換え調達を含め総額1億3,000万ポンド(約13億円弱)の外貨公債を発行したのである。 

 このうち最初の4回、8,200万ポンドの起債が実質的な戦費調達資金であり、あとの2回は好条件への切り替え発行であった。しかし、切り替えのために鉄道国有法を制定する必要があった。なお日露戦争開戦前年の1903年(明治36年)の一般会計歳入は2.6億円であり、いかに巨額の資金調達であったかが分かる。この公債は、第一次世界大戦のあとまで残ることとなったのである。

 日本政府の一般・特別会計によると日露戦争の戦費総額は18億2,629万円とされる。

 《日露戦争の勃発》

  日本側は開戦前、戦闘領域の北限はハルビンまでに限局しシベリアまでの追撃は行なわず、戦争期間は1年程度と想定していた。

 海軍が第一艦隊と第二艦隊をもって旅順にいるロシア太平洋艦隊を殲滅ないし封鎖し、第三艦隊をもって対馬海峡を抑え制海権を確保する。

 その後、陸軍が第一軍をもって朝鮮半島へ上陸、在朝鮮のロシア軍を駆逐し、第二軍をもって遼東半島へ橋頭堡を立て旅順を孤立させる。さらにこれらに第三軍、第四軍を加えた四個軍をもって、満洲平野にてロシア軍主力を早めに殲滅する。のちに沿海州へ進撃し、ウラジオストクの攻略まで想定した。

 海軍によるロシア太平洋艦隊の殲滅はヨーロッパより回航が予想されるバルチック艦隊の到着までに行う。

 1904年2月11日大本営が設置された。

 このときは1903年の大本営条例の全部改正により軍事参議院が設置され、戦時においても初めて軍令機関が陸海軍並列対等となったことから、陸軍の参謀総長、海軍の海軍軍令部長の両名ともに幕僚長とされたのである。



    一方ロシア側は当初陸軍は日本側の上陸を朝鮮半島南部と想定した。鴨緑江付近に軍を集結させ、北上する日本軍を迎撃させる。迎撃戦で日本軍の前進を許した場合は、日本軍を引きつけながら順次ハルビンまで後退し、補給線の延びきった日本軍を殲滅するという戦略に変わる。
 
 海軍は太平洋艦隊は無理に決戦をせず、ヨーロッパ方面からの増援を待つ。ただしロシア側ではこの時期の開戦を想定しておらず、旅順へ回航中だった戦艦オスリャービャが間に合わなかったなど、準備は万全と言えるものではなかったのである。

 (日露開戦》

 大日本帝国海軍は1904年2月6日午後2時に佐世保港を出航し、3方向に分かれてそれぞれ仁川、旅順、大連に向かった。釜山沖ではロシア船2隻を拿捕したが、この戦闘で日本軍の重軽傷者は54名で死者は4名以上となったのだ。

 2月8日、大日本帝国陸軍は先遣部隊の第12師団木越旅団が日本海軍の第2艦隊瓜生戦隊の護衛を受けながら朝鮮の仁川に上陸した。その入港時に瓜生戦隊の水雷艇と同地に派遣されていたロシアの砲艦コレーエツが小競り合いを起したのが最初の直接戦闘であった。同日夜には旅順港にいたロシア旅順艦隊に対する日本海軍駆逐艦の奇襲攻撃所謂旅順口攻撃も行われた。この攻撃ではロシアの艦艇数隻に損傷を与えたが修復可能で大きな戦果とは言えなかった。瓜生戦隊は翌2月9日、仁川港外にて巡洋艦ヴァリャーグとコレーエツを攻撃し自沈に追い込んだ。これは仁川沖海戦と言われた。この時のロシア軍の死傷者は104名であった。

 日本政府は2月10日にロシア政府への宣戦布告を行い、2月11日に大本営を設置した。2月23日には大韓帝国との間で日本軍の補給線の確保を目的とした日韓議定書を締結、3月15日に元老の松方正義、井上馨らが帝国軍人援護会を結成するなど準備を整えていったのである。

 フランス軍に救出されたヴァリャーグの乗員24名を含め、負傷兵は仁川に臨時に設けられた仁川赤十字病院に送られた。ここには京城の漢城病院、仁川共立病院の医師や従軍看護婦が派遣されたのである。
仁川の日本兵84名とロシア兵22名は3月3日から4日間かけて博愛丸に収容され、3月10日に門司港に到着し、さらに伊予の松山地域の赤十字臨時病院に移されたのである。


 日本政府が外交交渉を一方的に打ち切り、宣戦布告前の攻撃に及んだことに対しロシア政府は日本政府へ抗議したのである。
当時は「攻撃開始の前に宣戦布告しなければならない」という国際法上の規定はなかったが、「ハーグ陸戦条約の『武力行使の前に第三国による調停を依頼する努力』規定に違反した」と主張した。
日本側は戦時の開始を2月6日とすることを決め、これが認められたために釜山沖での拿捕も承認された。

 3月6日、上村彦之丞海軍中将が率いる装甲巡洋艦「出雲」、「八雲」、「吾妻」、「磐手」、「浅間」、防護巡洋艦「笠置」、「吉野」がウスリー湾方面からウラジオストク港に接近して薄氷の外から造船場、砲台、市街地に向けて約50分間砲撃した後引き上げた。

 ロシア旅順艦隊は増援を頼みとし、日本の連合艦隊との正面決戦を避けて旅順港に待機した。 

 大日本帝国連合艦隊は2月から5月にかけて、旅順港の出入り口に古い船舶を沈めて封鎖しようとしたが、失敗に終わった。
旅順港閉塞作戦である。 

4月13日、連合艦隊の敷設した機雷が旅順艦隊の旗艦である戦艦ペトロパヴロフスクを撃沈した。 

 旅順艦隊司令長官マカロフ中将を戦死させるという戦果を上げたが(後任はヴィリゲリム・ヴィトゲフト少将)、5月15日には逆に日本海軍の戦艦「八島」と「初瀬」がロシアの機雷によって撃沈された。

 一方で、ウラジオストクに配備されていたロシアのウラジオストク巡洋艦隊は、積極的に出撃して通商破壊戦を展開するようになる。

 ウラジオストク艦隊は4月25日に日本軍の輸送艦金州丸を撃沈している。このとき捕虜となった日本海軍の少佐は、戦後免官になっている。  

 この時は上村彦之丞中将率いる第二艦隊が再びウラジオストク港を攻撃しようとしていた時であり、以降第三艦隊に代わり第二艦隊が一部を除いて対馬海峡警備に当たった。

《旅順要塞攻囲戦・黄海海戦・遼陽会戦》

 黒木為楨大将率いる日本陸軍の第一軍は朝鮮半島に上陸し、4月30日から5月1日の戦闘で、安東(現在の丹東)近郊の鴨緑江岸でロシア軍を破った。鴨緑江会戦である。
続いて奥保鞏大将率いる第二軍が遼東半島の塩大墺に上陸し、5月26日、旅順半島の付け根にある南山のロシア軍陣地を攻略した。南山の戦いである。

 南山は旅順要塞のような本格的要塞ではなかったが堅固な陣地で、第二軍は死傷者4,000名の損害を受けた。東京の大本営は損害の大きさに驚愕し、桁をひとつ間違えたのではないかと疑ったという。

 第二軍は大連占領後、第1師団を残し、遼陽を目指して北上した。6月14日、旅順援護のため南下してきたロシア軍部隊を得利寺の戦いで撃退した。続いて7月23日には大石橋の戦いで勝利したのである。

 旅順要塞に対して陸軍は3月上旬までは監視で十分であると判断していたが、その後3月14日、北上する2個軍の後方に有力な露軍戦力を残置するのは危険と判断し、2個師団から構成される攻城軍を編成することを決定したのであった。
しかし、海軍側としては陸軍の援助なしの海軍独力による旅順の処理を望んだのである。

 事前調整の段階から陸軍の後援を要求しない旨をしばしば口外した大本営海軍幕僚もいたと伝えられる。4月6日に行われた陸軍の大山巌参謀総長、児玉源太郎次長と海軍軍令部次長伊集院五郎との合議議決文には「陸軍が要塞攻略をすることは海軍の要請にあらず」という1文があるように、4月に入っても海軍は独力による旅順艦隊の無力化に固執し続け、閉塞作戦失敗後は機雷による封鎖策に転換し、4月12日と13日の両国日実施したが失敗した。

 ロシアバルト海艦隊(バルチック艦隊)の極東回航がほぼ確定し、追い詰められた大日本帝国海軍は開戦当初から拒み続けてきた陸軍の旅順参戦を認めざるを得なくなったのである。

 このような経緯により要塞攻略を主任務とする第三軍の編成は遅れ、戦闘序列は5月29日に発令となった。軍司令部は東京で編成され、司令官には日清戦争で旅順攻略に参加した経歴があった乃木希典大将が任命された。この人選の誤りが大日本帝国陸軍に多大な損害を与えることになるのだ。

 6月20日現地総司令部として満洲軍総司令部が設置され、大本営から指揮権が移された。6月8日に大連に到着した第三軍司令部は、すでに上陸していた第一、第十一師団(ともに第二軍より抽出された)を傘下に加えて前進を開始し、6月26日までに旅順外延部まで進出した。7月12日には伊東祐亨海軍軍令部長から山縣有朋参謀総長に、旅順艦隊を旅順港より追い出すか壊滅させるよう正式に要請が入る。8月7日より海軍陸戦重砲隊が旅順港内の艦船に向けて砲撃を開始し、旅順艦隊に損傷を与えた。
これを受けて、旅順艦隊は8月10日に旅順からウラジオストクに向けて出撃、待ち構えていた連合艦隊との間で海戦が起こったのである。

 この海戦で旅順艦隊は旗艦と司令長官、巡洋艦と駆逐艦の過半を事実上失い、残った艦艇も大きな損害を受けて旅順へ引き返した(黄海海戦・コルサコフ海戦)。ロシアのウラジオストク艦隊は、6月15日に輸送船常陸丸を撃沈する(常陸丸事件)など活発な通商破壊戦を続けていたが、旅順艦隊に呼応して出撃すると8月14日に日本海軍第二艦隊に蔚山沖で捕捉された。第二艦隊はウラジオストク艦隊に大損害を与え、その後の活動を阻止した(蔚山沖海戦)。旅順艦隊は出撃をあきらめ作戦能力を失っていたが、日本側ではそれが確認できず第三軍は要塞に対し第一回総攻撃を8月19日に開始した。しかし、ロシアの近代的要塞の前に死傷者1万5,000人という大損害を受け失敗に終わったのである。

 8月末、日本の第一軍、第二軍および野津道貫大将率いる第四軍は、満洲の戦略拠点遼陽へ迫った。8月24日から9月4日の12日間の遼陽会戦では、第二軍が南側から正面攻撃をかけ、第一軍が東側の山地を迂回し背後へ進撃した。ロシア満洲軍の総司令官クロパトキン大将は全軍を撤退させ、日本軍は遼陽を占領したもののロシア軍の撃破には失敗した。10月9日から10月20日迄の12日間にロシア軍は攻勢に出るが、日本軍の防御の前に失敗すした。この戦いは沙河会戦である。

 こののち、両軍は遼陽と奉天(現在の瀋陽)の中間付近を流れる沙河の線で対陣に入ったのだ。

 10月15日にはロジェストヴェンスキー中将率いるバルチック艦隊(正確にはバルチック艦隊から抽出された第二太平洋艦隊)が旅順(旅順陥落の後はウラジオストク)へ向けてリエパヤ港を出発した。しかし10月21日、北海ドッガーバンク海上で、日本海軍の船と誤認してイギリスのトロール船を攻撃したドッガーバンク事件が発生したのである。

 元々日英同盟を結んでいたことに加え、トラファルガー海戦記念日当日に起こった出来事であったことから、英世論の激高を買ったことはおろか、当時のイギリス国王エドワード7世をして「最も卑怯な暴行事件」と評させただけでなく、英国海軍艦艇28隻に補給地であるスペイン・ビーゴまで追跡されることとなるなど、ロシアはイギリスと一触即発の事態に発展していたのだ。

(旅順要塞への28センチ砲の砲撃)

 第三軍は旅順への攻撃を続行中であった。しかしながら、港湾への大弧山からの観測射撃を8月から10月まで黄海海戦を挟んで実施し、旅順艦隊の壊滅には成功していた。しかし日本側にそれを確認することができず、その後の作戦運用に混乱をもたらすことになっていた。

 第三軍は、要塞東北方面の防衛線を突破しその背後にある、旅順要塞で最高峰である「望台」を占領することで要塞の死命を制し、海軍の要望も果たそうとした。9月19日と10月26日の前後に分けて行われた第二回総攻撃は、突起部を形成している第一回総攻撃で占領した拠点の周辺を安定化させることを目的とし、二〇三高地以外の作戦目標を攻略して目的を達成していたが、中央には失敗と判断されたのである。

 この際に第三軍は海鼠山を占領し、旅順港のほぼすべてを観測することができるようになったが、旅順艦隊主力が引きこもっている海域だけが俯瞰できず、このころより海軍は、より旅順港を一望できる二〇三高地の攻略を優先するよう第三軍に要請したのである。
この海軍の要請に大本営も追認するが、第三軍と、上級司令部である満洲軍 (日本軍)は東北方面主攻を主張し続け対立したのであった。

 大本営と海軍は天皇の勅許まで取り付けて方針を変更するよう促した。

 11月26日からの第三回総攻撃も苦戦に陥るが、途中より乃木の判断で要塞東北方面の攻撃を一時取りやめ、二〇三高地攻略に方針を変更する。戦況を懸念した児玉源太郎大将は、大山巌元帥の了承をもらって旅順方面へ向かっていたが、直前に乃木が攻撃目標を変更したことを受けて、その攻略に尽力した。激戦の末、12月5日に旅順港内を一望できる二〇三高地の占領を達成した。しかしその後も要塞は落ちず、第三軍は作戦目的である要塞攻略を続行し続けたのである。

 翌1905年1月1日にようやく東北方面の防衛線を突破して望台を占領した。
これを受けて、ロシア軍旅順要塞司令官ステッセル中将は降伏を決意した。ロシアが降伏の白旗を掲げたのである。

 日本兵がその白旗を見て大歓声をあげたのである。

「おーい!見えるぞ!見える。ロシアの白旗が!見えるぞ!ロシアの降伏の白旗が!」
「やったー、やったー!」
それは日本兵にとって多くの犠牲者に対しての喜びの大歓声であった。

 ロシア旅順艦隊は二〇三高地を奪われた時点で、すでに艦砲と乗員を陸地に揚げて防衛戦に投入しており、戦力としては無力化していたが、観測射撃を受けるようになった。しかし日本側の砲弾の品質問題などでほとんどの艦は船底を貫通されることはなく、ほとんどの艦艇は要塞降伏前後に、すぐさま使用できないようにすべて自沈させられた。

 沙河では両軍の対陣が続いていたが、ロシア軍は新たに第二軍司令官に着任したグリッペンベルク大将の主導の下、1月25日に日本軍の最左翼に位置する黒溝台方面で攻勢に出た。一時、日本軍は戦線崩壊の危機に陥ったが、秋山好古少将、立見尚文中将らの奮戦により危機を脱したなだ。
この戦いは黒溝台会戦という。

 2月には第三軍が戦線に到着したのである。

 清国は万国紅十字上海支会の救護班を満洲南部に派遣して救護にあたった。日本軍負傷兵は、日本郵船の病院船である神戸丸で佐世保の佐世保海軍病院にも搬送されたのである。

 旅順赤十字病院はロシアが1900年に設立したものだったが、日本がのちに旅順の租借権をロシアから引き継いだあとは日本赤十字社が運営したのだ。

 私達はこの日本赤十字社の医療活動に目を向けなければならないのだ。
何故なら常に天皇皇后が慈愛と博愛精神により、敵味方に関係なく人命尊重の医療活動をしているからである。

 私の先祖はこの奉天会戦で戦死した。
明治38年3月3日である。
私の先祖の氏名は「粟村克三郎」である。
将来の夢は弁護士になれことであった。
人間この世に生を得たなら必ずこうなりたいという夢がある筈だ。
 私の場合は宇宙物理学者になることであった。
 しかし、私の場合は家庭の事情があり、私は夢を断念した。
 私は71歳目前でも幸せに生きている。有難いことだ。
 戦争で犠牲になった民間人や兵隊の人々はどうだろうか?
 可哀想に戦地や広島、長崎の原爆に犠牲者となり、また、放射能の後遺症で苦しんでいる。
 第二次世界大戦で東京始めとして日本列島にはアメリカのB29爆撃期により、沢山の都市は焼夷弾により焼け野原になった。
 また、沢山の尊い人命が奪われた。
二度とあってはならない戦争。
 私達は過去の戦争の悲惨な犠牲者について、後世の人々に正確に伝えていく責任がある。
 広島や各地の若い語り部のご活躍に期待したい。
「頑張って下さい」と。
私は今、この物語を執筆しながら涙を流しているのだから。


 【第一五ノ2】

 日本軍は、ロシア軍の拠点である奉天へ向けた大作戦を開始した。
奉天会戦である。
明治38年2月21日、日本軍右翼が攻撃を開始した。

3月1日から、左翼の第三軍と第二軍が奉天の側面から背後へ向けて前進した。ロシア軍は予備隊を投入した。
第三軍はロシア軍の猛攻の前に崩壊寸前になりつつも前進を続けた。3月9日、ロシア軍の総司令官クロパトキン大将は撤退を指示した。

   日本軍は3月10日に奉天を占領したが、またもロシア軍の撃破には失敗したのだ。

    36この結果を受けて、日本側に依頼を受けたアメリカ合衆国大統領セオドア・ルーズベルトが和平交渉を開始したが、まもなく日本近海に到着するバルチック艦隊に期待していたロシア側はこれを拒否した。ロシアは必ず日本海軍に勝つという自信があった。

 一方、両陸軍は一連の戦いでともに大きな損害を受け作戦継続が困難となったため、その後は終戦まで四平街付近での対峙が続いたのである。
日露戦争の舞台は日本海へと移ったのである。
 
 【十五巻ノ3】

《日本海大海戦》

 バルチック艦隊は7か月に及んだ航海の末に日本近海に到達した。
5月27日に東郷平八郎率いる大日本帝国連合艦隊とロシアの誇る最強海軍バルチック艦隊と激突したのであった。
これが日本海大海戦である。
5月29日にまでに渡るこの海戦でバルチック艦隊はその艦艇の殆どを失うのみならず、司令長官が捕虜になるなど壊滅的な打撃を受けた。ロシア側史料を紹介した稲葉千晴について、その記録をここにご紹介しよう。

(海戦のロシア側被害状況)

死亡者4866名、
負傷者799名に
比して捕虜約6140名である。

(大日本帝国連合艦隊被害状況)

 連合艦隊は喪失艦がわずかに水雷艇3隻
であった。

 近代海戦史上においても例のない一方的な圧勝に終わった。 
この海戦の結果、日本側の制海権が確定し、頼みの綱のバルチック艦隊を完膚なきまで叩きのめされ追い込まれたロシア側も和平に向けて動き出したのである。

 また欧米各国における「ロシア有利」との予想を覆すだけでなく、バルチック艦隊の壊滅という予想もしなかった海戦の結果は列強諸国を驚愕させ、トルコのようにロシアの脅威にさらされた国、ポーランドやフィンランドのようにロシアに編入された地域のみならず、イギリスやフランス、アメリカやオランダなどの白人国家による植民地支配に甘んじていたアジア各地の有色人種の民衆を熱狂させたのであった。

  《日露戦争の終結による戦後処理》

 米大統領セオドア・ルーズベルトは、日本海大海戦の後に外務大臣小村寿太郎(第1次桂内閣)から要請を受け、1905年6月6日に日本とロシア両国政府に対し講和勧告を行い、ロシア側は6月12日に公式に勧告を受諾した。

 日本軍は和平交渉の進むなか、7月に樺太攻略作戦を実施し、全島を占領した。この占領が後の講和条約で南樺太の日本への割譲をもたらすこととなるのである。
講和以降の樺太には王子製紙、富士製紙、樺太工業などのパルプ産業企業が進出した。

 ロシアでは、ロシア第一革命が起こり、ロシア国内は混乱状態になり、戦争の継続が困難となった。

日本も講和の提案を受け入れる形をとった。国民への増税や、動員兵力が109万人へ達したり、死傷者も27万人と国力の消耗が激しく戦争の継続は望むところでは無かったのだ。

 アメリカの仲介により講和交渉のテーブルに着いたロシアと日本の両国は、8月10日からアメリカ・ニューハンプシャー州ポーツマス近郊で終戦交渉に臨み、1905年9月5日に締結されたポーツマス条約により講和した。 

 日本はポーツマス条約によって遼東半島(関東州)の租借権、東清鉄道の長春~大連の支線、朝鮮半島の監督権を得たのである。
鉄道守備隊はのちに関東軍となった。
10月、満洲軍総司令官下に関東総督府を設置し、軍政を敷いた。
清国がこれに抗議し、日本の門戸閉鎖に対して英米が反発した。
1906年3月に満洲の門戸開放を迫ったため、日本は満洲開放の方針を確認し、関東総督府を関東都督府として改組したのだ。1906年11月、民間企業で日本最大のコンツェルンとして南満洲鉄道株式会社を設立、以降、南満洲鉄道を柱とする満洲経営権益は日本の重大な課題となったのである。

 日英同盟は攻守同盟へと強化され、日本の朝鮮半島支配とイギリスのインド支配を相互承認した。イギリスと日本は「蜜月の関係」になったのだ。

 き我々日本人はこの事をよく理解することだ。
今のイギリス王室と日本の皇室は「蜜月の関係」なのである。

また、中断した。

引き続きこの物語に戻る。

 またアメリカとも桂・タフト協定で日本の朝鮮半島支配権とアメリカのフィリピン支配権を相互に確認したのである。
フランスも同盟国ロシアの弱体化を受けて日本に接近、1907年、日仏協約を締結した。

 ロシアも国内での革命運動の激化などを背景に日本に接近し、1907年日露協約(第二次日露協商)を締結し、日本が南満洲、ロシアが北満洲を勢力範囲とし、日本の朝鮮半島支配とロシアの外蒙古の「特殊利益」を相互承認したのである。
日本は列強の承認の下、1910年に韓国併合に至る。

 満洲は「10万の生霊と20億の国帑」で購われた「特殊地域」と日本はみなした。
イギリスは、フランス、ロシア、日本によるドイツ包囲網を形成したが、日本国内では親英路線と親露路線とが対立するようになる。
 日米関係は満洲権益をめぐって対立、また日系移民排斥問題などが発生し悪化していたが、1907年の日米紳士協定、1908年の高平・ルート協定によって緊張を宥和させ、1911年の日米通商航海条約によって日本は関税自主権を獲得し、日本は従属的な立場を解消させることに成功した。

 明治天皇は、講和条約締結から約8か月後の1906年6月7日に、帝国軍人後援会に対し慰労の勅語を下したのである。

「明治三十七 八年の戦役に際し、時に及び財を募り、以て軍人、家族、遺族、廃兵救護の経営に資し、克く軍人援護の績を致せり。朕深く之を嘉す」

 有難い天皇陛下の勅語である。
私達遺族の励みになる。私は日露戦争奉天会戦で戦死した遺族であることを誇りに思うのであった。
私の先祖「粟村克三郎」もあの世で微笑んでいることであろう。
「私の死は無駄ではなかった」と。

 最後にこの日露戦争の出来事を年月日別に一覧にしました。
ご参考までに。

(年月日)
(分類)
(出来事)

1904年2月6日
日露戦争
日本が、ロシアに対して最後通牒を発令。

1904年2月8日
日露戦争
日本陸軍先遣隊が仁川に上陸

1904年2月8日
日露戦争
日本海軍、旅順港外のロシア艦隊を夜襲

1904年2月9日
日露戦争
仁川沖海戦

1904年2月10日
日露戦争
相互宣戦布告

1904年2月11日
日本国内
大本営を設置

1904年2月12日
世界情勢
清国が局外中立を宣言する

1904年2月23日  
日本国内
大韓帝国と日韓議定書を結ぶ

1904年2月24日  
日露戦争  
第一次旅順口閉塞作戦

1904年3月27日
日露戦争
第二次旅順口閉塞作戦

1904年3月30日  
日本国内
『陸海軍ニ属スル臨時事件費特別会計法』の公布 

1904年4月1日
日本国内
非常特別税法、煙草専売法を公布する

1904年4月8日
世界情勢
英仏協商が締結される

1904年5月1日
日露戦争
鴨緑江会戦

1904年5月8日
日露戦争
日本軍、遼東半島に上陸開始 

1904年6月15日 日本国内 常陸丸事件

1904年6月20日
日本国内
満洲軍総司令部を設置する

1904年7月28日   
ロシア国内
ヴャチェスラフ・プレーヴェ内務大臣、暗殺される

1904年8月10日  
日露戦争
黄海海戦

1904年8月22日
日本国内
大韓帝国と第一次日韓協約を結ぶ

1904年8月14日
日露戦争 蔚山沖海戦

1904年8月19日
日露戦争
第一回旅順総攻撃

1904年8月30日
日露戦争
遼陽会戦 

1904年10月9日
日露戦争
沙河会戦 

1904年10月15日
日露戦争
バルチック艦隊出航

1904年11月26日
日露戦争
第二回旅順総攻撃

1904年12月5日
日露戦争
日本軍、旅順口203高地を占領

1904年12月31日
日露戦争
第三回旅順総攻撃

1905年1月1日
日本国内
非常特別税法改正法、塩専売法、相続税法を公布する

1905年1月2日
日露戦争
旅順開城

1905年1月22日  
ロシア国内
血の日曜日事件が起きる
各地でストライキが起きる

1905年1月25日   
日露戦争
黒溝台会戦

1905年1月28日
日本国内
竹島を命名し島根県の管轄とする閣議決定

1905年(明治38年)3月1日
日露戦争
奉天会戦

1905年3月8日
日本国内
鉱業法を公布する

1905年3月31日
世界情勢
第一次モロッコ事件

1905年5月25日
日本国内
台湾全島に戒厳令を敷く

1905年5月27日
日露戦争
日本海海戦

1905年6月
ロシア国内
各地で反乱・暴動起きる(ロシア第一革命の始まり)

1905年6月7日
世界情勢
ノルウェーがスウェーデンからの分離独立を宣言する

1905年6月9日
日露戦争
セオドア・ルーズベルト、正式に日露両国へ講和勧告
1905年6月14日
ロシア国内
戦艦ポチョムキンの反乱が起きる

1905年6月12日
日露戦争
ロシア、講和勧告を正式に受諾

1905年7月7日
日露戦争
日本軍、樺太へ上陸(樺太作戦開始) 

1905年7月23日  
ロシア国内
ニコライ2世、ドイツ帝国皇帝ヴィルヘルム2世とビヨルケ密約を結ぶ

1905年7月29日
日本国内
桂・タフト協定を締結する

1905年7月31日
日露戦争
日本軍、樺太を占領

1905年8月9日
日露戦争   
ポーツマスで日露講和会議が始まる

1905年8月12日
日本国内
日英同盟を改訂する

1905年8月20日
世界情勢
孫文、中国同盟会を結成(於東京)

1905年9月1日
日露戦争
日露両国、休戦議定書に調印(休戦)

1905年9月5日
日露戦争
日露両国、日露講和条約(ポーツマス条約)調印

1905年10月
ロシア国内
ゼネラル・ストライキが起きる

1905年10月14日
日露戦争
日露両国、日露講和条約(ポーツマス条約)批准(終戦)

1905年10月17日
ロシア国内
ニコライ2世、十月詔書に署名する

1905年12月20日
日本国内
大本営を解散
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 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?

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